2013/10/22 - 2013/10/28
1786位(同エリア2601件中)
明石DSさん
窓からの景色は?って思って見たら
こんなんだった。値段合致し納得
ここは老舗ホテルのようだが
一泊¥7200×2泊=¥14,400
HIS予約は安いのでは?
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2日目:10月23日(水):台南:晴れ
烏山頭水庫・台南市内の散策
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2013/平成25年10月23日(水)
■台南の朝
昨日の夜に台南に着き、いよいよ旅の始まりだ。来る前は心配だった台風27号の影響なく、こっちの天気は朝は青空こそなかったが「晴れ」だった。気温は明石と変わらず朝は涼しいが歩けば半袖シャツで十分。6時に起床し、7時から朝食バイキング。
私は5年前から健康管理を趣味とし、以来、朝は基本食べない?といっても最近は「青汁粉末入り調整豆乳」「豆乳ヨーグルト」「バナナ一本」が日本での毎日の朝食だ。旅先では例外で、折角の非日常であり朝食付きなので食べる。
今朝は、お粥に味噌汁、その他野菜等々適当に食べた。どうしてもバイキング形式なので食べ過ぎる。欲の塊ゆえある程度仕方がない。ここでみんなの食い方を観察するのも旅の楽しみの一つだ。ちょっとしか皿にもらず「日頃のペース?」を貫く人を見て感心する。でもそんな人物はまずいない。みんな朝から皿に盛り過ぎだ。
自分も含めてだが、いつもの量の三倍は食っているだろうという奴ばかり、女性の大食いはみっともない。超一流ホテルの朝食バイキングはどんな様子なのか?興味はあるけど残念ながら見る機会がない。食い方には品性が出るから面白い。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
朝食バイキングは豪華だった
「食わなければ損」
と顔に書いている者多し -
この他にも食べた
とりあえずは、お粥に味噌汁
食い過ぎに注意、自重が必要 -
台南大飯店6階21号室
http://www.hotel-tainan.com.tw/Japanese/jmain.htm
快適に二泊三日を過ごす -
台湾の公園のどこでも良くみかけたコブコブの大樹
「金龜樹きんきじゅ ジングイシューJīnguī shù」
学名:「Pithecellobium imdulce」
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■台南公園に散歩に行く
朝食を食べ午前7時半、まず台南公園へ。台南駅から北に徒歩5分ほどの所にあり1917年(大正6年)日本統治時代に作られ、以来市民の憩いの場。ここにも日本時代の建物が残っている。今は公園の交番所として使われている「旧台南公園管理所」。なかなか可愛らしい建物で昔の日本もこんなデザインの物を建てていたことに何故かホッとする。
公園には各種健康器具やバトミントンコートも配置され、巷のトレーニングジムも顔負けだ。これらの設備の充実ぶりを見れば、これを使って身体を鍛える年寄りの健康オタクや猛者も結構いるだろう。我が家の近くにもこんな公園あればと羨ましい。 -
「重道崇文」清朝時代の鳥居
『科挙試験合格者の林朝英様が資金を寄付して
教育事業を興したことを顕彰するためです』
ふ〜ん -
こういった朝の公園風景は大陸と同じだけど
服装はちょっと違うような気がする -
日本時代の建物「旧台南公園管理所」
今は派出所として使われているようだ -
各種器具が揃っており、高齢者が身体を鍛えている
こんな公園が自宅の傍にあれば十年は長生きしそうだ -
バドミントンコートも何ヶ所かあった
場所取りに抽選なんかあるのだろうか?
それとも早い者勝ちなのか? -
台湾は単車が溢れている
自転車が単車に変わったのだろう
単車の事故も多いのだろうなァ〜 -
2013-1936=77歳の台南駅の改修
何歳までこの姿をここに留めてくれるのか? -
午前8時7分:車中にて
台湾では列車内での食事は普通のようだ
やっぱり日本人の私には違和感がある
昔むかしの日本はどうだったのだろう
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■隆田から烏山頭水庫へ
そして公園散歩の後、午前8時16分(発)台鐵で台南→隆田(Lóng tián)に行くために台南站に向かった。自動券売機で切符を購入¥38元(130円)。列車の中で普通に“おっさん”も若い女の子も食べて飲んでの朝食風景にいささか驚いた。大陸では驚きはしないが、やはり台湾でもこうなのか・・・と。
日本で通勤電車に乗る機会は少ない私なので日本の現況は知らないが、如何なのか?ここまでの光景はないと思いたい・・・が。女性優先車輌や博愛座(優先座席)など日本と同じようにあった。8:16(発)ではなく一つ早い便があったのでそれに乗り隆田到着は「8:30」
隆田は片田舎の駅前で静かな佇まいだった。駅前ロータリーには黄色のタクシーが客待ちで数台列をなして停まっていた。まず駅の写真を撮ってから、おもむろに先頭に停まっているタクシーの元に歩いて行った。「烏山頭水庫へ行きたい。そして公園内を全部回りたい」と言ったか言わないか?忘れたが“運ちゃん(陳さん仮名)”は私の目的すべてを察していた。
八田與一記念公園(烏山頭水庫)への日本人客にはなれているのだろう。ネット相場では隆田駅前から『タクシー包車「700元」+公園入場料「200元」+駐車場代「50元」=950元』・・・陳さんは「公園内を全部周遊して約2時間:800元」だった。“おっさん”の一人旅の足元を見ての値上げなのか?まあええわと8時半に隆田駅前をスタートし烏山頭水庫へ向かった。途中ダムの堰堤が遠くに一望でき、そこで写真を撮る。 -
朝と夜は女性優先車輌
なんか分からないが気分は悪い
誰がこんなしょうもないこと始めた -
隆田駅前の風景
のんびりとした田舎町
タクシーの色はどこも黄色 -
駅舎は日本時代のものではない
1959年(昭和34年)改建された -
八田與一記念公園(烏山頭水庫)に向かって右方向に
ダムの堰堤がまるで大きな壁のように続いていた
これを見るだけで規模の大きさを感じる -
烏山頭水庫:八田與一記念公園
http://wusanto.magicnet.com.tw/scenery3.php
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■八田與一記念公園(烏山頭水庫)
駅前から烏山頭水庫までタクシーで10分ほどで到着。まず最初に向かったのは八田與一の銅像と夫妻のお墓のあるところだった。烏山頭ダムと八田與一物語は今では多くの日本人が知っているのだろうが、私は最近まで漠然としか知らなかった。今年の2月に金門島に行き、その時から台湾について調べるようになって台湾での日本人の足跡を少しづつ知るようになった。
この銅像のある場所は、当時ダム工事現場の南面にある丘の上に造られた高さ20メートルの見張り所の一つであり、八田與一は、ここに登って堰堤を眺めていた。その「見晴らし台」だった場所に與一の座像が置かれ夫妻のお墓がある。
そして、ここに来る前に何度も写真で見ていた八田與一の座像を目の当たりにして驚いた。「何があったのか?」と思ってしまうほど八田與一の座像は半分埋もれるように供花が溢れていた。供えてくれたのが台湾の人なのか日本人なのか?分からないが、どちらにしろ日本人の一人として感激した。
そして写真で見ても感じていたが、この彫刻はリアルで人間味がある。作者は八田の故郷金沢の彫刻家「吉田三郎」(1889年5月25日 - 1962年3月16日)で「徹底した写実を貫く作風」らしく内面も含め八田與一その人を感じる。彫刻としても素晴らしい作品だ。
