2013/10/22 - 2013/10/28
1949位(同エリア2605件中)
明石DSさん
朝起きて駅前に散歩
台南駅の後ろに高層丸ビルが建っている
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3日目:10月24日(木):台南:晴れ
飛虎将軍廟・安平古堡、そして嘉義へ
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2013/平成25年10月24日(木)
■飛虎将軍廟(鎮安堂飛虎将軍廟)へ
台灣三日目、午前7時前に駅前まで散歩、それから戻ってモーニングを食べた。今日の最初の目的地は飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびょう:住所:台南市安南区同安路127号)。そこまで公共バスと歩きで行く事にしてバス停に向かう。ネット情報では駅前バス停「3番」線。降りるバス停は「同安路口」料金18元、お釣は出ない。
すべて情報通りだった。バスの運転手に「同安路口で降りたい」と乗車時に言ったら、「飛虎将軍廟」とは言っていないのにそれを察してか、バス停ではなく「海佃路二段」と「同安路」の交差点で降ろしてくれた。この交差点角にあるセブンイレブンから300メートルほど東北方向に歩けばファミマの前にある・・・はず。
その通り将軍廟はあった。グーグルアースの“ストリートビュー”で予習していたけど、パソコン画面と現実の感じはすぐに一致しないので辿りついてはじめてホッとする。「写真の通りや、ハハハ」と無事到着。8時37分にバスに乗車し、降りたのは9時3分。そして廟に到着は9時7分。不動産表示・地図表記の歩く速度は「80m/分」なら四分320メートルか。やはりこれも情報通り300メートルぐらいだろう。ホント旅情報はありがたい。
「台灣で神として祀られている日本人」の一人が、この廟の祭神「杉浦茂峰飛曹長 戦死後少尉 享年21歳」。台湾で神と祀られている日本人がいることを知ったのは、この一、二年のことだ。台灣に関心を持っている人たちには知られた存在なのかもだが、それ以外の日本人は、まだ知らない人がほとんどだろう。
今回の旅では、やはり同じように森川清治郎巡査が義愛公として祀られている嘉義縣東石郷副頼村の「富安宮」にも行く。この台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神ということのようだ。その媽祖も『16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた』
媽祖とはそんな女性であり、この台湾では性別国籍など問わず「霊験があれば神として祀る」というような風土があるのだろう。それくらいこういった廟が至るところに見受けられる。日本でも昔を遡れば鑑真和尚などは帰化僧として広く日本人に認知されているが、外国人を祭神として祀る寺社仏閣はあるのだろうか?
そして支那朝鮮で日本人が神となることはあり得ない。この台湾では様々な時代の変遷があってもこうやって日本人を神として祀り続けてくれている。素直にありがたい。
- 旅行の満足度
- 5.0
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飛虎将軍廟にバスで行く
3番線・18元・釣は出ない
「同安路口」下車、300メートル
すべてはネット情報通りだった -
このバスに乗っていく
「海佃路二段」と「同安路」の交差点で降ろしてくれた -
飛虎将軍廟
祭神「杉浦茂峰 海軍少尉」
1923年(大正12年)1月7日茨城県水戸
杉浦満之助、たねの三男:享年21歳
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■飛虎将軍
飛虎将軍について抜粋要約し以下に記す。
飛虎將軍-杉浦茂峰少尉
1923年大正12年11月9日茨城県水戸市〜1944年10月12日 享年21歳
台湾で奉歌される君が代:海ゆかば
1944年10月12日太平洋戦争末期、米軍は台湾各地に航空決戦を挑んできた。12日午前7時19分米軍台南来襲、すぐに日本軍が迎撃、二十分には戦闘開始。当時この空中戦の目撃者の話によれば、一機の零戦が敵弾を受けて尾翼より発火、零戦は部落に向かって急降下の最中、その部落への墜落を避けんとして機首を揚げ部落の外側(同安路一帯 当時は畑と養殖場)に飛び去った。
その飛行機からパイロットは落下傘で飛び降りたがグラマンの機銃掃射を浴び地面に叩きつけられ仰向けになって畑(飛虎将軍廟の付近)に落ちて戦死した。 軍靴には「杉浦」と書かれていた。其の後、元二〇一海軍航空隊分隊長、森山敏夫大尉の協力に依り「杉浦茂峰兵曹長」と判明した。
終戦後、部落のあちこちで不思議な夢を見たという噂が広まった。それは日本の若い海軍士官が枕元に立っている夢であり同じ夢を見たという者が数名名乗りでた。当日の壮烈な状況を皆に話し、海尾、朝皇宮の「祭神、保生大帝」にお尋ねしたら戦死者の亡霊だと言う。部落の有志が集まり自分の命を犠牲にし部落を救った恩人に感謝の念を捧げるために祠を建てて、永久に海軍飛行少尉杉浦茂峰を顕彰することを衆議一致で決議した。そして1971年祠を建設した。
1993年、朝皇宮管理委員会の提案で、祠の建て直しを衆議一致で決議し建直した。その廟は敷地五十坪、台湾風造り、屋根は朱色の瓦、支える柱は大理石の豪華なもの。壁には、 大理石に彫った英雄史蹟の絵が嵌め込まれており、床はイタリヤ産の大理石で、いつも綺麗に光っている。
これはすべて信者の奉献で大理石の柱には詩が刻まれている。この詩を見ただけで建造者の思いが伝わってくる。「正義」「護国」「英雄」「忠義」「大義」等は、すべて 「飛虎将軍」に対する尊崇と壮烈な戦死を讃えている。 廟は海尾の町の守り神として人々から尊敬され、礼拝者は遠来も含め、毎日絶えることがない。
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最初の鎮安堂
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飛虎将軍のパンフレット
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「歓迎 日本国の皆々様
ようこそ参詣にいらっしゃいました」
こんな垂れ幕で迎えてくれるなんて
世界広といえどここしかないのでは!
