2013/10/22 - 2013/10/28
270位(同エリア368件中)
明石DSさん
朝起きてカーテンを開けホッとする
部屋の窓外の景色
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4日目:10月25日(金):阿里山:晴れ
阿里山へ登る
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2013/平成25年10月25日(金)
■嘉義の朝
日本では毎朝6時半頃起床しているので、こっちでもその時間に目が覚める。台湾時間5時半ごろ。といってもどこでもいつでも寝れるタイプではなく、枕が変われば寝れないタイプなので旅にも不向きだと思う。いつも睡眠導入剤を持参しての旅だ。それでも旅先での“ぐっすり快眠”というのは残念ながらほとんど無い。
旅を修行というなら「寝れずとも良い」でなければならないが、それも嫌という情けない私だ。とにかく目一杯疲れて帰国するのは確かだ。旅先で余裕を持ってのゆったり一日は記憶に無い。この先「ゆったり旅行」が出来る日が来るのだろうか?
朝、目覚めたらカーテンを開けて天気の確認、今日も晴れのようで阿里山行きにはホッとする。午前7時40分(発)のバス。昨日駅からここまで迷って1時間も掛かっているので朝食を食う時間があるやなしや?と思っていたが、6時50分から朝食OKだったので早めに行ったつもりが、すでにみんな食べていた。
豪華な朝食だった。それなりに沢山食べていざ出発。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
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兆品酒店の朝食は豪華だった
朝からカメラ持参は私だけ?だったかも -
毎朝、青汁入り豆乳一杯・バナナ一本・豆乳ヨーグルト
これが、この二、三年私の朝食メニュー
旅先では食べ過ぎもしょうがない -
一泊朝食付き¥7,500円の兆品酒店
お勧めの「メゾン ド シン嘉義兆品酒店」
http://hotels.his-vacation.com/jp/jp/HotelDetail/CYI00004.aspx -
嘉義駅前の原付
自転車が原付になった
10年後の駅前風景は如何に?
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■阿里山へ
昨日嘉義駅から兆品酒店まで迷って1時間も歩いた道は、林森西路を“まっすぐ”歩けば、15分足らずとのこと。地図では遠いと思った道が一番の近道だった。真っ直ぐあるけばなんのことなく12分程で嘉義駅に到着。7時40分(発)まで20分の余裕があった。
嘉義駅舎内やバス停付近をうろついているとタクシーの“運ちゃん”から阿里山行きの声を掛けられた。「もう切符を買っている」と断ったが、この“運ちゃん”と阿里山から戻るバス停で再遭遇、私も向こうも覚えていて“運ちゃん”は「客を乗せて来た」と笑顔で言っていた。いつもここで粘って客を探しているのだろう。
バス停には、普通の大型観光バスくらいのバスが停まっていたので「これだろう」と思っていたが、さにあらず。阿里山行きの嘉義駅からの乗客は四人。定員二十名程度のマイクロバスだった。ちょっと拍子抜けだったが、やはり公共バスで行くのはこんなものなんだろう。団体は観光バスだろうし。 -
嘉義駅舎内
高い天井に往年の風格を感じる
1933年(昭和8年)竣工
駅舎も権力の象徴だったのか?
国家権力が弱体化すればするほど
つまらぬ国民ばかりが増殖する
絶妙のバランスというのは至難なり -
阿里山行きはこの大型バスではなく
小型のマイクロバスだった
四人の乗客で、午前7時40分(発)いざ阿里山へ!
http://www.taiwantrip.com.tw/upload/php9Ia9Z1.xls -
私を含めて乗客四人で出発
後部座席の高齢夫婦の会話に日本語らしき単語が
一度ならず、二度、三度、その度に「あれっ?」
やっぱり日本語だった
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■阿里山國家遊楽區
いざ出発。「阿里山へ」。私は運転席の真後ろに座った。ガラ空きの車中だったが私の真後ろの席に二人の高齢の夫婦が座った。途中、前を行く車の中にヒュンダイ(韓国:現代車)の車を見つけてデジカメのシャッターを押す。それくらい嬉しいことにヒュンダイ車を見かけなかった。この台南・嘉義・台中、六泊七日の旅行の間、実際我が目で確認したのは五台もなかったと思う。別にその瞬間目をつぶった訳ではない。
日本車がほとんどで、他には「VMW・ベンツ・フォード」とかだった。日本でヒュンダイをあまり見ないように台湾でも少ないのは韓国への認識が日本人と近いのかも。大陸中国とはこんなことでも違いを見つけた。私はヒュンダイなんかただでも要らん、乗らん。素直な感情だ。理性なんて偽善に過ぎず。本能こそ全て善成り。
日本で朝日・毎日・その他左翼新聞を読んでる人を見たら愚かな奴だと人間性を疑う。私の“いとこ”の旦那は、中韓嫌いで中韓料理は日本でも極力食べないらしい。私はそこまで徹底できず日本でもよく中華料理を食べる。韓国料理は焼肉以外は食べる気もしないし行かない。ちなみに韓国へは1997年一度行った。お手軽ソウル三日間¥28,000円のツアーだった。
バスは道中バス停で客を乗せながら走った。そしてスタートの7時40分から1時間も走らないうちに山の中へ、それからが長い。山道を延々と走る。途中「石棹」というバス停でトイレ休憩、時刻表はこの「石棹」発が午前9時19分となっている。ここまでは時刻表どおりの運行だった。
この先が渋滞した。工事中というのが渋滞の一番の原因だろうが、それにしても大型観光バスの長蛇の列。嘉義駅発のバスはマイクロバスで四人での出発だったのに、こんなに観光バスが来ているとは・・・。ほとんどが大陸中国からのツアー客だろう。到着前にその光景を目の当たりにしてうんざりだった。
