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横浜中区には、近代建築が集まっているので、少し歩けば、「あっ、ここ」と直ぐに見つけることが出来ます。日本大通り駅周辺から馬車道駅や関内にある近代建築を見て歩きました。まず、旧横浜銀行集会所(現在、横浜銀行協会)から見ていきます。旧横浜銀行集会所の歴史は古く、明治14年(1881)に弁天通り4丁目78番地に親睦会として始まります。規約のある組織になったのが、明治27年(1897)で、当時の建物は2代目で、中区本町4丁目84番地に遠藤於菟の設計で建てられました。煉瓦造りで、階段踊り場には当時まだ珍しいコンクリートが使用されていました。外壁表面に白い煉瓦タイルを張り、窓や庇にアーチを設けてありました。大正12年の震災で、倒壊は免れましたが、被害が大きく、取り壊されました。仮説的に中区太田3丁目52番地に3代目が建設されました。ですから、この建物は4代目ということになります。

横浜中区近代建築散歩 ー 2  横浜銀行協会 ~

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2014/05/19 - 2014/05/19

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belledune

belleduneさん

横浜中区には、近代建築が集まっているので、少し歩けば、「あっ、ここ」と直ぐに見つけることが出来ます。日本大通り駅周辺から馬車道駅や関内にある近代建築を見て歩きました。まず、旧横浜銀行集会所(現在、横浜銀行協会)から見ていきます。旧横浜銀行集会所の歴史は古く、明治14年(1881)に弁天通り4丁目78番地に親睦会として始まります。規約のある組織になったのが、明治27年(1897)で、当時の建物は2代目で、中区本町4丁目84番地に遠藤於菟の設計で建てられました。煉瓦造りで、階段踊り場には当時まだ珍しいコンクリートが使用されていました。外壁表面に白い煉瓦タイルを張り、窓や庇にアーチを設けてありました。大正12年の震災で、倒壊は免れましたが、被害が大きく、取り壊されました。仮説的に中区太田3丁目52番地に3代目が建設されました。ですから、この建物は4代目ということになります。

旅行の満足度
4.5
  • 昭和11年(1936)に大熊喜邦、林豪蔵の設計で建てられた横浜銀行集会所。横浜に本支店を持つ銀行の集会所として使用されていました。総工費は土地代を含めて、当時の金額では43万5400円でした。戦後、昭和27年まで米軍に接収され、将校クラブとして使用されました。その後、大熊喜邦と林豪蔵の設計で復元、改修工事が行なわれ、昭和28年に財団法人横浜銀行協会と改称されました。当初、3階建てでしたが、昭和40年に手形交換所となる4階を増築しました。歴代の建物の施工はすべて清水建設が行ないました。

    昭和11年(1936)に大熊喜邦、林豪蔵の設計で建てられた横浜銀行集会所。横浜に本支店を持つ銀行の集会所として使用されていました。総工費は土地代を含めて、当時の金額では43万5400円でした。戦後、昭和27年まで米軍に接収され、将校クラブとして使用されました。その後、大熊喜邦と林豪蔵の設計で復元、改修工事が行なわれ、昭和28年に財団法人横浜銀行協会と改称されました。当初、3階建てでしたが、昭和40年に手形交換所となる4階を増築しました。歴代の建物の施工はすべて清水建設が行ないました。

  • ほぼ正方形の外観で、3階部分まで通した7本の柱、柱上にテラコッタの装飾を施して、ファサードを特徴付けています。壁面や柱の模様は、ギリシャ・ローマ様式になっています。

    ほぼ正方形の外観で、3階部分まで通した7本の柱、柱上にテラコッタの装飾を施して、ファサードを特徴付けています。壁面や柱の模様は、ギリシャ・ローマ様式になっています。

  • 高橋是清の2つの書額「閑時自養神」(暇な時は自らの教養を高めなさい)、「仁義為準縄」(人の心は物差しで計ることは出来ない)がここにあるそうです。昭和初期の金融恐慌を救った政治家でしたが、昭和11年(1936)、二・二六事件で殺害され、この書が横浜の銀行員への遺言になったという。高橋是清は、仙台藩出身で、13歳で横浜で英語を学び、留学しました。明治28年(1895)、横浜正金銀行支配人となり、後には副頭取になります。財政の分かる政治家として幾度か大蔵大臣を務め、後に総理大臣となるのです。

