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鎌倉時代末期から南北朝時代に当地を治める武将で、足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)の実弟である直義(ただよし、1306~1352)に仕えた渕辺義博(ふちのべ・よしひろ、生誕不詳~1335)の居館(ふちのべやかた、神奈川県相模原市淵野辺)を訪問しました。<br /><br />元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による公武一統の建武政権が発足、戦功を挙げた尊氏は武蔵国国司・守護兼帯、上総守護に補任されますが中央政府では功労の第一人者にふさわしい待遇はなく鎮守府将軍という閑職に置かれ、この機会を機に尊氏はもっぱら鎌倉を中心に関東に勢力を築くことに傾注します。<br /><br />同年12月政府の方針に沿って関東の押さえとして鎌倉幕府のミニチュア版のように、相模守に任命された尊氏実弟の直義が鎌倉に下向し「鎌倉将軍府」なるものを組織します。<br /><br />ところが改元されて建武2年(1335)7月に信濃に蜂起した北条高時の遺児である時行(ときゆき、生誕不詳~1353)を戴き諏訪氏らの軍勢が動員され鎌倉に向けて進撃、直義は時行軍を武蔵府中にて迎撃しますが敗れ、鎌倉を離れ三河国矢作(やはぎ)に退却し京都から駆け付けた兄尊氏の援軍を待ちます。(中先代の乱)<br /><br />鎌倉府の防衛ができず鎌倉を退去する際、直義は以前から東光寺に幽閉されていた後醍醐天皇の第三皇子護良親王(もりよししんのう、1308~1335)を自らの判断で殺害します。その殺害の命を受けたのが渕辺義博です。<br /><br />護良親王が鎌倉にて幽閉されるに至る経緯は次の通りと言われています。即ち、親王は生来武勇誉れ高く過激な性格でこの人格を背景に元弘の乱では果敢に戦い鎌倉幕府討滅の功労者として征夷大将軍に就任します。親王は足利尊氏は武家政権の復興を目論む危険人物であると決めつけ事あるごとに尊氏とは激しく対立、ついに尊氏暗殺を企てますが未然に発覚、後醍醐天皇もこれをかばいきれず護良親王は捕えられ鎌倉に配流されていたところです。<br /><br />上記経緯の中で直義が護良親王を殺害する理由としては、北条時行が鎌倉に侵攻の際に護良親王が時行の手に落ちた場合、反足利勢力のシンボルとして利用される事に懸念があったためと思われます。<br /><br />殺害に際して次のような場面が語られています。護良親王は義博の太刀を噛み折り、死んでもなおその太刀を離さなかったことから、怖れを抱いた義博は親王の首を捨てて逃げ去ったと言われます。そして捨てられた親王の首級を葬ったのが理智光寺の住僧であったといわれています。<br /><br />その後直義と共に鎌倉を離れた渕辺義博は京都から出陣した尊氏軍と共に北条時行軍を破り鎌倉を奪還、後醍醐天皇の帰還命令にも拘わらず尊氏はそのまま鎌倉に居座って建武政権から離脱することになります。<br /><br />後醍醐天皇より尊氏追討令を受けた新田義貞軍に対し尊氏は弟直義を大将とする軍を派遣させますが戦況芳しくなく撤退の後、駿河国手越河原(てごしがわら)にて新田軍に追いつめられここで渕辺義博は直義退却のため身代わりとなって討死します。<br /><br /><br />2023年9月10日追記<br /><br />現地案内所に設置の「淵辺義博の伝承」の題字で説明がされています。<br /><br />『 淵辺義博の伝承(龍像寺)<br /><br />境川沿いにあった龍池に住み人を困らせていた大蛇を地頭の淵辺義博が矢を放って退治し、頭・胴・尾の三つに分けてそれぞれ葬りました。<br /><br />頭部は龍頭寺、胴は龍像寺、尾は龍尾寺として三つの寺を建立しましたが、の後に二寺は廃寺となり、龍像寺が弘治2年(1556)に再興され、今日に至ってます。<br />               大野北公民館 』<br />

相模相模原 足利尊氏の幕府創設を支えた実弟足利直義の命により中先代の乱において幽閉中の後醍醐天皇三男の護良親王を処刑した『渕辺義博居館』訪問

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2014/05/19 - 2014/05/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

鎌倉時代末期から南北朝時代に当地を治める武将で、足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)の実弟である直義(ただよし、1306~1352)に仕えた渕辺義博(ふちのべ・よしひろ、生誕不詳~1335)の居館(ふちのべやかた、神奈川県相模原市淵野辺)を訪問しました。

元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による公武一統の建武政権が発足、戦功を挙げた尊氏は武蔵国国司・守護兼帯、上総守護に補任されますが中央政府では功労の第一人者にふさわしい待遇はなく鎮守府将軍という閑職に置かれ、この機会を機に尊氏はもっぱら鎌倉を中心に関東に勢力を築くことに傾注します。