そして乗った時から、後ろの座席の高齢の夫婦の会話のなかに時折日本語が混じっているような気がして気になっていた。でもあまりに断片的で単語だけなので確信が持てなかった。でも一度や二度ではなく、三度・四度とその瞬間はいつも「あれっ?日本語?」と気になってしまう。たまらず後ろを振り返り「日本語は話せますか?」と聞くやいなや「少し話せますよ」と即座に普通の日本語で返事が帰ってきた。
そこから他の乗客も交えて日本語での話が始まった。敗戦のとき男性Mさんは18歳。現在86歳。奥さんも同じように話す。長男の65歳を筆頭に男三人、娘三人の子沢山。このバスは高齢者は無料で暇があれば二人で良く登って来る。阿里山から新高山(玉山 3952m)は見えない。新高山と言うのは今でも十分通じる。当時は高砂族というより「蕃人 ばんじん」と言っていた・・・などなど。
いろんな話をしていたらすぐに阿里山に着いた。でも公共バスに乗って来た場合「阿里山國家遊楽區」の立派な入場門を潜ってバスは一旦停まる。そして乗客は降りて自分で門の料金所に門票(150元)買いに行かねばならない。Mさんが日本語で説明してくれたから分かったけど、誰も教えてくれなかったら多分“運ちゃん”に言われるか誰かに言われるまで分からずに座っていた。若しくは終点だと思って下車してしまったかも知れない。
その日は大型観光バスが長蛇の列だったのでゲートを潜ってマイクロバスは片隅に寄って停止したけど、空いてる時はゲートでバスが停まり、バス内で門票を購入するようだ。どっちが通常なのか分からないが・・・。そこから5分も走らないうちに終点の阿里山に到着。やっぱり渋滞で30分遅れの午前10時40分到着となった。 -
ホンダのぱくりマークのヒュンダイ
日本人でこれに乗るのはまずいない
台湾もほとんど日本車、ヒュンダイは三、四台ほど見かけただけ
台湾人の韓国に対しての認識は日本人と変わらぬのだろう -
午前8時25分:出発後40分ほどで山に上っていく
これから延々と山岳ルートとなった -
バス停「石棹」:ここまで約2時間
ここから→阿里山 約50分
トイレ休憩場所 -
金曜日の朝
大型観光バスの数珠繋ぎに唖然とする
阿里山観光がこれほど大人気とは露知らず -
渋滞の原因は工事にもあった
2008年(平成20年)夏、台風13号による
道路の復旧工事中、阿里山街道は観光バスと車で大渋滞 -
阿里山國家遊楽區への入場ゲート
こんなデッカイ門があった
ここで高速道路と同じように入場料金を払う
入場門は料金所でもある。門票¥150元
入場門の電光掲示板に現在温度11℃とあった。 -
この関所が料金ゲート
バスを降りてここまで歩いて門票を買いに来た
オモロクナイ、ホンダの歪んだマーク車にまた遭遇
阿里山行きで二台、その他で見たのは2台くらいだった -
ここが阿里山・・・か
駐車場にて
海抜2170メートル
空気の薄さまったく感じず
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■阿里山に到着
到着した場所は周囲に店があり、中央が広い駐車場になっている。バスを降りMさんたちと記念写真を撮る。現役時代の仕事は聞かなかったが、お二人とも上品で感じの良いご夫婦だった。一期一会の出会いである。そして・・・とりあえずバスを降りたが、どこになにがあるのかさっぱり見当も付かず。
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■阿里山
『「阿里山」というのは山の名前ではなく、台湾嘉義県にある尖崙山、祝山、対高岳山、大塔山、塔山など18の高山から構成されたエリアのことをいう。最高峰は大塔山で標高2663m。』
この駐車場で海抜2170メートル。ならばここから見える阿里山エリア最高峰の大塔山2663mはここを基点(海抜ゼロ)にすれば493mの山か?でもここからでも凄く高い山に見えるのは何故?
そして私は阿里山に何を見に来たのか、第一の目的は阿里山開発の父とも言われる河合鈰太郎の慰霊碑「琴山河合博士旌功碑」と、伐採した木の霊を慰めるために建てた「樹霊塔」、そして樹齢800〜2000年にもなる紅檜を見に来た。
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「阿里山開発の父」
河合鈰太郎(かわい したろう 1865−1931)享年66歳
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog591.html
国際派日本人養成講座:(文責:伊勢雅臣)より抜粋
阿里山開発の父
観光用の鉄道としては、台湾中南部、国家風景区(国定公園)に指定されている阿里山の森林鉄道が有名である。軌道幅は762ミリと狭く、小さな鉄道であるが、標高差は2,244メートルに及び、連続スイッチバックやスパイラルもあり、美しい車窓を堪能できる。アンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道とともに、世界三大山岳鉄道の一つに数えられている。
現在は蒸気機関車の復活運転なども実施され、観光用に使われているが、もともとは日本統治時代に、阿里山で伐採される豊富な木材の搬出用に作られたものだった。阿里山は15の山々の総称で、その一つが東アジアの最高峰(標高3952メートル)玉山(ぎょくさん)である。戦前は新高山と呼ばれていた。明治天皇により「新しい日本最高峰」の意味で名づけられたものである。
現在は台湾を代表するマウンテン・リゾートとなっており、遊歩道なども整備されているが、その途中、鬱蒼と生い茂った樹林の中に一つの石碑が建っている。正面には「琴山河合博士旌功碑」と刻まれている。河合博士とは「阿里山開発の父」と呼ばれた河合鈰太郎博士で、琴山とは博士の号である。「旌功」とは功績を顕彰すること。
