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武蔵と相模を分ける境川を北に臨む河岸段丘に位置する上矢部は相模原市の中でも古く御嶽神社は上矢部の鎮守となっています。鎌倉時代に武蔵七党の横山党一族の横山孝兼の孫義兼(よしかね、生誕不詳~1213)が矢部に居館を構え矢部氏と称することになったのが始まりです。<br /><br />矢部義兼は建保元年(1213)における和田義盛(わだ・よしもり、11147~1213)合戦では横山党一族として義盛に与して参戦、初戦は侍所別当職を背景に味方の勢力大でしたが頼みとする本家三浦氏の裏切りにより北条義時が優勢に転じ、やがて義盛の討死を機に総崩れとなり横山氏一族武将はことごとく敗死滅亡し本領はすべて没収されます。<br /><br />今回訪問したのは、御嶽神社・居館土塁跡・板碑・薬師堂でいずれも矢部氏ゆかりの地ですが居館跡については渕野辺=境橋線改修拡幅のため土塁跡を一部留めているだけです。<br /><br /><br /><br /><br />2023年9月10日追記<br /><br />御嶽神社に設置の案内板には下記のコメントがありました。<br /><br />『 御 嶽 神 社<br /><br />旧矢部村の鎮守社で建久年間(1190~1199)に矢部義兼によって「三獄社」として勧請され、その後、建武年間(1334~1338)に「御嶽大権現」として再建されたと伝えられています。<br /><br />祭神は日本武尊で9月の例祭には市内でも珍しい湯花神事が行われます。<br />横山党矢部氏居館の鬼門にあたると言われています。<br /><br />             大野北公民館 」<br /><br /><br /><br />また「上矢部の土塁」の案内板には下記の説明があります。<br /><br />『 上 矢 部 の 土 塁<br /><br />「横山党」と呼ばれる武士団は、12世紀後半八王子から南に進み、境川流域の相原に館を構え粟飯原と名のり、この兄弟の一族がが勢力を広めて、小山・矢部・田名氏などを名乗りました。<br /><br />土塁は、古くより矢部氏の館跡といわれ、近くには和田合戦(1213)で滅亡した矢部氏の供養のため建てられた<br />といわれる板碑があります。<br /><br />現存する土塁の西側に館跡があっっと考えられ、土塁の外側に箱薬研形の堀があったことも発掘調査で確認されています。<br /><br />    平成11年3月<br />              相模原市教育委員会 』

相模矢部 多摩地区に勢力を拡大し鎌倉幕府有力御家人の地位に登るも和田の乱で滅亡した武蔵七党横山党庶流である『矢部氏居館』を訪問

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2014/05/19 - 2014/05/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

武蔵と相模を分ける境川を北に臨む河岸段丘に位置する上矢部は相模原市の中でも古く御嶽神社は上矢部の鎮守となっています。鎌倉時代に武蔵七党の横山党一族の横山孝兼の孫義兼(よしかね、生誕不詳~1213)が矢部に居館を構え矢部氏と称することになったのが始まりです。

矢部義兼は建保元年(1213)における和田義盛(わだ・よしもり、11147~1213)合戦では横山党一族として義盛に与して参戦、初戦は侍所別当職を背景に味方の勢力大でしたが頼みとする本家三浦氏の裏切りにより北条義時が優勢に転じ、やがて義盛の討死を機に総崩れとなり横山氏一族武将はことごとく敗死滅亡し本領はすべて没収されます。

今回訪問したのは、御嶽神社・居館土塁跡・板碑・薬師堂でいずれも矢部氏ゆかりの地ですが居館跡については渕野辺=境橋線改修拡幅のため土塁跡を一部留めているだけです。




2023年9月10日追記

御嶽神社に設置の案内板には下記のコメントがありました。

『 御 嶽 神 社

旧矢部村の鎮守社で建久年間(1190~1199)に矢部義兼によって「三獄社」として勧請され、その後、建武年間(1334~1338)に「御嶽大権現」として再建されたと伝えられています。

祭神は日本武尊で9月の例祭には市内でも珍しい湯花神事が行われます。
横山党矢部氏居館の鬼門にあたると言われています。

             大野北公民館 」



また「上矢部の土塁」の案内板には下記の説明があります。

『 上 矢 部 の 土 塁

「横山党」と呼ばれる武士団は、12世紀後半八王子から南に進み、境川流域の相原に館を構え粟飯原と名のり、この兄弟の一族がが勢力を広めて、小山・矢部・田名氏などを名乗りました。

土塁は、古くより矢部氏の館跡といわれ、近くには和田合戦(1213)で滅亡した矢部氏の供養のため建てられた
といわれる板碑があります。

現存する土塁の西側に館跡があっっと考えられ、土塁の外側に箱薬研形の堀があったことも発掘調査で確認されています。

    平成11年3月
              相模原市教育委員会 』

旅行の満足度
3.5
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 御嶽神社参道<br /><br />かつては広い神社境内も今では周辺住宅化により参道も途中道路が造られ、荘厳さが失われています。

