高松旅行記(ブログ) 一覧に戻る
讃岐高松城は天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐一国を与えられ、17万6千石を以て入封した生駒親正(いこま・ちかまさ、1526~1603)が翌年から野原庄(のはらのしょう)と呼ばれた当地に築城を開始し、数年の歳月を経て完成したいわゆる海城で、その名を高松城と名付け今日に至ります。<br /><br />生駒氏は4代高俊の代にお家騒動により減地転封処分、暫く幕府直轄を経て寛永19年(1642)常陸国下館より徳川光圀の実兄の松平頼重(まつだいら・よりしげ、1622~1695)が12万石の城主として入城、そして以降明治維新を迎えるまで松平氏は11代228年に亘り続きます。<br /><br />既述の通り高松城は瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んでおり日本の三大水城(他に今治城と中津城)の一つと言われ、水の上に城郭があたかも浮かんでいるような錯覚を覚えます。<br /><br />当時の城郭については本丸を中心にそれを取り囲むように北には二の丸、その東には三の丸、南には桜の馬場、西には西の丸が配置されていました。<br /><br />更に松平氏時代に三の丸の北東には北の丸を、そして東には東の丸が建立拡張され、三重の堀に囲まれて堅固の城となっています。<br /><br /><br />日程<br /><br />3/19 JR丸亀駅ー(予讃線・各停)→JR高松駅→高松城跡<br /><br />     →高松駅前バスターミナル→高松空港ー(JETSTAR<br />     <br />     ・GK412)→成田空港・成田空港第3ターミナル駅<br /><br />     ー(成田線・横須賀総武線・中央線)→JR八王子駅<br /><br /><br /><br />2022年11月15日追記<br /><br />現地入手の資料によれば下記の如く説明されています。<br /><br />『 史跡 高松城跡(玉藻公園)の沿革<br /><br /><br />高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本<br />人麻呂が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていt寺とによるといわれています。<br /><br />この城は、天正15年(1587年)NI、豊臣秀吉から讃岐一国17万6千石を与えられ、国主として入府した生駒親正が、天正16年から香東郡野原庄と呼ばれていた現在地に築城に着手した平城(水城)です。縄張り(設計)HA、当時築城の権威であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれています。数年お歳月を費やして完成し、高松城と名づけました。瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三代水城のひとつと言われています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。<br /><br />生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられて、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、寛永19年(1642年)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の城主として入場城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の観察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の居城として栄えました。<br /><br />お城は、明治3年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、明治23年(1890)に城跡の一部が松平氏家に払い下げになり、昭和20年には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに昭和29年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として昭和30年5月5日から、一般に開放しました。現在の玉藻公園の面積は79,587m2(約2万4戦坪)で、往時の城域66万m2(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮櫓とともに石垣や堀などが残り、昭和30年3月2日に国の史跡に指定されています。また、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしてますが、これは第11代藩主頼聡の奥方として、彦根藩主であった井伊直弼の次女千代姫が輿入れしている縁から、昭和41年に結ばれたものです。』<br /><br />

讃岐高松 LCCX18切符で四国一周勝手気まま城跡訪問 生駒氏築城による大規模水城に家康孫の水戸徳川頼重入封後228年間治めた『高松城』訪問

27いいね!

2014/03/19 - 2014/03/19

453位(同エリア1950件中)

0

93

滝山氏照

滝山氏照さん

讃岐高松城は天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐一国を与えられ、17万6千石を以て入封した生駒親正(いこま・ちかまさ、1526~1603)が翌年から野原庄(のはらのしょう)と呼ばれた当地に築城を開始し、数年の歳月を経て完成したいわゆる海城で、その名を高松城と名付け今日に至ります。

生駒氏は4代高俊の代にお家騒動により減地転封処分、暫く幕府直轄を経て寛永19年(1642)常陸国下館より徳川光圀の実兄の松平頼重(まつだいら・よりしげ、1622~1695)が12万石の城主として入城、そして以降明治維新を迎えるまで松平氏は11代228年に亘り続きます。