河合博士は日本における近代森林学の先覚者として知られている。名古屋の出身で、明治23(1890)年に東京帝国大学農科大学を卒業、その後、ドイツとオーストリアで欧米の林業学を学んだ。明治35(1902)年に台湾総督府民政長官・後藤新平に請われ、台湾での林業開発を指導することとなった。
12年かけて完成した森林鉄道
当時、台湾では南北を結ぶ縦貫鉄道の建設が進められていた。その資材調達先として注目されたのが、阿里山であった。しかし、河川は流れが急で水量が不安定なため、水運を用いることはできない。そこで台湾総督府は森林鉄道の建設を決め、明治33(1900)年から地勢調査を始めていた。
河合博士は鉄道ルートの選定からこのプロジェクトに携わった。地形的な制約が大きいため、軌道幅762ミリという軽便鉄道の規格で設計された。自然災害もあり、何度となく挫折しながらも工事は進められていった。7年後の明治40(1907)年西南部の嘉南平原北端の嘉義から、標高2000メートルの二萬平までの66キロが開通。12年後の大正2(1912)年には阿里山まで全通し、本格的な森林資源の搬出が始まった。
伐採は生態環境を維持しながら計画的に行い、同時に植林事業も進めて、森林資源の保全を図った。河合博士はこれらの計画を直接指導した。この実績は林業関係者の間では今も高い評価を受けている。台湾南部の灌漑事業を手がけて「百万人の農民を豊かにした」と李登輝元総統に言わしめた八田輿一氏に並ぶとも言われている。
河合博士は昭和6(1931)年に東京の自宅で永眠した。台湾で罹ったマラリアが原因だったと伝えられている。その後、門下生たちによって、記念碑が建立されることになり、阿里山神社の神苑がその場所に選ばれた。ここには昭和10(1935)年に建立された樹霊塔も残っている。切り出された樹木の霊を慰めるためであった。
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二萬坪
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その他にも阿里山?香林村二萬坪(にまんだいら)に「日本人の慰霊碑」が立っている。それは阿里山鉄道の敷設に貢献をし、工事中に犠牲になった二人の日本人技師の慰霊碑。一人は二宮英雄技師。もう一人は進藤熊之助技師の慰霊碑。だが二人の技師についての情報は、日本では少なくネット上では今のところ見当たらない。ウィキペディアでも二宮英雄・進藤熊之助技師の頁はない。
しかし「蔡 龍保:国立台北大学歴史学科助理教授」が日本語で進藤熊之助技師の業績と慰霊碑建立の経緯を詳しく紹介してくれている。その他、台湾の検索サイト「Yahoo奇摩」で「阿里山地景追憶?─二萬坪」など二萬坪の日本人慰霊碑の写真や紹介のHPをいくつか見つけた。
http://ecology.org.tw/publication/19/literature19-1.htm
私も阿里山に行くに際して「工學士二宮英雄君之碑」と「進藤熊之助殉職碑」を見に行きたかった。二萬坪は地図で見ても阿里山から近い。「阿里山森林鉄道」は、2009年の莫拉克颱風(モーラコット8号)による大規模被害があり2014年の全面復旧を目指している。「阿里山火車站」の二つ手前が「二萬坪火車站」。バスのなかでMさんに二萬坪の場所を聞いたら、阿里山の下だとその方向を指差してくれた。
http://www.railway.gov.tw/tw/Alishan/page4.html
Mさんは「にまんだいら」とその地名の名をはっきりした日本語で言ってくれた。二萬坪の「坪」の字を私は「つぼ」と読んでしまう。二萬坪は「にまんつぼ」の土地のこと?と、思ってしまうが、漢語で「坪」は「Píng 平地」なので日本語では「二萬平」が正解だろう。日本人が当時どのように言っていたのか分からなかったがMさんの一言で「にまんだいら」と言うことが分かった。この二萬坪は、ちなみに山中に突如広い平地があることから名づけられたようだ。
この二萬坪の付近も「二萬坪黒森林歩道」と言う遊歩道があり観光地になっているようだ。そこを歩けば30分前後で「進藤熊之助殉職碑」があると写真説明に書いてあった。でもこれらは帰国後の今、旅行記を作りながらネット検索で見つけて分かった。
http://tw.myblog.yahoo.com/weking168/article?mid=19982
出発時も一応この碑の写真や二萬坪の地図はプリントして持参していたが、バスを降りた時点では阿里山の遊歩道へ行く道も分からず、二萬坪の散策は着いた早々から諦めてしまっていた。是非、阿里山へ行く機会と時間がある人は、二萬坪へも足を伸ばし、台湾で活躍し殉職された日本人に思いを馳せてもらえればと思う。
阿里山鉄道は『1906年(明治39年)着工し1912年(大正元年)に嘉義-二万平間(66.6km)、1914年(大正3年)二万平-阿里山間(5.3km)が開通』とある。開通は日台の多くの工事関係者の犠牲の上にある。二宮・進藤技師もその中の一人だ。
私の海外旅行は、いつも初めての場所に行くので阿里山を再訪する可能性は少ないが、万が一再び阿里山に行く機会があれば必ず二萬坪に行く。進藤技師の慰霊碑は1999年の台湾中部大地震で倒壊したそうだが2012年の写真に慰霊碑がちゃんと立っている写真があるので今は修復されているのだろう。台湾の方に感謝す。 -
進藤熊之助殉職碑
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進藤熊之助と日本統治時代初期の台湾鉄道
進藤熊之助(1874年7月12日~1914年2月24日)享年40歳
文責:「蔡 龍保:国立台北大学歴史学科助理教授」
「進藤熊之助と日本統治時代初期の台湾鉄道」
一部抜粋
1911 年6 月、阿里山作業所所長の新元鹿之助は、進藤が鉄道建設の事業に何年も関わり、熟練した技能を持つ他、優秀な成績を収めていることを認め、佐久間左馬太総督に阿里山作業所の技師に昇格するよう願い出た。1912 年7月台湾総督府が内閣に上奏した際、文官高等試験委員がその完璧な履歴に目を通した後、その資格を認め、翌月進藤を技師に昇格させた。
