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JR丸亀駅から徒歩で約10分、丸亀城(まるがめじょう、香川県丸亀市一番丁)は天正15年(1587)播州赤穂から17万5千石の領主として生駒親正(いこま・ちかまさ、1526~1603)が讃岐国・高松に入封、まず高松城を築城した後讃岐西部の押さえとして慶長2年(1597)から丸亀城の築城にを始め、同7年(1602)に完成します。<br /><br />生駒親正は大永6年(1526)美濃国土田の生駒親重の子として生まれ永禄9年(1566)頃から父親重と共に織田信長に仕えます。<br /><br />元亀元年(1570)信長が越前朝倉氏を攻めた際、妹お市の嫁ぎ先浅井長政(あざい・ながまさ、1545~1573)の離反により金ケ崎で進退に窮した折、殿(しんがり)を申出た羽柴秀吉に信長は親正を含む数人の家臣を与力として付けます。<br /><br />以降親正は秀吉に従って行動し、長篠の戦い、本願寺との戦い、雑賀攻めに加わり軍功を挙げます。<br /><br />更に信長本能寺での横死後も山崎での明智光秀との戦いを始め、柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、徳川家康との小牧長久手の戦いそして小田原征伐でも参陣し戦功を重ねます。<br /><br />天正15年(1587)九州全土に勢力を拡大する薩摩島津氏に対抗するため秀吉命により先遣の四国軍が九州豊後に派遣され、島津軍の巧みな戦術に陥り軍監として失態を演じ自ら敗走、長宗我部信親を始め多数の将兵を失うなどした仙石秀久(せんごく・ひでひさ、1552~1614)は所領讃岐国を没収の上高野山追放の処分を受けます。<br /><br />同年親正は秀吉より讃岐一国を拝領、当時の讃岐は満足すべき城郭はないため新しく築城することが急務であり、翌天正16年(1588)堀に海水を引いた城の築城に着手、数年後に完成を見ます。尚築城に際し備中高松城水攻めに関わった黒田官兵衛の示唆を受けたとの裏話もあります。<br /><br />上述のように高松城築城後親正は慶長2年(1597)から西讃岐を押さえるべく高松城の支城として丸亀城の築城に取りかかり、慶長7年(1602)に完成、しかしながらその後一国一城令により廃城の憂き目に遭います。<br /><br />寛永18年(1641)肥前天草から讃岐国西半国を治める丸亀藩主として5万3千石で入封した山崎家治(やまざき・いえはる、1594~1648)は幕府許可のもと翌年から一度廃城となった丸亀城の大改修に取り掛かると共に城下町の整備を実施して現在の丸亀の基礎がほぼ完成させます。<br /><br />万治元年(1658)、3代藩主山崎治頼(やまざき・はるより、1650~1657)の後を受け、播磨龍野より京極高和(きょうごく・たかかず、1619~1662)が6万石を以て入城、建築中の天守を完成させ、また2代藩主高豊(たかとよ、1655~1694)は山崎氏時代の大手口を南側から北側に切り替え城郭整備に努めます。<br /><br /><br />日程<br /><br />3/19(水) JR徳島駅ー(高徳線・各停)→JR高松駅<br /><br />        (予讃線・各停)→JR丸亀駅<br /><br /><br /><br /><br />2022年11月15日追記<br /><br /><br />丸亀城入場券の裏側に記載の「丸亀城のあらまし」について次のように紹介されています。<br /><br />『 丸亀城のあらまし<br /><br />亀山城または蓬莱城ともいわれ、市内の亀山に生駒氏によって築かれたものである。<br /><br />生駒親正は天正15年(1587)播州赤穂から17万6千石の領主として讃岐に入り、高松城を築き、次いで西讃の鎮めとして慶長2年(1597)から丸亀城の築城にかかり、同7年(1602)に完成したが、その後一国一城レ令により廃城となった。