既述の通り高松城は瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んでおり日本の三大水城(他に今治城と中津城)の一つと言われ、水の上に城郭があたかも浮かんでいるような錯覚を覚えます。

当時の城郭については本丸を中心にそれを取り囲むように北には二の丸、その東には三の丸、南には桜の馬場、西には西の丸が配置されていました。

更に松平氏時代に三の丸の北東には北の丸を、そして東には東の丸が建立拡張され、三重の堀に囲まれて堅固の城となっています。


日程

3/19 JR丸亀駅ー(予讃線・各停)→JR高松駅→高松城跡

     →高松駅前バスターミナル→高松空港ー(JETSTAR
     
     ・GK412)→成田空港・成田空港第3ターミナル駅

     ー(成田線・横須賀総武線・中央線)→JR八王子駅



2022年11月15日追記

現地入手の資料によれば下記の如く説明されています。

『 史跡 高松城跡(玉藻公園)の沿革


高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本
人麻呂が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていt寺とによるといわれています。

この城は、天正15年(1587年)NI、豊臣秀吉から讃岐一国17万6千石を与えられ、国主として入府した生駒親正が、天正16年から香東郡野原庄と呼ばれていた現在地に築城に着手した平城(水城)です。縄張り(設計)HA、当時築城の権威であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれています。数年お歳月を費やして完成し、高松城と名づけました。瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三代水城のひとつと言われています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。

生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられて、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、寛永19年(1642年)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の城主として入場城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の観察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の居城として栄えました。

お城は、明治3年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、明治23年(1890)に城跡の一部が松平氏家に払い下げになり、昭和20年には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに昭和29年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として昭和30年5月5日から、一般に開放しました。現在の玉藻公園の面積は79,587m2(約2万4戦坪)で、往時の城域66万m2(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮櫓とともに石垣や堀などが残り、昭和30年3月2日に国の史跡に指定されています。また、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしてますが、これは第11代藩主頼聡の奥方として、彦根藩主であった井伊直弼の次女千代姫が輿入れしている縁から、昭和41年に結ばれたものです。』

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通手段
JRローカル 徒歩 ジェットスター
  • 高松城周辺地図<br /><br />JR高松駅広場を出て海方向に進みますと周辺を描いた地図があり、高松城を含め公園となっていることがわかります。

    高松城周辺地図

    JR高松駅広場を出て海方向に進みますと周辺を描いた地図があり、高松城を含め公園となっていることがわかります。

  • 高松城跡西入口<br /><br />公園名は玉藻公園で、その奥は高松城跡で徒歩5分程度という至近距離にあります。そして「天守台石垣修復完成」の幕が確認されます。

    高松城跡西入口

    公園名は玉藻公園で、その奥は高松城跡で徒歩5分程度という至近距離にあります。そして「天守台石垣修復完成」の幕が確認されます。

  • 玉藻公園<br /><br />簾櫓跡石垣の手前には「玉藻公園」の案内板があり、入場料を払って進みます。別称「玉藻城(たまもじょう)」と言われてる由来は万葉集で柿本人麿(かきものとひとまろ)が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに依ります。

    玉藻公園

    簾櫓跡石垣の手前には「玉藻公園」の案内板があり、入場料を払って進みます。別称「玉藻城(たまもじょう)」と言われてる由来は万葉集で柿本人麿(かきものとひとまろ)が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに依ります。

  • 高松城跡説明

    高松城跡説明

  • 庭園<br /><br />通路に従って左側は植込みが続きます。

    庭園

    通路に従って左側は植込みが続きます。

  • 武櫓跡石垣<br /><br />

    武櫓跡石垣

  • 内堀

    内堀

  • 高松松平藩泳法説明板

    高松松平藩泳法説明板

  • 水門説明

    水門説明

  • 内苑御庭(ないえんおにわ)<br /><br />松平氏2代頼常(よりつね、1652~1704)時代に藩主の住居を兼ねた政庁として披雲閣(ひうんかく)と呼ばれる御殿が建てられ、現在の庭は当時のものをもとにして造られた枯山水の庭です。