しかし天災、事故、疾病が絶え間なく阿里山作業所を襲い、多くの技術者や作業員が命を落とした。その中の最大の犠牲こそ、進藤の殉職であろう。1914年2月11日進藤は奮起湖、阿里山間の鉄道修復工事を終え試運転を行なっていた。そこで材木運搬車が脱線し、重傷を負った。嘉義病院に運ばれ治療を受けるもそのかいなく、24 日にこの世を去った。
彼の死は阿里山作業所の士気を全て奪い去り、全ての鉄道建設作業と試運転作業は停頓した。作業や試運転を継続する気力を持つ者は誰もいず、こうして阿里山経営はほぼ中断状態となった。1914年3月、永田正吉が阿里山作業所所長の職を引き継ぎ、アメリカのLima 会社の技師とWestinghouse 会社の技師の支援を仰いだ。こうしてやっと阿里山鉄道は順調に動き始め、森林鉄道としての大きな役割を果たしていったのだった。
進藤熊之助殉職の記念碑の建立
①建立のきっかけ
進藤の同僚、上司、部下たちは彼の技術力、人柄を高く評価していた。単に技術が優れているだけでなく、誠実で勤勉な技術者であり、且つ立派な人格の人物であると皆が考え、上司は彼を尊重し、同僚は彼を敬い、部下は彼に信服していたのだ。進藤が阿里山鉄道のこの困難極まる工程に携わったのは、足掛け6年だった。そして能力を存分に発揮し、常に傑出した成績を上げていた。
1915年6月15日、阿里山作業所嘉義出張所所長の綱島政吉は、進藤の殉職記念碑を建てるよう、当時の総督であった安東貞美に請願した。請願文は以下のとおりである。
故阿里山作業所技師進藤熊之助君ハ本島縦貫鐵道及ヒ阿里山森林鐵道建設ニ勤労スルコト前後十有六年或ハ設計ノ要職ニ參シ或ハ董督ノ重任ニ当リ精励忍苦克ク其職ヲ全フセリ其任ヤ洵ニ永ク其貢獻ヤ甚大ナリ方今我臺灣鐵道カ本島統治ノ上ニ重要ノ地位ヲ占ムルモノ蓋シ君ノ功与テ大ニ力アリト云フ然ルニ阿里山森林鐵道建設ノ功成リ大正三年弐月十一日列車試運転ニ際シ壮烈ナル最後ヲ遂ケ鐵道経営者ノ龜鑑トシテ範ヲ後人ニ遺ス是ニ於テ同志相謀リ其功績ヲ勒シテ之レヲ不朽ニ傳フル為メ記念碑建設ヲ企図シ地ヲ嘉義公園内ニトシ同公園管理者ノ承認ヲ得テ別紙図面ノ位置ニ記念碑建設致度候条御許可相成度關係図書相添ヘ此段請願候也 -
工學士二宮英雄君之碑
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二宮英雄 1912年1月8日享年37歳
岡山県御津郡出身 温厚誠実、東京帝国大学工学部卒業。
http://tw.myblog.yahoo.com/jw!eLFHofWREUc7n.A34qE-/article?mid=353
農商務省出仕、森林鉄道従事。功績大にして台湾総督府阿里山工事に携わる。明治45年1月8日、阿里山二萬坪にて測量中に突然巨木が倒れ咄嗟の回避及ばず死亡する。阿里山に赴任して僅か10ヶ月のことなり。この不幸に際し皆々惜しみ、友人たちの献金よって阿里山に祈念碑を建立する。
大正二年七月一日建 阿里山作業所嘱託林学博士 河合鈰太郎(撰)
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「明治期工手学校卒業生の海外活動――台湾を中心として:蔡 龍保」
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1841/1/IN4403.pdf -
阿里山遊楽區地図
http://taiwaning.zening.info/arisan/
「赤→」私の歩いた散策コース -
阿里山國家森林遊楽區
海抜2170公尺(メートル)気温13℃
この階段を上っていけば阿里山駅
阿里山駅を線路に沿って左方向に行けば
阿里山遊楽區の入場門がある
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■阿里山遊楽區を歩く
阿里山に到着しバスを降りたが、どっちの方向に行けば分からずだった。何らかの分かりやすい案内表示がすぐ目に付くところにあるだろうとたかをくくっていたが、周囲を見ても何もそれらしきがなかった。これならMさんに聞いておけばと思ったがそのMさんの姿もすでになく。
とりあえず団体客について阿里山站方向に歩いた。表示の外気温は13℃。ここに来るためにウィンドブレーカー兼用の合羽を持参しナップサックに入れていたが、歩きで寒さも感じず結局出すことはなかった。そしてつい最近の9月には『中国本土の観光客、阿里山観光中にタン吐き、注意した台湾男性を集団暴行―台湾阿里山』との事件があったばかりだが、この日も一見して分かる大陸からのツアー客が溢れていた。
お揃いのバッチ、お揃いの帽子などなど。豊かになった中国とはいえ13か14億か、それ以上か分からないような人口があり貧富の差は想像を絶する。人口の多い分、海外旅行に行ける人も多くはなったのだろうが、やはり全体からみれば一部の恵まれた人たちの部類だろう。まあホンマうっとうしいけど、揃っての行動を見てれば面白い。
みんなの行く方向に付いていったら、それらしきゲートがあった。「そうか、ここが阿里山駅側からの出発点なのか」と。私が旅先で期待しているのは「現在地点を表記している公園全体の大きな図」である。遊歩道には何ヶ所もあったが、最初の駐車場にそれがなかった?若しくは目に付かなかった。
遊楽區は広いし沼平駅・神木駅などなど、どこからでも入れるのでこの遊楽區の門に出会うまで訳が分からなかった。ようするに阿里山の駐車場でバスを降りたら、阿里山駅方向に歩き、線路に沿うように沼平方向(阿里山駅に向かって左側方向)に歩けば遊楽區への入場門がある。そして立派な入場門には案内所があったので、そこで河合博士の慰霊碑の方向を聞いた。
それによれば慰霊碑は「この先を左に行けば良い。遊楽區全部を歩くには「沼平・姐妹潭・祝山観日歩道」方向。右に行けば良い事が分かった。大陸喧騒集団はどんなコースを歩くのか?ここから沼平方向へ歩いた。喧騒集団は見当たらないほど減り、しばらくは人混みを見ることなく歩いた。