<br /><br />生駒家4代の後、肥前国天草郡富岡城主から寛永18年(1641)入城した山崎治家が翌年から修築に取りかかり、現代の城郭はほぼこの時代のものである。<br /><br />丸亀城の美はなんといっても石垣の美しさである。天守に向けて4段階に積みかさねた石垣は、”扇の勾配”とも清正流三日月勾配とも呼ばれ、天に向かって弧を描いてそりかえる様は見事でまさに石の芸術品である。又、天守は全国の現存する木造天守12城の1つで、昭和18年に国宝、昭和26年に全国的改正により重要文化財に指定されている。』<br /><br /><br /><br /><br />また、現地入手のパンフレットでは歴代城主について略歴が次のように紹介されています。<br /><br />『  歴 代 城 主 (生駒氏ー山崎氏ー京極氏)<br /><br /> 生 駒 氏                             治世 天正15年(1587)~ 寛永17年(1640)        近世讃岐の草創期を確立(17万6千石)<br /><br />戦乱の世から全国統一が進められる中で、豊臣秀吉の家臣として活躍していた生駒親正が天正16年(1587)に播磨国赤穂(兵庫県)から讃岐国15万石を与えられ、領主となった。<br /><br />天正16年(1588)に本城である高松に築城を開始する。慶長2年(1597)には西讃の守りの要として丸亀に城を築き、2代一正や3代正俊が城主となった。<br /><br />元和元年(1615)、一国一城令によって丸亀城は廃城となり、4代高俊の時、御家騒動が原因で出羽国由利郡矢島(秋田県)に改易となった。<br /><br />家紋の波引車は、秀吉の朝鮮出兵の際に生駒水軍が波をきって活躍した時に、源氏車紋の下半分が波で隠れて見えたことから、以後この紋を使ったとされている。<br /><br /><br /><br />山 崎 氏                             治世 寛永18年(1641)~ 明暦3年(1657)<br />丸亀藩の立藩と城の再建(5万3千石)<br /><br />生駒氏の改易の後、幕府は讃岐を二分して、東讃は松平頼重、西讃は山崎家治の2大名に治めさせた。山崎家治は、寛永18年(1641)9月に、肥前国天草郡富岡(熊本県)から1万3千石加増され、西讃5万3千石を与えられ、丸亀藩が成立した。<br /><br />家治は城を再建し、丸亀藩発展の礎を築いた。2代目俊家は在職4年で病没。3代治頼が3歳で家督を継いだが、8歳で没したたため継しがなく治世3代17年で改易となった。家名は、承応元年(1652)治頼より5千石の分知をうけていた俊家の弟の豊治に受け継がれ、万治元年(1658)に備中成羽(岡山県)に移った。<br /><br />山崎家の家紋は10本骨の開き檜扇で、宇多源氏の支流を示すものである。<br /><br /><br /><br />京 極 氏                             治世 明暦4年(1658)~明治2年(1869)<br />丸亀藩の発展と存続に寄与(6万石)<br /><br />山崎氏の後、丸亀は大洲藩主加藤氏の在番を経て、明暦4年(1658)2月、京極高和が、播磨国龍野より6万余石で丸亀に移封された。高和は、入国早々城の改修を行い、万治3年(1660)天守を完成させた。また、城下の町並みを整えるなど丸亀城下町の基礎をつくった。2代高豊は、寛文2年(1662)8歳で家督を継ぎ、下金具倉中津海岸に別荘(現中津万象園)をつくった。また、南にあった大手門を現在の北側に位置に移した。<br /><br />以後、京極氏は、高成、高のり、高中、高朗、朗徹と7代212年続き、明治維新を迎えた。<br /><br />京極氏の家紋は、四つ目結紋で宇多天皇の末裔である近江源氏佐々木一門の代表家紋である。四つ目結紋は佐々木定綱の四男信綱が、後鳥羽院より寄懸目結の紋として賜ったと伝えられる。』<br /> 