    内苑御庭(ないえんおにわ)

    松平氏2代頼常(よりつね、1652~1704)時代に藩主の住居を兼ねた政庁として披雲閣(ひうんかく)と呼ばれる御殿が建てられ、現在の庭は当時のものをもとにして造られた枯山水の庭です。

  • 披雲閣庭園風景

    披雲閣庭園風景

  • 披雲閣庭園風景

    披雲閣庭園風景

  • 披雲閣

    披雲閣

  • 披雲閣庭園風景

    披雲閣庭園風景

  • 披雲閣

    披雲閣

  • 月見櫓

    月見櫓

  • 渡櫓

    渡櫓

  • 渡櫓説明板

    渡櫓説明板

  • 北の丸月見櫓・水手御門・渡櫓説明

    北の丸月見櫓・水手御門・渡櫓説明

  • 月見櫓・水手御門・渡櫓<br /><br />鹿櫓跡から櫓と御門城郭の内側から捉えます。

    月見櫓・水手御門・渡櫓

    鹿櫓跡から櫓と御門城郭の内側から捉えます。

  • 鹿櫓跡<br /><br />通路の突き当りの石垣上には櫓があったとのことです。

    鹿櫓跡

    通路の突き当りの石垣上には櫓があったとのことです。

  • 月見櫓・水手御門・渡櫓<br /><br />鹿櫓跡から櫓と御門城郭の外堀から捉えます。

    イチオシ

    月見櫓・水手御門・渡櫓

    鹿櫓跡から櫓と御門城郭の外堀から捉えます。

  • 公園風景<br /><br />塀を越えた方向に公園が見えます。

    公園風景

    塀を越えた方向に公園が見えます。

  • 二の丸石垣<br /><br />水門から内堀に沿って披雲閣外側の小路を天守台の向かいまで進みます。

    二の丸石垣

    水門から内堀に沿って披雲閣外側の小路を天守台の向かいまで進みます。

  • 鞘橋(さやばし)<br /><br />本丸と二の丸を繋いでいる唯一の橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃には現在の屋根付き橋になったようです。

    イチオシ

    鞘橋(さやばし)

    本丸と二の丸を繋いでいる唯一の橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃には現在の屋根付き橋になったようです。

  • 天守閣跡<br /><br />内堀に突き出た石垣の上に天守台、そして天守閣が建立していました。<br /><br />

    天守閣跡

    内堀に突き出た石垣の上に天守台、そして天守閣が建立していました。

  • 天守閣跡

    天守閣跡

  • 披雲閣通り<br /><br />今まで歩いてきた披雲閣の外側小路を振り返ります。

    披雲閣通り

    今まで歩いてきた披雲閣の外側小路を振り返ります。

  • 天守閣跡

    イチオシ

    天守閣跡

  • 披雲閣と庭園

    披雲閣と庭園

  • 鞘橋と披雲閣<br /><br />内堀を挟んで鞘橋と手前の披雲閣を捉えます。

    イチオシ

    鞘橋と披雲閣

    内堀を挟んで鞘橋と手前の披雲閣を捉えます。

  • 天守閣跡<br /><br />披雲閣玄関前広場から天守閣跡を捉えます。生駒氏時代の天守は絵図などでは3層であったそうです。松平氏時代の寛文10年(1670)に改築されたのは3層5階(3層4階+地下1階)の唐造りでした。<br />

    イチオシ

    天守閣跡

    披雲閣玄関前広場から天守閣跡を捉えます。生駒氏時代の天守は絵図などでは3層であったそうです。松平氏時代の寛文10年(1670)に改築されたのは3層5階(3層4階+地下1階)の唐造りでした。