「沼平公園」→「阿里山派出所」この辺りは線路沿いを歩く、鉄道写真の好きな人には絶好の撮影ポイントになるだろう。→「蒸気集材機」「蒸気集材柱」「沼平駅」ここはかつての阿里山における最大の集材場。→「阿里山閣大飯店」→そしていよいよ遊歩道は紅檜・杉・桜の樹林に入っていった。またこの辺りから喧騒集団と遭遇、その後は静寂のはずの樹林のなかで音とともに視野から消えず。これを旅の災難というのか?否、私の場合は人間観察が趣味なのでうっとうしい時も多々だが見るも楽しからずや。
「姐妹潭(湖)」→「四姐妹(檜)」→「金豚報喜(檜)」→「永結同心(檜)」→「受鎮宮(廟)」→この先くらいから樹齢800年以上の紅檜の姿が次々に目の前に聳え立つ。 -
阿里山火車站
大陸からの喧騒集団ご一行来る -
森林鉄道の鉄橋をくぐれば遊楽區の入場門がある
揃いの帽子に写真撮影、人間ウォッチングも面白い -
ドデカイ入場門、ここで道を聞き地図をもらった
この屋根は雨の日のツアー客集合場所なのか -
三叉路
右方向が「沼平・姐妹潭・祝山観日歩道」
左方向が「阿里山賓館・琴山河合博士旌功碑」
時計と反対周りで右方向へ向かった -
三叉路
右方向が「沼平・姐妹潭・祝山観日歩道」
左方向が「阿里山賓館・琴山河合博士旌功碑」
時計と反対周りで右方向へ向かった -
沼平駅から阿里山駅に向かう列車
列車の右側に真っ直ぐ棒立ちが「集材柱」 -
集材柱
これを支柱にして材木を吊り上げたりしていた
沼平はかっては材木の集積場
その横には集材機も展示している -
阿里山閣大飯店
沼平駅の近くにあった -
いよいよ森林のなかに入って行く
喧騒一団もどこからか現れた
樹齢数百年〜2000年の樹林と生々しい人間か -
姉妹潭にての記念撮影を撮影する
姿勢よくポーズをきめる大陸女性
仲の良い姉妹が1人の鄒族の美少年を好きになり
そのことで姉妹の絆が壊れないよう2人とも自殺し
その後2つの湖になった、という伝説があるそうだ -
四姐妹:The Four Sisters
と、名づけられた紅檜 -
永吉同心:Love Forever:永遠なる愛
無残なる姿になっても結びついている紅檜
永吉同心の前で一同並んでの記念撮影
どのような関係の御一行か知らないが・・・
幸運を祈る! -
受鎮宮
玄天上帝を祀る受鎮宮は
阿里山住民の信仰の中心
とのこと -
Mo.32:樹齢1100年 紅檜
平安時代(794?1185)から生き続ける
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■巨木樹林を歩く
ウィキペディア抜粋
『阿里山の森林が初めて日本人に発見されたのは1900年のことで、1904年から林学博士である琴山河合鈰太郎により調査が始められた。植物は、熱帯・暖帯・温帯の植物が見られる。
1800m以上になると樹齢1000年を超えるタイワンヒノキ(中国語: 紅檜)が多く自生しており、靖国神社の神門や橿原神宮の神門と外拝殿、東大寺大仏殿の垂木など、日本の多くの神社仏閣に阿里山のタイワンヒノキが使われている。さらに明治神宮の一代目大鳥居にも使われていたが、1966年7月22日の落雷で破損し、現在大宮氷川神社の二の鳥居として移築された。』
日本人が阿里山で紅檜の群生を見つけた1900年は義和団事件で日本が世界に脚光を浴びた時でもある。そしてその四年後の1904年日露開戦、翌1905年世界がアジアの小国日本の力に驚愕したであろう日露戦争が終わった。その翌年1906年に阿里山鉄道の工事は始まった。世界に躍動する日本人の自信に満ち溢れた時代を想起する。
樹齢800、1100、1500、そして周囲13.1m・樹高43.5m 菊・ツツジ・ワラビが寄生した28号巨木樹齢2000年があった。今では観光化された遊歩道を歩きながらの大樹の鑑賞だが、1900年標高2000を越え未踏ともいえるこの地に踏み入りこれらの巨木を目の当たりにした時の感動を思う。神秘なるもの。今の私には「凄いなあ」「でっかいなあ」としか言葉に出ない。
2000年の歳月を大地に根を張り微動だにせず生き続けてきた巨木。それなのに人間がそこに“のこぎり”を入れれば抵抗するすべもなく倒される。その運命たるや壮絶なり。そして倒されたのちも死して尚、垂木になり、鳥居になり永遠の時を刻む。そんな巨木の写真を撮る。来て、見れば、誰しも「凄いなあ」だろう。
コケがへばりつき寄生する植物に覆われ天に聳える巨木の群れ。屋久杉も樹齢2000年くらいがあるようだが、ならば樹齢2500年 3000年は何故ないのか?そしてこの阿里山の28号巨木が樹齢3000年を迎えることが出来るのか?阿里山には樹齢3,000年と推定された巨木はあった。しかし雷と大雨で19997年倒れ今は横たわっているようだ。考えてもせんなき吹けば飛ぶよな齢63・・・か。来て、見て、触れて、良かった。
途中巨木を見上げてデジカメ動画を写している時、デジカメがフリーズしてしまった。電源を切ろうとしても切れず。「しまった、メモリーカードが再生不能になるかも?昨日の朝からの写真も全部パーになったらどうしよう」とショックだった。バッテリーを外して強制終了し、改めて入れなおして電源をいれたらフリーズした時の動画は再生出来ないとの表示があったが、他のは再生できた。ホッとしたが、せっかく神秘の世界に浸っていたのにデジカメフリーズで一気に現実世界に引き戻された。ムムム無念。
4Gのメモリーカードなので二、三日分はその一枚で十分写せるが万一のことを思って早めに交換するようにしている。でもこの分は昨日の朝からそのままだったので、これでメモリーカードが壊れたら昨日の飛虎将軍廟からのが全てゼロになってしまうところだった。
去年の張家口行きから、同じデジカメ(カシオ:EX-ZP10)をもう一台購入して二台持参で旅行している。バッテリー充電器も一台で良いし何かと便利だから。いつも予備に持って歩いているので、この時も別の一台に変えた。その後、確認のためにフリーズしたデジカメも使ったが何ともなかった。帰国後写真動画とも全てが再生出来た。