ダム完成一年後に作られたそうだ。最初固辞していた本人の意向で、台座の上に立つ見下ろすような像ではなくこんな形になった。それがより身近に感じ今もダムを守りながらこの台湾に生き続ける八田與一である。その座像の後ろに夫妻の墓が立っている。妻:外代樹は昭和20年9月1日。25年前の1920年ダム工事着工のその日。八人の子供を残して、ダムの放水路に身を投じた。
その覚悟の死があまりに鮮烈で、彼女の強い意思と夫への思いの深さを感じる。八田與一の功績は妻外代樹があってこそだ。八田夫妻に対しての思いは様々あれど、私の思う八田夫妻とは・・・「よくぞ二人は巡りあい縁あって結ばれた。夫婦の絆の強さ、夫たるもの妻たるものの手本を示してくれている。與一ありて外代樹あり、外代樹ありて與一あり」
八人の子供を生み育てた外代樹。
夫に先立たれ戦況はますます悪化。長男・晃夫も次男・泰雄も出征。台北は毎日のように空襲があり外代樹と子どもたちは烏山頭に疎開してきた。そして終戦を迎え日本が敗れたことによって台湾から出て行くことになる。そんな時、次男の泰雄がひょっこりと復員してきた。外代樹は喜び、ご馳走を作り泰雄の帰りを祝った。その夜は子どもたちみんなと一緒に並んで寝たそうだ。そして放水口に身を投げたのはその翌朝だった。
「愛国心を育てる名言」より
八田夫妻のお嬢様の話です。
http://ilovenippon.jugem.jp/?eid=65
抜粋
「父が亡くなったのは5月8日とされておりますが、大洋丸は確かに5月8日に沈没したのですが、遺体のあがったのは6月の10日でしたか、島根沖で漁船に拾われたんです。母に日本に帰るつもりのないことは、子供たちみんな、分かっていました。朝起きたら母がいなく、これはダムだなとすぐ思いました。遺書らしきものを見た途端、放水口だと思いました。みんなが堰を止めて下さって下流で遺体があがったのです」
以上
16歳で嫁ぎ、八人の子供を生み育てた外代樹。八人と言う数自体は当時では驚くこともないのだろう。昭和17年フィリピンに向かう船「大洋丸」が米軍の潜水艦攻撃で撃沈され殉職した八田與一。その時末っ子の成子は11歳。その四年後の14歳で成子は母も亡くした。
書き置いた「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」との言葉が後顧の憂い無きを物語っていると私は思う。外代樹はそれくらい母として親として遺して行く子供たちに対して確固たる自信があったのだ。自らは16歳でこの地に嫁ぎここまでの人生を歩んだ。そんな両親の姿を見て育った我が子の将来に何の憂いあろう。
外代樹を知る作業員の言葉が「台湾紀行」司馬遼太郎(著)書かれていた。
「奥さんはね。頭の低い、誰にでも親切な、偉そうなところのない、いい人でした。奥さんが亡くなった時にはね。みんなが悲しんだものでね。私も火葬の時は手伝いましたよ。」
烏山頭水庫記念館。
台湾の人が至れり尽くせりで整備し、日本人の偉業を今も讃えてくれる。これ以上の感謝はない。台湾併合の功と罪を言うのが良識ある日本人なのかも知れないが、私は今の世界や日本の価値観と常識をもとにして日本の過去の歴史・父祖を問わない。私自身は意地でも、父祖の成した良い事しか探さない。良いことしか言わない。
今までも今も、父祖の罪については重箱の隅を突くかのように探し出し、あろうことか故意に脚色や捏造までして悪く言い、そのことをもって自分を良識ある日本人だと納得する。そんな腐った輩が戦後日本には多過ぎる。そんな日本人に私は嫌気がさしている。反省と称し父祖を貶める日本人を心底私は軽蔑している。
「良識派・左翼・リベラリスト」「今の大手既存メディアに重用されている知識人」「日教組の教員」「左翼裁判官」「左翼弁護士」なる連中全てを軽蔑し嫌悪する。そして今の日本では「極右」「タカ派」「排外主義者」と言われる人たちの思想信条に共感する。それが私と言う人間だ。
日本人の成したことを偉業として正当に評価し、保存し、慰霊まで行ってくれる。この台湾の状況を支那朝鮮半島人たちは如何に思うのか?と言ってもせん無きことで、民族の資質の違いはいかんともし難い。語るも空しいだけだ。しかしそれゆえ台湾と台湾人の存在に尚一層感謝の気持ちが湧く。
この座像の前で立派な一眼レフカメラ二台をぶら下げ見るからに紳士の台湾人に声を掛けられた。「日本から来られたのですか?」と日本語で。印刷関係の仕事でよく日本に行くらしい。ついこの間も東京の展示会に出席したとのこと。今日は台北から自分で車を運転してこの記念公園に来たようだ。陳さんに二人揃っての記念写真を撮ってもらう。次はベルギー製の機関車展示を見た。 -
1920年(大正9年)―1930年(昭和5年)わずか10年で完工した
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花で埋もれる座像
写真で見たような気がしたが
実際現場で目の当たりにし驚く
感謝! -
八田與一・外代樹夫妻の墓
http://p.booklog.jp/book/61351/read
1946年(昭和21年)12月
日本人が台湾から引揚げた後現地の人が建立
横には中島力男技師の「分髪墓」もある -
「水利技師:中島力男」
「日台の架け橋・百年ダムを造った男」 (著者: 斎藤充功)
この本にも中島技師は紹介されている
http://books.google.co.jp/books?id=iDMAMDM8JowC&pg=RA1-PA46&lpg=RA1-PA46&dq=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%8A%9B%E7%94%B7&source=bl&ots=zztWrFNXSk&sig=IFLBjj5jFE-hVlhk8ei7CrQwe7E#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%8A%9B%E7%94%B7&f=false -
この場所は、高さ20メートルの見張り所の一つ
八田與一は、ここに登って堰堤を眺めていた。
今もきっと夫妻揃って眺めているのだろう -
工事で使ったベルギー製の機関車
へぇ〜、ベルギー製とは、ベルギー 首都ブリュッセル
19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国 -
夫婦揃って撮った最後の写真
1942年昭和17年4月、八田與一(56歳)外代樹(41歳)
南方開発派遣要員としてフィリピン派遣の命を受け日本に出発の前に
総督府官服の姿で二人揃って自宅の庭で撮った写真
この一ヶ月後台北にいた外代樹夫人は悲報に接した
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烏山頭水庫と八田與一夫妻
八田與一(1886年2月21日〜1942年5月8日 56歳)
八田與一が初めて台湾に渡ったのは、1910年:明治43年8月朝鮮併合の年であった。その時24歳。朝鮮は帝大卒の技師がゴロゴロして活躍の場が少ないことを見越して台湾を選んだようだ。当時の日本人土木技師はインフラ整備が遅れている台湾・朝鮮は自分の可能性を試せる新天地でもあった。
台湾総督府は1895年、明治28年。日本が初めて外地に手にした植民地の統治機関であり、その3年後の1898年:明治31年 児玉源太郎とともに赴任した後藤新平が1906年:明治39年4月転出するまでの8年余辣腕を振るう。
八田が赴任したのは児玉・後藤が台湾を離れた二年後、佐久間総督の時である。日本は1905年に日露戦争に勝利し1910年に朝鮮併合。白人欧米列強が覇権を競う中に唯一有色人種国家、アジアの雄として日本が世界に大きく羽ばたこうとしている時代だった。そんな時代の日本人の胸躍る気持ちを想像するだけで今の自分まで気持ちは高まる。
八田與一は、在台5年目1915年:大正4年28歳の時に台湾全島の視察に出る。そして翌年1916年:大正5年5月、在台6年目に海外出張三ヶ月。1917年、大正6年8月31歳 外代樹(とよき)16歳と結婚 兄から送られた一枚の写真で結婚を決める。