    高橋是清の2つの書額「閑時自養神」(暇な時は自らの教養を高めなさい)、「仁義為準縄」(人の心は物差しで計ることは出来ない)がここにあるそうです。昭和初期の金融恐慌を救った政治家でしたが、昭和11年(1936)、二・二六事件で殺害され、この書が横浜の銀行員への遺言になったという。高橋是清は、仙台藩出身で、13歳で横浜で英語を学び、留学しました。明治28年(1895)、横浜正金銀行支配人となり、後には副頭取になります。財政の分かる政治家として幾度か大蔵大臣を務め、後に総理大臣となるのです。

  • 正面左手の六角形窓、左側面の三角窓、ポーチの庇及び左右端に施されたテラコッタの装飾が気品ある美しさを醸し出しています。

    正面左手の六角形窓、左側面の三角窓、ポーチの庇及び左右端に施されたテラコッタの装飾が気品ある美しさを醸し出しています。

  • 建物左側の三角窓が見えます。

    建物左側の三角窓が見えます。

  • 正面玄関の銅製扉に刻まれた帆船レリーフは、細部に亘って洗練されたデザインとなっています。

    正面玄関の銅製扉に刻まれた帆船レリーフは、細部に亘って洗練されたデザインとなっています。

  • 玄関の照明

    玄関の照明

  • 内部は入れませんでしたが、玄関の両開き硝子扉の内側に鶴の細工が左右に同じものがありました。表側には付いていません。寄木張りのフローリング、ブラックタイガーの金色筋模様の暖炉、シンプルな照明器具があるそうなので、いつか見たいものです。

    内部は入れませんでしたが、玄関の両開き硝子扉の内側に鶴の細工が左右に同じものがありました。表側には付いていません。寄木張りのフローリング、ブラックタイガーの金色筋模様の暖炉、シンプルな照明器具があるそうなので、いつか見たいものです。

  • 玄関から道路を見たところ

    玄関から道路を見たところ

  • コロニアル風の柱が建つ車寄せ

    コロニアル風の柱が建つ車寄せ

  • 昭和11年(1936)に木下益次郎の設計で建てられた旧東京海上火災保険ビルは、現在馬車道大津ビルとなっています。馬車道ギャラリー等が入っています。4階建てで、外壁はアールデコの装飾タイルで、縦長窓が付いています。

    昭和11年(1936)に木下益次郎の設計で建てられた旧東京海上火災保険ビルは、現在馬車道大津ビルとなっています。馬車道ギャラリー等が入っています。4階建てで、外壁はアールデコの装飾タイルで、縦長窓が付いています。

  • 木下益次郎は川崎病院や神戸の神港ビルなどを設計した建築家です。施工は大林組。平成9年(1997)、多様なテナントに対応するために、内部の設備改装を行い、「馬車道大津ビル」と改称しました。

    木下益次郎は川崎病院や神戸の神港ビルなどを設計した建築家です。施工は大林組。平成9年(1997)、多様なテナントに対応するために、内部の設備改装を行い、「馬車道大津ビル」と改称しました。

  • 現在、地下にギャラリーやコンサートなどが開けるスペースなどが利用されています。

    現在、地下にギャラリーやコンサートなどが開けるスペースなどが利用されています。

  • 昭和初期のデザインが懐かしい正面玄関です。

    昭和初期のデザインが懐かしい正面玄関です。

  • 玄関の照明も昭和初期のもの

    玄関の照明も昭和初期のもの

  • 馬車道大津ビルの裏手です。外壁タイルの剥離防止のためなのか、全面に防護網が掛けられています。

    馬車道大津ビルの裏手です。外壁タイルの剥離防止のためなのか、全面に防護網が掛けられています。

  • 馬車道大津ビルの斜め向かいにあるのが、旧横浜正金銀行本店本館で、現在の神奈川県立歴史博物館です。<br />明治37年(1904)に妻木頼黄の設計、現場監督に遠藤於菟うぃ起用して建てられた3階建て、補強煉瓦造です。横浜正金銀行だった旧館と昭和42年(1967)建設の現在の正面玄関に当たる新館部分からなっています。旧館はネオ・バロック様式の本格的西洋建築です。

    馬車道大津ビルの斜め向かいにあるのが、旧横浜正金銀行本店本館で、現在の神奈川県立歴史博物館です。
    明治37年(1904)に妻木頼黄の設計、現場監督に遠藤於菟うぃ起用して建てられた3階建て、補強煉瓦造です。横浜正金銀行だった旧館と昭和42年(1967)建設の現在の正面玄関に当たる新館部分からなっています。旧館はネオ・バロック様式の本格的西洋建築です。

