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JR横浜線古淵駅から徒歩で約10分、淵源山・龍像寺(りゅうぞうじ)の創建については縁起では暦応年間(1338~1341)境川近くの池に棲んで地元住民に危害を加えていた大蛇を、当地域地頭であった渕辺義博(ふちべ・よしひろ、生誕不詳~1335)が弓矢で退治し三体に分散した蛇体を3ヶ所の寺院に葬り、それぞれを龍頭寺・龍像寺・龍尾寺としたと伝えられています。<br /><br />その後上記三寺は荒廃してしまいましたが、この龍像寺については弘治2年(1556)巨海(こかい)和尚によって統合され新たに龍造寺として中興され今日に至っています。尚寺宝として龍骨の一部と渕辺義博が退治した際の矢尻と板碑が所蔵されています。<br /><br />更には本堂に向かって左手に連なる墓地中腹に至る手前には江戸時代当地を治めていた旗本岡野氏一族の墓所があります。<br /><br />岡野氏の遠祖は伊豆名族出身の田中氏と言われ3代当主小田原北条氏康に仕え、途中で北条氏家臣の名跡を継いだ板部岡融成(いたべおか・とおなり、入道名:江雪斎1537~1609)で彼はその後4代当主氏政の側近となって評定衆筆頭に昇格、彼の署名による文書が数多く発給されています。<br /><br />特筆すべきは江雪斎の持ち前の理路整然とした思考と優秀な弁舌が当主に高く評価され、小田原北条氏の将来を決する程の重要な時期に外交使節として登場します。<br /><br />一例としては天正10年(1582)織田信長が本能寺で横死後の甲斐・信濃領有を巡る交渉で、有利な展開を背景に高姿勢で臨んだ徳川家康に対し家康が甲斐・信濃の支配を認める代わりに小田原北条氏が旧武田領であった上野国(群馬県)の支配を家康に認めさせ、併せて畿内で勢力伸長大の豊臣秀吉に対し同盟して対抗姿勢を示すべく家康の娘を氏直の正室に迎えるということで決着をします。<br /><br />天正18年(1590)小田原城開城後、氏政・氏照兄弟切腹、5代当主氏直(うじなお、1562~1591)高野山追放となりますが江雪斎は氏直名代として秀吉と面談して江雪斎の人柄が評されて助命、以降敵方であった秀吉の家臣となって京都伏見に居を移し、秀吉命により岡野に改姓したうえで秀吉のお伽衆として対応することになります。<br /><br />秀吉没後は家康と石田三成(いしだ・みつなり、1560~1600)が互いに反目、江雪斎は家康が旧主氏直助命に並々ならぬ動きをした恩義を忘れておらず家康方に属することになります。<br /><br />徳川家康方についた江雪斎は生来より身に付けた交渉力を以て、家康の密命により小早川秀秋(こばやかわ・ひであき、1582~1602)に接し家康に味方をするよう交渉を進めます。<br /><br />秀秋との密約により徳川方に通じる事となり、結果は既にご承知の通り慶長5年(1600)関ヶ原合戦では当初は西軍の優勢で推移したものの後半では秀秋の寝返りにより西軍総崩れついに敗退となります。<br /><br />慶長14年(1609)江雪斎は伏見の屋敷で74歳の生涯を終えますが、その息子(房恒・房次)たちは既に家康の取り計いで徳川家の旗本として名を連ねています。<br /><br />寛永3年(1626)に江雪斎の二男である房次(ふさつぐ、生誕不詳~1611)の子英明(ひであきら、生誕不詳~1663)が500石の所領を以て当地を治めることになり江雪斎の貢献を考慮してか知行替えはなく末代まで続きます。尚江雪斎嫡男・房恒の子孫は武蔵国都築郡長津田村(現横浜市都筑区長津田)を代々治め歴代の墓は長津田駅南口の大林寺にあります。<br />

相模淵野辺 小田原北条氏外交僧師板部岡江雪斎を祖とする徳川旗本岡野氏一族菩提寺『龍像寺』散歩

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2014/05/19 - 2014/05/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR横浜線古淵駅から徒歩で約10分、淵源山・龍像寺(りゅうぞうじ)の創建については縁起では暦応年間(1338~1341)境川近くの池に棲んで地元住民に危害を加えていた大蛇を、当地域地頭であった渕辺義博(ふちべ・よしひろ、生誕不詳~1335)が弓矢で退治し三体に分散した蛇体を3ヶ所の寺院に葬り、それぞれを龍頭寺・龍像寺・龍尾寺としたと伝えられています。

その後上記三寺は荒廃してしまいましたが、この龍像寺については弘治2年(1556)巨海(こかい)和尚によって統合され新たに龍造寺として中興され今日に至っています。尚寺宝として龍骨の一部と渕辺義博が退治した際の矢尻と板碑が所蔵されています。

更には本堂に向かって左手に連なる墓地中腹に至る手前には江戸時代当地を治めていた旗本岡野氏一族の墓所があります。

岡野氏の遠祖は伊豆名族出身の田中氏と言われ3代当主小田原北条氏康に仕え、途中で北条氏家臣の名跡を継いだ板部岡融成(いたべおか・とおなり、入道名:江雪斎1537~1609)で彼はその後4代当主氏政の側近となって評定衆筆頭に昇格、彼の署名による文書が数多く発給されています。

特筆すべきは江雪斎の持ち前の理路整然とした思考と優秀な弁舌が当主に高く評価され、小田原北条氏の将来を決する程の重要な時期に外交使節として登場します。

一例としては天正10年(1582)織田信長が本能寺で横死後の甲斐・信濃領有を巡る交渉で、有利な展開を背景に高姿勢で臨んだ徳川家康に対し家康が甲斐・信濃の支配を認める代わりに小田原北条氏が旧武田領であった上野国(群馬県)の支配を家康に認めさせ、併せて畿内で勢力伸長大の豊臣秀吉に対し同盟して対抗姿勢を示すべく家康の娘を氏直の正室に迎えるということで決着をします。