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ネットで何度も見ていた飛虎将軍廟がそこにあった。当然のようにそれは何の違和感もなく見覚えがある廟だった。廟前で写真を数枚写してから中に入っていった。内部の様子はきらびやかな台湾のどこににもある廟内の様子であったが、他とは違って杉浦少尉の写真や日の丸が掲げられていた。
そして、この廟の関係者らしき一人の女性と高齢の老人男性(廟守)がいた。その女性は郭秋燕(Kuo chiu yen)さん。無論私は初めて会う方だったが日本語をすらすら話し、この鎮安堂の顧問の肩書きを持つ女性だった。ここを訪れるこの廟に関係する日本人の方ならきっと知っているだろう。郭さんは週に何日かはここに来ているそうだ。
http://www.sunrise-hotel.com.tw/test/japan/index-japan.htm
お父さんは「日升大飯店」のオーナーで、郭さんもそのホテルの仕事をされている。郭さんにお参りの仕方なども教えてもらい、日本から持ってきたタバコを、金属製のタバコ立てに三本火を付けて供えた。毎年日本から参拝に来る関係者の方がいるようだ。
そして、この廟の中でいつも朝夕演奏されている「君が代」と「海ゆかば」を聞かせてもらった。そのあとで、この近くに飛虎将軍を神にした「親寺」ともいうべき「朝皇宮」に郭さんの運転で連れて行ってもらった。朝皇宮は、飛虎将軍廟の親寺に相応しい貫禄のある寺で、祭神:「保生大帝」が中央奥に鎮座していた。
その時、郭さんは一人の男性を紹介してくれたが、その人がどんな立場の人なのかは分からない。飛虎将軍廟訪問で郭さんに出会うことが出来て幸運だった。帰国後もらった名刺に書かれていたホテルのメールアドレスに御礼を送信したが、手元に届かずなのか返信は来ず。残念だけど仕方がない。郭さんに感謝! -
中央奥、祭神鎮座の前面左右に
日の丸と中華民國国旗並び立つ
非常感謝!太謝謝了! -
中央に鎮座するのが祭神:飛虎将軍(杉浦少尉)
左右は郭さんから確か聞いたけど忘れてしまった -
享年21歳:紅顔の美少年
こうやって神と祀られていることとは
杉浦少尉も夢にも思われていないことでしょう
ご存命なら、いまだ88歳
孫に囲まれての余生だったでしょうに -
鎮安堂を守ってくれている郭さん
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この金属製のタバコ立ても信者の方の寄贈
杉浦少尉はタバコが好きだったそうだ
火を点けて、吸い口は祭神の方へ向けて置く
日本のタバコの味は良かったでしょう -
「朝皇宮」の祭神「保生大帝」が杉浦少尉を飛虎将軍にした
台南市安南區海中街101巷10號 -
中川尋史 二等空佐(享年47歳)
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■崇高なる自己犠牲
1時間20分ほどここにいて午前10時半ごろ、次の目的地安平古堡に向かった。この杉浦茂峰少尉を知り、すぐに私の頭に浮んだのは1999年(平成11年)にあった自衛官操縦士:中川尋史二等空佐、門屋義廣三等空佐の二人の崇高なる自己犠牲のことだ。そして今回、この二人の他にも人家を避けるために最後まで脱出せず亡くなった自衛官:高嶋潔 一等空尉(30歳)がいたことも知った。
杉浦少尉は日本ではなく台湾で神として祀られている。片や「高嶋・中川・門屋」三人の自衛官の当時と今はどうなのか?日本と台湾の国民の意識の違いに愕然とする。
なぜ、航空自衛隊のパイロットは「ベイル・アウト(緊急脱出)」を二回叫んだのだろうか。
http://kokorodo.net/e1072
平成11年11月22日午後1時45分頃、航空自衛隊入間基地所属のT-33ジェット練習機が基地近くの入間川河川敷に墜落、パイロット2名が死亡、墜落の際に高圧送電線を切断したため、東京都、埼玉県併せて80万世帯が停電する事故が発生しました。
産経新聞2000.8.3朝刊から「自衛隊半世紀」と題する特集記事が始まっており、プロローグとしてこの事故が取り上げられています。その冒頭で、
なぜ、航空自衛隊のパイロットは「ベイル・アウト(緊急脱出)」を二回叫んだのだろうか。