    神奈川県立歴史博物館 美術館・博物館

  • 横浜正金銀行は、明治13年(1880)に横浜区南仲通り5丁目に開業しました。その後、明治32年(1899)にこの地に、本店の新築工事着工し、5年後の明治37年に完成しました。大正12年(1923)の大震災で本店は火災発生したため、ドームが焼失しました。昭和22年に東京銀行横浜支店となり、昭和39年に神奈川県が土地建物を買取り、昭和42年に神奈川県立博物館として開館しました。平成7年になって、神奈川県立歴史博物館に改称されました。

    横浜正金銀行は、明治13年(1880)に横浜区南仲通り5丁目に開業しました。その後、明治32年(1899)にこの地に、本店の新築工事着工し、5年後の明治37年に完成しました。大正12年(1923)の大震災で本店は火災発生したため、ドームが焼失しました。昭和22年に東京銀行横浜支店となり、昭和39年に神奈川県が土地建物を買取り、昭和42年に神奈川県立博物館として開館しました。平成7年になって、神奈川県立歴史博物館に改称されました。

  • 焼失したドームは、昭和39年に復元されました。隅欠型八角形で、直径が12m、ドーム尖塔最高部までの高さは、36mです。構造は、屋階の鉄筋コンクリート造臥梁に鉄骨主体を埋め込んでいます。下地は檜材を用いて、その上に0,3mm〜0,5mmの銅板を葺いてあります。窓周り、その他の装飾部分は創建当時の打ち出しではなく、ブロンズ電鋳工法を用いています。電鋳工法とは、電気鍍金工法のことです。

    焼失したドームは、昭和39年に復元されました。隅欠型八角形で、直径が12m、ドーム尖塔最高部までの高さは、36mです。構造は、屋階の鉄筋コンクリート造臥梁に鉄骨主体を埋め込んでいます。下地は檜材を用いて、その上に0,3mm〜0,5mmの銅板を葺いてあります。窓周り、その他の装飾部分は創建当時の打ち出しではなく、ブロンズ電鋳工法を用いています。電鋳工法とは、電気鍍金工法のことです。

  • この日は月曜日で閉館でしたので、扉が良く見えます。

    この日は月曜日で閉館でしたので、扉が良く見えます。

  • 玄関ホールは階段になっていますが、この大理石の壁を虫眼鏡でずっと見ている人がいました。珊瑚か貝の化石を探しているのかな?と思っていました。私が帰る時もまだ見ていらしたので、いくつか見つかったのかもしれません。

    玄関ホールは階段になっていますが、この大理石の壁を虫眼鏡でずっと見ている人がいました。珊瑚か貝の化石を探しているのかな?と思っていました。私が帰る時もまだ見ていらしたので、いくつか見つかったのかもしれません。

  • 階段上にドアがあり、1階フロアになります。そのエントランス天井にステンドグラスがあります。

    階段上にドアがあり、1階フロアになります。そのエントランス天井にステンドグラスがあります。

  • 明治時代の絵葉書です。

    明治時代の絵葉書です。

  • 北側階段で、馬車道に面した正面玄関を入った右側にあります。手摺りを支えるように立つ装飾豊かな親柱は創建当時からのものだそうです。階段本体と手摺りは、震災後に造り替えてあります。

    北側階段で、馬車道に面した正面玄関を入った右側にあります。手摺りを支えるように立つ装飾豊かな親柱は創建当時からのものだそうです。階段本体と手摺りは、震災後に造り替えてあります。

  • 震災後に交換された地下1階のサッシ  震災後に使用不能になったサッシと防火シャッターは、共に国産品に交換されました。震災後の復旧工事での設備の交換では、創建当時用いられていた輸入品を国産品で代替したものがたくさんあるそうです。

    震災後に交換された地下1階のサッシ  震災後に使用不能になったサッシと防火シャッターは、共に国産品に交換されました。震災後の復旧工事での設備の交換では、創建当時用いられていた輸入品を国産品で代替したものがたくさんあるそうです。

  • 地下1階の金庫室  金庫内には3つの金庫があり、その周囲は鉄柵で覆われています。左端に見えているのが金庫扉です。室内は白釉の耐火煉瓦仕上げになっていて、天井は鉄骨を渡して、鉄骨との間にアーチ状に煉瓦を積み重ねた防火床構造になっているそうです。

    地下1階の金庫室  金庫内には3つの金庫があり、その周囲は鉄柵で覆われています。左端に見えているのが金庫扉です。室内は白釉の耐火煉瓦仕上げになっていて、天井は鉄骨を渡して、鉄骨との間にアーチ状に煉瓦を積み重ねた防火床構造になっているそうです。

