2013/10/22 - 2013/10/28
248位(同エリア441件中)
明石DSさん
兆品酒店の朝食は豪華
旅は非日常を楽しむべし
食べなければ申し訳ない
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5日目:10月26日(土):嘉義:晴れ
義愛公詣りと嘉義公園散策、そして台中へ
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2013/平成25年10月26日(土)
■嘉義二日目の朝
朝5時半目覚め、部屋のカーテンを開けたら晴れていた。日本は「台風27号が週末には西日本や東日本に接近する。土石流で甚大な被害が出た伊豆大島も注意が必要だ。」ということである。10日前の26号で『伊豆大島では大規模な土砂災害が発生し、死者30名行方不明者15名(10月23日時点)という大災害となった』・・・そして27号、そんな時の台湾旅行だったが日本の天気と違って、こっちは毎日晴れが続いている。やはり日頃の行いが良いのかもハハハ。
この兆品酒店は、ネットで「嘉義で一番良いホテル」と紹介しているのもある。「HISのネット予約」で一泊¥7,500。高級ホテルという意味ではなく料金からすれば良いホテルには違いない。私にすればここの朝食は豪華。では最高級ホテルの朝食は一体どんなのだろう?一回くらい泊まってみたいものだけど・・・。
朝食バイキングは豪華だから食べ過ぎる。身体にとって豪華でない方が良い?いや豪華がダメではなく我欲がダメ、欲の塊人間は結局どこでもなんでも損をする。分かっているけど棺桶に入るまでどうしようもない。つくづく精神の弱さを思う。精神を鍛えるのは至難だ。年齢を重ねても所詮関係ない。ダメな奴はダメ。老いてなお我欲の強いのはみっともないし始末が悪い。
このホテルのエレベーターホール前には、休憩できる広い部屋があり、お茶を自由に飲んだり新聞を読んだりパソコン二台が使えるようになっていた。でもこの旅の期間インターネットはしなかった。パソコンの前に座るとまた時間が長くなってしまうし、日本の自分の現実に戻るのが嫌だったから。テレビ放送は見てたけど。
- 旅行の満足度
- 5.0
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食堂から嘉義市街を写す
-
エレベーターホールの前にこんな休憩場所があったとは
新聞・お茶・パソコン・豪華な椅子
知らなかった。気が付けど遅かりし利用できず -
自由に使えるパソコン・インターネット
でも知らなくて良かった、座れば長くなる
ここに来てまでパソコンの前に座りたくなし -
兆品酒店のフロント
男性服務員に“運ちゃん”を紹介してもらった
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■東石(とうせき)郷の「富安宮(ふあんぐう)」へ
今日の最初の目的地は、台湾で神となった日本人の一人「森川清治郎(もりかわせいじろう)巡査」の祀られた嘉義懸東石郷の道教廟「富安宮」。富安宮の住所は「嘉義縣東石?副?村(ふくせむら)57號」だが、そこまでタクシーで行くしかなく他の交通手段は不明。フロントで“運ちゃん”(蘇さん)の紹介を頼んだら8時10分に来てくれることになった。ちょっと遅れて来たのはタクシーではなく自家用車だった。
「???」と思ったがホテルの紹介なので早速交渉したら「1時間700元、5時間¥3500元」というので、「5時間も掛かる分けないやろ、高過ぎる」と思って「高過ぎる、自分で探す」と言ったら「3時間、2100元」になった。私が「2000元ならOK」と言って交渉成立。やっぱり3時間も掛からず、向こうでゆっくりしても2時間半で十分だった。
台湾のタクシーの包車相場は、ネット情報では1時間¥400元とかなので、700元も高いのだろうけど、まだ良く分からず。日本と比較して「まあええか」となってしまう。蘇さんは旅行社下請け自家用車持ち込みガイド。英語が得意で、私が「我不会英語:英語は分からん」と何度も言っているのに英語が使いたいのか、しばらく英語を使っていた。そんな40代後半の蘇さんの運転で午前8時18分に副?村へ出発。
出発して5分で小さな廟に車は停まった。「えっ?ここは何?」と思っていると、蘇さんの説明で、ここは義愛公が分祀された廟だった。義愛公は周辺地域や南部・高雄、北部・新北市など10か所以上に分祀(ぶんし)されている。その一つがこの「富義宮」(嘉義市嘉義市竹文街95號)である。小さな廟だが、ちゃんと奥の祭壇中央には髭の巡査「義愛公」が鎮座していた。それと「森川清治郎巡査」の家族と一緒の写真なども置かれていた。
蘇さんは、ウーロン茶の評判の店「1987年創業:金華総店(博愛店)」でウーロン茶を買ってくれ、サトウキビも買ってくれたり、元来人が良いのか?いずれにせよ私は蘇さんと出会えて結果良かった。高校生の娘が一人、奥さんも仕事を持ち日本にも行ったことがあると言っていた。蘇さん自身は日本には来ていない。そんな蘇さんとの一期一会の出会いとなった。 -
兆品酒店はお勧めします
嘉義駅から徒歩15分足らず
一泊¥7,500円なら十分満足
http://chiayi-jp.maisondechinehotel.com/?Psn=6066 -
富義宮
住所:嘉義市嘉義市竹文街95號
ここは義愛公が分祀された廟だった
義愛公の廟は台湾各地に十ヶ所以上
日本人が台湾人に受け入れられている証であり
日本の統治が台湾発展に寄与した何よりの証だ -
中央奥に神と祀られた髭の巡査
森川清治郎「義愛公」が鎮座していた -
森川清治郎巡査の生前の写真が飾られていた
この台湾に義愛公廟が十ヶ所以上あるとは・・・
今の日本人の何人がこのことを知る? -
家族と一緒の写真も大事に置かれている
左から妻:ちよ:清治郎:一人息子:眞一
今も尚、台湾併合を日本の侵略と非難する日本人に問う
当時の世界の覇権国の植民地支配と比較しても父祖を非難できるのか?