讃岐丸亀 LCCX18切符で四国一周勝手気まま城跡訪問 讃岐高松入府の生駒氏が西讃防衛築城するも改易廃城、復活し京極氏が発展の『丸亀城』訪問

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2014/03/19 - 2014/03/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR丸亀駅から徒歩で約10分、丸亀城(まるがめじょう、香川県丸亀市一番丁)は天正15年(1587)播州赤穂から17万5千石の領主として生駒親正(いこま・ちかまさ、1526~1603)が讃岐国・高松に入封、まず高松城を築城した後讃岐西部の押さえとして慶長2年(1597)から丸亀城の築城にを始め、同7年(1602)に完成します。

生駒親正は大永6年(1526)美濃国土田の生駒親重の子として生まれ永禄9年(1566)頃から父親重と共に織田信長に仕えます。

元亀元年(1570)信長が越前朝倉氏を攻めた際、妹お市の嫁ぎ先浅井長政(あざい・ながまさ、1545~1573)の離反により金ケ崎で進退に窮した折、殿(しんがり)を申出た羽柴秀吉に信長は親正を含む数人の家臣を与力として付けます。

以降親正は秀吉に従って行動し、長篠の戦い、本願寺との戦い、雑賀攻めに加わり軍功を挙げます。

更に信長本能寺での横死後も山崎での明智光秀との戦いを始め、柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、徳川家康との小牧長久手の戦いそして小田原征伐でも参陣し戦功を重ねます。

天正15年(1587)九州全土に勢力を拡大する薩摩島津氏に対抗するため秀吉命により先遣の四国軍が九州豊後に派遣され、島津軍の巧みな戦術に陥り軍監として失態を演じ自ら敗走、長宗我部信親を始め多数の将兵を失うなどした仙石秀久(せんごく・ひでひさ、1552~1614)は所領讃岐国を没収の上高野山追放の処分を受けます。

同年親正は秀吉より讃岐一国を拝領、当時の讃岐は満足すべき城郭はないため新しく築城することが急務であり、翌天正16年(1588)堀に海水を引いた城の築城に着手、数年後に完成を見ます。尚築城に際し備中高松城水攻めに関わった黒田官兵衛の示唆を受けたとの裏話もあります。

上述のように高松城築城後親正は慶長2年(1597)から西讃岐を押さえるべく高松城の支城として丸亀城の築城に取りかかり、慶長7年(1602)に完成、しかしながらその後一国一城令により廃城の憂き目に遭います。

寛永18年(1641)肥前天草から讃岐国西半国を治める丸亀藩主として5万3千石で入封した山崎家治(やまざき・いえはる、1594~1648)は幕府許可のもと翌年から一度廃城となった丸亀城の大改修に取り掛かると共に城下町の整備を実施して現在の丸亀の基礎がほぼ完成させます。

万治元年(1658)、3代藩主山崎治頼(やまざき・はるより、1650~1657)の後を受け、播磨龍野より京極高和(きょうごく・たかかず、1619~1662)が6万石を以て入城、建築中の天守を完成させ、また2代藩主高豊(たかとよ、1655~1694)は山崎氏時代の大手口を南側から北側に切り替え城郭整備に努めます。


日程

3/19(水) JR徳島駅ー(高徳線・各停)→JR高松駅

        (予讃線・各停)→JR丸亀駅




2022年11月15日追記


丸亀城入場券の裏側に記載の「丸亀城のあらまし」について次のように紹介されています。

『 丸亀城のあらまし

亀山城または蓬莱城ともいわれ、市内の亀山に生駒氏によって築かれたものである。

生駒親正は天正15年(1587)播州赤穂から17万6千石の領主として讃岐に入り、高松城を築き、次いで西讃の鎮めとして慶長2年(1597)から丸亀城の築城にかかり、同7年(1602)に完成したが、その後一国一城レ令により廃城となった。