  • 天守閣跡<br /><br />明治17年(1884)老朽化の為取り壊されてしまいましたが、平成17年(2005)から天守台修復工事が開始し同25年工事完了し、今後の天守閣復元にが期待されます。

    天守閣跡

    明治17年(1884)老朽化の為取り壊されてしまいましたが、平成17年(2005)から天守台修復工事が開始し同25年工事完了し、今後の天守閣復元にが期待されます。

  • 天守閣復元イメージ<br /><br />往時の天守閣を想像してみるのも一興ですね。<br /><br />

    天守閣復元イメージ

    往時の天守閣を想像してみるのも一興ですね。

  • 天守閣跡<br /><br />当時馬の教練をしたという桜の馬場から改めて天守閣跡と内堀を眺めます。

    イチオシ

    天守閣跡

    当時馬の教練をしたという桜の馬場から改めて天守閣跡と内堀を眺めます。

  • 高松城由緒石碑

    高松城由緒石碑

  • 桜の馬場<br /><br />当寺は馬の教練をするエリアで広さも現在の2倍もあったそうです。今では桜の木が植えられていますが、自分の訪問時には桜の開花には至っていませんでした。

    桜の馬場

    当寺は馬の教練をするエリアで広さも現在の2倍もあったそうです。今では桜の木が植えられていますが、自分の訪問時には桜の開花には至っていませんでした。

  • 旭門<br /><br />城郭の東入口に相当し左右の中堀に旭橋を渡ります。

    旭門

    城郭の東入口に相当し左右の中堀に旭橋を渡ります。

  • 中堀(左側)と良櫓<br /><br />旭橋から中堀の左側を一望します。石垣の南橋には良櫓(うしとらやぐら)が覗えます。<br />

    中堀(左側)と良櫓

    旭橋から中堀の左側を一望します。石垣の南橋には良櫓(うしとらやぐら)が覗えます。

  • 中堀(右側)<br /><br />旭橋から中堀の右側を一望します。

    中堀(右側)

    旭橋から中堀の右側を一望します。

  • 埋門(うずみもん)<br /><br />石垣をくりぬいて造ったトンネル状の門で、造られた背景は不明のようです。

    埋門(うずみもん)

    石垣をくりぬいて造ったトンネル状の門で、造られた背景は不明のようです。

  • 埋門説明板<br />

    埋門説明板

  • セミの抜け殻<br /><br />事情は分かりませんが埋門の上部にはセミの抜け殻が付着しています。

    セミの抜け殻

    事情は分かりませんが埋門の上部にはセミの抜け殻が付着しています。

  • 虎口枡形石垣<br /><br />「切り込みハギ」石垣が見事に積まれています。

    虎口枡形石垣

    「切り込みハギ」石垣が見事に積まれています。

  • 良櫓(うしとらやぐら)<br /><br />良櫓はもともと東の丸の北東の隅にあった櫓で北東の方向は「丑寅」と呼ばれるゆえんです。三層三階の入母屋造りで月見櫓と同時期に建立されています。そして東の丸より旧太鼓跡に移築され現在に至っています。

    良櫓(うしとらやぐら)

    良櫓はもともと東の丸の北東の隅にあった櫓で北東の方向は「丑寅」と呼ばれるゆえんです。三層三階の入母屋造りで月見櫓と同時期に建立されています。そして東の丸より旧太鼓跡に移築され現在に至っています。