と、記しています。「パイロットはベイル・アウトを通報した後、十三秒後にもう一回、同じ言葉を叫んでいた。」この十三秒は、正に上記の『被害を最小限にとどめるため、最後まで操縦を続ける覚悟はあります』に合致します。そして、
『ただ、最後の瞬間に、わずかでも時間があれば、脱出装置は作動させます。そうしないと、脱出装置を整備した整備員に、要らぬ心配をかけますから』
を、完璧に実現しています。
更に詳細は「空の武士道」・・・是非読んで頂きたいです。
http://okigunnji.com/%e6%ad%a6%e5%a3%ab%e9%81%93%e7%b2%be%e7%a5%9e%e5%85%a5%e9%96%80%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%92%ef%bc%89-%e6%ad%a6%e5%a3%ab%e9%81%93%e7%b2%be%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%ae%9f%e8%b7%b5%ef%bc%9a%e7%a9%ba/#more-1685 -
門屋義廣 三等空佐(享年48歳)
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私は「1996年45歳〜2004年54歳」くらいまで地元の神戸新聞「発言」欄への投稿が趣味の一つでした。今もそうですが神戸新聞は朝日新聞に匹敵する左翼偏向新聞です。私の「発言」への投稿も新聞の思想にそぐわない内容なら、いつも没にされていました。
この事件の時も案の定、神戸新聞は二人の自衛官の死を悼む気持ちは欠片もなく、自衛隊機の墜落事故での都会の停電を憂慮する内容の記事でした。その時も、以下のような投稿をしましたが没でした。当時も今も私にとって嫌悪の対象は一番に反日日本人と反日メディア、次に近隣三ヶ国と○○です。
その後、神戸新聞から産経新聞に変えました。神戸新聞をとっていたのは、地元のイベントやスポーツの試合結果の掲載があるから我慢してとっていましたが・・・。
その没になった時の原稿は以下です。
1999年・平成11年11月23日(火)49歳・・・没原稿
二人の自衛官の死
空自機墜落。都市機能3時間マヒなどと首都圏の混乱が大きく新聞やテレビのニュースで取り上げられ、停電による影響のすごさを再認識したと、その混乱ぶりを報じていた。しかし命懸けで墜落場所まで飛行機を誘導し、脱出の機会を逃し命を絶った二人の乗員への哀悼のコメントは無かった。
パイロットとして自衛隊員として、当たり前のことをしたまでかもしれないが、今の世の中、当たり前が何一つ出来ず、職権と地位を利用し、自己の利益と保身のみを考え責任もとらず、なお悠々と生活を送っている多くの元何々と比べると、この四八歳、四七歳の自衛官の死は私にとってあまりに哀しく、それに対する世間の対応はあまりに冷たく寂しい。
航空自衛隊のエリートとして将来を嘱望され、働き盛りの二人である。操縦席に煙が発生し操縦不能になったのは二人の責任ではないだろう。命を懸け責任を果たし無念にも死んでいった二人に日本国民は心から哀悼の意を表して欲しい。
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高嶋潔 一等空尉(30歳)の事故死
大空駆けるサムライ「ラストフライト」
http://japan4war.blog.fc2.com/blog-date-20120822.html
T-2ブルーインパルス浜松基地航空祭(墜落事故)
http://youtu.be/oN2TqIG8kC8
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戦後日本人は自虐史観に洗脳され、異常を異常と思わなくなっている。その最たるものが、1億2千万人以上の人口の日本人がいるはずなのに、政財官メディアに巣食う○○人の影響力はあまりに酷い。国会議員の中に70名を超える反日隣国帰化議員が存在する。出自を知って選ぶならともかく分からずに選んでいる。どう考えてもおかしい。
「日本を取り戻す」には、まず戦後から今に至って徐々に侵食された国内の敵対勢力から脱却をすることが何よりの最重要課題だ。特にNHKを筆頭に大手テレビ新聞メディアの偏向ぶりは、そこに日本人の意思が反映されているとはとても思えない。その内容は近隣三ヶ国に媚びた反日売国報道だ。