今の良識・常識・価値観で当時を裁くな。父祖の行いを裁く前に自分の足下を見ろ
拉致被害者を放置し、米国の属国に甘んじ自分で自分の国を守る気概もない今だ -
987年創業:金華総店(博愛店)
ウーロン茶の美味しい店
蘇さんがお茶を買ってくれた
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義愛公伝__時空を超えて息づく森川清治郎
森川清治郎巡査(1861〜1902 享年42歳)
王振榮(著)
http://tw.myblog.yahoo.com/dongshin-fulai/article?mid=-2&prev=6844&l=a&fid=9
抜粋
台湾嘉義県東石郷副瀬村富安宮に一人の日本人が奉祀されている。義愛公と神称される明治領台初期の下級官吏森川清治郎巡査である。森川清治郎は、文久元年(1861年)神奈川県の農家に生まれ、身長5尺1、2寸、小肥りで下顎に胸前に至る美髯を蓄えていた。
1892年?木ちよと結婚、翌年独子真一出生、当時横浜監獄の看守に任じていた。1897年、森川清治郎は36歳の折単身渡台、1900年日本内地より妻子を招いた。当時、日本の婦女が渡台して偏壌の地に来るのは稀で珍しく、村民達は争って日本人巡査夫人の風采を観、村落は大騒動であった。間もなく隣村の副瀬派出所に転勤する。
領台初期、台湾は各地で盗匪が絶えず出没して民心は非常に恐慌不安であった。加えて、環境衛生は悪劣でマラリヤ・ペスト・コレラ等伝染病が発生した。然るに頼る療法は簡朴な秘伝或は神憑の途方に過ぎない。無論教育程度は低く、英国人モンローの統計に依れば、人口4万2千人の台南でも男子の9割は文盲であった。
森川清治郎はこの実況に直面し、本来の治安維持の任務に配合して教育の普及、環境衛生の観念啓発、農業技能の改善を決意し全身全霊を傾けた。先ず、富安宮内の部屋を利用して塾を開き、自費で教師を雇い、文盲の村民を集め免費で読書の課程を設けた。而して嫡子真一が学齢に達したので内地より小学校の教科書を取り寄せ、村民達と共に机を並べて読書させた。
1901年(明治34年)は、以後数年間、台湾南部一帯を希有の大旱魃(かんばつ)に導いた最初の年である。次いで1902年は降雨更になく、旱魃は益々度を加えた。1902年、台湾総督府は漁業税の賦課を実施、沿海で漁をする小さな竹筏にも税を課した。村民達は、敬愛し信頼惜しまぬ森川清治郎巡査に上層へ税賦減免の嘆願を依頼した。
部落民から嘆願陳情の依頼を受けた後、森川清治郎は現地の窮状を一部始終上司の東石港支庁長園部警部に上申した。が、村民の納税抗拒を煽動していると支庁長の逆鱗に触れ、戒告処分を受けた。4月5日森川清治郎は部民に対して悲痛な面持ちで語った。「税金のことに就いては、自分のカではもうどうすることも出来ない。却って支庁長より訓戒を受け、同僚に対しても真に面目がない。皆も苦しいだろうが、右のような事情だから国の為と思って快く税金を納めてくれ、私からもお願いする」。
常々、村民と苦楽を共に分ち合い、忠実に皇民化の職務の遂行に徹した森川清治郎の失落感は深い。4月7日朝、森川清治郎は弾薬2発(自尽後弾薬がまだ1発残っていたものと思う)を準備して、派出所を出発しようとした。森川清治郎が銃を肩にしているのを目敏く見つけた夫人は、「銃を何故携帯しますか」と、取り上げようとすると、「村落警邏の規定として銃器の携帯は止むを得ぬではないか」とて強いて夫人の意見を斥けて出た。
それから間もない午前9時頃、副瀬派出所部内港?厝西南にある慶福宮から朝の静寂を劈いて一発の銃声が虚空に響いた。突如の銃声に驚愕と不安を抱いて廟に駆けこんだ廟守の王棍は、常日頃父の如く慕っている森川清治郎が廟の南側に敷いた扉の上に仰向けに倒れているのを目の当たりにした。傍らには咽喉を撃ち貫いた村田銃が冷たく光っている。突然の衝撃に王棍は茫然自失として立ちすくんだ。
まもなく東石港支庁から倉皇と急ぎ駆けてきた園部警部と同僚3、4名は現場の検視をした。園部警部が遺品を点検している際、ポケットから一枚の名刺が出てきたが、それには「疑われては弁解の術もない、覚悟する」の意味が書き付けられていた。この後、森川夫人が駆けてきて「もう大丈夫だから皆寄ってきなさい」の涙声に、村民は森川清治郎の遺体にしがみつき嗚咽した。港?厝に伝わる祖父の代からの語り草である。
午後3時、慶福宮の西北110メートルの広場で愁傷に咽ぶ村民の万斛の涙と同僚の哀悼の中、告別式を行い、その場で荼毘に付した。翌日、東石港支庁全員に部落民が参列して警察葬を挙行し、骨を富安宮の東南にある公共墓地に安葬した。こうして森川清治郎は身を捨ててまで愛した生前綏撫の地の土と化した。享年42歳、遺児真一は僅か10歳であった。
光陰矢の如し、20年が過ぎた1923年2月5日、副瀬隣接の港?厝に脳炎が発生し、疫情は激しく、伝染を恐れて恐惶措くあたわぬ2月7日夜半、副瀬村の保正李九の夢枕に森川清治郎が現われ、身に警察の制服制帽を着し、火を点した警察提灯を手に、顔は慈祥にして生きているが如く門口に立ち、「隣村港?厝は今悪疫が蔓延している、全村の環境衛生及び各家庭も飲食衛生に注意するように、然れば村は平穏無事になろう」と、告げて消え去った。
李九は目が醒め、直ちに全村に森川清治郎の言伝を通達した。村人は、民を愛する森川清治郎が死して後なお寄せる関愛の情に感じ、互いに戒め合い伝染の難を免れた。感激の極みに、村人は協議して敦く名工周啓元(朴子媽祖廟前の彫刻師)を聘し、高さ1尺8寸の警察制服制帽を着した座像を精彫して義愛公と神称し、五府千歳と共に富安宮に供奉し、永久に村の守護神として奉祀した。又その成道の日旧暦4月8日を大祭の日と定め、毎年盛大な祭典を挙行して子々孫々永遠に遺徳を顕彰し、線香は舞うが如く火は絶えない。
付記
この伝記は、森川清治郎の独子真一の妻アイ(愛)が、1973年頃父を偲び、思い出に口述したのと、村の語り伝え及び日本領台時発行の『台湾警察時報』を参照して書いた。自殺の原因には、税金を払えない貧しい人に替って納めていたが、薄給では続かず自殺したとの巷説もある。森川清治郎の自尽に上層は本丸から火を出したように慌てて戒告処分を取り消した。且つ1935年、今川淵台南州知事は警察官の鑑として事蹟を表彰した。