  • 旧東之丸良櫓標柱

    旧東之丸良櫓標柱

  • 良櫓説明

    良櫓説明

  • 桜御門への路

    桜御門への路

  • 桜の馬場<br /><br />桜御門に向かう途中左側に桜の馬場が広がっています。

    桜の馬場

    桜御門に向かう途中左側に桜の馬場が広がっています。

  • 桜御門跡<br /><br />三の丸入口の櫓門で昭和20年(1945)の空襲により焼失しています。

    桜御門跡

    三の丸入口の櫓門で昭和20年(1945)の空襲により焼失しています。

  • 桜御門展望<br /><br />桜御門傍らから中堀を一望します。

    桜御門展望

    桜御門傍らから中堀を一望します。

  • 桜御門跡右側<br /><br />門跡には礎石が残っています。

    桜御門跡右側

    門跡には礎石が残っています。

  • 桜御門礎石<br /><br />空襲によって赤く焼け跡が茶色と変色して当時を物語っています。<br /><br />

    桜御門礎石

    空襲によって赤く焼け跡が茶色と変色して当時を物語っています。

  • 桜御門跡左側

    桜御門跡左側

  • 桜御門跡案内板

    桜御門跡案内板

  • 園内案内図<br /><br />見学エリアを丸で囲んで入園者への心配りができています。<br />

    園内案内図

    見学エリアを丸で囲んで入園者への心配りができています。

  • 披雲閣<br /><br />松平藩時代の披雲閣は藩の政庁と藩主の住居として使用され、その建物の広さは現在の広さの2倍もあったそうです。<br />貸会場として会議、催物(展示会・茶会等)に使用されているそうです。自分が行った時は結婚式を終えてたばかりの新郎新婦が会場からでてきました。

    披雲閣

    松平藩時代の披雲閣は藩の政庁と藩主の住居として使用され、その建物の広さは現在の広さの2倍もあったそうです。
    貸会場として会議、催物(展示会・茶会等)に使用されているそうです。自分が行った時は結婚式を終えてたばかりの新郎新婦が会場からでてきました。