飛虎将軍
http://youtu.be/ZCXEsW0oWFI -
日本と同じような感じの自動車学校があった
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■台南の自動車学校
飛虎将軍廟は郭秋燕さんに出会えて最高に有意義な訪問になった。旅での出会いこそ旅の成否を決める。気分ルンルンでタクシーに乗るために幹線道路である「海佃路二段」に向かった。そしてしばらく待ってタクシーが停まり、“運ちゃん”に「まず先にこの近くにあった自動車学校に止めて、写真を撮りたいから、それから安平古堡へ」と頼み出発。
「海佃路二段」→「海佃路一段」→「文賢路」を走り、南北に走る文賢路と東西に交わる「文成路」との交差点東角に「良和駕訓班」という自動車学校がある。「駕訓班jià xùn bān」というのは「自動車学校」ということらしい。日本のように場内コースがあり雰囲気は良く似ている。場内用なのか教習車はボロボロが多かった。
車にエアコンがなく屋根に「日除けテント」をつけた日本では40年前に使っていた形の教習車が並んでいた。写真を撮っていると不審者と思われたのか事務所から人が出て来たので、手を上げて笑顔でごまかし早々に立ち去った。「教習車」は「教練車」日本と一文字違う。この駕訓班のすぐ近くにも志成駕訓班があった。 -
教習車は屋根に日除けのテントを付けて
日本でも40年前にはこんな教習車があった
教習車にエアコンが付いていない時代のこと -
場内コースも広々としている
でも教習車や校舎の粗末さを見れば
台湾での自動車学校経営の内容が察しられる -
タクシーの“運ちゃん”に安平古堡までと言ったのに
停まったのはここ、「えっこことちゃう」と思ったが
正面に写真で見た安平古堡の展望台が見えた
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■安平古堡へ向かう
そして安平古堡に到着。タクシーは安平開臺「天后宮」の前で停止。午前11時18分。
毎度のことだが降りた瞬間は前後左右分からず。どっち方向になにがあるのか分からない。でも安平古堡の展望台がすぐに目に入った。
天后宮(てんごうきゅう)というのは『航海安全の守護神をまつる社。媽祖廟(まそびよう)ともいう。この神はもと中国の宋代に実在した巫女といわれ,のちに天后,天妃,天上聖母などと尊称された。媽祖はその俗称。』ということのようで、アチコチに沢山ある。ここの天后宮について詳しくは「安平開台天后宮」
http://www.geocities.jp/cdj33980/travel/taiwan/tianhougongap.html
もう昼前なのでひとまず休憩し先に昼食を食べようと、天后宮の前にある食堂に入る。「泡菜炒飯 60元」と「虱目魚羹麺 50元」を頼んだ。虱(しらみ)という文字に抵抗はあるけど、「羹 Gēng」はスープか。出てきた料理は量も適量で両方とも美味かった。
満洲方面の旅よりも食い物の味と量に関しては安心感がある。「歐家 蚵仔煎」との看板の店だった。帰国後に分かったが、この店は台南で「蚵仔煎 カキ入りのオムレツ」が一番美味しい店との評判があるようだ。食べずに残念。 -
「歐家 蚵仔煎」で昼を食べる
台南で「蚵仔煎 カキ入りのオムレツ」
が一番美味しい店との評判がある -
「虱目魚羹麺 50元」
美味しかった -
天后宮(媽祖廟)
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門票:50元
オランダ人が闊歩していた城跡に入る
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■安平古堡(ゼーランディア城)
とりあえず天后宮を見て周り、それから安平古堡に行った。1661年、鄭成功軍の攻撃でブロビンシア城を落とされたあともオランダ軍はコイエット長官以下九ヶ月の長きに渡って、このゼーランディア城で籠城した。その戦いの様は、その239年後の1900年明治33年、義和団事件の戦い、北京籠城戦「北京の55日」を髣髴させる。