  • 神奈川県立歴史博物館のすぐ先にあるのが、大正7年に建設された旧川崎銀行横浜支店です。現在は日本興亜馬車道ビルとなっています。旧川崎銀行の外壁を前面に保存して、高層ビルとなっています。

    神奈川県立歴史博物館のすぐ先にあるのが、大正7年に建設された旧川崎銀行横浜支店です。現在は日本興亜馬車道ビルとなっています。旧川崎銀行の外壁を前面に保存して、高層ビルとなっています。

  • 八大財閥のひとつだった川崎財閥の中核であった川崎銀行の横浜支店は、矢部又吉の設計で建てられました。創建当初はネオ・ルネッサンス様式の3階建ての石造建築でした。

    八大財閥のひとつだった川崎財閥の中核であった川崎銀行の横浜支店は、矢部又吉の設計で建てられました。創建当初はネオ・ルネッサンス様式の3階建ての石造建築でした。

  • 各階の窓は其々異なったデザインになっていて、3階には破風を載せています。全体にシンプルなデザインで大正期らしいものとなっています。直ぐ手前の旧横濱正金銀行本店を設計した妻木とは、師弟関係になる二人の設計を見ることが出来て、興味深いものとなっています。

    各階の窓は其々異なったデザインになっていて、3階には破風を載せています。全体にシンプルなデザインで大正期らしいものとなっています。直ぐ手前の旧横濱正金銀行本店を設計した妻木とは、師弟関係になる二人の設計を見ることが出来て、興味深いものとなっています。

  • その後、同じ系列の日本火災横浜ビルとなり、昭和61年に取り壊される予定でしたが、歴史的建築の保存・再生の先駆けとして平成元年、外壁を保存したものとなりました。新しい建物は、日建設計によるもので、SRC造9階建てです。

    その後、同じ系列の日本火災横浜ビルとなり、昭和61年に取り壊される予定でしたが、歴史的建築の保存・再生の先駆けとして平成元年、外壁を保存したものとなりました。新しい建物は、日建設計によるもので、SRC造9階建てです。

  • 関内にある現在の横浜指路教会は、大正15年に建てられました。指路とは、James Curtis Hepbum の母教会名 ” Shiloh Church &quot; からシロと名付けられたそうです。旧約聖書で Shiloh は「平和を来らす者」、即ちメシヤを示す意味と「古い時代の聖なる町 」という二つの意味があります。

    関内にある現在の横浜指路教会は、大正15年に建てられました。指路とは、James Curtis Hepbum の母教会名 ” Shiloh Church " からシロと名付けられたそうです。旧約聖書で Shiloh は「平和を来らす者」、即ちメシヤを示す意味と「古い時代の聖なる町 」という二つの意味があります。

  • 安政6年(1859)、アメリカ長老教会から派遣された宣教医、James Curtis Hepbum (ヘボン)がキリスト教伝導のために来日しました。ヘボン塾で学んだ青年達を中心に教会設立の気運が高まり、明治7年(1874)に宣教師ヘンリー・ルーミスを初代牧師として建設されました。

    安政6年(1859)、アメリカ長老教会から派遣された宣教医、James Curtis Hepbum (ヘボン)がキリスト教伝導のために来日しました。ヘボン塾で学んだ青年達を中心に教会設立の気運が高まり、明治7年(1874)に宣教師ヘンリー・ルーミスを初代牧師として建設されました。

  • 教会は、最初横浜居留地39番地にありましたが、現在地、太田町、住吉町へと移り、明治25年(1892)に再びここへ戻ってきたということです。ヘボンの尽力に因って赤煉瓦の教会堂が建設されました。

    教会は、最初横浜居留地39番地にありましたが、現在地、太田町、住吉町へと移り、明治25年(1892)に再びここへ戻ってきたということです。ヘボンの尽力に因って赤煉瓦の教会堂が建設されました。

  • 関東大震災で倒壊した後、現在の教会堂が再建されましたが、1945年の横浜大空襲で内部が全焼しました。当初のバラ窓はステンドグラスでしたが、現在は無色のものとなっています。

    関東大震災で倒壊した後、現在の教会堂が再建されましたが、1945年の横浜大空襲で内部が全焼しました。当初のバラ窓はステンドグラスでしたが、現在は無色のものとなっています。