この故事は、私が未だ小学生の頃、小学校を巡回して偉人伝を講演してくれた通称「コブの爺さん」志村秋翠氏が『明治の呉鳳』のタイトルで書いている。植民地下で沽券に関わる故か、それとも小学生向けなのか、作文で森川清治郎はぺスト患者救助中感染して死んだと粉飾している。
森川清治郎もあの世で迷惑したであろう。森川清治郎自殺の後、遺族の妻ちよと独子真一は塩水港支庁勤務の同じく警察官であつた広瀬秀臣氏(退官後玉井、善化で代書を業とした)が引き取って世話をした。ちよは、3年後、台南市永楽町(旧名台南市外中街9番戸)胡徳春方にて亡故した。
独子真一は、広瀬秀臣氏の妻の故郷の鹿児島で師範学校を卒業して台湾に戻り、台南州下の公学校(当時の台湾人小学)教師を務め、アイ(愛)と結婚し、終戦後日本へ引き揚げた。真一とアイ(愛)間に嗣子はなく、森川家は絶えた。
30年程前、訪台する広瀬秀臣氏の外孫岡勲氏(昭和17年岸内出生)は,「台湾の東石副瀬の廟に父森川清治郎が祀られていたが、今果たして残っているか見て来て欲しい」と、アイ(愛)に言付けられた。初めて富安宮を訪れた岡氏は、義愛公は時代の変遷にも関らず、村人に信仰されて祀られていたのを目の当りにし、村人の純誠に感激したと述懐している。
その後、岡勲氏は毎年旧暦4月8日の義愛公大祭に必ず身寄りとして参拝に来台している。現在富安宮にはご本尊の外に副像が二体ある。一体は森川アイ(愛)女士、一体は岡勲氏の寄贈による。
税金については、その後税の賦課査定に謬りのあったことが発見されたのか、区長役場からの注意で部落民全部が申告をし直すようなことがあって、翌年からは従前と同じく年税50銭に軽減されたそうである。
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台湾の高速道路の料金システムは日本と違うようだ
出入り口に料金所はなく40〜50キロ区間ごとに料金所があるらしい
東石郷まで料金所はなかった・・・けど
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■富安宮
途中から高速道路に入った。料金所がないので無料なのかと思ったが、有料道路だった。出入り口に料金所はなく40〜50キロ区間ごとに料金所があるらしく料金は大体「一公里(1キロ)、1元」ということだった。高速道路の料金は日本では「キロ/約25〜30円」くらいなので同じくらい。
高速を外れて東石郷副?村に入った。1902年、この地で森川巡査は命を絶った。当時の風景とは違うのだろうが今も賑やかさとは無縁の田舎街である。兆品酒店を出発後、寄り道しても40分ほどで富安宮に到着。「へぇ〜ここか、写真と同じだけど。こんなところにあったのか」と、目的地到着後いつもそう思う。来なければやはり分からない。
外観もそうだが廟の内部もちょっとした卓球場の広さと雰囲気があった。祭壇が奥にあり鉄格子の柵で隔てられている。大概の廟はここと同じように祭壇の前に鉄格子で柵をしている。飛虎将軍廟も同じだった。廟のなかに応接セットが置かれ、この日も近所の人であろう何人かの老人男性が椅子に座って話をしていた。
蘇さんが「日本から来た」とその方たちに私を一応紹介してくれた。その時は、まったく反応はなかった・・・が。そして、とりあえずは祭壇にお参りし、鉄格子の向こう側にある「髭の木像」に手を合わせた。義愛公となった森川巡査は日露戦争開戦二年前、当地の村民の窮状を助けようとしたがならず。妻と10歳になる一人息子を残してこの廟の近くにある慶福宮で自決した。
しばらくキョロキョロと内部を見渡したあと、傍に建築中の新富安宮を見に行った。今の卓球場のような富安宮と雲泥の差の立派な廟が完成間近になっていた。これも写真で見ていたが、奥行きもあり思っていたより遥かにデッカイ建屋であった。豪華絢爛というべきで、すでに新富安宮の玄関上の電光掲示板には文字が出ていた。
鉄筋コンクリート造りのこの廟の建設費は幾らなのか?分からないが、新しい富安宮建設に沢山寄進をする人がいるのに驚く。京都にある我が家の菩提寺への墓参は年に一、二回は行くが、寺のことは長兄に任せたままで自分自身は寺への寄進などしたことはない。そして寺社参りの際、いつも賽銭箱に投じる金額に悩むセコイ私にとって多額の寄進は恐れ入る。
飛虎将軍廟もそうだが、日本人をこうやって神として祀り続けてくれる台湾の人の気持ちはありがたい。それだけ日本人が台湾の人に受け入れられている証でもあると思う。 -
東石郷副?村
もうすぐ富安宮に着く -
正面の鉄格子の向こうに義愛公の祭壇がある
ちょっと片付けて卓球台を置けば卓球場になりそう -
富安宮の祭神:義愛公(森川清治郎巡査)
1897年、森川清治郎は36歳の折単身渡台
1900年日本内地より妻と子(一人息子:眞一)を招いた。 -
お供え物で溢れていた
どこの廟に行っても綺麗に掃除され、お供え物で一杯だ
廟は近所の人たちの集いの場でもある -
こうやって日本人を神として祀ってくれる台湾人
シナ朝鮮半島との真逆の違いを思わざるを得ない
大東亜戦争を非難しているのは
アジア太平洋諸島で支那朝鮮人と反日日本人だけだ
最も許せないのは、同胞であるはずの反日日本人である -
来年竣工する新しい富安宮
鉄筋コンクリート造りの豪華な廟
すでに玄関の電光表示版は使われている -
奥行きもあり立派なものだ
来年2014年は、森川清治郎没後112年になる -
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■慶福寺へ
ここに来る前に、この富安宮が出来るきっかけとなった当時の村長:李九氏の自宅が今も廃墟になりながら残っているようなので、そこにも行きたいからその場所を聞いて欲しいと蘇さんに頼んでいた。廟にいた一人の老人に蘇さんが聞いてくれて、その場所が分かった。
今年76歳になる副?村のその人(Mさん)が、廃墟の元村長宅と自決場所の慶福宮へ案内してくれることになった。自転車でMさんが先導してくれて車で後ろを追った。まず元村長宅は、歩いても五分ほどの近くで廃墟はすっかりなくなって更地になっていた。