北京籠城戦は「扶清滅洋」というスローガンの下に義和団が各国公使館を包囲し、籠城した連合国兵士と公使館員、民間人義勇兵、そしてこの地域に逃げ込んだ清国人クリスチャンたちが共同して戦った。そして連合軍の中で芝五郎中佐を指揮官とした日本軍及び日本人義勇兵が奮闘し世界に日本の名前を知らしめた。
16世紀から始まった白人たちの覇権主義・植民地獲得競争には凄まじい物があった。当時の世界の趨勢は先進国が野蛮国・後進国を植民地化し、現実は収奪を目的としながらも、自分たちの先進文化・科学・宗教を広め後進地域の向上に一役買っているという、今では身勝手な建前があった。
その白人列強の世界進出によって、今までの地球環境が大きく変化した。それを人類社会の進化・進歩といえるのかどうか別として、変化を止める術はない。そして日本も明治維新を経て、当時の「食うか食われるか」の世界の現実に直面し、日本の自主独立を守らんがため国力の充実を一丸となって図った。
その延長において白人列強に追随して或いは肩を並べようと日本は覇権国家への道を邁進した。それについて後世の子孫(今の私たち)が今の価値観に照らして非難するのは言語道断だ。植民地国に甘んじるのか?それとも列強の一員としての国家を目指すのか?当時は、その二つに一つの選択しかなかった。私は先人たちの努力・英断と勇気ある行動に諸手を上げて感謝する。
その行く末に大東亜戦争の敗戦という結果はあれど、唯一有色人種が世界の白人を相手に戦ったことで世界は大きく変わった。私は大東亜戦争を賛美してやまない。声を大にして言う。日本人が謝罪すべきことも謝罪すべき国も一切ない。二百年後には大東亜戦争が栄光の戦いであったという認識が定着していると確信する。
抜粋
『ゼーランディア城の長官:コイエットはストックホルム生まれのスゥエーデン人で親類を頼ってオランダ連合東インド会社に入り、バタヴィアの城詰次席を振り出しに、1647年11月には日本商館長に就任し江戸へ参府し、1649年にはいったん台湾次席を勤めたのち、1652年12月に再度日本商館長となって将軍家綱に謁見している。そして1657年から台湾長官に任命されたのであった』了
タイオワン(台湾)をめぐる17世紀の海外貿易
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/26525/1/toasia00_31_02.pdf
「鄭成功の台湾攻略と萬福寺創建の柱(1)〜(8)」
http://www.oubaku.org/kouho/86/86_2.html
ネットを検索すればいろんな貴重な資料が出てくる。
まず50元で門票を買って入場した。そして最初に熱蘭遮城博物館に入った。写真の展示が沢山あり、その展示写真をデジカメで撮った。その時ちゃんと見れなくてもあとから参考になることが多い。でも結構ピンボケが多くて残念。以後、どうせ写すならちゃんと写さなければと思う。
博物館を出た後は、当時のゼーランディア城の煉瓦塀が残っているところを見に行った。この城の最初は1623年徳川家光時代、鄭成功が生まれる一年前にオランダ人が簡素なレンガの城を築いたのが原型だ。その後、オランダ支配の拠点であり、鄭政権も三代がこの城を拠点としていたが、その後、清の支配に移ってからは、寂れる一方で城の形は崩壊してしまった。
今、その往時を偲べるのは外城の城壁の一部が、そこそこに残っているところだ。1623年が始まりなら、今から390年の昔のことになる。ならば400年先は如何に?この地にゼーランディア城を築き一時代この地で栄華を誇っていた当時のオランダ人も、思えば遥かに遠い過去の歴史に過ぎない。
栄華は消え去りレンガは残るか・・・。城内は遺構があり見学しやすいように作られている。お城の周りをゆっくり歩いた。当時の面影を想像しながら・・・。オランダ時代・鄭成功時代、そして清の支配に移り、日本時代となった。そして日本の敗戦によって台湾は、占領統治のための国民党軍がそのまま居座り台湾の主になった。
確かに今台湾は民主主義国家となって選挙によって自らの政権を選択できる。しかし日本敗戦以降の台湾は、元よりの台湾人(本省人)にとって理不尽であり、今も不利な状況が続いている。ましてや共産党中国に台湾への権利などどこにもない。 -
熱蘭遮城博物館
写真の展示が沢山あり参考になった -
このままの姿が今に残っていたらさぞかし壮観だろう
ここでコイエット長官以下九ヶ月間籠城戦を戦った -
この台江海域なる湾は、全部埋め立てたのか?