同年12月政府の方針に沿って関東の押さえとして鎌倉幕府のミニチュア版のように、相模守に任命された尊氏実弟の直義が鎌倉に下向し「鎌倉将軍府」なるものを組織します。

ところが改元されて建武2年(1335)7月に信濃に蜂起した北条高時の遺児である時行(ときゆき、生誕不詳~1353)を戴き諏訪氏らの軍勢が動員され鎌倉に向けて進撃、直義は時行軍を武蔵府中にて迎撃しますが敗れ、鎌倉を離れ三河国矢作(やはぎ)に退却し京都から駆け付けた兄尊氏の援軍を待ちます。(中先代の乱)

鎌倉府の防衛ができず鎌倉を退去する際、直義は以前から東光寺に幽閉されていた後醍醐天皇の第三皇子護良親王(もりよししんのう、1308~1335)を自らの判断で殺害します。その殺害の命を受けたのが渕辺義博です。

護良親王が鎌倉にて幽閉されるに至る経緯は次の通りと言われています。即ち、親王は生来武勇誉れ高く過激な性格でこの人格を背景に元弘の乱では果敢に戦い鎌倉幕府討滅の功労者として征夷大将軍に就任します。親王は足利尊氏は武家政権の復興を目論む危険人物であると決めつけ事あるごとに尊氏とは激しく対立、ついに尊氏暗殺を企てますが未然に発覚、後醍醐天皇もこれをかばいきれず護良親王は捕えられ鎌倉に配流されていたところです。

上記経緯の中で直義が護良親王を殺害する理由としては、北条時行が鎌倉に侵攻の際に護良親王が時行の手に落ちた場合、反足利勢力のシンボルとして利用される事に懸念があったためと思われます。

殺害に際して次のような場面が語られています。護良親王は義博の太刀を噛み折り、死んでもなおその太刀を離さなかったことから、怖れを抱いた義博は親王の首を捨てて逃げ去ったと言われます。そして捨てられた親王の首級を葬ったのが理智光寺の住僧であったといわれています。

その後直義と共に鎌倉を離れた渕辺義博は京都から出陣した尊氏軍と共に北条時行軍を破り鎌倉を奪還、後醍醐天皇の帰還命令にも拘わらず尊氏はそのまま鎌倉に居座って建武政権から離脱することになります。

後醍醐天皇より尊氏追討令を受けた新田義貞軍に対し尊氏は弟直義を大将とする軍を派遣させますが戦況芳しくなく撤退の後、駿河国手越河原(てごしがわら)にて新田軍に追いつめられここで渕辺義博は直義退却のため身代わりとなって討死します。


2023年9月10日追記

現地案内所に設置の「淵辺義博の伝承」の題字で説明がされています。

『 淵辺義博の伝承(龍像寺)

境川沿いにあった龍池に住み人を困らせていた大蛇を地頭の淵辺義博が矢を放って退治し、頭・胴・尾の三つに分けてそれぞれ葬りました。

頭部は龍頭寺、胴は龍像寺、尾は龍尾寺として三つの寺を建立しましたが、の後に二寺は廃寺となり、龍像寺が弘治2年(1556)に再興され、今日に至ってます。
               大野北公民館 』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 淵辺義博居館跡案内<br /><br />境川根岸橋に向かう途中に案内板が設置されて迷いはありません。

    淵辺義博居館跡案内

    境川根岸橋に向かう途中に案内板が設置されて迷いはありません。

  • 淵辺伊賀守碑入口<br /><br />周辺の住宅街から更に細い道に入ります。

    淵辺伊賀守碑入口

    周辺の住宅街から更に細い道に入ります。

  • 渕辺伊賀守義博居館跡全景<br /><br />アパート・民家に囲まれた狭い敷地に居館跡を示す石碑が立っており、居館を指し示すものは見出せません。<br />

    渕辺伊賀守義博居館跡全景

    アパート・民家に囲まれた狭い敷地に居館跡を示す石碑が立っており、居館を指し示すものは見出せません。

  • 渕辺伊賀守義博居館跡石碑

    イチオシ

    渕辺伊賀守義博居館跡石碑

  • 渕辺義博顕彰碑

    渕辺義博顕彰碑

  • 居館跡風景<br /><br />顕彰碑右側には特定されない墓石が在ります。

    居館跡風景

    顕彰碑右側には特定されない墓石が在ります。

  • 第六天神社全景<br /><br />鎌倉時代後期から南北朝時代に当地を治めていた渕辺氏の守り神として広大な敷地(三町)の最北隅に在ったとされます。

    第六天神社全景

    鎌倉時代後期から南北朝時代に当地を治めていた渕辺氏の守り神として広大な敷地(三町)の最北隅に在ったとされます。

  • 第六天神社<br /><br />中央部右側に「第六天祀」石碑が建立されています。

    第六天神社

    中央部右側に「第六天祀」石碑が建立されています。

  • 第六天神社説明

    第六天神社説明

  • 第六天祀石碑

    第六天祀石碑

  • 稲荷大明神石碑<br /><br />極めて窮屈な第六天神社の左側に石碑があります。

    稲荷大明神石碑

    極めて窮屈な第六天神社の左側に石碑があります。

  • 第六天坂石標<br /><br />当然ながら第六天神社の傍らに坂が在ったことに由来しています。

    第六天坂石標

    当然ながら第六天神社の傍らに坂が在ったことに由来しています。

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