生駒家4代の後、肥前国天草郡富岡城主から寛永18年(1641)入城した山崎治家が翌年から修築に取りかかり、現代の城郭はほぼこの時代のものである。

丸亀城の美はなんといっても石垣の美しさである。天守に向けて4段階に積みかさねた石垣は、”扇の勾配”とも清正流三日月勾配とも呼ばれ、天に向かって弧を描いてそりかえる様は見事でまさに石の芸術品である。又、天守は全国の現存する木造天守12城の1つで、昭和18年に国宝、昭和26年に全国的改正により重要文化財に指定されている。』




また、現地入手のパンフレットでは歴代城主について略歴が次のように紹介されています。

『  歴 代 城 主 (生駒氏ー山崎氏ー京極氏)

 生 駒 氏                             治世 天正15年(1587)~ 寛永17年(1640)        近世讃岐の草創期を確立(17万6千石)

戦乱の世から全国統一が進められる中で、豊臣秀吉の家臣として活躍していた生駒親正が天正16年(1587)に播磨国赤穂(兵庫県)から讃岐国15万石を与えられ、領主となった。

天正16年(1588)に本城である高松に築城を開始する。慶長2年(1597)には西讃の守りの要として丸亀に城を築き、2代一正や3代正俊が城主となった。

元和元年(1615)、一国一城令によって丸亀城は廃城となり、4代高俊の時、御家騒動が原因で出羽国由利郡矢島(秋田県)に改易となった。

家紋の波引車は、秀吉の朝鮮出兵の際に生駒水軍が波をきって活躍した時に、源氏車紋の下半分が波で隠れて見えたことから、以後この紋を使ったとされている。



山 崎 氏                             治世 寛永18年(1641)~ 明暦3年(1657)
丸亀藩の立藩と城の再建(5万3千石)

生駒氏の改易の後、幕府は讃岐を二分して、東讃は松平頼重、西讃は山崎家治の2大名に治めさせた。山崎家治は、寛永18年(1641)9月に、肥前国天草郡富岡(熊本県)から1万3千石加増され、西讃5万3千石を与えられ、丸亀藩が成立した。

家治は城を再建し、丸亀藩発展の礎を築いた。2代目俊家は在職4年で病没。3代治頼が3歳で家督を継いだが、8歳で没したたため継しがなく治世3代17年で改易となった。家名は、承応元年(1652)治頼より5千石の分知をうけていた俊家の弟の豊治に受け継がれ、万治元年(1658)に備中成羽(岡山県)に移った。

山崎家の家紋は10本骨の開き檜扇で、宇多源氏の支流を示すものである。



京 極 氏                             治世 明暦4年(1658)~明治2年(1869)
丸亀藩の発展と存続に寄与(6万石)

山崎氏の後、丸亀は大洲藩主加藤氏の在番を経て、明暦4年(1658)2月、京極高和が、播磨国龍野より6万余石で丸亀に移封された。高和は、入国早々城の改修を行い、万治3年(1660)天守を完成させた。また、城下の町並みを整えるなど丸亀城下町の基礎をつくった。2代高豊は、寛文2年(1662)8歳で家督を継ぎ、下金具倉中津海岸に別荘(現中津万象園)をつくった。また、南にあった大手門を現在の北側に位置に移した。

以後、京極氏は、高成、高のり、高中、高朗、朗徹と7代212年続き、明治維新を迎えた。

京極氏の家紋は、四つ目結紋で宇多天皇の末裔である近江源氏佐々木一門の代表家紋である。四つ目結紋は佐々木定綱の四男信綱が、後鳥羽院より寄懸目結の紋として賜ったと伝えられる。』
 

旅行の満足度
4.5
観光
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • JR高松駅<br /><br />早朝(6:11)JR徳島駅発、高徳線にてJR高松駅に到着(8:09)、スーツケースをコインロッカーに預けて身軽になって高松から丸亀に向かいます。