昔と今、当時の絵図と現代地図があまりに違う
その解答はいまだ見つからず -
一級古蹟
「臺灣城残蹟」の碑
臺灣城とも言うようだ -
1624年至1634年に作られたゼーランディア城の内城の城壁
380年の歳月を経ても煉瓦は煉瓦、黙って役目を果たし時を刻む
この世に永遠なるものは何も無い、この煉瓦壁はいつ土になるのだろう
それまでの間、ずっと世の中の変遷を眺め続ける・・・か -
鄭成功が作らせた門
1662年オランダに勝利したあと
内城の壁をくりぬき、この門を作った
そして門の名前を故郷を忘れないために
故郷にあった名前をこの門の名前とした
門の中に(吉)、門の中に(失)門
そんな漢字が無い -
木の回廊を巡らせ
遺構見学が出来る
台湾とヨーロッパの接点ここにあり -
ゼーランディア城の遺構
江戸時代、日本の城郭も素晴らしい
煉瓦と木造の違いはあるが
日本建築の技術の高さを思う -
内城の井戸
籠城戦には死活の井戸だろうけど
海の傍の井戸から真水が出たのだろうか? -
ここは台湾の人たちにとっても重要な観光スポットのようだ
大勢の小、中学生らしき団体が見学に来ていた -
七歳まで日本で過ごし、38歳の若さで逝去した
母も日本から呼び寄せ日本語を話したはずの鄭成功
実際の鄭成功はどんな人物だったのだろう -
安平古堡内は見所が多い
ゆっくり時間をかけて見るのも良い
どうも駆け足旅行のために気が焦る
私の辞書に“ゆっくり”はない
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■安平古堡文物陳列館
周囲を散歩し「安平古堡陳列館」に入った。小学校か中学校かの遠足なのか?多くの学生で溢れていた。ここでも展示写真を写してまわった。興味ある写真が展示しているので面白い。次に展望台に上る。螺旋階段の壁にも綺麗に当時の風景が描かれているので、それらを見ながらあっという間に上がってしまう。落書きがないことに感心する。壁が綺麗。
写真時間によれば入場「12:03」退場「13:10」1時間ほど見ていた。旅の前に鄭成功に興味を持ち、本を読みDVDを見た。38歳の若さで亡くなった国姓爺、台湾は無論だが中国でも、そして日本でも母親が日本人だし日本生まれだし人気がある。江戸の昔も日本で人気があった。
人形浄瑠璃「国姓爺合戦」が正徳5年 (1715) に大坂竹本座で初演された。1715年なら鄭成功1662年に没後53年か。今から53年前、1960年の日本では、巨人水原監督が勇退し、川上が監督、池田首相、所得倍増計画を発表。私も10歳の時なり。きっと鄭成功も日本では身近な英雄だったろう。 -
小学生が多いが、それほどの喧騒は記憶に無い
台湾の英雄「鄭成功」次なる英雄は李登輝さんか -
今の台湾の陳列館には、どこにも意図的な抗日はない
捏造も虚構もない、事実に即しての展示が基本だと思う
それこそが何よりの教育だろう、そして真っ当な人間が育つ -
我、ゼーランディア城に立つ
鄭成功もこの地にを踏んだ
安平古堡
http://youtu.be/FASHY4vDdGY -
台湾では日式建築がブームというのが実感出来る旅だった
あっちでもこっちでもこんな日本家屋に出会った
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■臺鹽日式宿舎
ゼーランディア城を出て、次はこの近くに日式の建物を見に行った。「臺鹽日式宿舎」「夕遊静泊行館」という名前がついており、説明には『この建物は日本統治時代の大正6(1917)年前後に建てられたもので、本来は台湾総督府専売局台南支局安平分室(現在の夕遊出張所)長官の住所だったが、戦後、製塩業大手の台塩実業(TAIYEN)の社員寮として使用され、昭和天皇が皇太子時代に台湾を訪れた際にも宿泊したことがあるという。』
社員寮というなら頷けるが、皇太子殿下の宿泊と言うのは信じられない・・・が。もしそれが事実なら、庭も含めてもっと壮麗な建物だったと思う。内部には無料で入れた。「安平老街巡禮地図」で紹介されており、この辺り一帯をテーマパーク化しているようだ。
日本家屋は、八田與一記念公園の旧宅と同じ色合いで雰囲気だったが、建具はすこぶる稚拙で貧弱なり。庭は手入れされまだちゃんと維持管理されているが、数年先はこのまま保存されるのか心配だ。折角の日式家屋、是非ともこの先も残してもらいたい。 -
見た目はそれなりだが、建具は稚拙で本物とは程遠い
へぇ〜、日本では普通だと思っていた襖や障子は
日本レベルで作るのは難しいのかも -
最近では本場日本でもこんな家屋に接することは少ない
平屋で風通し良く、紙と木で出来た家
個人のプライバシーを保つのは難しい