結婚式は台湾から帰郷して実家で結婚式を挙げた。そして妻・外代樹と女中(お手伝いさん)の三人で台湾に戻る。1917年から1945年台湾で亡くなるまでの28年間数回しか日本へ帰国しなかった。
尚、八田與一の長男:晃夫氏は母のことを次のように語っている。
「お袋は若くして親父と一緒になり、16で台湾に渡ってきましたが、親父の兄さんが亡くなった時も金沢には帰らずじまいで、私の知る限り故郷には一度も帰らなかったと思います」・・・と。 -
昭和20年9月1日早朝、外代樹が投身した放水口
1997年新しい送水口が出来て、調整放水口となる
子供八人、末の子14歳を残して夫のもとに行った
16歳で台湾に嫁に来た外代樹、後顧に憂い持たず
自らの生き様と子育てに自信を持っていたのだろう
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烏山頭水庫については、司馬遼太郎 台湾紀行365頁の説明が分かりやすい。
以下抜粋
明治43年1910年 に台北に着任した八田與一が、嘉南平野の調査を始めたのは8年後の32歳の時である。1918年大正7年だった。台湾の川は急峻である。台湾西部の野を流れる川としては彰化県の濁水渓(だくすいけい)が有名だが、名のとおりこの川は上流で黒い粘板岩を削り、土砂を流しつつ流れている。この川にダムを作っても土砂が堆積してやがて用をなさなくなるにちがいない。
しかし濁水渓をむなしく流れるままにするのは惜しく、ここには三ヶ所の取水口を設け、水路を野にめぐらせばよい、と考えた。結局、官田渓(かんでんけい)という大きな渓流に目を付けた。この川の上流の烏山頭にダムを作って貯水しようというのである。が、官田渓だけでは、貯水量はたかだかしれている。その本流である曾文渓の水流をもそそぎこみたかった。曾文渓は遠く阿里山に発している。山々をめぐり、支流をあわせて実に水勢がさかんだった。
ただ官田渓を堰き止める予定地の烏山頭の位置からいえば、曾文渓(そぶんけい)は烏山嶺という山のむこうを流れているのである。八田與一はこの烏山嶺をくりぬいて水をダムに導く設計をし、施工した。くりぬかれた隧道(ずいどう)は、3078メートルに及び、多くの死者が出た。八田與一は、それらを湖畔の「殉工碑」にまつった。
ダムの規模は東洋一になる。1億5千万トンもの水を堰き止めるのである。その堰堤は多少コンクリートをつかうものの、大部分は土で構築することにした。粘土・砂・礫・栗石・玉石を組み合わせることによってコンクリート以上の強度を出す方法である。セミ・ハイドリック工法というらしいが、当時の日本には、先例がなかった。彼がこの工法を採ったのは、コンクリートの時間的耐久性に必ずしも信を置いていなかったかと見られる広井勇教授の影響かとも考えられる。(こんにちオランダで造られる堰堤は、なお古代と同様の石積みなのである)
烏山頭ダムは心臓にあたる。「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」といえば、血管である灌漑網をふくめた全構造の名称になる。灌漑のためには、傾斜地や平地にさまざまな土木を施さねばならない。濁水渓取水口には、導水路や放水・制水・分水のための門を設け、また発電用水路のための沈砂地もつくらねばならない。珊瑚潭ダムから送られてくる水は、用水路がわかれるごとに分水施設を設ける必要があった。日本史上、空前の大工事になる。
1920年大正九年総督府はこの灌漑工事をやることを決め、このため予算を国会に出し、通過成立した。「組合」が作られた。受益者が組合員になる。組合員から一定の拠出金をとり、政府が補助金を出すという仕組みがとられた。このころの台湾総督府の年間予算が5千万円ほどだったそうだから、この工費はほぼその半分にあたる。完成後は、この組合がダムや灌漑機構を管理する。現に、こんにちそれがおこなわれている。
工事は1920年大正9年にはじまり、1930年昭和5年におわった。わずか10年で完工したのは、当時の日本としては高水準の土木機械が投入されたことにもよる。
八田與一夫妻が台湾の人から如何に尊敬され慕われていたのか、それは八田與一の墓は地元嘉南農田水利会の手で建てられた。それも日本人が引揚げた昭和21年12月15日にである。台湾は大理石がふんだんにあるが、墓石は大理石ではなく、日本の風習どおりの花崗岩が選ばれた。だれかが故人の国の風習を思って、わざわざ高雄まで行って見つけてきたという。
墓石の表に「八田與一・外代樹之墓」とあり、裏に中華民国35年と刻まれている。文字通り台湾の土になったのである。
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外代樹の遺体はこの下流で見つかった
ご冥福を心からお祈りします
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エピソード(1)
「八田與一 台湾の教科書に載っている日本人の物語」より
http://youtu.be/fA6uIAFDoUw
1923年、関東大震災が発生。
日本は、台湾のダム建設どころではなくなった。
八田は、台湾総督府からダムの建設予算の大幅カットを言い渡される。
「台湾人半分のクビを切って、何とか工事を続けてもらえんか?」
この噂は台湾人工夫たちの間にも広まった。
「俺たち、そろそろクビらしいぞ」
「そうらしいな…。日本人が優遇されるのは仕方がない…」
ところが、何と八田が解雇したのは日本人ばかりだった。
台湾人工夫たちは驚き、なぜ自分たちを優遇して残したのか、その理由を尋ねた。
すると八田はこう答えた。
「当然ですよ。将来このダムを使うのは君たちなんですから」
日本人は日本でも仕事ができる。
台湾人はこの地でずっと生きていく。
自分たちのダムは自分たちで造ってほしい。
それは八田の思いだった。
工夫たちは、八田を心から信頼するようになった。
そんなある日……
ダムの現場で爆発事故が発生。
死亡者50人以上、負傷者100人以上の大事故だった。
八田は、取るものも取り敢えず急いで遺族の家に駆けつけた。
土下座し、遺族に詫びる八田。
「申し訳ございません!あなたのご主人を殺したのは私です!」
大切な人の命を奪ってしまった。
いくら謝っても謝りきれない……。
未亡人はしかし、八田にこう話しかけた。
「八田さん、頭を上げて下さい。主人は、ダムの仕事を誇りに思っていました。八田さん、どうか立派なダムを造って下さい!」
亡くなった工夫たちは、自分と同じ思いを抱いていてくれた。
家族にも語ってくれていた。
八田は決意を述べた。
「必ず、必ずダムを完成させてみせます!」
多くの仲間を失いつつも、残された人々は懸命に工事を続けた。
そして1930年、10年の歳月を経て、ついに東洋一の大きさ(当時)を誇る烏山頭ダムが完成。
不毛の地と言われた嘉南平野は、米・サトウキビなどが豊富に獲れる、台湾一の穀倉地帯へと生まれ変わった。
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送水管の工事
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http://ilovenippon.jugem.jp/?eid=65
エピソード(2)
「愛国心を育てる名言」
ところで、八田與一の銅像には、いかに地元の人々に愛されていたかを物語るこんなエピソードが残されています。戦争末期、金属の供出が求められていた頃。八田の銅像もダムのほとりから姿を消し、誰もが時局の運命と諦めていました。
しかし、昭和56年、溶かされて兵器になっていた筈の銅像が突如姿を表したのです。戦争末期、銅像が失われることを忍びなく思った地元の人々が近くの駅の倉庫に隠しました。戦後、国民党政府が日本統治時代の痕跡を抹殺することに躍起になっていた時代にも、地元の人々が隠し続けてきました。