    御嶽神社参道

    かつては広い神社境内も今では周辺住宅化により参道も途中道路が造られ、荘厳さが失われています。

  • 参道と一般道路<br /><br />左側が寸断された参道で右側が一般道路の一部で、分岐点には「池神塔」と刻された石碑が鎮座しています。

    参道と一般道路

    左側が寸断された参道で右側が一般道路の一部で、分岐点には「池神塔」と刻された石碑が鎮座しています。

  • 御嶽神社正面<br /><br />矢部義兼がこの地に勧請し武運長久・子孫繁栄を念じるため三獄社を創設したとされます。<br /><br />

    イチオシ

    御嶽神社正面

    矢部義兼がこの地に勧請し武運長久・子孫繁栄を念じるため三獄社を創設したとされます。

  • 御嶽神社由緒説明

    御嶽神社由緒説明

  • 神社鳥居<br /><br />石製の鳥居上部には「御嶽神社」の社標が掲示されています。

    神社鳥居

    石製の鳥居上部には「御嶽神社」の社標が掲示されています。

  • 境内風景<br /><br />正面に拝殿が見えます。

    境内風景

    正面に拝殿が見えます。

  • 境内風景<br /><br />

    境内風景

  • 御嶽神社拝殿<br /><br />御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)となっています。当神社の位置は所在が明確ではありませんが矢部氏居館の鬼門に当たるとのことです。

    御嶽神社拝殿

    御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)となっています。当神社の位置は所在が明確ではありませんが矢部氏居館の鬼門に当たるとのことです。

  • 境内風景<br /><br />拝殿から鳥居方向を捉えます。左手には神社では見かけない鐘楼堂が認められ珍しい風景です。

    境内風景

    拝殿から鳥居方向を捉えます。左手には神社では見かけない鐘楼堂が認められ珍しい風景です。

  • 御嶽神社本殿<br /><br />拝殿から繋がる本殿があります。

    御嶽神社本殿

    拝殿から繋がる本殿があります。

  • 矢部氏居館土塁跡<br /><br />御嶽神社から幹線道路に出た所にバス停があり、その先に細長い島状の土塁跡が見えます。

    矢部氏居館土塁跡

    御嶽神社から幹線道路に出た所にバス停があり、その先に細長い島状の土塁跡が見えます。

  • 矢部氏居館土塁跡(近景)<br /><br />バス通りの反対側から全景を捉えます。

    イチオシ

    矢部氏居館土塁跡(近景)

    バス通りの反対側から全景を捉えます。

  • 矢部氏居館土塁跡<br /><br />どうやら道路改修拡幅整備等でそれまでの土塁を含む遺跡等が分断され、わずかに現状の姿が残っている状況です。開発と保存の共存が難しいところです。

    矢部氏居館土塁跡

    どうやら道路改修拡幅整備等でそれまでの土塁を含む遺跡等が分断され、わずかに現状の姿が残っている状況です。開発と保存の共存が難しいところです。

  • 矢部氏居館土塁跡<br /><br />

    矢部氏居館土塁跡

  • 土塁跡説明

    土塁跡説明

  • 空堀形状<br /><br />発掘調査では土塁の外側には「箱薬研形」の空堀であったそうです。

    空堀形状

    発掘調査では土塁の外側には「箱薬研形」の空堀であったそうです。

  • 土塁跡<br /><br />僅かに残った土塁の上部に登ります。

    土塁跡

    僅かに残った土塁の上部に登ります。

  • 土塁跡<br /><br />道路際の土塁は流失防止のためコンクリート工事が施されて全く味気ない景色です。

    土塁跡

    道路際の土塁は流失防止のためコンクリート工事が施されて全く味気ない景色です。

  • 板碑祠堂(遠景)<br /><br />土塁跡から更に南方向に進むと「板碑」が保存されている祠堂が在ります。

    板碑祠堂(遠景)

    土塁跡から更に南方向に進むと「板碑」が保存されている祠堂が在ります。

  • 矢部義兼板碑祠堂入口<br /><br />住宅に囲まれた手狭のエリアにひっそりと小振りの祠堂が見えます。

    矢部義兼板碑祠堂入口

    住宅に囲まれた手狭のエリアにひっそりと小振りの祠堂が見えます。

  • 板碑祠堂

    板碑祠堂

  • 祠堂と内部<br /><br />祠堂の中には板碑が保存されているのが判ります。

    祠堂と内部

    祠堂の中には板碑が保存されているのが判ります。

  • 板碑<br /><br />伝承では和田義盛の乱で滅亡した矢部義兼の供養の為の板碑と言われ、乾元2年(1303)に遺族や旧臣たちが義兼を追善供養したとされています。<br /><br />

    イチオシ

    板碑

    伝承では和田義盛の乱で滅亡した矢部義兼の供養の為の板碑と言われ、乾元2年(1303)に遺族や旧臣たちが義兼を追善供養したとされています。

  • 板碑説明

    板碑説明

  • 板碑説明<br /><br />

    板碑説明

  • 薬師堂<br /><br />本堂は安永9年(1780)に建立され、矢部一族居館の裏鬼門にあたると言われています。

    薬師堂

    本堂は安永9年(1780)に建立され、矢部一族居館の裏鬼門にあたると言われています。

  • 薬師堂境内風景<br /><br />薬師堂から入口方向を捉えます。

    薬師堂境内風景

    薬師堂から入口方向を捉えます。

  • 薬師堂境内風景

    薬師堂境内風景

  • 薬師堂周辺形状<br /><br />薬師堂の左側には若干ながら高台となっている姿が見えますがこれが薬師堂を守るための土塁であるかどうかはわかりません。

    薬師堂周辺形状

    薬師堂の左側には若干ながら高台となっている姿が見えますがこれが薬師堂を守るための土塁であるかどうかはわかりません。

  • 薬師堂説明

    薬師堂説明

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