ここでストレスなく暮らせる人間は
辛抱・我慢・協調性も普通に有する人となる -
近づいたら人の多さにちょっと驚き
えっ何があるの?だったが
オープンカフェイとして賑わっていた
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■東興洋行
次は、またその近くにある「東興洋行」に行った。玄関に「三級古蹟 徳商東興洋行」と立派な石塔が立ててある。ドイツの貿易商社だったようだが、1986年から安平外商貿易記念館となっている。今は記念館というより「異人館の軽食喫茶の店」という感じでお客さんで賑わっていた。
展示を見てから二階のバルコニーで、コーヒー(80元)を注文して小休止をした。台南は貿易の拠点であり、多くの外国人がこの辺りを闊歩していたのだろう。こういった洋行は昨年行った張家口の堡子里内のアチコチにあった。商売人はいつの世も世界を駆け巡って金儲けをしている。 -
「洋行」・・・昨年の張家口の旅を思い出した
堡子里の中に英国・米国などの洋行が沢山あった
今とは比較にならない交通手段のなかで
世界を駆け巡っての商売はどんな苦労があったのか? -
抜粋
『清光緒年間に創設
樟脳や砂糖の輸出業務、船の運輸代行業務を主に扱う洋行
英商怡記、和記、徳記、米商唻記とともに、安平の五大洋行』
九州より若干小さな島にも世界から商売に来ていたのか・・・ -
内部は異人館見学という感じ
室内も展示と共用でレストランとして使うべし -
もうちょっとグレードアップすれば
雰囲気の良い休息所になるのにと思う
大陸団体客来れば興醒めの場所になってしまうが -
延平街(安平老街)
台湾・大陸問わず老街というのは
何があるのか?どんな店があるのか?
興味深く、歩くのは楽しい
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■安平老街の散策
その後、やはり地図で紹介されている安平老街を散策した。安平古堡と同じく学生たちが修学旅行なのか先生同伴で集団で歩いていた。「安平市仔街何旺厝」という古蹟建築があった。1920年頃、日本時代の建築のようだ。
安平の路地裏をウロウロ歩いて、観光案内所で台南行きのバス停を教えてもらい辿りついた。バス停は墓苑の前にある。バス停到着午後2時31分、バスに乗ったのが午後2時45分・・・か。待ち時間が長く感じたけど、たった15分だけだったのか。 -
「仔街何旺厝」
http://taiwanpedia.culture.tw/web/content?ID=8370
市定古蹟の建築:仔街何旺厝の前で
説明を聞く学生たち -
1920年:日本統治時代の建物
誰かが入って行こうとしたので、続いて入ろうとしたら
今は開放されていないようで止められた -
安平老街での有名店は「安平同記豆花」「周氏蝦捲」
https://www.taipeinavi.com/special/5004461
えび煎餅の店と臭いが充満していた
この棒菓子えび煎を買って食べる -
観光案内所で台南駅行きのバス停を聞いた
ちょうど墓苑の前にバス停がある
サラバ安平古堡 -
台南を去る
古い駅と近代高層ビル
古い町並みをそのまま残すのは無理
新旧調和させるのは難しい
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■台南から嘉義へ到着
台南駅前到着は午後3時19分。安平古堡からのバス乗車は30分ちょっと。台南大飯店でリュックを受け取り、いよいよ嘉義へと向かう。台南巡りも順調だったし幸運だった。ありがたい。
「莒光 518 台南15:44→16:45嘉義」8号車 座15 107元。サラバ!台南。予定通りの出発になった。
そして嘉義駅に到着。まず嘉義駅前にて駅舎を眺め写真を撮り、周囲を眺めて写真を撮り、「あァ〜ここが嘉義駅前か、あそこにあの食堂があるなあ」と、予備知識と現場を重ねながらホッとする。明日の阿里山行きのバス乗り場も“ストリートビュー”で見た通りにあった。まずそこに行って明日の阿里山行きのバス時間を確認した。
プリントして持ってきた時刻表と同じだった。そして窓口で「明日の乗車券は買えますか?」と聞いてみた。「バスが一杯になることもある」と何かで見たことがあったから・・・「明日の何時?」との返事で買えることが分かったので「7時40分発」と答えたら「日帰りか?」「ハイ」「帰りのは?」と聞かれたので「まだ時間は決まっていない」と返事したら「250元」と言われて明日の阿里山行きのバス切符が購入できた。
「阿里山B線」
http://www.taiwantrip.com.tw/Besttour/Info/?id=11