そこから今度は慶福宮に向かった。左右に畑の広がる舗装された田舎道を自転車のあとを付いて走った。途中左手に墓地があったり魚の養殖場ある道を自転車をゆっくりこいで5分ほどのところに慶福宮はある。(港?厝2 バス停すぐ傍)
この慶福宮で明治35年4月7日(月曜日)午前9時頃一発の銃声が響いた。今も閑散としたこの副?村。111年前はどんな村だったのだろう。今でこそ世界各地へ家族揃っての駐在は何ら珍しいことではないが、森川巡査の奥さんがここに来た当時、日本人女性到来で村は大騒動になったという。みんなから注目の的であり、統治する側の日本人の日々の生活は範を示す意味でも大変だったろう。
家の形や道の様子は様変わりしただろうが、360度高い山があるわけでもなく、全体としては1902年当時と今も景色の変わり様もない。慶福寺でMさんに御礼を言い、そこで別れてもう一度富安宮に戻った。明日の日曜日、ここで何かのイベントが開かれるのか?道路にテントを張る準備が行われていた。
あちこちで蘇さんが写真を撮ってくれたが、帰国後確認したら驚いた。普通に写してくれたように思っていたが、さすがツアーガイドとして慣れているのか、ちょっと違った距離や配置で一ヶ所五枚くらい写真を撮ってくれていた。いつの間に??その手際の良さと写真の映り栄えに感心する。 -
村長:李九氏の廃墟跡
今は廃墟は壊され更地になっている
http://www.yomiuri.co.jp/otona/trip/earth/20120601-OYT8T00691.htm -
森川巡査の自決場所である慶福宮に向かう
Mさんが自転車で先導してくれている -
この慶福宮で1902年4月7日午前9時頃銃声が響いた
廟守が駆けつけたら廟の南側に敷いた扉の上に
森川巡査が仰向けに倒れ、傍らに村田銃があった
一時間後の現場検証によって覚悟の自決が判明した
義愛公
http://youtu.be/b9VgF-NYvKU -
富安宮の帰路、蘇さんがサトウキビを買う
一片を私にくれた。台湾の特産品サトウキビ
ジューシーで自然の甘さが口に広がった
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■北回帰線に立ち寄る
そして滞在1時間ほどで帰路につく。途中サトウキビをMさんが購入し、その一欠けらをもらう。噛めば甘い汁が口腔内にほとばしる。子供の頃もっと細いサトウキビを何度かしがんだことはある。それと2007.平成19年5月11日(金)雲南省への旅で騰越からの帰路に道沿いで買ったのを思い出した。その時は同じような竹サイズだった。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akashids/ryokou/kunming/yunnan11.html
その後、Mさんが「北回帰線」で停まって説明してくれた。
『北半球、北緯23度26分22秒に位置する北回帰線。 南半球は南回帰線で、北回帰線と南回帰線に挟まれたところが熱帯。この線の北側が亜熱帯になる。日本がここに標塔を最初に作ったのは1908年、北緯23度27 ' 4 " 51誤差は僅かだであり日本の測量技術の高さを証明している。世界で最初の北回帰線の標塔であった。
初代が朽ち果て二代目は1921年作ったが暫定的なもので木材と竹で作られていた。そして1923年裕仁皇太子巡視の際にここに立ち寄り、三代目の石製のものが出来た。』とあるが、すでに地球も温暖化で今までとは違った気象状況になった。夏至には太陽が真上に来て影がなくなるそうだ。真上に太陽か・・・。
今の六代目?なるのものは標塔とは程遠く「宇宙船の姿」で目立っている。地図で見たら台鐵:「水上駅と嘉義駅」の間で、やや水上駅よりにある。 -
五代目の北回帰線 標塔
熱帯と亜熱帯を分ける
南回帰線とこの北回帰線の間が熱帯
1908年日本が最初の標塔を建てた
初代が朽ち果てたあと、二代目は木と竹で作られていた -
向かって左から
一代、二代、三代、四代 -
1995年(平成7年)建立 六代目:北回帰線
そうか阪神淡路大震災の年に
この宇宙船のような北回帰線が建てられたのか -
嘉義 獄政博物館(嘉義旧監獄)
1922(大正11年)−1994(平成6年)
72年間の監獄の歴史に人間ドラマあり
監獄に囚人として入りたくない
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■嘉義 獄政博物館
最後は「嘉義 獄政博物館(嘉義旧監獄)住所:嘉義市維新路140號」で降ろしてもらった。この監獄は博物館として開放しているが、一日四回決まった時間しか入館出来ない。
すでにその一回のうちの「10:30」は過ぎていたが、蘇さんが警備員と知り合いだったようで手続きもなにもせずに入れた。そして10:30分からの一団に混ざって見学した。蘇さんもガイドの勉強の為なのか?暇なのか?一緒に見ていた。監獄内部は綺麗に整備されている。今も監獄として十分その役割を果たせる建物に見えた。
1922年大正11年に完成し、1994年に閉鎖した後も、これだけの敷地のまま監獄博物館として綺麗に保存している。囚人房をはじめ当然のようにプライバシーはないが、建物は綺麗で陰湿な感じはない。一体この監獄でどんな人間ドラマがあったのだろう?大陸の抗日紀念館と違って阿鼻叫喚の地獄図の展示はなかった。
説明ガイドの解説もまったく分からず、蘇さんに別れを告げて早々に刑務所見学を終えて出た。刑務所見学の感想「綺麗で明るい刑務所」・・・でも、どんな綺麗でも入りたくはない。とくに時の権力者の意向に反するからと思想犯・政治犯・などで入れられるのはゴメン蒙る。それに耐えて長期の獄中生活を送る精神力はない。 -
ガイドを先頭に一団となって見学
言葉分からずども見て大体のことは分かる -
開方式浴室
犯罪者にプライバシーはなし
しかし政治犯というのは
後に英雄となる場合もあり -
嘉義監獄の全貌
日本統治時代の官立建物はみな立派なり
統治者の威厳を保つためなのか?
それとも当時の日本人の心意気なのか?
監獄といえども、あァ素晴らしきかな -
威風堂々の獄舎
なんでこんなしっかりしているのかと思うほど
今も十分機能を果たせる造りを保っている -
中央台から放射状に獄舎がある
日本時代の刑務官は恐かったのか?