  • 披雲閣説明板

    披雲閣説明板

  • 披雲閣案内

    披雲閣案内

  • 桜御門跡<br /><br />披雲閣玄関から振り返り桜御門を捉えます。

    桜御門跡

    披雲閣玄関から振り返り桜御門を捉えます。

  • 披雲閣前石垣

    披雲閣前石垣

  • 鞘橋<br /><br />内堀に浮かぶ船を船頭が捜査している光景が見られます。

    鞘橋

    内堀に浮かぶ船を船頭が捜査している光景が見られます。

  • 鞘橋<br /><br />二の丸跡から鞘橋を渡って天守閣跡に向かいます。

    鞘橋

    二の丸跡から鞘橋を渡って天守閣跡に向かいます。

  • 内堀風景<br /><br />鞘橋から内堀の左側(披雲閣方向)を捉えます。

    内堀風景

    鞘橋から内堀の左側(披雲閣方向)を捉えます。

  • 内堀風景<br /><br />次に鞘橋から内堀の右側を捉えます。右端は琴電高松築港駅でしょうか。

    内堀風景

    次に鞘橋から内堀の右側を捉えます。右端は琴電高松築港駅でしょうか。

  • 天守閣風景<br /><br />鞘橋から天守閣方向を捉えます。

    天守閣風景

    鞘橋から天守閣方向を捉えます。

  • 本丸跡風景

    本丸跡風景

  • 本丸跡風景

    本丸跡風景

  • 天守閣跡石垣

    天守閣跡石垣

  • 天守閣石段

    天守閣石段

  • 天守閣跡

    天守閣跡

  • 天守閣石垣

    天守閣石垣

  • 天守閣展望台<br /><br />展望台に上る階段が設置されています。

    天守閣展望台

    展望台に上る階段が設置されています。

  • 天守閣跡展望<br /><br />水門方向を一望します。城は塀が海と繋がっているので、海の干満による水位調整のため水門が設置されています。

    天守閣跡展望

    水門方向を一望します。城は塀が海と繋がっているので、海の干満による水位調整のため水門が設置されています。

  • 天守閣跡展望<br /><br />JR高松駅方向を一望します。タワ−の手前が琴電の駅です。

    天守閣跡展望

    JR高松駅方向を一望します。タワ−の手前が琴電の駅です。

  • 天守閣跡展望<br /><br />手前の内堀の向こうに披雲閣庭園を捉えます。

    天守閣跡展望

    手前の内堀の向こうに披雲閣庭園を捉えます。

  • 天守台石垣の修理工事説明

    天守台石垣の修理工事説明

  • 天守地下一階説明

    天守地下一階説明

  • 天守台礎石<br /><br />展望台から天守台礎石を捉えます。

    天守台礎石

    展望台から天守台礎石を捉えます。

  • 本丸跡<br /><br />天守台登り石段から本丸跡広場を一望します。

    本丸跡

    天守台登り石段から本丸跡広場を一望します。

  • 鞘橋詰<br /><br />天守閣展望を終えて鞘橋を渡り二の丸跡に戻ります。<br /><br />

    鞘橋詰

    天守閣展望を終えて鞘橋を渡り二の丸跡に戻ります。

  • 天守閣と内堀<br /><br />鞘橋傍らから桜御門跡方向を一望します。

    天守閣と内堀

    鞘橋傍らから桜御門跡方向を一望します。

  • 高松城跡周辺風景<br /><br />高松城跡の見学を終えて西口から出ます。

    高松城跡周辺風景

    高松城跡の見学を終えて西口から出ます。

  • JR高松駅<br /><br />特徴のある屋根を有する高松駅は目と鼻の先です。預けた旅行ケースを引き取りに駅構内のコインロッカーに行きます。

    JR高松駅

    特徴のある屋根を有する高松駅は目と鼻の先です。預けた旅行ケースを引き取りに駅構内のコインロッカーに行きます。

  • 高松空港<br /><br />乗車したリムジンバスは駅前バスターミナルから約40分で高松空港に到着します。昼間なので利用客が少なく5~6名の人数でした。

    高松空港

    乗車したリムジンバスは駅前バスターミナルから約40分で高松空港に到着します。昼間なので利用客が少なく5~6名の人数でした。

  • 高知空港案内図

    高知空港案内図

  • 空港展望台<br /><br />1番ゲートでは小振りのJAL機がブリッジに横付けしています。

    空港展望台

    1番ゲートでは小振りのJAL機がブリッジに横付けしています。

  • 空港展望台<br /><br />隣の2番ゲートではANA機では荷物等の積み込み作業をして出発を待っているところです。

    空港展望台

    隣の2番ゲートではANA機では荷物等の積み込み作業をして出発を待っているところです。

  • 「さぬき」の文字<br /><br />滑走路の奥に芝を狩り抜いた「さぬき」がよく見えます。

    「さぬき」の文字

    滑走路の奥に芝を狩り抜いた「さぬき」がよく見えます。

  • 展望台風景<br /><br />天気良好ですが風が冷たく、展望台には少数の人ばかりです。

    展望台風景

    天気良好ですが風が冷たく、展望台には少数の人ばかりです。

  • JAL機の離陸<br /><br />帰路の飛行機待ち時間が長いので展望台からJAL機の離陸を捉えます。

    JAL機の離陸

    帰路の飛行機待ち時間が長いので展望台からJAL機の離陸を捉えます。

  • JETSTAR出発ゲート<br /><br />一番奥の3番ゲ?トに案内板が設置、18:00のGK412に搭乗します。出発時間が迫ってくると次第に客数が増えてきますがやはり乗客層は若い人が主体です。<br />

    JETSTAR出発ゲート

    一番奥の3番ゲ?トに案内板が設置、18:00のGK412に搭乗します。出発時間が迫ってくると次第に客数が増えてきますがやはり乗客層は若い人が主体です。

  • AIRBUS A320着<br /><br />約10分ほど遅れて高松空港着、この後成田向けに飛び立ちこれで3泊4日のあわただしい四国一周の城跡訪問は終了、途中大洲城訪問の断念はありましたがその他は問題なくその日遅く自宅に帰り着きました。

    AIRBUS A320着

    約10分ほど遅れて高松空港着、この後成田向けに飛び立ちこれで3泊4日のあわただしい四国一周の城跡訪問は終了、途中大洲城訪問の断念はありましたがその他は問題なくその日遅く自宅に帰り着きました。

この旅行記のタグ

27いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP