2014/06/05 - 2014/06/05
786位(同エリア1942件中)
滝山氏照さん
JR高尾駅北口から甲州街道(国道20号線)を西進、並行するJR中央本線と交差し更に「西浅川」交差点で右折し5分程歩きますと駒木野(こまぎの)地区に入り「駒木野」バス停を前にして関東の三関(他に箱根・碓氷)の一つである小仏関所(こぼとけ・せきしよ、東京都八王子市裏高尾町)を訪問しました。
この関所はもともと当所からさらに西に位置する小仏峠(548m)の頂上にありました。小仏峠は武蔵・甲斐・相模の境目(国境)とされ、戦国時代中期までは殆ど人が通ることのない峠だったようで通行難所中の難所でした。
ところが永禄12年(1569)武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)の軍勢が碓氷峠を経て南下、小田原城攻略の途中に城主北条氏照(ほうじょう・うじてる、1540~1590)が治める滝山城を攻略する際、別部隊として郡内領主小山田信茂(おやまだ・のぶしげ、1539~1582)軍が大月から小仏峠を駆け下りて滝山城に迫ります。
氏照は当然ながら当時一般的な経路である奥多摩方面、小河内(おごうち)又は檜原(ひのはら)からの武田軍侵入を念頭に置き檜原城に兵力を送りこみ防衛を固めていました。
意表を突かれた氏照は老臣横地監物、近藤出羽介らを急派し小山田軍を迎えますが当該軍勢は駒木野から河原に進み既に廿里(とどり)山に陣を敷いて逆に迎え撃ち、その為北条軍は多数の将兵を失い大敗するに至ります。(廿里合戦・とどりがっせん)
この頃多摩川北岸の拝島に本陣を置いた信玄のもと、息子勝頼を先頭とする軍は居城滝山城を攻め、氏照は三の丸まで攻め込まれ窮地に陥りますが、信玄は損害の増大を考慮し攻略を断念し小田原城へと向かいます。
戦後氏照は信玄軍に攻め込まれた滝山城の防衛上の限界を痛感し、甲州口に近い北浅川と南浅川に囲まれた深沢山に新たに八王子城を建設することになり天正年間に築城が開始され、氏照が滝山城から移ったのは天正15年(1587)頃までと思われます。
新城築城と前後して氏照は新城防衛の策として甲州からの侵入に備えるため小仏峠頂上に砦を置き守備隊を配置することになりますが天正10年(1582)武田信玄の後継である勝頼が天目山で最期を遂げ、新羅三郎義光を祖とする名門家柄武田家はここに滅亡します。
天正18年(1590)の小田原城開城・降伏に続き豊臣秀吉命によって氏照は兄氏政と共に切腹、約100年に亘る小田原北条氏は滅亡、滅亡後の北条氏旧領を受けて徳川家康は関東移封することになります。
甲斐国を没収した秀吉は彼の信頼する家臣に支配を委ね、ここで新たに甲斐・武蔵の国境は緊張が生まれ、その対策として家康の意を受けた代官頭の大久保長安(おおくぼ・ながやす、1545~1613)は武田氏遺臣や八王子住民らを募り「千人同心」を組織し江戸城に直結する甲州街道の甲州口防御を固めます。
慶長20年(1615)大坂夏の陣で徳川家康は勝利し豊臣氏は滅亡、元和2年(1616)には既に小仏峠から駒木野に移転していた関所は改めて当所に移動、関所名はそのまま「小仏関所」の名前を引き継ぎます。
明治維新後全国の関所はすべて廃され、当然ながら小仏関所も例外ではなく、番所を始め関係するものはことごとく取り壊され、今では番所の前に在った通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っているだけです。
2023年9月11日追記
現地に設置の案内板には下記の説明がなされています。
『国指定史跡 小 仏 関 跡
所 在 地 八王子市裏高尾町420番地の1番
指定年月日 昭和2年1月18日
小仏関所は、戦国時代に小仏峠に設けられ藤見聞とも呼ばれた。武田・今川・織田などの剛健の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、時鵜川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。
関所の通貨は、明け六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行、この手形を番所のXにすえられた手形石にならべ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
特に、「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の刑が課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって自由な面もあったらしい。明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取りこわされた。
平成10年7月1日
八王子市教育委員会 』
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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旧駒木野橋周辺