それでも日本人としての人情味はあっただろう -
監獄博物館の外壁に新しい鉄条網
美しく整備され、まことに立派な監獄博物なり -
嘉義公園案内図
嘉義市史蹟資料館
http://www.cabcy.gov.tw/historical/introduction.aspx
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■嘉義公園へ向かう
監獄博物館から嘉義公園に向かった。そのまま南に歩き民権路を東に向かう。10分足らずで公園西北角に到着。日本時代ここに嘉義神社があった。今、その神社本殿跡には射日塔が聳えている。
東北角から公園に入り正門前を通って野球場の前を歩いた。この嘉義と野球は、1931年昭和6年(満洲建国昭和7年)、甲子園決勝の「嘉義農林vs中京商業」の試合が今も語り草になっている。来年には台湾映画「KANO」が日本でも封切される予定だ。
http://youtu.be/MOBQRkqoRtg
この嘉義農林は現在の國立嘉義大学。当初の予定ではここも行くつもりだったが、時間の都合で行かなかった。この嘉義農林が初めて台湾代表として甲子園に出場した意義は、以下のメンバー表にあるように見事に混成チームになっていることだろう。
1番 平野(本名不詳・アミ族):2番 蘇 (台湾人):3番 上松(本名アシワツ):4番 呉 (台湾人):5番 東 (本名ラワイ):6番 真山(本名マヤウ):7番〜9番が日本人 原住民(高砂族)4名 台湾人2名・日本人3名。
『4番の呉は早大進学後、長嶋茂雄に破られるまでの東京6大学通算本塁打記録所持者である。のちにプロ野球で活躍する呉 波(昌征)とは同姓別人。』
「嘉義農林 1931年の甲子園の決勝戦」
http://bluemagpie.doorblog.jp/archives/1320316.html
帰国後、この『嘉義市民棒球場の前に嘉義農林を讃える記念碑があり、球場内に甲子園に出場した嘉義農林の資料が展示されている』ことを知った。
球場の向かいに孔子廟がある。孔子は「紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日」享年73歳。孔子には今のところ興味ない。『孔子を始祖とする儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。』・・・か。
今の大陸漢族は孔子廟あっても徳性皆目なし。 -
嘉義公園へ西北角より入る
1910年(明治43年)に嘉義公園として作られた
戦後「中山公園」と改名されたが
1997年(平成9年)に当初の名前に戻された
李登輝総統時代(1988年1月13日〜2000年5月20日) -
嘉義公園正門
孫文像があった -
嘉義市立棒球場
嘉義と野球は嘉義農林の甲子園の活躍が語り草となっている
1931年(昭和6年)台湾代表として
甲子園に初出場した嘉義農林野球部は
決勝戦まで勝ち抜き、中京商業に0:4で敗れ準優勝した
「嘉義農林棒球隊」
http://twbsball.dils.tku.edu.tw/wiki/index.php/%E5%98%89%E7%BE%A9%E8%BE%B2%E6%9E%97%E6%A3%92%E7%90%83%E9%9A%8A -
嘉義公園の孔子廟
孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日 享年74歳)
孔子の子孫は直系でなければ、現在400万人を越す・・・か
2500年が経過すれば夫婦二人からこれだけの人数になる
『紀元前534年、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する』
この結婚無ければ孔子血縁の子孫400万人は生まれていない
秋の空人影まばら孔子廟 -
臺灣省嘉義市中烈祠の石塔
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■嘉義神社跡
そして嘉義神社跡に来る。「臺灣省嘉義市中烈祠」と刻まれた石塔が立っていた。旧神社参道の両側には当時の狛犬が今も神社を守っている。いつもこの狛犬を見るたびに石とはいえその健気を思う。これからも永久にここにあってほしい。もう神社の立つことはないだろうが、日本人は狛犬ある限りここに嘉義神社があったことを忘れない。
参道を歩くと正面に鳥居ではなく忠烈祠の門がある。日本の敗戦後、嘉義神社本殿は改築され忠烈祠となった。しかし1994年に火災で全焼し、その跡地に高さ62メートルの射日塔が建てられた。展望台としてはちょうど良い。本殿こそ塔に変わったが、神社社務所・斎館が「國軍828醫院」として使われたのちに「嘉義市史蹟資料館」として修復され立派に残されている。門を入って回廊で繋がっているが左側が旧斎館、右が旧社務所。
そして参道両側には当時の石灯篭が並び、本殿はないものの石畳の参道を歩けば十二分に嘉義神社が瞼に浮かぶ。ここに日本があった。その時、台湾も日本だった。それが歴史の事実であり、その道を選択した先人を誇りに思う。当該国に対し子孫として一切の謝罪はしない、その必要を認めない。それが世界の歴史であり、世界の常識や価値観も流動的であり時代によって変化する。
ただ千回でも同じことを書くが、台湾・朝鮮・満洲建国・南洋諸島併合の覇権時代を振り返り今後に生かすことは、今後日本は、例え頼まれても他国を併合も合邦もせず国と国としての付き合いをするということだ。それがお人よし日本人の最善の道だと私は歴史から学んだ。そして特亜三ヶ国とは未来永劫断交すべきだと思っている。
社務所に入り、貴重な資料を見た。私にとっての興味深い貴重な資料とは書棚にあった写真集で、その雑誌の写真をデジカメ撮影した。1929年昭和4年制作の嘉義市街実測図の周辺に印刷された地図の賛助広告には、日本人の足跡がはっきりと印刷されていた。そこには台湾名の広告主も並んで居る。 -
旧嘉義神社参道、狛犬が階段左右に座っている
その奥正面に鳥居ではなく忠烈祠の門が立っている
まっすぐ参道を進んだところに二代目:嘉義神社があった -
向かって左の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」
で口を閉じ、古くは角を持っていた
昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多い -
向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いている
阿(あ)・吽(うん)の形は日本で多く見られる特徴とのこと
日本人の魂を守り続ける嘉義神社の狛犬 -
大正九年(1920)建立の石灯籠
今年2013年、今から93年前
1910年生まれの親父10歳の頃のことなのか -
参道左右に今も石灯籠が並んでいる
この参道を嘉義居住の日本人が和服姿で歩いていた -
嘉義市史蹟資料館
嘉義神社社務所・斎館跡
当時のまま残っている感じがする -
向かって左手前が斎館
(神職などが神事に携わる前に心身を清めるためにこもる建物)
写真奥、向かって右側が旧社務所
斎館と社務所は回廊で繋がっている -
建物内部も当時のままのような美しさを保つ
展示品も写真や雑誌なども沢山置いてあり
何時間でもゆっくり見たい資料館だった -
昭和13年3月 卒業記念写真帖
嘉義市東門公學校 -
社務所を出て本殿跡(射日塔)に向かう
何かのロケを行うのか撮影隊が準備をしていた
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■第一代:嘉義神社跡
社務所で40分くらい過ごし、次は射日塔に登ろうと出てきたら参道でコマーシャル作りなのか?テレビの一場面なのか?10名ほどのスタッフが撮影準備をしていた。そのまま前を通り過ぎようとしたら「祭器庫」が右手奥にあった。祭祀に使う用具の収納庫のようだが南京錠が掛かっていた。今は何が中にあるのだろう?