「神木站」→「神怡橋」
巨木群桟道を歩いている時も喧騒集団を何組も追い越し行き違うが、さすがに大自然のなかで巨木に見とれながらなので気にならない。まあ時折ポーズを作っての撮影風景を見るのもオモロイ。「○○ちゃうか、鏡見てからそのポーズしろよ」と笑われていると露知らず。あんたらはこの巨木に神宿ると思うのか?それとも商品か? -
No.28:28号巨木 樹齢約2,000年
周囲13.1メートル、高さ43.5メートル
弥生時代より生き続ける
言葉もなくじっと眺める -
N0.23:樹齢1,100年
周囲7.3メートル 高さ20.5メートル -
神木駅
巨木樹林のなかにある駅
さぞかし森林鉄道工事は大変だったか
今では想像するのも難しいくらい簡単に
この地を訪れ、こうやって散策できる
多くの犠牲の上に今がある -
神怡橋
2002年に完工した橋 -
千歳檜 樹齢約2,000年
紅檜の前に立つ人間と対比すればその大きさが分かる
この千歳檜の傍に阿里山神社があった
阿里山神社
http://tw.myblog.yahoo.com/hank1980-blog/article?mid=6351&sc=1
台南州 阿里山神社
http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan/e/6bf8911ad806d2299a55770d927395f8
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■琴山河合博士旌功碑に出会う
「千歳檜」樹齢2000年が目の前に「でっかい」。その近くに「樹齢塔」「阿里山・香林 神木 樹齢2300年」そして「琴山河合博士旌功碑」があった。慈雲寺もこのすぐ傍にある。阿里山の入場門をくぐって三叉路を左方向に歩けば、最初にこの一画に来る。ここが人が一番多かった。
河合博士の慰霊碑と樹齢塔は物静かなひっそりした空間に寂しくあるのかと思っていたが、慰霊碑の前で喧騒集団が入れ替わり立ち代り取り巻き、それぞれのガイドが中国語で解説をしていた。この光景に何をか言わんやであった。反日教育反日政策の権化でもある大陸中国と南北朝鮮。
大陸の抗日祈念館なるのもは各地至るところにあり、どことも内容は同じで、同じ捏造写真と嘘八百の能書きばかり。それに引き換え、この台湾の日本時代の遺跡と解説(中国語)を読み彼らは何を思うのか?ガイドはどんな解説をしているのか?興味はあるが私の中国語レベルでは何も分からず。
ただ大人しくそれを聞いている反日大陸喧騒集団の様子を見ているのが面白かった。日本と日本人に対して自国と真逆の台湾の認識や対応に何思う?河合博士の慰霊碑の写真を撮ったり・・・。と、殊勝な様子を見ても「友好」の文字など頭の片隅にも浮かばないハハハ。本能的生理的感情的に最早万事休す。きっと双方の関係は過去現在未来に渡りそうだろう。因果と言うものだ。そんな私に綺麗事はやめてくれ!ハハハ。
河合博士の慰霊塔の前にいるのは日本人より大陸中国人が圧倒的に多い。河合鈰太郎博士が生まれた1865年は1868年明治元年の三年前。そして亡くなった1931年。昭和6年満洲建国の一年前か。明治維新から満洲建国に至る日本の輝く歴史の渦中に生き抜いた。今の日本人の惨めを知らず、まことに羨ましい。
樹齢塔も立派だった。これこそ日本人の心なり、神道に通じる。私は日本人ほどおおらかな宗教心ある民族はないと思っている。私の宗教は「八百万の神」「ご先祖様」そして「真言宗」、何より宗教ではないが、皇室の存在こそが日本を日本たらしめている。この皇室の仕組みの凄さは例えようもない。
以前、義母に「最近、皇室や天皇陛下は不要という日本人もいるで・・。」と言ったら義母は即座に「そらアカン、みんな平等になってしまう」と言った。この一言が天皇陛下の存在意義を的確に表している。権威の象徴であり、男系継承によるので誰もとってかわることは出来ない。そんな天皇陛下がおられるからこそ、その下にみんなが平等の立場を得る。
ゆえに日本にはスターリン、毛沢東、金日成、カストロ等々「負の独裁者」の出現もありようがない。皇室を否定し、平等を建前にしながら超階級社会を作る悪魔の共産主義も日本では多数派とならない。そんな日本に今の欧米型の民主主義は不要だ。日本には日本に相応しい政治制度があってしかるべきだ。樹の霊を慰める樹齢塔は日本人の心なり。
「樹齢塔」「阿里山・香林 神木 樹齢2300年」「琴山河合博士旌功碑」の周囲は人だかりが出来るほど一杯の人だったが、慈雲寺は一転して人影なく静かだった。「今も昔も阿里山地区最大の仏教寺院で終日参拝客で賑わっている」という説明もあったが何故? -
こういった解説が巨木に備えられている
遊楽區は素晴らしく整備され気持ち良く歩ける -
千歳檜の傍に建っていた今は無き阿里山神社
千歳檜はどこにある?写真左手前の大樹は千歳檜ではないはずだ -
千歳檜の右に建つ孫文の記念碑が本殿跡
・・・と、言われても千歳檜と本殿??? -
千歳檜(日本時代は万歳檜と呼ばれた)を見上げて写す
デジカメ写真ではその千分の一の存在感も示せない -
樹齢塔、1935年(昭和10年)建立
丸階段は年輪を表し一段500年なり
伐採した樹木の魂を慰める塔
万物に魂あり
「色即是空空即是色」
「あるけどないないけどある」
輪廻転生ここにあり -
阿里山二代目:香林神木
樹齢約2,300年
一代神木は樹齢約3,000年
今は倒れて横たわる -
神木の名に相応しく堂々と立つ
樹齢3,000年まで、まだ700年
その時地球は?人類は?そしてこの神木は? -
琴山河合博士旌功碑
河合鈰太郎(かわい したろう 1865−1931)享年66歳
阿里山神社の御神苑のこの場所に
1933年(昭和8年)建立された -
次から次とツアー御一行がこの碑の前に集まる
旅行ガイドから説明を聞くのは、果たして
台湾の人なのか?それとも反日喧騒大陸人なのか?
