2014/05/19 - 2014/05/19
164位(同エリア495件中)
滝山氏照さん
JR横浜線古淵駅から徒歩約10分、淵源山・龍像寺(りゅうぞうじ、神奈川県相模原市中央区淵野辺))の創建については縁起では暦応年間(1338~1341)境川近くの池に棲んで地元住民に危害を加えていた大蛇を、当地域地頭であった渕辺義博(ふちべ・よしひろ、生誕不詳~1335)が弓矢で退治し三体に分散した蛇体を3ヶ所の寺院に葬り、それぞれを龍頭寺・龍像寺・龍尾寺としたと伝えられています。
その後上記三寺は荒廃してしまいましたが、この龍像寺については弘治2年(1556)巨海(こかい)和尚によって統合され新たに龍造寺として中興され今日に至っています。尚寺宝として龍骨の一部と渕辺義博が退治した際の矢尻と板碑が所蔵されています。
更には本堂に向かって左手に連なる墓地中腹に至る手前には江戸時代当地を治めていた旗本岡野氏一族の墓所があります。
岡野氏の遠祖は伊豆名族出身の田中氏と言われ3代当主小田原北条氏康に仕え、途中で北条氏家臣の名跡を継いだ板部岡融成(いたべおか・とおなり、入道名:江雪斎1537~1609)で彼はその後4代当主氏政の側近となって評定衆筆頭に昇格、彼の署名による文書が数多く発給されています。
特筆すべきは江雪斎の持ち前の理路整然とした思考と優秀な弁舌が当主に高く評価され、小田原北条氏の将来を決する程の重要な時期に外交使節として登場します。
一例としては天正10年(1582)織田信長が本能寺で横死後の甲斐・信濃領有を巡る交渉で、有利な展開を背景に高姿勢で臨んだ徳川家康に対し家康が甲斐・信濃の支配を認める代わりに小田原北条氏が旧武田領であった上野国(群馬県)の支配を家康に認めさせ、併せて畿内で勢力伸長大の豊臣秀吉に対し同盟して対抗姿勢を示すべく家康の娘を氏直の正室に迎えるということで決着をします。
天正18年(1590)小田原城開城後、氏政・氏照兄弟切腹、5代当主氏直(うじなお、1562~1591)高野山追放となりますが江雪斎は氏直名代として秀吉と面談して江雪斎の人柄が評されて助命、以降敵方であった秀吉の家臣となって京都伏見に居を移し、秀吉命により岡野に改姓したうえで秀吉のお伽衆として対応することになります。
秀吉没後は家康と石田三成(いしだ・みつなり、1560~1600)が互いに反目、江雪斎は家康が旧主氏直助命に並々ならぬ動きをした恩義を忘れておらず家康方に属することになります。
徳川家康方についた江雪斎は生来より身に付けた交渉力を以て、家康の密命により小早川秀秋(こばやかわ・ひであき、1582~1602)に接し家康に味方をするよう交渉を進めます。
秀秋との密約により徳川方に通じる事となり、結果は既にご承知の通り慶長5年(1600)関ヶ原合戦では当初は西軍の優勢で推移したものの後半では秀秋の寝返りにより西軍総崩れついに敗退となります。
慶長14年(1609)江雪斎は伏見の屋敷で74歳の生涯を終えますが、その息子(房恒・房次)たちは既に家康の取り計いで徳川家の旗本として名を連ねています。
寛永3年(1626)に江雪斎の二男である房次(ふさつぐ、生誕不詳~1611)の子英明(ひであきら、生誕不詳~1663)が500石の所領を以て当地を治めることになり江雪斎の貢献を考慮してか知行替えはなく末代まで続きます。尚江雪斎嫡男・房恒の子孫は武蔵国都築郡長津田村(現横浜市都筑区長津田)を代々治め歴代の墓は長津田駅南口の大林寺(だいりんじ)にあります。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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龍像寺・山門
小振りながら均整の取れた山門に好感が持たれます。 -
龍像寺・寺号石標
山門左側には「渕源山龍像禅寺」と刻された石標があります。 -
龍像寺・山門扁額
山門上部に掲載の扁額は山号である「渕源山」が描かれています。 -
龍像寺・本堂
正式には淵源山(えんげんざん)龍像寺といい漕洞宗の寺院です。本山は永平寺(福井県)及び総持寺(神奈川県)となっています。 -
龍像寺・鐘楼堂
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龍像寺・手水舎
粗石がくり貫かれた素朴な形状が特徴です。 -
龍像寺・石燈籠(右側)
粗削りな燈籠に思わず目が移ります。 -
石燈籠(左側)
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龍像寺・本堂扁額