次に参道左側に第一代嘉義神社遺址があった。「へぇ〜、嘉義神社には一代目と二代目があったのか?」と、この表示を見て初めて知った。第一代は射日塔に向かって左側にある。ということは“まっすぐ”歩いてきた参道は、二代目神社の創建時に整備されたのだろう。嘉義神社は『1915年(大正4年)10月28日創建』・・・これが一代目なら、『1942年(昭和17年)に改築』が二代目か。
主祭神『北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、1847年4月1日(弘化4年2月16日) - 1895年(明治28年)10月28日 満48歳没』・・・明治3年(1870年)12月、23歳でプロイセンに留学し、6年後の29歳、1876年(明治9年)12月、ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約すれど政府に反対され翌年帰国。婚約は岩倉具視の説得に余よって破棄する。
その後、台湾に陸軍中将として1895年(明治28年)出征。マラリアに罹患し当地で没す。この台湾各地に創建された神社の主祭神は、北白川宮能久親王。戦後、台湾の神社はすべて破却され1957年靖國神社に合祀された・・・か。北白川宮能久親王の人生にドラマあり。留学時代の七年間は自由を謳歌し素晴らしい時を過ごされたのだろう。
この北白川宮能久親王の三男:北白川宮成久王『1887年(明治20年)4月18日 - 1923年(大正12年)4月1日 享年36歳』は、留学先のパリで自分の運転でドライブ中に運転を誤り事故死された。成久王の長男、北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう)『1910年(明治43年)2月19日 - 1940年(昭和15年)9月4日 満30歳没』は、陸軍大尉として「蒙古聯合自治政府」の首都:張家口で演習中、不時着してきた戦闘機の右翼に接触し薨去された。
こういった経緯から北白川家は「悲劇の宮家」と言われた。私はこの張家口の清水河(せいすいが)、北白川宮永久王が事故にあわれた場所に昨年9月に行った。戦後慰霊碑は撤去されて何の痕跡も残されていないが皇族の方々も日本国民とともに頑張っておられた。
一代目の神社跡には、高さ120cmの本殿の基台と、そこに続く参道が残っている。大正4年10月28日の日付で、この第一代目の竣工記念に関係者が揃って本殿前で撮影したと思われる写真があった。デジカメで撮っていたのを見たらその写真があった。多分これだろう。 -
階段を上ると右側に祭器庫がある
今は中に何が納まっているのだろう -
射日塔に近づいたところで左側に
「第一代嘉義神社遺址」との案内板が目に入る -
初代:嘉義神社
-
大正4年竣工:10月28日竣工記念式典
本殿前での記念撮影 -
さっき資料館で写真は見ていたが・・・
この場所に建っていたのか
上の写真がこの場に建っていた一代目:嘉義神社 -
嘉義神社本殿(二代目)
1942年(昭和17年)に改築
射日塔の場所に嘉義神社があった
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■射日塔(嘉義神社本殿跡)
そして嘉義神社本殿参拝ではなく射日塔に入った。入場料¥50元なり。阿里山の御神木をデザインした塔。エレベーターで10階へ、確か入る時に手荷物チェックをされたと思う。エレベーターは10階まで、360度の展望が開ける。足元は一部ガラスの床で真下が覗ける。高所恐怖症の私はそのガラスに両足で立つのも恐いけど、好奇心もありでとりあえず乗って眼下を写す。
最上階は12階。一応周囲は安全柵で囲われているが、吹きさらしの「空中花園」。若者三人が椅子に座って歓談中だった。入った瞬間、反日中国だと勘違いして身構えてしまう自分がいる。歓談している三人の台湾人青年が大陸支那の若者で「小日本、日本鬼子がこんなとこに来やがった・・・」と睨みつけられるような感覚に一瞬陥るハハハ。
昨年、尖閣問題で反日暴動が起きた直後の9月18日(火)。反日の象徴でもある「柳条湖事件」の日に私は北京に到着し、27日(木)までの9泊10日の張家口の旅がトラウマになっている。どこに行っても反日横断幕がアチコチに掲げられ、ホテルに行っても「外出時に注意して下さい」と言われ、特警やら武装警官が田舎町でも警戒していた。
そんな時の「北京・張家口」の旅だった。とにかく今振り返っても、終始気分は良くなかった。特に今年の二月、そして今回と台湾を旅しての比較から余計にそう感じる。昨年の中国では、いつも誰かに睨まれているような気分だった。この台湾旅行でも時々錯覚して身構えてしまう。直後にハッと我に返り、「あっ!そうや、ここは台湾や、彼らは台湾人青年やった」と安心する。
最上階から景色を眺め、階下に下りた。11階は軽食喫茶コーナーになっている。午後1時を回っていたが昼食を食べていないので、「厚切りピーナツバタートースト¥30元」と「ホットミルクティー ¥60元」を頼んで11階からの嘉義の風景を見ながら休憩した。この後の予定は、北門站→兆品酒店→嘉義站→台中→台中福泰桔子商旅公園店(泊)。 -
嘉義神社が射日塔になった
阿里山のご神木をデザインした塔 -
エレベーターは一気に10階へ
入場時持ち物検査あり -
高所恐怖症の私
恐る恐る撮影する -
射日塔より西方向を写す
-
12階屋上:空中花園
入った瞬間若者たちに身構える
反日シナ大陸と一瞬勘違いしてしまうハハハ -
11階喫茶コーナーで昼食を
「厚切りピーナツバタートースト¥30元」
「ホットミルクティー ¥60元」 -
射日塔出口から参道方向を写す
目をつぶれば昔を偲ぶことが出来る -
撮影隊の準備が整いボチボチ撮影開始
参道を外して歩くように言われた
撮影は女の子二人連れが射日塔へ向かって歩く場面
「えっ?たったそれだけ・・・」
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■嘉義公園から阿里山鉄道「北門站」へ向かう
射日塔から出て参道を歩いていたら撮影隊のスタッフから道から外れるように頼まれた。ちょうど撮影開始のようだった。二人の若い女性が参道を射日塔に向かって歩く姿を撮影していた。一体この場面がどこに使われるのか知らないが、数秒の撮影にこれだけの準備とスタッフが必要なのかと。
「嘉義市史蹟資料館」の前を通り掛かったら大勢の団体客が来たので、てっきり大陸の一団だと思って“オバチャン”に「どこから来ましたか?」と質問したら「台北、あんたは大陸の人か?」と逆に質問され「不是大陸、従日本来的。大陸ではない。日本から来た」と返事をした。台北からのツアー客だった。
嘉義公園のジャングル?内で迷い、どこをどう歩いたのか民権路側に出たら日本風家屋が並んでいた。その家の玄関に「嘉義市東區東川里民権路11之1」との住所表示があった。高い塀に囲まれているので家の全体はよく見えなかったが手を差し上げてデジカメで写した。今も人の暮らしがあるのかないのか?不明。朽ち掛けていた。
そこから嘉義公園西北角に戻れた。阿里山鉄道の蒸気機関車「シェイ型蒸気機関車21号」が屋根つき鉄格子車庫のなかに展示されているが手入れなく朽ちるを待つのか?そして公園と別れを告げ阿里山鉄道「北門站」を目指して歩く。
嘉義公園西北角から民権路を西に向い、次は新生路を北に向かって歩いた。「獄政博物館」を左に「嘉義市政府消防局東區分隊」を右手に見ながら、そのまま新生路を北進し阿里山森林鉄路を北に越えてしまったころから自分の位置が分からず。何人かに聞いたが要領を得ず、さ迷った。帰国後“Googleマップ”で検証したら博東路辺りをうろついていたようだ。
そんな時、さっき道を尋ねた人が自家用車から「北門まで連れて行くから乗って・・・」と、停まってくれた。車には前の席にご夫婦らしき二人。後部座席には女性と子供二人が座っていた。その後部座席にのせてもらう。子供は小学1年生と2歳。そして無事に北門站に辿りついた。「謝謝!謝謝」とお礼を言って別れる。ホントありがたかった。
でも「迷った」と思っていたが、時間にすれば公園から20分程度の時間経過にすぎない。「迷ったという不安」が時間の感覚を狂わせる。旅先の道中で迷った時は、いつもそんな感じ。時間にすれば全然たいしたことはないのに、凄〜く長い時間さ迷った感に襲われる。気持ちの面が大きく左右する。やっぱりそれか・・・。 -
手水舎も修復されているのか?