それが蒋経国の時代となって、ようやく表に出されたのでした。 -
放水口裏の送水管
当時の写真のように何本もの太い送水管がある
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八田夫妻の最期
人物探訪:八田與一 戦前の台湾で東洋一のダムを作った男:「国際派日本人養成講座」より抜粋
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h13/jog216.html
烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939)年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。台湾がさらに発展していくためには、現地人技術者の養成が不可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市内に作った。この学校は年々発展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出している。
大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かった。灌漑の専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地を調査する任務だった。
5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月3日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56歳。
昭和20年、台北でも空襲がひどくなると、妻の外代樹は子供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山頭ダムの放水口に身を投げた。
「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机の上に残されていた。享年45歳。
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噴水のように水を噴き上げる平圧塔(送水管内の水圧を安定させる)
放水口の横に八田技師祈念室がある。
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■烏山頭ダムの放水口
外代樹が投身した放水口。
1997年新しい送水口が出来て、こっちは調整放水をしているようだ。新送水口はどこに?この日も水は放流していたが調整放流なのか迫力はない。その傍に噴水のように水を噴き上げる平圧塔(送水管内の水圧を安定させる)が立っていた。そして旧送水口の横に八田技師祈念室がある。
この祈念室は八田與一69回目の命日:2011年5月8日に開館。工事中の写真の展示などがあり、その写真をデジカメで写した。外代樹夫人の凛とした美しい顔立ちが、もっともっとはっきりと映っている写真がないのが残念だ。やや首をかしげたポーズが外代樹夫人の特徴だが右か左か傾けるのは決まっていないようだ。
ビデオ映画も見せてもらったが、内容は特に記憶がない。今は「You−Tube」や何かで結構当時の映像を見ているので、驚くようなものがないと記憶に残らない。祈念室を出て次に向かう途中、徒歩の学生集団に出会う。ダム湖の堰堤沿いを並んで数組の学生が歩いていた。
着いた先は「珊瑚橋」「虹の吊橋」とも呼ばれている。「溢洪道(余水吐)」に架かる橋で、ダム湖の水位が58.18メートルを超えたら自然に溢れて官田川に流れ込むようになっている。その「溢洪道(余水吐)」をまたぎ嘉南村民、大崎村民、パトロール員の通路としての橋である。
でも今は使っていないのか?それとも扉が開くのか?分からないが渡った先の扉は閉じていた。もうちょっと歩けば良かったのに・・・ちゃんと渡って確認しておけば良かったのに・・・と、今我が家で悔やんでいる(笑)。この橋を背にして前に天壇がある。あったけど興味なく行かなかった。そして烏山頭管理所の前で前方に広がる珊瑚潭:烏山頭水庫を眺めた。
このダムの完成によって台南の農業は大いなる飛躍を遂げ今に至っている。台湾総督府はダムの規模の大きさによる費用の莫大なことに難色したが、八田は「それでは水量が少なく、平野全体に水が行き渡りません」 「しかし予算がない…」「一時しのぎではダメです。農民たち全体が豊かにならなければ、造る意味がありません!」
当時の台湾総督府総予算の3分の1にもなる工事費用を認めさせこのダムが実現した。日本人の活躍の場所は何処であれ輝く時代だった。台湾人にとってどうであったか?面白くなくても統治したのが日本であったのは不幸とは言えまい。世界がそんな「どっちかの立場」しか選択できない時代だった。今の日本人よ!逆の立場にならなかった父祖たちの力量に感謝しろ!
珊瑚潭をゆっくり眺めたあと「殉工碑」に行った。車道から階段を登ったところに立っていた。ダムの完成までに工事や病気で亡くなった134名の犠牲者の慰霊碑。刻まれた名前は台湾名と日本名が入り混じっている。亡くなった順番で銘記とのこと。「キリエ・クニ・マサ子・ツル・ヒサ・トヨ・アサ・チセ」等々日本女性の名前らしきも多くあるのに驚く。
碑文は「昭和5年3月 烏山頭校友会長 八田與一」が記している。 -
八田技師祈念室
八田與一69回目の命日:2011年5月8日に開館
写真など多くの展示品に興味津々、参考になった -
ダム完成前、最初の放水時の光景
今の調整放水と比較すれば
その水量の違いが一目瞭然 -
烏山頭水庫の見学なのか?
中学生くらいの集団が堰堤沿いの道を歩いていた -
「珊瑚橋」「虹の吊橋」
「溢洪道(余水吐)」に架かる橋
ダム湖の水位が58.18メートルを超えたら
自然に溢れて官田川に流れ込む -
珊瑚橋の中間くらいから溢洪道を写す
溢れた水がこの下を流れる -
烏山頭水庫(珊瑚潭)
空から見ればサンゴが枝を広げたように見える
嘉南地区を潤す灌漑用ダム -
規模は東洋一、大部分は土で構築する
粘土・砂・礫・栗石・玉石を組み合わせ強度を出す
セミ・ハイドリック工法
オランダで造られる堰堤は、今も古代と同様の石積み -
殉工碑
1920年−1930年 10年間で134名の犠牲者 -
亡くなった順番に名前が刻まれている
日本人・台湾人・女性、順不同 -
この階段を上ったところに殉工碑がある
下の黄色いタクシーで回っている
烏山頭ダムと八田與一夫妻
http://www.youtube.com/watch?v=QO6JZx1P_mw&feature=share&list=UUzrxbtOkfUGNWFHtM15uTew -
2011年5月開園から二年が経った八田與一記念公園
けっこうな広さがある
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■八田與一記念公園
記念公園散策の最後に、「八田與一記念公園」に行った。
http://www.taipeinavi.com/miru/151/
『2011年5月8日の八田與一の命日に開園し、台湾馬英九総統をはじめ、閣僚、台南市長らが出席。日本からも同郷石川県の森喜朗元首相、日華議員懇談会の藤井孝男参議院議員ら25名以上の国会議員や、金沢市長の山野之義氏など33名が参加した。』
何故か?寺社に行けば何処にもある「願掛け札」があった。八田與一の自宅と三棟、計四棟の木造平屋建ての日本家屋の復元展示がこの公園のメーン。その家屋に向き合うように数多くの「願掛け札」がぶら下がっていた。まるで神社の本殿に向き合うように・・・。
その多くが日本語で書かれた札だが、台湾人の書いた札もある。「日台友好」「健康快楽!」「震災時の義援金への感謝」「無事卒業」「夢の実現」などなど。誰の発案でこの「願掛け札」のような物を作ったのか?日本家屋が神社かお寺の本堂のようで面白い。ご本尊は「八田與一・外代樹夫妻」に間違いない。