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龍像寺・本堂内部
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龍像寺・境内(振り返り)
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龍像寺・客殿玄関
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龍像寺・観音堂
本堂の左側の小高い敷地には観音堂が控えています。 -
龍像寺・石碑
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龍像寺・石碑
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徳本念仏供養塔
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徳本念仏供養塔説明
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六地蔵
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渕辺義博・伝承
駐車場一部に掲示されている渕辺義博説明があります。 -
旗本岡野氏累代墓地
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岡野氏累代墓誌
「 旗本岡野家累代の墓誌
淵野辺村地頭岡野氏の家系は平氏維将流に端を発し、相模次郎時行を遠祖とする末流は伊豆国田中郷に在って小田原北条氏に属し、初代善兵衛某は北条を姓とし小田原北条初代の早雲に仕え、二代越中守泰行は北条を改めて田中を名乗った。三代越中守融成はもと密宗の僧で江雪と号した。北条氏康に認められて右筆となり、また氏政の近臣で小田原北条氏二十将衆の板部岡能登守の遺領を継ぎ姓を田中から板部岡とした。融成は才能があり小田原北条氏四代氏政五代氏直の下で評定衆の一人として重きをなし、城主出陣の際は留守居役に任じ、家康末娘督姫を氏直の令室に迎えるに当っては仲介の労をとった。小田原落城後は秀吉に仕え岡野姓を賜り、秀吉氏後は家康に属し信任を受けた。
融成長子房恒は都筑郡長津田村を所領の本貫とし千五百石を領した。次男房次は淵野辺村岡野氏の初代で家康八男徳川頼宣に仕え駿府に没した。房次の長男秀明が二代を継ぎ千四百拾石余を知行し幕府の要職に就き淵野辺村を所領の本貫として摂津国御願塚村近江国北脇村を保有した。以来岡野家類代の墓所は龍像寺に置かれた。
英明次子貞明が二代を継ぎ幕府の要職にあって千五百石を知行し、宗明以下敬明春明融軽融?融政融貞克明が家督を相続し幕末に至った。
明治元年の当主は岡野平次郎で淵野辺村における石高は二百七拾二石であった。英明三男友明が岡野家分家として九百拾石余を領し信明以下将明尚明盛明文明が相伝えて幕末に至った。明治元年の当主は岡野房太郎で淵野辺村における名高は二百拾一石であった。
昭和五十九年一月吉日
当山二十四世 映能代
選文 金井利平
書 長島南龍 」 -
岡野家塁代墓誌(裏側)
先の江雪斎の功績を称え幕府は子孫の家柄は本家長津田と共に淵野辺も知行替えされることなく幕末まで代々引き継がれます。 -
岡野氏説明板
「 相模原市指定史跡
龍像寺の岡野氏墓地
江戸時代の淵野辺領主、旗本岡野氏一族の墓地です。
初代の板部岡融成(号江雪)は、はじめ小田原北条氏に仕えましたが北条氏滅亡後は岡野と姓を改め、豊臣・徳川両氏に仕えました。
その後、次男房次の子で英明が淵野辺村の地頭となり、寛文3(1663)年、淵野辺村は本家貞明・分家友明に分知され、幕末まで続きました。
指定年月日平成14年4月1日
相模原教育委員会 」 -
岡野氏歴代墓
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岡野氏歴代墓群
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岡野氏歴代墓群
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岡野氏歴代墓
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岡野氏歴代墓
家紋と思われる印が墓石に刻されています。
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