2014/01/25 - 2014/01/25
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ドクターキムルさん
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程ヶ谷宿にはかつての宿場町の名残を見付けることは困難である。しかし、唯一、旅籠屋(本金子屋)跡はその名残を今に伝えている。
旅籠屋(本金子屋)跡に建つ建物は伝承では明治2年(1869年)に建替えられたものである。家の前には「歴史の道 旅籠屋(本金子屋)跡」史跡標柱が立てられている。天保年間には本金子屋の家長は伝左衛門であったとある。
江戸時代が終わり、大名の参勤交代はなくなるから、明治3年(1870年)に宿駅制度が廃止されると本陣や脇本陣も旅籠屋になっていったのであろう。鉄道が施設され、線路が敷かれる以前は依然として旅人たちは徒歩で旅立った。それ故に明治の初めに旅籠屋の建物が建替えられたのであろう。
しかし、問題がある。
道路(国道1号線)を渡った向かいには「歴史の道 脇本陣(本金子屋)跡」史跡標柱が立てられている。脇本陣(本金子屋)跡(横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷町1)は天保年間には本金子屋の家長は八郎右衛門であったとある。
旅籠屋の本金子屋(伝左衛門)跡は建坪79坪、間口7間、奥行11間半、室数13とあり、脇本陣の本金子屋(八郎右衛門)跡は建坪119坪、間口7間、奥行17間、室数14とある。しかし、同じ天保年間(天保元年(1830年)〜天保15年(1844年))の14年間のことで、同じ「本金子屋」の屋号で脇本陣と旅籠屋が並び、しかも旅籠屋に大名門が建物外壁として残っているとある。
2つの「歴史の道」史跡標柱からは本金子屋の屋号を持つ脇本陣と旅籠屋の2軒が同時に存在していたようにも取れる。あるいは、脇本陣が明治になって旅籠屋になったと考える方が自然な感じもする。しかし、Webで調べたが分からなかった。こうした疑問が湧くほど程ヶ谷宿の史跡看板はいい加減なものである。
関東大震災(大正12年(1923年))後に道路が拡張されて、旅籠屋(本金子屋)前が7mほど削られたとある。反対側の「歴史の道 脇本陣(本金子屋)跡」史跡標柱が立っている方も道路拡張で削られたであろう。それは帷子町の旧東海道が小路であることからも理解できる。しかし、程ヶ谷宿の面影を残す唯一残った建物である旅籠屋(本金子屋)跡と脇本陣(本金子屋)跡との関係がはっきりしなく、程ヶ谷宿の印象は更に良くはないものとなった。
(表紙写真は旅籠屋(本金子屋)跡)
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