日本人の若者男女、上下紺色か黒のリクルートスーツのような服の一団が研修旅行なのか?八田與一邸の前で記念撮影をしていた。日本の中学高校の修学旅行で韓国中国などへ行く学校もあるようだが、同じアジアへ行くならこういった場所こそ修学旅行には適切だろう。
日によって内部を公開する棟が変わるようで、今日は八田與一の旧宅内部には入れなかったが庭には入れた。庭も広く建屋も與一の昇進によって左側に洋館風の書斎が増築されたようだ。さすがにこれだけ大規模工事のトップの邸宅として当時は相応の建物だったのだろう。その庭に今年9月1日、除幕式が行われたばかりの外代樹夫人の銅像が立っていた。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130901/chn13090119480001-n1.htm
四女:嘉子を抱いた外代樹の視線の先、垣根越しに「願掛け札」の札所が設置されている。これからの幾歳月多くの台湾・日本の人たちがこの烏山頭水庫を訪れここに足を運ぶ。この烏山頭に骨を埋めその一生を主人と共に燃やし尽くした外代樹の像を前にして何思う。。
そして並ぶ棟の一つ、赤堀宅が内部を開放していた。中に入ったら昔懐かしい日本家屋がそのままあった。お雛さんも飾られていた。トイレは水洗だった。風呂桶は木の桶。赤堀宅前の掲示板に『赤堀技師の長女綾子は、後に八田技師の長男晃夫に嫁いでいる』と書かれていた。今台湾では日本統治時代の日式家屋がブームのようだ。
この赤堀邸は分からないが、他では、襖や窓の開け閉めをした時の建具の粗末を感じた。滑りも悪いし、貧弱だし、弱弱しい。日本の建具の優秀さがここに来て再確認できた。やっぱり偽物と本物の違いがある。
日本で想像していた以上に、この水庫公園の遺跡が丁寧に保存され整備され、その上こんな立派な八田與一與一記念公園まで作ってくれた台湾の人たちに感謝する。最近は名前を出すのも嫌な特亜近隣三ヶ国の嫌がらせにムカつくばかりなので、台湾には正直救われる。
午前11時前に公園の門をくぐり、隆田駅前に戻ったのは午前11時10分。8時半〜11時10分、2時間40分の包車だった。十分満足した。タクシーの運転手:陳さんは58歳。息子二人、娘一人、小学校5年生の女の孫一人。奥さんもまだ仕事をしている。もらった名刺には「計程車Jìchéngchē ジィチャンチャー」と書いてあった。「計程車」辞書で見たら小型のタクシー。「出祖汽車」は知っていたが。
台南へ戻る列車の時間に1時間くらいあったので駅前をブラブラ。分けのわからない店で西瓜汁(20元)を頼んで飲んだ。思っていたのと違い、冷蔵庫から“元”のようなものを出して薄めていた。美味しくなかったのでちょっと飲んで捨てた。隆田站:午前11時23分(発)の区間車(38元)に乗って台南に戻る(午前11時52分着)。 -
大東亜戦争時の防空壕があった
烏山頭水庫への米軍爆撃があったのか? -
日本家屋の向かい側に願掛け札の「札掛け所」が設置されている
八田與一旧宅はお寺か神社か?きっと願いを適えてくれるに違いない -
2011:3:11、大地震・大津波に襲われた時
台湾からの多額の義援金を頂いたことは
日本人の誰もが忘れることなく記憶に留めています -
復元された八田與一旧宅
左側は増築された洋風書斎部屋 -
庭に立つ四女:嘉子を抱いた外代樹像
向かい合うように柵の向こうに札賭け所がある -
外代樹と四女:嘉子
人生の全てはここに凝縮されている
外代樹の魂ここにあり -
この深い木の風呂桶に浸かれば
一日の疲れも取れただろう -
お雛様も飾られ、良き時代の日本を思い起こす
ここには紛れもない日本があった -
一致団結して世界に冠たるダム造り
子供も女性も、みんな意欲満々
固い絆で結ばれた共同体がここにあった
八田與一記念公園
http://www.youtube.com/watch?v=u15T-Q_uVdI&feature=share&list=UUzrxbtOkfUGNWFHtM15uTew&index=2 -
隆田駅前商店街にて
写真に撮ればゴミ屋敷のような何でも屋さん
西瓜ジュースを頼んだが、冷蔵庫から
元汁のようなものを出し、それに水を足す
美味くないので捨てた -
赤嵌城の並びにある「赤崁擔仔麺」
この先真っ直ぐですぐに赤嵌城
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■赤崁擔仔麺で昼食を食べる
今日の午後からの予定は、まず「赤嵌城」「赤嵌樓:Chì qiàn lóu チーチンロウ」「プロヴィンティア城(Provintia Castle)」「普羅民遮(Pǔluó mín zhē)城」「紅毛樓 Hóng máo lóu」へ行く事から始まる。その前に昼飯を食おうと赤嵌樓の傍にある「赤崁擔仔麺」を探して歩き無事に見つけて入った。
http://www.geocities.jp/cdj33980/travel/taiwan/chihkandanzimian.html
メモに書いていったHP紹介のメニューと同じ『傳統擔仔麺50NT$(約150円)、安平蚵仔煎(カキのオムレツ)80NT$(約240円)、地瓜菜小40NT$(約120円)』を頼み食する。今年3月の旅行時の情報なので当たり前といえば当たり前だが写真で見たのと同じ物が出て来て味も美味しかった。店も流行っているようで客の出入りも多い。最初にメモを見せて三つ一緒に頼んだはずが通じていなく、後から二品を頼み直した。確かにお勧めの店だと思う。
店を出て赤嵌樓方向を望むと赤レンガの塀が見えるぐらいすぐ隣に赤嵌樓がある。鄭成功(Zhèngchénggōng ジェンチャンゴン)ゆかりの場所に来た。鄭成功については旅行前に「鄭成功:旋風に告げよ(上)(下)」:陳舜臣(著)を読み、DVDで「英雄〜国姓爺合戦」を見たが、その他はネット検索からの情報がほとんどだ。 -
傳統擔仔麺50元(約150円)、
見た目のようにあっさりで美味しかった -
安平蚵仔煎80元(約240円)
カキのオムレツ
美味しかった -
「ブロビンシア城」と「ゼーランディア城」
古地図と現在地図の位置関係
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台湾・中国での英雄、日本でも人気のある鄭成功 母親は日本人
鄭成功(1624.8.27〜1662.6.23 享年38歳)
鄭成功物語(いろんなとこからの抜粋・要約による)
鄭成功が生まれ育ち活躍したのは、日本で言えば三代将軍、徳川家光・四代の家綱の時代。その時代に中国・台湾の英雄となった鄭成功。台湾からオランダを駆逐し台湾の英雄と言われる鄭成功に興味を持ったのは、彼の母親が日本人だったから。日本の平戸で父:鄭芝龍(ていしりゅう)と母:田川マツとの間に二人の息子が生まれた。長男:成功は1624年出生、名を福松という。7歳の時、母と弟を日本に残して父の故郷福建に行く。成功は才能豊かで容貌凛々しい青年と成り、21歳の時、南京の大学に進んだ。その時すでに妻帯し子供もいた。
当時の中国は明王朝末期で、1644年宿場人足あがりの李自成を指導者とする反乱軍が北京に迫り、最後の明の皇帝:崇禎帝(すうていてい)は故宮の裏山:景山(けいざん)で首を吊って自殺した。その後、李自成も北京城に入り皇帝を称したが、すぐに万里の長城を越えて来た満州族の清に怯えて逃げ出し40日という短い天下はあっけなく終わる。そして268年続いた満州族の清王朝が始まった。
明王朝(1368年 - 1644年 276年間)は滅びたが、その明の復興のために臣下の者が皇族を立て明の復興を企んだ。そして清を興した満州族も人数が少ないので広い大陸を抑えることに躊躇したが摂政王ドルゴンが全中国をおさめることを決意し遠征軍を全土に向けた。遠征軍の総督は早い時期に清に投降した漢族の洪承疇(こう じょうちゅう)であり、その各遠征軍の将軍もすべて漢族の将軍たちであった。その清軍が鄭一族が本拠としていた福建:その晋江(しんこう)安平城洛陽江にまで迫っていた。