  • 2000年12月、創立125周年記念事業として、スイス・マティス社のパイプオルガンを設置しました。

    2000年12月、創立125周年記念事業として、スイス・マティス社のパイプオルガンを設置しました。

  • 側面から見た鐘楼

    側面から見た鐘楼

  • 側面

    側面

  • 裏手に廻ってみました。教会内は、木・金・土の朝10時から午後4時迄一般公開されています。生憎、今日は月曜日なので、入れませんでした。

    裏手に廻ってみました。教会内は、木・金・土の朝10時から午後4時迄一般公開されています。生憎、今日は月曜日なので、入れませんでした。

  • 東京三菱銀行横浜中央支店は昭和9年(1934)、川崎第百銀行横浜支店として本町4丁目41番地に建てられました。設計は、矢部又吉で、川崎財閥の顧問建築家として、多くの川崎銀行の設計をしました。施工は、戸田建設です。この時代、横浜金融界の中心だった本町通りから馬車道に掛けては、三井銀行横浜支店(現・三井住友銀行横浜支店)や安田銀行横浜支店(旧富士銀行横浜支店)、第一銀行横浜支店(現・横浜アイランドタワー)などが相次いで竣工し、古典主義様式の銀行建築が建ち並ぶ街並みだったそうです。

    東京三菱銀行横浜中央支店は昭和9年(1934)、川崎第百銀行横浜支店として本町4丁目41番地に建てられました。設計は、矢部又吉で、川崎財閥の顧問建築家として、多くの川崎銀行の設計をしました。施工は、戸田建設です。この時代、横浜金融界の中心だった本町通りから馬車道に掛けては、三井銀行横浜支店(現・三井住友銀行横浜支店)や安田銀行横浜支店(旧富士銀行横浜支店)、第一銀行横浜支店(現・横浜アイランドタワー)などが相次いで竣工し、古典主義様式の銀行建築が建ち並ぶ街並みだったそうです。

  • 旧東京三菱銀行の外壁のイオニア式オーダーが特徴的な建物となっています。引いた写真を撮り忘れましたが、上部に高層マンション「D&#39;グラフォート横浜クルージングタワー」が建っています。

    旧東京三菱銀行の外壁のイオニア式オーダーが特徴的な建物となっています。引いた写真を撮り忘れましたが、上部に高層マンション「D'グラフォート横浜クルージングタワー」が建っています。

  • 横の1階には、美容施設が入っています。

    横の1階には、美容施設が入っています。

  • 昭和6年(1931)に建てられた旧三井銀行横浜支店(現・三井住友銀行横浜支店)は、Trowbridge &amp; Livingston 建築事務所の設計で、施工は清水組でした。三井系のビルを多く手掛けた当事務所は、昭和4年竣工の東京日本橋の三井本館も設計しました。

    昭和6年(1931)に建てられた旧三井銀行横浜支店(現・三井住友銀行横浜支店)は、Trowbridge & Livingston 建築事務所の設計で、施工は清水組でした。三井系のビルを多く手掛けた当事務所は、昭和4年竣工の東京日本橋の三井本館も設計しました。

  • 6本のイオニア式オーダーが銀行建築らしい重厚なものになっています。

    6本のイオニア式オーダーが銀行建築らしい重厚なものになっています。

  • 側面を見ると、道路に面した側は改装されたようで、白くなっていますが、その後ろ側は古いビルのままでした。

    側面を見ると、道路に面した側は改装されたようで、白くなっていますが、その後ろ側は古いビルのままでした。

  • 昭和5年(1930)に建てられた綜通横浜ビル(旧本町旭ビル)は、大阪の江商横浜支店でした。設計者は不明、施工は大林組で、RC造5階建て、地下1階でした。平成7年(1995)にファサードを保存して建て替えられました。新しいビルはSRC造10階建て、地下2階で、1階のカフェ・ベローチェは、天井が高く昔の雰囲気が残っています。改装時の設計は、日建設計、施工は大林組です。

    昭和5年(1930)に建てられた綜通横浜ビル(旧本町旭ビル)は、大阪の江商横浜支店でした。設計者は不明、施工は大林組で、RC造5階建て、地下1階でした。平成7年(1995)にファサードを保存して建て替えられました。新しいビルはSRC造10階建て、地下2階で、1階のカフェ・ベローチェは、天井が高く昔の雰囲気が残っています。改装時の設計は、日建設計、施工は大林組です。

  • 低層部のファサードの煉瓦タイルや、玄関周りのテラコッタの装飾は、昔の外観が良く復元されています。

    低層部のファサードの煉瓦タイルや、玄関周りのテラコッタの装飾は、昔の外観が良く復元されています。

  • 特にこの玄関周りが良いですね。

    特にこの玄関周りが良いですね。

  • 1階の建物内のファサード裏側

    1階の建物内のファサード裏側

  • 玄関から直ぐの階段を上がって、歩道を見たところです。

    玄関から直ぐの階段を上がって、歩道を見たところです。

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