    JR高松駅

    早朝(6:11)JR徳島駅発、高徳線にてJR高松駅に到着(8:09)、スーツケースをコインロッカーに預けて身軽になって高松から丸亀に向かいます。

  • 香川県観光地図<br /><br />高松駅前の香川県観光地図にて状況を確認します。

    香川県観光地図

    高松駅前の香川県観光地図にて状況を確認します。

  • 高松駅構内<br /><br />8:57 琴平行に乗車しJR丸亀駅に向かいます。尚駅構内は上野駅と同一形式の櫛形となっています。

    高松駅構内

    8:57 琴平行に乗車しJR丸亀駅に向かいます。尚駅構内は上野駅と同一形式の櫛形となっています。

  • 丸亀駅商店街<br /><br />丸亀駅到着、駅舎の観光案内所で丸亀城所在地を確認して丸亀城に向かいます。途中で遅めの朝食を執りますが観光案内所女性のアドバイスもあり讃岐うどん屋に入ります。

    丸亀駅商店街

    丸亀駅到着、駅舎の観光案内所で丸亀城所在地を確認して丸亀城に向かいます。途中で遅めの朝食を執りますが観光案内所女性のアドバイスもあり讃岐うどん屋に入ります。

  • 野菜てんぷらうどん<br /><br />さすがご当地名物らしく食べ応えのあるうどんをおいしく食べました。<br />

    野菜てんぷらうどん

    さすがご当地名物らしく食べ応えのあるうどんをおいしく食べました。

  • 丸亀城遠景<br /><br />市役所を過ぎた所から丸亀城を見上げます。

    丸亀城遠景

    市役所を過ぎた所から丸亀城を見上げます。

  • 丸亀城大手二の門<br /><br />大手二の門の彼方に天守閣が確認されます。

    丸亀城大手二の門

    大手二の門の彼方に天守閣が確認されます。

  • 大手二の門近景<br /><br />寛文10年(1670)藩主京極氏時代に一の門と共に完成しています。<br /><br />

    大手二の門近景

    寛文10年(1670)藩主京極氏時代に一の門と共に完成しています。

  • 丸亀城内堀(左側)<br /><br />江戸時代の丸亀城と町並みを絵図で見ますと、内堀の外には更に縦長の外堀が造られ、外堀の南端から海岸にかけて町並みがありました。

    丸亀城内堀(左側)

    江戸時代の丸亀城と町並みを絵図で見ますと、内堀の外には更に縦長の外堀が造られ、外堀の南端から海岸にかけて町並みがありました。

  • 丸亀城(右側)

    丸亀城(右側)

  • 大手一の門<br /><br />寛文10年(1670)藩主京極氏時代に二の門と共に完成しています。

    イチオシ

    大手一の門

    寛文10年(1670)藩主京極氏時代に二の門と共に完成しています。

  • 大手一の門<br /><br />大手一の門を過ぎるとあやめ池から来る路と合流する広場が見えます。

    大手一の門

    大手一の門を過ぎるとあやめ池から来る路と合流する広場が見えます。

  • 丸亀城歴史・年表

    丸亀城歴史・年表

  • 丸亀城地図

    丸亀城地図

  • うるし林<br /><br />見返り坂の左側には樹林が広がり遊歩道が繋がります。<br /><br />

    うるし林

    見返り坂の左側には樹林が広がり遊歩道が繋がります。

  • 見返り坂<br /><br />今まで登ってきた見返り坂を振り返ります。

    見返り坂

    今まで登ってきた見返り坂を振り返ります。

  • 三の丸石垣<br /><br />隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美となっています。