そんな状況下、鄭成功の父親:鄭芝龍は早々に清への降伏を決め、息子:鄭成功にも進めたが成功は頑として応じず父と袂を分かち、鄭芝龍は随行者と共に船で福州に去っていった。父との決別と同時に、成功は母とも永久の別れとなった。1645年成功の母マツは鎖国の日本を抜け出し福建に来ていた。マツは遺書を遺し自害した。
武士の娘、母の影響を受けた息子:鄭成功はあくまでも大儀を貫くとの思いで明の復興を目指す。その時成功23歳。鄭成功は若さ故の未熟さ、母親が日本人と言うことの仲間の偏見などがあり、自分の直属部下は当初100名前後、その後数千の兵を集めたが父が率いていた鄭軍団をまとめる力はなく、粘り強く時間をかけて軍団を統率するリーダーへの道を目指す。
当初数千の兵団で鼓浪嶼に本拠を置いた鄭成功は、27歳になった1650年、厦門を根城にしていた従兄弟の鄭聯(ていれん)を殺して、金門島の叔父の鄭鴻逵(ていこうき)と合わせて鄭一族20万人の首領となる。その後日本,琉球,台湾,安南(ベトナム),暹羅(タイ),呂宋(フィリピン)などとの貿易で力を蓄え「抗清復明」の大儀を成さんと準備を進めた。
中国全土をほぼ制圧した清朝も 東南に鄭成功 西南に李定国 この二つの勢力に手を焼いていた。清朝はなかでも鄭成功に脅威を感じていた。それは清は騎馬民族出身で水戦には自信がない。大海軍を擁する鄭軍団は脅威だった。清に降って北京に連れて行かれた鄭芝龍は「天下の大勢はもうきまったのだ。これ以上、抵抗しても無駄である」と息子:鄭成功に何度も手紙を送り繰返し説得したが通じなかった。
そして清との一大決戦の時を迎える。父と決別し幾多の苦労を重ねて鄭一族をまとめ17万5千の軍団を率いて出陣した。時に1658年。成功34歳の時である。艦隊を編成し北上を続けた鄭成功軍だが、杭州湾:洋山で嵐に遭遇し、船の転覆などで8千人の犠牲者をだした。「台湾外記」によれば、犠牲者の中に三人の息子や、側室6人の犠牲も含まれる。その時の鄭成功軍は南京を陥落させたあと、南京で暮らすために家族を伴っての遠征だった。
この台風で人員だけでなく武器や食糧も失い到底作戦の継続は出来なくなり、捲土重来を図って一旦舟山(しゅうざん)まで後退した。後退といってもその場所は恩州の東:盤石衛(ばんせきえい)であり、そこは木材の産地を防衛する清軍の守備隊がすでに駐屯地としていたが、再起のために新たな軍船の建造が必須であり、清軍の頑強な抵抗を受けたが奪取しそこを駐屯地とする。
そして翌年1659年4月19日、盤石衛(ばんせきえい)を出発し再度北伐へと向かう。この時、鄭成功は遮二無二南京に進むことを選択をし、進撃路から少し外れた清の拠点を放置し、背後から攻められることを恐れる部下の提言に耳を貸さず一直線に南京へと攻め上った。そして7月12日南京城を取り囲み戦闘態勢は整った。しかし、ここに来て時間を置けば背後からの攻撃に晒される恐れのあることを心配した家臣は、即座の攻撃を進めたが、成功は間諜からの内部の裏切り情報を信じて待った。
待つこと10日、7月22日。思いもよらない城壁の一角が崩れ清軍の鉄騎兵がなだれ出てきた。内部の裏切りを待ち、策におぼれた鄭軍は、観音山に撤退したが、そこでも清軍の名将:梁化鳳(りょうかほう)の戦術に翻弄され、鄭軍団は瓦解し総退却を余儀なくされた。この大敗をもって鄭成功は、もはや明朝に民心はあらずを悟り「抗清復明」という気持ちは薄くなり、本拠地:厦門に引き返すことになる。厦門に帰り着いたのは1659年10月、こうして1年半に及ぶ遠征は幕を閉じた。
鄭成功が抗清復明の大儀を掲げて北伐準備中の頃の台湾は、顔思斎(がんしさい)の配下であり台湾に残っていた郭懐一(かくかいいち)が、1652年オランダの要人を殺害し、ゼーランディア城を奪い取る計画をたてるが、弟がオランダにばらし計画は失敗、関係者はことごとく殺害された。その時、オランダは郭懐一の後ろに鄭成功がいると思い、その備えに「プロビンシア城」を建てる。オランダも鄭成功が大陸から追われたら台湾に来るだろうという予見をこの頃からしている。
台湾を拠点とするオランダ側は、北伐を諦めて厦門に戻った鄭成功たちを、その後も警戒すると共に平和裡の経済的交流を図ろうと度々使者を送ってきた。そして清朝側も鄭成功達の勢力を一掃しようと厦門を攻撃したが武力では殲滅できなかった。しかし清朝は「遷界令(せんかいれい)」という命令によって、山東・江蘇・浙江・福建・広東の五省の海岸から30里(約17キロ)に人が暮らすことを禁じた。
その堅壁清野(けんぺきせいや)という政策によって、鄭一族には対岸の沿岸部が無人になり食糧や金銭の徴収が出来なくなった。そんなこともあってオランダと戦ってでも台湾へ拠点を移すことを考えたのだと思われる。北伐の失敗と遷界令によって元気をなくしていたが、新たな台湾進出という目標によって兵士の士気を高めた。
1660年、ゼーランディア城にいた台湾長官:フレデリック・コイエット(Frederick Coyett)は東インド会社のアジアの拠点であったバタビア(インドネシアのジャカルタ)に救援要請を送り、それを受けて、ヤン・ファン・デル・ラーンが12隻の船と600人の戦闘員を乗せて7月17日出航し9月には台湾に到着した。
そのラーンは鄭成功は北伐しか脳裏になく台湾に来ることはないと思っており、救援を要請するコイエットを臆病者扱いをし、マカオを攻めることを考えていた。救援部隊を上陸させたものの自身はコイエットと対立し、1661年2月、四隻だけを残し一人バタビアに戻り「台湾に緊張なし」とするコイエットを非難する報告をした。
しかし北伐失敗から2年後の1661年4月、コイエットの予想通り鄭成功の艦隊は台湾沖に準備していた。鄭成功の艦隊は300隻 2万5千の兵力。艦隊は24日一旦澎湖島に立ち寄った。
ゼーランディア城のある安平水道は大型船でも楽に通れるが、ブロビンシア城のある鹿耳門(ろくじもん)は浅瀬が多い。オランダ側のゼーランディア城のコイエットと、たまたま来ていたブロビンシア城の司令官ファレンシタインは、鄭成功の艦隊はゼーランディア城に向かって来るものと疑うことなく砲撃の準備をして待っていた。
4月30日、前もって鹿耳門の浅瀬の水深を測った海図を手に入れていた鄭成功の艦隊は敵の裏をかき、平底船を用意するなど用意周到の準備の上で、大型船は通れないと思っていた鹿耳門水道を通過してブロビンシア城の前面の砂浜近くに迫った。ゼーランディア城とブロビンシア城は湾を隔てて対岸にあったが、ゼーランディア城の大砲の射程距離外であり悠々と陸揚げに成功した。
オランダの艦船も同じ湾内にあったが戦闘準備が整う前に上陸を敢行した。ゼーランディア城のコイエットは200名の応援部隊を送るが60名が入城できただけで残りの140名は余儀なく引き返した。翌日5月1日、ゼーランディア城から精鋭250名の兵士を送り出し、上陸していた鄭軍との交戦になったが圧倒的多数の鄭軍に囲まれ110名ほどの戦死者を出し残りは城に撤退した。
湾内のオランダ艦船もこの日主力艦「ヘクトル号」「ス・ホラーフェランデ」「マリア」の艦船が鄭軍艦隊と海戦になった。ヘクトル号が鄭軍の艦船多数に追尾され火箭の攻撃を受けて炎上。火薬庫が大爆発を起こし沈没した。「ス・ホラーフェランデ」「マリア」は海上に逃れた。
その5月1日:鄭成功はゼーランディア城とブロビンシア城に向かって、城の明け渡し要求をする次の内容の書面を送った。『台湾は中国固有の領土であり、我が父鄭芝龍がこれをオランダに貸したが、今本藩はこの地を領有する必要をかんじたので、返還を要求する。私有財産の持ち帰りは認める。これを拒否すればオランダ人のことごとくを殺戮しても正当な要求を貫徹する』
そして5月4日、鄭成功軍は城の周囲を囲みブロビンシア城内の弾丸や食糧を消耗させる戦術に出たこともあって、ブロビンシア城の司令官ファレンシタインは徹底抗戦を諦め無条件で鄭軍に降伏し開城した。しかしその後もゼーランディア城のコイエットは城下の住民を城内に移し、兵士約九百名と城に真紅の戦旗を掲げバタビヤからの援軍を頼みとして将兵を激励し拠点を死守しようとした。