美しい状態で残っている
さすが台湾、ありがたきかな -
社務所跡の資料館に入って行く団体
一人の“オバチャン”に「大陸から?」と聞いたら
「台北から、あんたは大陸人か?」と逆に聞かれた
「違う、日本人」と返事をした
○○人が日本人とまったく別顔であれば最高なのに
見分けが付き難いのが最悪。なんとかならんか -
公園傍で見かけた日本風家屋
昔の日本家屋なのだろうか? -
阿里山鉄道の蒸気機関車「シェイ型蒸気機関車21号」
もうちょと手入れをすれば素晴らしい展示品なのに
これだけ埃をかぶって錆も放置されてしまうと
スクラップのごときで値打ちもなし -
嘉義公園を出て北門站に向かう
新生路を北に「獄政博物館」の壁沿いを歩いていたが
途中から道に迷う -
北門站:撮影年月日不明
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■阿里山鉄道「北門站」
「北門駅」海抜30m〜2274m「阿里山駅」まで登る森林鉄道。この阿里山森林鉄道は1906年明治39年、日露戦争勝利の翌年「藤田組」が着工し、約8年の歳月をかけ1914年、大正3年(第一世界大戦勃発)に沼の平(ぬまのひら、現・沼平)まで延伸工事が完成し、現在の本線部分が全線開通した。
現在は台風などの被害で一部区間しか運行していないが、予定では来年2014年に全線の運行が再開されるとのこと。今は嘉義から阿里山までのバス路線があり時間のかかる鉄道は経営的には大変だ。観光鉄道として残して欲しいがどうなることだろう?
北門駅に来て驚いたのは、写真撮影をする人の多いこと。土曜日だからなのか?ここは撮影スポットだった。ざっと見渡しても10名ほどの人が三脚を立てたり、一眼レフを構えたり、老若男女が駅前に集っていた。いつからこんな脚光を浴びるようになったのだろう。写真撮影の人たちの服装・様子からも旅行者というより撮影目的の人たちが多いように思う。
駅舎の南に「檜意森活村 グイイ−シェンホウツン Guì yì sēn huó cūn」という当時林業関連の仕事に携わった人たちの宿舎など、木造建築が再現されている。林業開発が盛んなころは、北門站を中心としたこの一帯に林業関係の工場や事務所、そしてそこで働く人たちの宿舎などが建ち並んでいた一大林業拠点だった。
この村に再現された木造建築を見て、ちょっとガッカリした。というのは、八田與一記念公園の復元日本家屋も、安平古堡近くの日本家屋も、ここもみんな色も同じ、同じ時期に再現された同じ物に見える。時を同じくして再現・復元ブームになったのか?その辺のことは分からないが、私には、どこに行っても同じ物でしかなかった。
日本家屋の復元・再現は日本人として素直に嬉しいが、私が見れば「薄っぺらな家屋」「偽物」であり、こんな状態のテーマパークが持続するとは思えない。近い将来、寂しい限りの檜意森活村にならないように願う。提案:実際に、この日本家屋村を商店や食堂などに活用し人々が生活する村にすれば面白い。 -
1906年(明治39年)日露戦争勝利の翌年から着工
1914年(大正3年)沼平までの延伸工事が完成 -
海抜31〜2274メートルへ
良くぞ作った世界三登山鉄道
インドのダージリン鉄道
チリ〜アルゼンチンを通るアンデス山鉄道 -
土曜日と言うこともあるのか?
北門站前にはカメラマンが沢山いた -
2013年(平成25年)4月20日
「黒部峡谷鉄道」と「阿里山森林鉄路」と姉妹提携
へぇ〜今年こんなことがあったのか -
今も現役駅舎であり観光駅舎でもある北門站
日本統治時代の建築ブームで
最近修復されているのか美しい -
檜意森活村
ここも日本家屋が再現されて公園になっている
実際に建屋で人が生活や商売をすればもっと活気が出ると思う
このままでは10年後に、この村が存在しているとは思えない
嘉義散策
http://youtu.be/vyA3kcaceBc -
昨日に続き今日も行く
ここにいれば毎日行くだろう
旅先の一期一会の出会いが続く
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■嘉義よサラバ!台中へ向かう
時刻も午後2時40分になり、兆品酒店に戻ることにした。北門駅から嘉義駅まで1.6公里(キロ)の中間にホテルはある。林森西路を西に向かって歩いた。10分ほどでホテルに到着。まず昨日行った果物ジュースの店に行く。“オバチャン”は笑顔で迎えてくれた。そして、昨日と同じ「総合果汁、氷なし ¥40元」を頼んだ。「今から台中に行く。又嘉義に来ることがあれば来るから・・・再見!」と言って別れた。
そしてホテルに戻ってリュックを受け取り、嘉義駅へ。兆品酒店から歩いて12分ほどで駅に到着。
「嘉義15:48分(発)自強 9車40號→17:09分(着)台中」で嘉義から出発した。阿里山、義愛公、嘉義公園の神社跡などなど充実の二日間だった。台中までの台鐵特急「自強」は優れものだ。座席の間が広くてフルフラットとは言わないが、びっくりするくらいリクライニングを倒せる。目一杯倒して寝ていた人もいた。そんな人は周囲に一組だけだったが・・・。でも十分快適で、これなら新幹線でなく台鐵自強の列車の旅も悪くはない。 -
嘉義駅前の単車
自転車が単車に変わり、10年後は何に変わっている? -
午後4時前の嘉義駅プラットホーム
-
自強は座席の間が広く、リクライニングも凄く倒せる
「えっ、そんなに倒してええの?」と思うくらい
なかなか快適な自強の旅 -
威風堂々「台中駅」大正6年竣工
よくぞそのまま使い続けてくれている
ありがたきかなありがたきかな
でも高架工事中で駅舎はどうなることか?