その多くは大陸からの観光客だと思う
この碑の前で大陸シナ人なに思う -
この日、境内はひっそりしていた
1919年(大正8年)建立
ここにも日本人の歴史あり
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■慈雲寺(旧阿里山寺)
抜粋
『阿里山はインド仏教の聖地「霊鷲山」に似ているとされて、阿里山開発初期の1919年に日本人によって阿里山寺が建立されました。当時の曹洞宗管長である日置黙仙氏がタイ国王より送られた釈迦牟尼の仏像をここに祀り、この仏像は今でも本堂に静かに置かれています。戦後改名が行われ慈雲寺となりました。今では読経の声が響く静かなお寺です。境内にはカラーや水仙、桜が植えられていて春の訪れを感じることができます。』
この境内に鐘楼と殉職者祈念碑が立っていたが、この碑に関して今のところ分からず。 -
殉職者祈念碑
この碑のことは今のところ分からない -
1923年(大正12年)に作られた慈雲寺の立派な鐘楼
-
河合博士の慰霊碑周辺は観光客でごったがえす混雑だったが
すぐ隣の慈雲寺(旧阿里山寺)はこの静けさだった -
純粋な宗教は大いに肯定するが
日本の創価学会のように政治と繋がり
公明党なる政治団体を傘下に置くのは
明らかに政教分離の憲法に違反する
そして中共政府のような
共産主義こそ悪魔の宗教に他ならない
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■阿里山博物館へ
阿里山遊楽區内で一番人が多い「琴山河合博士旌功碑」から「香林國民小學」「香林國民中學」付近に中国共産党の法輪功弾圧を訴えるグループの姿があった。台南の赤嵌樓前と同じように写真を掲示し大陸から来る沢山の旅行客の目にとまるように並んでいた。
私は法輪功のことはまったく知らないが日本でも全国津々浦々で活動しているようだ。『法輪大法(法輪功「ファルンゴン」とも呼ばれます)は、高レベルの佛家修煉法として、李洪志氏が一般に公開されました。宇宙の最高特性である「真、善、忍」に同化することを修煉の基礎としています。』
宗教は純粋に宗教の範囲で活動するのであれば構わないが、日本の「創価学会=公明党」のように政治に絡むと害あって益はない。宗教組織が拡大すると国家の枠を越えて組織の益と拡大を目指す。今の公明党は政教分離に反する明らかな憲法違反だ。創価学会・公明党が即刻日本からなくなることを望む。今や創価学会は宗教組織とはいえない。近所の学会員の家庭からも読経の声は聞こえず、政治的な話ばかりだ。百害あって一利ない。
この近くに「阿里山博物館」があり入場した。ここに掲げられた大きな絵図に、新高山が聳えていた。正面に「新高主山:標高 3,952m」向かってその右に「富士標高」「新高西山」「新高前山」・・・左側には「新高東山」「新高北山」が描かれていた。「主・西・前・東・北」と新高山は五山もあったのかフ〜ン。絵では富士山(標高3,776 m)はだいぶ低い。
博物館を出て、学校を覗いた。ここの中学校「香林國民中學」の2005年度の構成は、以下の通り。8年前だから今はどうなっているか?