ブロビンシア城の司令官ファレンタインは降伏し城を明け渡したが、オランダの台湾本拠地であるゼーランディア城は堅守して降伏しなかった。臆病者と指摘され罷免されるはずのコイエットが実は真に勇気ある長官であった。新長官として赴任しようとしたクレミントは上陸も果たせずそのまま長崎に向かった。そして包囲されて三ヶ月、やっと援軍が来たのが8月10日、そのヤコブ・カーウに率いられた援軍は、11隻の船と700の兵を率いてきた。
兵員ばかりでなく火薬や食糧も運んできたのである。そして苦労しながら兵士の上陸や積荷の荷揚げに成功した。援軍を率いてきたカーウは、この現状に接し、城に踏みとどまることを嫌い病人と女性や子供の非戦闘員の送還船団の指揮をとって引揚げることを申し出たが、コイエットは当然それを許さなかった。
その頃、清朝は共同の敵である鄭成功の攻略の為にオランダ側に密使を送った。国姓爺がこの台湾に遠征中に留守の厦門を攻めようということである。その時に清朝側はオランダの艦船を借りたいという申し出た。オランダは清側の申し出を受けれ、カーウが武装船団の司令官になって厦門を目指したが、澎湖島のあたりまで来た時、カーウ提督は突然舵を南に転じ、バタビヤに向かうことを命じた。敵前逃亡である。こうして籠城オランダ側の最後の望みも断たれた。
そして籠城9ヶ月、1662年の2月1日にゼーランディア城もついに降伏することになる。戦病死者は1600人に達していた。鄭成功はオランダ軍の善戦を讃え、コイエット長官以下の将兵に武装したまま台湾を退却することを許した。名誉の降伏とみなしたのである。
ここに40年に及ぶオランダ支配が終わり、台湾に新しい時代が訪れた。オランダを追放した鄭成功は、ゼーランジャ城を「承天府」とし台湾を統治することになった。しかし鄭成功の最後はあまりにもあっけなく、その三ヵ月後の5月8日、38歳という若さで亡くなった。清と戦い敗北を喫したがオランダとの戦いに勝利した。大陸、台湾、そして日本と風雲児の如く駆け抜けた。この三ヶ国で今も英雄視され慕われている国姓爺:鄭成功。時代の寵児に相応しい人物なのだろう。
鄭成功は、台湾攻略の企図の段階から屯田開拓の方策をとり、上陸させた兵に対して食料を自ら生産させ自給自足を徹底させた。台湾の住民に対しては、農具を与えて耕作法を教え、また、島内各地を巡回して住民の要望などを聞いて歩いたという。しかし、鄭成功の命運も僅か3ヵ月で尽きる。一説にマラリアの熱病または赤痢などの伝染病であったともいう。
一方、台湾長官の職を解かれたコイエットは、バタヴィアへ帰還後、囚われの身となった。つむじ曲がりのヤンの讒言によって、台湾陥落の一切の責任を負わされ、裁判にかけられたのである。判決はバンダ島への流刑で、1666年に収監されたが、1674年、親類らの斡旋によって保釈金を積み、無事に帰国した。鄭成功による台湾攻略の顛末を描いた「閑却された台湾」は彼が出版したものだという。 -
「ブロビンシア城」と「ゼーランディア城」
古地図と現在地図の位置関係
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■赤嵌城(ブロビンシア城)
赤嵌樓の前には、大陸での法輪功の弾圧を訴える人たちが並んでいた。この台湾では日本でも町内の至るところに見られる神社仏閣の存在同様、大小様々な廟に出くわす。日本のお地蔵さんに匹敵するような小さな祠や民家の中に祭壇があったりと、やはり宗教というのは人間の精神にも行動にも大きな影響を与えていることを感じる。
独裁権力維持のために宗教を排除しようとする共産党国家:中国は過去の伝統文化を否定した文化大革命を経て尚一層精神は荒廃し、今や現実社会では「金・物」にしか価値を見出せない人間集団になっている。それは人間として不幸の極みであり同じ漢族であっても台湾漢族とは資質的には大きな隔たりがある。日本の敗戦によって共産党に追われて逃げ込んできた外省人なる人たちも半世紀以上を経て、今の大陸漢族と自分たちとの違いを自覚しているだろう。
この「赤嵌樓」と「安平古堡」で納得できないのが、古地図に書かれた場所と現在の位置がどうしても納得できない。鹿耳門水道から進入し、ブロビンシア城を攻撃したのは分かるが、今の地図での双方の現存場所と古地図の位置関係に戸惑う・・・ネット検索しても未だ納得できるものは見つけることできず。 -
「ブロビンシア城」と「ゼーランディア城」
古地図と現在地図の位置関係 -
幾「ブロビンシア城」と「ゼーランディア城」
古地図と現在地図の位置関係
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幾ら埋め立てたといっても古地図と現在地の関係が納得できない
移築といっても両方とも旧煉瓦壁がしっかりと残っているし
合江海域はどうなったの??よう分からん
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1885年オランダの城は取り壊された
1661年、今(2013)から352年前に鄭成功軍に降伏した
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このブロビンシア城を攻め取った鄭成功は、この城を「承天府」とし9ヶ月滞在後ゼーランディア城を攻略した。その後すっかり荒れ果て城壁を残すのみとなった。台湾のネット「大百科全書」では1885年の中仏戦争時に、オランダ風の城を取り壊したとある。その翌年1886年、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤嵌樓の跡地に再建された。
日本統治が始まったのがその約10年後の1895年から。日本時代には海神廟と文昌閣、五子祠は陸軍の病院及び医学生の宿舎として利用されている。じっくりと見たつもりだが写真時間を見れば30分ほどの見学だった。1944年12月、当時の台南市長であった羽鳥又男によって再建され、現在は赤嵌楼として鄭成功時代の資料などが展示されている。
やはり一番に興味深かったのは当時のブロビンシア城の煉瓦塀であり、オランダ人が台南を植民地化し、この城を中心に華やかなオランダ人の日常生活があったのだろう。本国と違う環境の中で、自分たちの生活習慣そのままで暮らせるようにミニオランダを作っていたはずだ。そんな光景が目に浮かんだ。
それと文昌閣に展示していた科挙試験の参考書?なのか、小さな字でびっしりと書かれた冊子が興味深かった。中国本土のどこかで見たことあるけど、やはりこれは普通ではない -
赤嵌城から外を眺める
300年後は如何なる景色が広がっているのだろう -
1653年(4代将軍徳川家綱)築城されたブロビンシア城の城壁
この赤茶けた城壁こそ360年の時を刻む -
「建築之原始入口」との説明あり
ここが入口だったようだ
栄枯盛衰は世の常なり -
赤嵌城は1974年には再び大規模修復が行われ現在の姿になっている
鄭成功に降伏するオランダ人の銅像 -
大陸の法輪功弾圧を訴える人たち
日本語のチラシをもらった
阿里山でも法輪功のグループが運動をしていた -
果汁の店があれば飲みたくなる
いつもの総合果汁(40元)を飲む
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■鄭成功祖廟
次に向かったのは鄭成功祖廟(ジェンチャンゴンズウミャオ Zhèngchénggōng zumiào)。鄭成功(1662年)没後、息子の鄭経が鄭政権を継承し、1663年に父を祀るこの廟を作った。それにしては街角に佇む小さな廟で意外だった。庭には2000年に立てられた鄭成功母子雕像(Diāoxiàng)がある。日本人の母・田川マツがこうやって英雄の母親として台湾人に今も大切にされていることを嬉しく思う。