当地は「駒木野」と呼ばれており、土地区画整理事業によりかつての駒木野橋は撤去され舗装道路の下部を流れるようになってます。 -
旧駒木野橋事業記念石碑
駒木野橋があったとしてその橋名を保存するための石碑が傍らに建立されています。 -
小仏関所と旧駒木野橋
当時の関所東門の外側には深い川が流れ駒木野橋が架けれていましたが、現在では当該橋は撤去され新たな舗装道路下を小規模ながら川が流れています。 -
小仏関所跡
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駒木野バス停
関所跡前に立つ「駒木野」バス停は小仏峠~高尾駅北口を連絡します。平日は1時間に1本、土日祝は散策客多数利用の為1時間に2本から3本運行となっています。 -
イチオシ
小仏関所跡全景
今では柵に囲まれた部分が史蹟としての小仏関所跡で、手形石と手付石が残っているだけです。 -
イチオシ
小仏関所跡石標
「史蹟 小佛関址」の石碑が建立しています。 -
イチオシ
手形石と手付石
関所通過には手形が必要であり、関所を通る際手持ちの手形を手形石に置き、手付石には手をついて許しを待つようになっています。 -
小仏関所跡
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小仏関所跡
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小仏関所跡説明版
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小仏関所跡
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小仏関所跡
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小仏関所説明
公園となった広場には絵図2面を加えた説明板が残されています。 -
小仏関所絵図
絵図を見ますと東西に門が設置され、関の中央部北側に番所、東門を出ると橋が設置されています。 -
小仏関所略図
八王子千人同心組頭の塩野適斎(しおの・てきさい、1775~1847)が「桑都日記」で記した小仏関概要図も併掲されています。関所四方が柵で囲まれ、北側が山、南側は川となって通行人を厳重に規制しています。 -
小仏関所跡
関所跡敷地は公園化されています。 -
小仏関所跡
跡地敷地中央部に大きな樹木が1本立っており、芝などはしっかり清掃され管理がよくされている様子です。 -
関所跡地内記念碑
跡地に建つ顕彰記念碑があります。(何の石碑か不明です) -
小仏関所跡
すっかり公園化されて当時の状況は説明板に掲示されている絵図でしか想像できません。 -
小仏関所跡
休憩用の長椅子が配置されているだけです。殺風景な跡地に再現された往時の番所でも設置していればいいのですが・・・・。 -
石碑 甲州街道駒木野宿
当地はか甲州街道(日本橋~下諏訪)の八王子宿と小仏宿の間にある宿場でありました。 -
駒木野宿説明
(雨などによって文字が崩れ掲示内容が読めません) -
旧甲州街道
江戸時代まで当街道は明治21年(1888)道筋が高低差が高い小仏峠を通る路から現在の大垂水(おおだるみ)峠を越える道へ変更されるまでは甲州に向かう幹線道路でした。 -
旧甲州街道
この道路の先にある小仏峠の下にはJR中央本線及び中央自動車道路がそれぞれトンネルとなって走っています。 -
小仏関所北側の小川
現在の小仏関所跡北側に沿って流れる小川はかつてはある程度広くて深い川であったようです。 -
甲州街道
小仏関所跡を離れ甲州街道に戻り高尾山口駅をめざします。途中の川は先ほどの小仏関所跡を流れる小川が合流していると思われます。 -
京王高尾線
高尾山口駅に向かって左側には京王高尾線の架線が見え隠れしています。 -
侠客 関東綱五郎住宅跡 石碑
甲州街道に沿って歩いていると珍しい石碑が立っています。 -
高尾山近道入口石標
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京王高尾線橋梁
甲州街道と交差する京王高尾線の橋梁が視野に入ります。 -
不思議なおじさん像
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京王高尾線
甲州街道と交差する京王高尾線橋梁が見えます。. -
京王高尾山口駅ホ−ム
高架となっているホ−ムには出発を待つ車輛が控えています。 -
京王高尾山口駅舎
平日で雨が降っていたので駅舎前の有料駐車場はガラ空き状態です。 -
高尾山周辺案内地図
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高尾山自然研究路地図
高尾山口駅前に掲載され登山者へのコース案内を記しています。 -
京王高尾山口駅
終着駅の高尾山口駅ホームは島形タイプで新宿行の特急と各停が交互に発車しています。尚次駅の高尾駅までは単線運転となっています。
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