http://www.taiwantrip.com.tw/upload/php9Ia9Z1.xls
「グーグルアース」や「グーグルマップ」「ストリートビュー」を使っていると将来はそれだけで旅行が成り立ってしまうのではなかろうか?と思ってしまう。どこにもカメラが備えられ、自宅のパソコンで自分の思うように嘉義のカメラを操作し、そこにいる人たちともカメラ電話で普通に話が出来る。移動も次々にカメラが移動のタイミングに合わせて変わっていき、どこまでも動いて行ける。
そこの臭いや外気温、風までが遠く離れた場所でも感じれるようになる。ハハハ、夢ではなくきっと人類滅亡がなければ現実になるだろう。今生きている人間が想像でき、考えられるあらゆることの何でもが・・・実現してしまう。それとも人類滅亡が現実になるかだ。
事前情報通り駅前に黄色の看板と赤色看板の店があった。黄色の店に入る。「嘉義車頭 嘉義火鶏肉飯」・・・とりあえず夕飯を食べてから今日のホテルに歩いて行こうと店に入った。そして「火鶏腿肉 30元」「現燙青菜 30元」と「なんとか麺」を食べた。適量で美味しかった。
http://www.geocities.jp/cdj33980/travel/taiwan/huojiroufan73.html -
台湾の列車は快適だ
座席前後のスペースも広い -
嘉義市:人口270,969人(2013年10月:台灣的第18位)
明石市:人口290,909人(推計人口、2013年10月1日)
私の居住する明石市とほぼ同じ人口、へぇ〜
嘉義の方が大都会に見えるのは何故? -
嘉義駅前右手にあるのが
阿里山行きのバス停
緑色のバスが停まっている
あっ!やっぱりあるわ -
嘉義車站(1902年4月20日開業)
最初の駅舎は木造駅舎
1933年(昭和8年)現在の駅舎が竣工
1945年(昭和20年)米軍空襲により
駅舎右外側他破損、1945年修復終了 -
嘉義車頭 嘉義火鶏肉飯
ここで夕食を食べる -
駅前大衆食堂
弁当も販売していた -
「火鶏腿肉 30元」「現燙青菜 30元」「なんとか麺」
味はまあまあだけど、日本のほうがもっと美味い -
食堂から駅方向を写す
-
国華街を歩いて途中で曲がるところを曲がれず
余分な運動をする羽目になった
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■嘉義兆品酒店へ
夕食を食べHISでネット予約している今日の宿:「メゾン ド シン嘉義兆品酒店」一泊¥7,500円×2=¥15,000日本円(嘉義市文化路257号)に向かった。今回は二泊×三ヶ所ともHISのネット予約だった。感想:三ヶ所とも朝食付きでその他文句なし。
http://hotels.his-vacation.com/jp/jp/HotelDetail/CYI00004.aspx
午後5時18分、食べ終わって地図を見て簡単に行けるだろうと思いながら歩いた。兆品酒店は地図で見れば嘉義站から東方向歩いて15分ほどの文化路にある。近道をしようと勝手に頭の中で方向だけ考えながら歩いていた。でも20分歩いても、30分歩いても行けなかった。帰国後写真と地図を見てやっとどこを歩いていていたか分かった。
文化路の一つ手前(西側)の国華街を歩いていたのは知っていたが、東に曲がる時期が遅く行き過ぎていた。そのまま北に向かって歩き阿里山森林鉄路の踏切を越え、更に北に歩き台鐵の踏み切りまで越えてしまっていた。最初の踏切を越えたところで気づくべきだった。さすが暗くなり間違っていることが分かったので、途中で聞いて引き返すことが出来た。
それでも途中三人くらいの人に尋ねながらやっと兆品酒店に辿り着いたのは嘉義駅前から1時間、午後6時19分になっていた。歩き疲れたホンマ損したである。でも今日も朝から飛虎将軍廟から安平古堡と充実の時間を過ごし満足の一日だった。明日は阿里山へ行く、寒さが気になるが・・・。行って見ないとわからない、好天気になれば良いが。 -
阿里山森林鉄路を北に越えてしまう
一本東の道の文化路にホテルはあるのに -
更に北に歩き台鐵の線路まで越える
頭の中に何度も見ていたはずの地図は消え伏せていた -
ゴミ収集車がゆっくり動いているところに
家々からゴミ袋を持った人が収集車にごみを放り込む
国華街と文化路が一緒になるところで
おかしいことに気づき、道を聞いて引き返す -
この地下通路を歩いたけど
後ろから原付が追い越して行くので危険を感じた -
1時間も歩いてやっと到着
私の旅は歩く歩く歩く
いつも足が棒になる -
一泊朝食付き¥7,500円、満足
疲れた、明日は阿里山へ行く
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