    イチオシ

    三の丸石垣

    隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美となっています。

  • 三の丸石垣<br /><br />三の丸北側の石垣は丸亀城の石垣の中では最も高く22m程の城壁が続きます。

    三の丸石垣

    三の丸北側の石垣は丸亀城の石垣の中では最も高く22m程の城壁が続きます。

  • 石垣の美説明

    石垣の美説明

  • 三の丸石垣

    三の丸石垣

  • 高浜虚子俳句石碑

    高浜虚子俳句石碑

  • 三の丸跡

    三の丸跡

  • 三の丸説明板

    三の丸説明板

  • 二の丸石垣

    二の丸石垣

  • 二の丸虎口

    イチオシ

    二の丸虎口

  • 二の丸跡案内板

    二の丸跡案内板

  • 二の丸跡<br /><br />石垣の上には隅櫓・多聞があったそうです。

    二の丸跡

    石垣の上には隅櫓・多聞があったそうです。

  • 二の丸井戸<br /><br />直径が1.8m、深さが約65mとされ、日本一深い井戸と言われています。

    二の丸井戸

    直径が1.8m、深さが約65mとされ、日本一深い井戸と言われています。

  • 二の丸井戸説明板

    二の丸井戸説明板

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 本丸跡<br /><br />本丸には天守の他隅櫓・多聞・土塀が石垣の上を巡っていたそうです。

    本丸跡

    本丸には天守の他隅櫓・多聞・土塀が石垣の上を巡っていたそうです。

  • 天守閣<br /><br />高さ15mの三層三階の現存木造天守で、万治3年(1660)に完成の四国では最も古い天守です。(昭和18年国指定・重要文化財)

    イチオシ

    天守閣

    高さ15mの三層三階の現存木造天守で、万治3年(1660)に完成の四国では最も古い天守です。(昭和18年国指定・重要文化財)

  • 丸亀城天守閣説明

    丸亀城天守閣説明

  • 本丸展望

    本丸展望

  • 丸亀城復元図<br /><br />天守内部見学時に復元図が配置されていました。

    丸亀城復元図

    天守内部見学時に復元図が配置されていました。

  • 本丸展望

    本丸展望

  • 天守内部

    天守内部

  • 天守内部

    天守内部

  • 天守展望

    天守展望

  • 藩主玄関先御門<br /><br />藩主の屋敷の表門にあたり、この門に接して番所・御駕籠部屋・長屋がありました。

    藩主玄関先御門

    藩主の屋敷の表門にあたり、この門に接して番所・御駕籠部屋・長屋がありました。

  • 藩主玄関先御門(近景)

    藩主玄関先御門(近景)

  • 丸亀市立資料館<br /><br />このエリアは藩主の屋敷跡です。

    丸亀市立資料館

    このエリアは藩主の屋敷跡です。

  • 京極高朗廟所<br /><br />丸亀城訪問を終えて駅に向かう途中に6代藩主高朗(たかあきら)廟所があります。文化8年(1811)に14歳で家督を引継ぎ、嘉永3年(1850)に隠居するまでの40年に亘り丸亀発展の礎を築いた名君と言われてます。尚7名の藩主の内当地に墓があるのは高朗だけです。<br /><br />

    京極高朗廟所

    丸亀城訪問を終えて駅に向かう途中に6代藩主高朗(たかあきら)廟所があります。文化8年(1811)に14歳で家督を引継ぎ、嘉永3年(1850)に隠居するまでの40年に亘り丸亀発展の礎を築いた名君と言われてます。尚7名の藩主の内当地に墓があるのは高朗だけです。