天正18年(1590)小田原城開城後、氏政・氏照兄弟切腹、5代当主氏直(うじなお、1562~1591)高野山追放となりますが江雪斎は氏直名代として秀吉と面談して江雪斎の人柄が評されて助命、以降敵方であった秀吉の家臣となって京都伏見に居を移し、秀吉命により岡野に改姓したうえで秀吉のお伽衆として対応することになります。

秀吉没後は家康と石田三成(いしだ・みつなり、1560~1600)が互いに反目、江雪斎は家康が旧主氏直助命に並々ならぬ動きをした恩義を忘れておらず家康方に属することになります。

徳川家康方についた江雪斎は生来より身に付けた交渉力を以て、家康の密命により小早川秀秋(こばやかわ・ひであき、1582~1602)に接し家康に味方をするよう交渉を進めます。

秀秋との密約により徳川方に通じる事となり、結果は既にご承知の通り慶長5年(1600)関ヶ原合戦では当初は西軍の優勢で推移したものの後半では秀秋の寝返りにより西軍総崩れついに敗退となります。

慶長14年(1609)江雪斎は伏見の屋敷で74歳の生涯を終えますが、その息子(房恒・房次)たちは既に家康の取り計いで徳川家の旗本として名を連ねています。

寛永3年(1626)に江雪斎の二男である房次(ふさつぐ、生誕不詳~1611)の子英明(ひであきら、生誕不詳~1663)が500石の所領を以て当地を治めることになり江雪斎の貢献を考慮してか知行替えはなく末代まで続きます。尚江雪斎嫡男・房恒の子孫は武蔵国都築郡長津田村(現横浜市都筑区長津田)を代々治め歴代の墓は長津田駅南口の大林寺にあります。

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 龍像寺・山門<br /><br />小振りながら均整の取れた山門に好感が持たれます。

    龍像寺・山門

    小振りながら均整の取れた山門に好感が持たれます。

  • 龍像寺・寺号石標<br /><br />山門左側には「渕源山龍像禅寺」と刻された石標があります。<br />

    龍像寺・寺号石標

    山門左側には「渕源山龍像禅寺」と刻された石標があります。

  • 龍像寺・山門扁額<br /><br />山門上部に掲載の扁額は山号である「渕源山」が描かれています。

    龍像寺・山門扁額

    山門上部に掲載の扁額は山号である「渕源山」が描かれています。

  • 龍像寺・本堂<br /><br />正式には淵源山(えんげんざん)龍像寺といい漕洞宗の寺院です。本山は永平寺(福井県)及び総持寺(神奈川県)となっています。

    龍像寺・本堂

    正式には淵源山(えんげんざん)龍像寺といい漕洞宗の寺院です。本山は永平寺(福井県)及び総持寺(神奈川県)となっています。

  • 龍像寺・鐘楼堂

    龍像寺・鐘楼堂

  • 龍像寺・手水舎<br /><br />粗石がくり貫かれた素朴な形状が特徴です。

    龍像寺・手水舎

    粗石がくり貫かれた素朴な形状が特徴です。

  • 龍像寺・石燈籠(右側)<br /><br />粗削りな燈籠に思わず目が移ります。

    龍像寺・石燈籠(右側)

    粗削りな燈籠に思わず目が移ります。

  • 石燈籠(左側)

    石燈籠(左側)

  • 龍像寺・本堂扁額

    龍像寺・本堂扁額

  • 龍像寺・本堂内部

    龍像寺・本堂内部

  • 龍像寺・境内(振り返り)

    龍像寺・境内(振り返り)

  • 龍像寺・客殿玄関

    龍像寺・客殿玄関

  • 龍像寺・観音堂<br /><br />本堂の左側の小高い敷地には観音堂が控えています。

    龍像寺・観音堂

    本堂の左側の小高い敷地には観音堂が控えています。

  • 龍像寺・石碑

    龍像寺・石碑

  • 龍像寺・石碑

    龍像寺・石碑

  • 徳本念仏供養塔

    徳本念仏供養塔

  • 徳本念仏供養塔説明

    徳本念仏供養塔説明

  • 六地蔵

    六地蔵

  • 渕辺義博・伝承<br /><br />駐車場一部に掲示されている渕辺義博説明があります。

    渕辺義博・伝承

    駐車場一部に掲示されている渕辺義博説明があります。

  • 旗本岡野氏累代墓地<br /><br />

    旗本岡野氏累代墓地

  • 岡野氏累代墓誌

    岡野氏累代墓誌

  • 岡野家塁代墓誌(裏側)<br /><br />先の江雪斎の功績を称え幕府は子孫の家柄は本家長津田と共に淵野辺も知行替えされることなく幕末まで代々引き継がれます。

    岡野家塁代墓誌(裏側)

    先の江雪斎の功績を称え幕府は子孫の家柄は本家長津田と共に淵野辺も知行替えされることなく幕末まで代々引き継がれます。

  • 岡野氏説明板

    岡野氏説明板

  • 岡野氏歴代墓

    岡野氏歴代墓

  • 岡野氏歴代墓群

    岡野氏歴代墓群

  • 岡野氏歴代墓群

    岡野氏歴代墓群

  • 岡野氏歴代墓

    岡野氏歴代墓

  • 岡野氏歴代墓<br /><br />家紋と思われる印が墓石に刻されています。

    岡野氏歴代墓

    家紋と思われる印が墓石に刻されています。

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