私にはこの風景は見納めなのだろう
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■台中到着
定刻に台中に到着。台中に近づくにつれて大都市の雰囲気が感じれた。それでも台中は台湾第三の都市なのか。第二は高雄、まだ高雄には行っていないけど。台南・嘉義・そして台中と駅舎はどれも日本時代からのものを使っている。この台中の駅舎は見て美しかった。『駅舎は赤レンガを使用した英国風のデザイン。1917年に建設された』。大正6年。阿里山森林鉄道はすでに全線開通(1914年)してた。
駅を出たらもう外は夕暮れの雰囲気。とりあえず今日の宿である「台中福泰桔子商旅公園店」へ向かう。外装の色がオレンジ基調で、通称オレンジビジネスホテル。そこに行くまでに「宮原眼科」を見て、次にネットで紹介されていた小吃店で晩飯を食べて・・・と、地図を片手に歩いた。
「宮原眼科はこんなになっていたのか、まあ写真で見た通りやけど、えらいことになっているなァ〜」・・・だった。1927年(昭和2年)、宮原武熊医師がこの場所で「宮原眼科」を開院。終戦後に帰国。戦後「台中衛生院」として使われたあと放置され廃墟のようになった建屋を『日出』(パイナップルケーキ屋)のオーナーが再建し今の繁盛に繋がっている。
宮原眼科前は行列の人だった。「一体なにを?」と見たら、アイスクリーム購入の行列だった。「へぇ〜」と思いながら先を急ぐ。そして緑川西街を歩いて道沿いの店を見つける。「あった、これや、この店や。ホンマ小さい店やな」だった。店の名前は「高家意麺」。そして「湯意麺」と「燒賣」一個を頼んだ。
http://www.geocities.jp/cdj33980/travel/taiwan/gaojiayimian.html
店の“おかみさん”が、店で夕食を食べていた息子?とおぼしき小学生に、「ほら外国人やで、英語を話してみ」という感じで英語で質問するように催促した。息子はしばらく躊躇していたが、母の要望に応えて私に近づいて「Where did you come from?」と聞いてきた。「From Japan」と言ってから「我不会英語」と言ったら、そこで終わった。
「燒賣」は美味しかったので二個追加で頼んだ。台湾の料理も美味しいけど、私には日本料理に勝る物はない。もし日本人が日本で食べるより美味い台湾料理があれば、すぐにも日本で誰かが作るだろう。やっぱり麺といっても、例えば神戸市垂水区の“ときわそば”の方が口にあう。ずっと食べ続けたい外国料理にまだ出会ったことはない。不幸なのか?それが当たり前なのか?ようは外国料理は、その瞬間、その時は美味くても、すぐに飽きる。でもこの小さい店を見つけることが出来て嬉しかった。
http://www.tokiwasoba.com/shop.html -
元宮原眼科と言われても・・・
良く分からんがアイスクリームを買うのに行列が -
探し当てた小吃店
「高家意麺」
http://www.geocities.jp/cdj33980/travel/taiwan/gaojiayimian.html -
「湯意麺」と「燒賣」
うまいはうまいが、まあそこそことしかおもえん
こんなわたしは味覚ににぶいのか? -
ちょっと行き過ぎてしまったが台中公園に面して
オレンジ色のホテルが目に入りホッとした
フロントの日本語を話す小姐がテキパキと
不安だった鉄道移動を即座に調べてプリントしてくれて
最終日の予定がはっきりとした
http://hotels.his-vacation.com/jp/jp/HotelDetail/TXG00039.aspx
///////////////////////////////////
■台中福泰桔子商旅公園店(オレンジホテル)
食べ終わった頃はすでに夕暮れ。暗くなっていた。その店から歩いて5分も掛からないでホテルに着くはずが、またもさ迷いウロウロと歩く。ホテル到着までたった20分だったが、1時間に感じた。やっぱりホテルからだいぶ行き過ぎてしまっていた。台中公園沿いのオレンジ色のホテルが見えて「あっあれだ!」と分かる。
ホテル到着午後6時ちょっと前。「台中福泰桔子商旅公園店」一泊¥5800円(日本円)。ここに二泊して帰国となる。私にはここも十分なホテルだった。そしてここの日本語を話す若い女性服務員が親切で大いに助かった。
28日(月)に清水に行き、清水から高鐵台中駅、そして桃園へ戻る予定だった。その間のアクセス(バスor鉄道)が不明だったが、女性服務員が台中から清水、そして清水から高鐵台中(新鳥日駅)までの鉄道の時刻表を調べてプリントしてくれた。
今の今まで分からなかったことが全部あっけなく分かって不安解消。さすがビジネスホテルの服務員、頼まずともプリントも即座にしてくれた。午後6時過ぎに727号室に入ってしばし休息。窓のない部屋だが値段を思えば文句はない。バスタブもないけど水周りやお湯の出は問題なく快適だった。ベッドも二つあったし、ベッド二つの方が何かと整理がし易い。 -
台湾最後の二日は、このオレンジホテルの727号室
窓はないけど、そんな窮屈さは感じず
不満も文句もない -
日本時代の台中州廳(州庁)
現在:台中市政府(市役所)庁舎
当時の日本国:日本人の毅然堂々
自信溢れる姿が建物に重なる
建物は建てた者の体を表す
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■中華路の夜店
このホテルから歩いて行ける場所に「中華路の夜店」がある。昔々39歳の時、初めての海外旅行が台湾で、その時の夜店の賑やかさが記憶に残っている。あの時は台北だったけど、土曜日なら「賑やかかも・・・」と行ってみることにした。午後7時前、すでに夜の台中。自由路二段を西南方向に“まっすぐ”歩き、民権路を右に曲がった角に今も威風堂々の建築物がある。
1912年着工、翌年の1913年に完成、現在に至る。日本時代の台中州廳(州庁)。ライトアップされて台中を象徴するかのように輝いていた。翌日の日曜日に内部入ることが出来た。そのまま民権路を北西方向に歩き、「中華路一段」に出た。記憶のなかの夜店より、規模も人通りも遥かに少なかった。まだ午後7時15分前後と、時間が早いのかも知れないけど・・・。
中華路一段を北東方向、中華路二段に向かって歩く。北東方向に向かって道路の左側に夜店が並んでいた。ほとんどが屋台の食べ物屋。車も走っているので歩くのにも危険を感じる。想像していたのは歩行者天国で、道の両側に店が並び多くの人が行き来する光景だったが想像とは違っていた。途中で酸辣湯¥30元を食べた。酸っぱいがまずくはなかった。
いまひとつ盛り上がりに欠けた夜店だったが、もっと遅い時間になればどうなのか?明日日曜日の夜はどうかな?と、思いを巡らせながらホテルへ戻る。部屋に到着は午後7時45分頃。今日も長〜い一日だった。日本での日常とは雲泥の差の歩数であり、移動であり、緊張があり、初めての景色ばかりであり、当然ながら日本語をほとんど話さない一日だ。
明日は、台鐵で豊原まで行き、台中新社區にある山岡榮先生の慰霊碑と磯田謙雄(のりお)技師が作った白冷圳、高低差を利用した巨大な送水管「サイフォン用水路」を見に行く。午後はホテルの目の前の台中公園を散策する。旅も残りは二日になった。旅の日々は毎日が目一杯なので正直疲れる。 -
台中、中華路の夜店
昔、記憶にある台北の夜店の賑やかさはなかった
まだ時間が早いからか?今はこんなものなのか? -
酸辣湯¥30元
すっぱいけどみんな食べた -
車が通るので歩き難い
片側だけの露店なので賑やかさはない -
オレンジホテル前、夜の台中公園
さあ長い一日は終わった
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