  • 京極高明墓所説明板<br /><br />6代藩主高朗の墓だけが玄要寺境内にあります。<br /><br />『京 極 高 朗 墓 所<br /><br />万治元年(1658)播州竜野城主京極高和が丸亀城主になって以来、明治2年の版籍奉還まで7代210年余にわたり、西讃岐は京極家によって統治された。7人の藩主のうち、5人までは滋賀県坂田郡清滝の徳源院に墓があるが6代目藩主高朗だけが、丸亀市南条町の玄要寺境内にある。南北約9m、東西約20mの土塀に囲まれた中に[従五位京極高朗之墓]と刻まれた墓石があり、その前に二対の灯籠と鳥居が建つ。門や扉には京極家の四ツ目の家紋が刻まれている。<br /><br />高朗は2代藩主高豊と並ぶ名君で、文化8年(1811)14歳で丸亀藩主となり、嘉永3年(1850)まで実に40年にわたって、丸亀発展の礎を築いた。詩文に長じ、字は季融、琴峰、陶水と号し約一万首の漢詩を創り、名著[琴峰詩集]もある。藩主としても、新堀湛ぽの築造、団扇作りの奨励をはじめ、海運、産業、文化に不滅の功績を残し、明治7年(1874)77歳で没した。<br /><br />                  昭和53年11・28 市指定<br />                  丸亀ライオンズクラブ 寄 贈 』<br /><br />

    京極高明墓所説明板

    6代藩主高朗の墓だけが玄要寺境内にあります。

    『京 極 高 朗 墓 所

    万治元年(1658)播州竜野城主京極高和が丸亀城主になって以来、明治2年の版籍奉還まで7代210年余にわたり、西讃岐は京極家によって統治された。7人の藩主のうち、5人までは滋賀県坂田郡清滝の徳源院に墓があるが6代目藩主高朗だけが、丸亀市南条町の玄要寺境内にある。南北約9m、東西約20mの土塀に囲まれた中に[従五位京極高朗之墓]と刻まれた墓石があり、その前に二対の灯籠と鳥居が建つ。門や扉には京極家の四ツ目の家紋が刻まれている。

    高朗は2代藩主高豊と並ぶ名君で、文化8年(1811)14歳で丸亀藩主となり、嘉永3年(1850)まで実に40年にわたって、丸亀発展の礎を築いた。詩文に長じ、字は季融、琴峰、陶水と号し約一万首の漢詩を創り、名著[琴峰詩集]もある。藩主としても、新堀湛ぽの築造、団扇作りの奨励をはじめ、海運、産業、文化に不滅の功績を残し、明治7年(1874)77歳で没した。

                      昭和53年11・28 市指定
                      丸亀ライオンズクラブ 寄 贈 』

  • 高朗廟を囲む土塀<br /><br />東西約20mの土塀が高朗廟を囲んでいます。<br /><br />

    高朗廟を囲む土塀

    東西約20mの土塀が高朗廟を囲んでいます。

  • 高朗廟内部<br /><br />墓所の前には鳥居・2対の灯籠が設置されています。

    高朗廟内部

    墓所の前には鳥居・2対の灯籠が設置されています。

  • 高朗廟内部

    高朗廟内部

  • 京極高朗墓標<br /><br />「従五位京極高朗之墓」と刻された墓標が建立されちます。

    京極高朗墓標

    「従五位京極高朗之墓」と刻された墓標が建立されちます。

  • 京極氏家紋<br /><br />石標に刻された「四ツ目」は京極氏の家紋です。

    京極氏家紋

    石標に刻された「四ツ目」は京極氏の家紋です。

  • 京極高朗墓地内部<br /><br />墓地から入口門を捉えます。

    京極高朗墓地内部

    墓地から入口門を捉えます。

  • 京極氏家紋<br /><br />土塀上部の瓦には京極氏家紋である「四ツ目」が刻まれています。

    京極氏家紋

    土塀上部の瓦には京極氏家紋である「四ツ目」が刻まれています。

  • 京極氏家紋<br /><br />鬼瓦にも同様に京極氏家紋「四ツ目」が刻されています。

    京極氏家紋

    鬼瓦にも同様に京極氏家紋「四ツ目」が刻されています。

  • 玄要禅寺石標<br /><br />京極家の菩提寺となっています。

    玄要禅寺石標

    京極家の菩提寺となっています。

  • 玄要寺山門<br /><br />閉じられていて拝礼できませんでした。

    玄要寺山門

    閉じられていて拝礼できませんでした。

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