「校長?1」「教師?6」「工友?1」「舍監?1」「一年級?4」「二年級?9」「三年級?8」「合 計?21」「替代役?1」「原住民?8」
工友・舎監は何となく分かるけど「替代役:1」は一体何?「原住民:8」というのは生徒21人中8人が原住民なのか?原住民という言葉も日本人の私には新鮮に聞こえる。日本ならすぐに「差別語?」などと称し使えなくするから。今の日本社会はホンマつまらん言葉狩りをし逆に差別意識を助長している。原住民大いに良しとする。誇りを持っての原住民だ。 -
こじんまりとした博物館だけど
写真や古地図の展示があり見る価値あった -
新高という名が付く山が五山もあった
「主・西・前・東・北」
へぇ〜、こんなにあったのか
昭和16年12月2日、大本営より機動部隊に対して
「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」
の暗号電文が発信され12月8日真珠湾攻撃となる
私はこの作戦は、失敗だったと思っている
私の山本五十六海軍大将の評価は愚将なり
しかしながら大東亜戦争は賛美する -
慈雲景観より阿里山主峰の大塔山を望む
バスで登って来るときからこの山は見えていた
千年前の人も、日本統治時代の日本人も見ていた景色
我も2013年、平成25年10月25日(水)同じ景色を眺める
大自然を眺めれば悠久の時の流れを感じることが出来る
変わらぬものは偉大なり
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■阿里山駐車場に向かう
学校の傍に「慈雲景観」という展望台がある。眼下に雲海広がる素晴らしい眺望が開かれていた・・・とはいかないが、阿里山主峰の大塔山:標高約2663メートルが目の前にあった。残念ながら雲に覆われて上半分は見えなかったがその大きさは十分感じた。大自然だけは悠久の歴史をそのまま微動だにせず伝えてくれる。昔の人もこればかりは同じ景色を見ている。
そこから出口までに「三代木」→「象鼻木」→「阿里山工作站」→「阿里山賓館」を通り過ぎて、往路に右側に歩いた三叉路に戻って来た。阿里山郷香林村の標識があり、ゲートに戻った。これで阿里山遊楽區の散策が終了。ゲート出発午前11時、帰着午後2時11分・・・か。3時間11分。良く歩いた。 -
「三代木」付近の人の賑やかさ
ようけおるなァ〜、一体どこから来たんや? -
像の鼻木
なんで像の鼻はあんなに長くなったんや
創造主が好き勝手に面白半分で作ったのか?
この宇宙のことは未だ99.99%解明ならず -
阿里山賓館にお泊りの方はこちらです
-
階段上って左端から二軒目の店で昼食
時間も午後2時半を過ぎていたので客は私一人
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■サラバ阿里山
この後、阿里山駅の展示を見てから駐車場のレストランで遅い昼食を食べる。焼飯だけでも量は十分。帰りのバスの切符はセブンイレブンで買う。そのコンビニの前で偶然、今朝、嘉義のバス停前で阿里山までのタクシー乗車で声を掛けてきた“運ちゃん”とバッタリ遭遇。向こうも私のことを覚えていた。ニコッと笑顔で「客を積んできた」と言った。この“運ちゃん”は毎朝、嘉義駅前のバス停で阿里山行きの乗客を持っているのだろう。
帰路は15:10分(発)。往路と同じく小型のマイクロバスに数人の乗客で出発。車窓から阿里山名産の茶畑が広がっているのが見える。バスは市内に入ると路線バス同様に、各駅で乗客が乗ってくる。ちょうど下校時間なのか、中学生か高校生くらいの学生が次々乗って来た。
ちょっと驚いたのはそんな学生が下車する時に「謝謝 シェイシェイ ありがとう」と運転手に挨拶して降りる。最初は「この子だけか?」と思っていたが、男子も女子もほとんどが“謝謝”と言って降りる。大人もそうだ。
バスはマイクロバスで降り口から運転手まで少し離れている。そんな運転手の背に向かって一声掛ける。へぇ〜と驚く。日本でも見られない光景にちょっと感動した。教育・躾・道徳教育の大切さが分かる。同じ民族なら大陸漢族も教育・躾によって変ることが出来るのかも・・・。 -
焼飯は満洲旅行を思い出すくらいの量だった
十分腹一杯になる。味はまあまあ -
左の“おっちゃん”が嘉義駅前で私に声を掛けてきたタクシーの運転手
お互い顔を見合わせてニタットする。覚えていた
阿里山までの客を見つけて上がってきたそうだ -
駐車場の端から阿里山駅方向を写す
阿里山駅に突き当たって左方向に歩けば
すぐに阿里山遊楽區への入場門がある -
あちこち山の斜面に作られた
阿里山名産の茶畑が点在している -
帰路も渋滞まではなかったが車が数珠繋ぎ
阿里山人気がこれほどとは「来て」「見て」分かった -
クロネコヤマトここにもあり
阿里山
http://youtu.be/L2jf0UlvvMg -
嘉義駅前に戻ればすでに薄暮
行く前まで日帰り阿里山の旅はどうなることかと
不安だったが、何とか行くべきところに行けた
巨木樹林の中に入れば、何故か喧騒集団のことも気にならず
ひたすら、凄いな、へぇ〜樹齢1500年か・・・と、木に集中す
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■嘉義に戻る
嘉義駅前には定刻17:40分より10分ほど早い17:30分頃に到着した。もう薄暗くなっていた。今日も足が棒になった。そのまま「森林西路」を東に歩いてホテルに到着。近くの果物ジュースの露店で総合果汁(フレッシュ・フルーツジュース)40元を飲む。目の前で果物をミキサーに入れてジュースにする。総合と言うのはミックスなので何種類かの果物を入れる。
1989:平成元年、39歳での初の海外旅行が台湾だった。その時飲んだ西瓜ジュースは抜群に美味しかったという記憶がある。そして台湾でこの果汁ジュースを見たら飲みたくなる。今回は四杯飲んだ。この店の“叔母さん”といろいろ話をした。日本にも三度来ているそうだ。娘が一人、30過ぎているのに未婚。
私はお節介にも「早く結婚させないと・・・」と何度も言った。苦笑いだったけど。その娘と11月28日頃から韓国旅行に行くと話していた。午後6時半部屋に戻り万事休す。歩き疲れた。面白かった。明日に備えて休む。それらしき晩飯は食っていない。食わない方が体調は良いから・・・。
明日は「義愛公」にお参りに、そして嘉義刑務所跡、嘉義公園内の社務所などなどを見て回ってから台中に向かう。 -
兆品酒店の近くの果物ジュースの店
しばし座って話をする。独身の娘、早30代とのこと
「早く結婚させないと・・・」と余計なことを何度も言った
今時、親や世間がプレシャーを掛け捲らないから結婚しない者多し
それこそ最悪であり、親はなにがなんでも子を結婚させるべし -
旅に来て足が棒なる満足感
我が旅は歩いて歩いて歩き回る
明日は義愛公に会いに行く
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