http://www.geocities.jp/shigeki_miyoshi/teiseikou.html
門前の井戸は創設時の井戸の遺跡だそうだ。この井戸から出土された丸い砲弾が展示されていた。それに長崎県平戸市の鄭成功児誕石もあった。鄭成功祖廟滞在18分なり。 -
ひっそりと街角に佇む「鄭成功祖廟」
住所:臺南市中西區忠義路二段36號
1663年「延平王廟」→「先王廟」→「二王廟」→「大王廟」
「鄭氏大宗祠」→「昭格堂」2002年4月29日正式改名「鄭成功祖廟」
名称も千変万化、紆余曲折に耐え今に残る -
母(田川マツ)と鄭成功
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廟は小さいが、中は掃除も行き届き
祭壇には花に果物などが供えられ
廟を大切にしている心が伝わる -
門前の井戸は創設時(1663年)のもの
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以前の鄭成功祖廟
2000年に改修され現在に至っている -
1938年(昭和13年)竣工:消防署と警察署が入った合同庁舎
「なんか古い建物やなァ」と思ったら、古かった75歳
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■山林事務所と武徳殿に向かう
次は、祖廟の近くにあるはずの山林事務所と武徳殿。その道中に、古い消防署があり消防車もポンコツ車が並んでいた。その写真を撮って帰国したら、その消防署は日本時代の建物だった。
『1938年に建てられた消防署と警察署が入った合同庁舎。中央の高い塔は当時台南で最も高い建築物の1つで、いつでも火災発生現場を見渡せた。』・・・ということで日本時代から今も現存し、前にパトカーも停まっていたので今も合同庁舎として使われているのかも。
その向かいにレトロな煉瓦作りの建物があった。「あれっ?これってもしかしたら日本時代の建物では・・・」と思って入った。現在の「國立台灣文学館」であり『1916年、日本統治時期の台南州庁として落成されました。建築家森山松之助氏の手がけた西洋歴史建築様式で、台湾総督府及び監察院と共に台湾における有名な建築の一つです。』ということだった。
内部は綺麗にリフォームされ、喫茶店のような雰囲気のなかで本が読めるようになっている。しかし文学書を読みながらお茶を飲んでは本が汚れるのか?喫茶コーナーはなかったけど、お茶でも飲みながら文学を語るに相応しい場所だった。
そして文学館のすぐ傍に山林事務所があった。地図の表記は少し北側になっているが、実際は忠義小学校の武徳殿と向かい合うように道沿いに原山林事務所がある。その名前のように『日本統治時代の1925年〜1945年に林業の育成・振興のために設立された機関の事務所として建設された。』という建物のようだ。
「不來台南葉石濤文學紀念館,就不知台灣文學的厚度 」
この建物の名前の変遷。
「原山林事務所」→「台南山林事務所」→「台南洲産業部林務課」→戦後「台灣省林務局嘉義林區管理處台南工作站」
最近、改修後レストランになっていたこともあったようだが、今現在は「葉石濤文学祈念館」。昨年2012年8月にオープンしたそうだ。葉石濤(1925年大正14年11月1日―2008年12月11日没 84歳)という名前は初めて聞くが、日本時代の台湾人なので当然のように作家デビューも日本語だったようだ。日本語で書かれた原稿も展示されていた。白色テロによって3年間の投獄も経験している。
『台灣の文学評論や文学史の著述に尽力し、戦前・戦後の台湾文学をまとめ、ひとつの流れとしてとらえた「台湾文学史綱」は、台湾文学史と評される、彼の代表作といわれています。』・・・台灣文学についてはまったくの無知だが、これだけの紀念館ができるのだから台灣文学界の重鎮であるのだろう。
「日本的川端康成」のコーナーもあったし、葉石濤は16歳から小説を書き始め、1943年19歳の時に日本人・西川満(1908年2月12日 - 1999年2月24日 91歳)の主宰する「文藝臺灣」に作品を発表している。小説家・詩人でもあった西川満の日本語の暖簾が二本も掛かっていた。西川満は葉石濤よりも17歳年上。
建物は二階建てでそれぞれの階に管理や警備と案内を兼ねて職員がいた。一階に座っていた上品で美しい高齢の女性が日本語を話すので少し話をした。その女性のお兄さんは日本に留学し日本で医者になり四人の子供を作り育ている。その内、一人は日本で医者に、そして一人は台灣で医者をしているということだった。
小さい時に日本語教育を受けた世代の女性。言葉はみんな覚えている訳ではないが発音はネイティブだ。現代日本語ではないので私には余計に美しい響きの日本語として聞こえる。日本とも関係が深い葉石濤なのか、スタッフの方も日本人に親切で反日支那大陸との違いに救われる。 -
現在:國立台灣文学館
昔:台南州庁
1916年、大正5年皇紀2576年、竣工 -
日本時代の建物はみんな立派なものばかり
今も使い続けてくれていることに感謝す -
内部は洒落た空間にリフォームされ
図書館のように静かに本を読んでいた -
原山林事務所:住所「臺南市中西區中正路5巷1號」
1925年大正14年皇紀2585年竣工:88歳 -
川端康成・・・か。何も分からない。
-
天井も高く立派な建物だったというのが良く分かる
内部も綺麗になって気持ちが良い -
ああ。こわれた窓の線香や。
「春」と書かれた家々や。
七面鳥の啼き声や。
一人歩いて何となく。
心に残る古い街。
西川満
いつまでこの暖簾はここに掛かっているのだろう -
山林事務所から道を挟んで
真向かいに武徳殿が見える -
旧武徳殿
現在は忠義國民小学の禮堂(体育館・講堂)
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■日本時代の武徳殿
山林事務所の向かいが「忠義國民小学」で、道を隔てて日本時代の武徳殿が威風堂々その姿を保っていた。日本時代は台南神社の敷地内の武道場だった。今この武徳殿は忠義國民小学の禮堂(体育館・講堂)として使われている。修復しながら使用しているのだろうが、立派の一言に尽きる。台灣では小学校ではなく小學。校はない。
次の予定は、「延平郡王祠」日本時代に開山神社だったところ。赤嵌樓から始まって歩いて歩いての散策。「足が棒になる」とはこのことだけど、アチコチで旧跡を思わす建物や日本家屋では?と思えるような家屋が目に入り飽きずに歩ける。忠義國民小學から延平郡王祠に向かう途中で、又それらしき建物があった。
それは『国立台南女子高級中学(高校)。台湾南部で一二を争う女子進学校。戦前は、台南第一高等女学校(略して台南第一高女)といって、台北第一高女と並ぶ台湾屈指のお嬢様学校。この赤レンガ造りの本館は、1917年創立当初からある。地震の多い台湾でこれだけ立派に残っているのだから、どれだけ頑丈に造ってあることか。』・・・ということです。 -
武道をするに相応しい建物だ
このなかに一歩踏み入れば身も自然と引き締まる
心技体
文武両道こそ人の道、技を磨くことは心を磨くに通じる -
床はピカピカ
掃除が行き届いているように見えた
小学生が体育館、講堂として使っている
建物も服装と同じで人格形成に繋がる -
旧台南第一高等女学校(台南第一高女)
現在:国立台南女子高級中学(高校)
台湾で日本時代の建築を見れば、当時の日本人の気高さを感じる
当時の日本人と今の日本人を比較すれば、今の薄っぺらさを思う
誇りも名誉もどぶに捨て、経済発展だけを追求したら今のようになる
台南日本の史跡
http://youtu.be/yByxCzWcWTs -
1662年創建
「開台聖王廟」→「開山王廟」→「明延平郡王祠」
1896年(明治29年)
鄭成功を祭神とした開山神社となる
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■延平郡王祠(開山神社跡)
歩き巡って今日の予定の最後の訪問地、延平郡王祠に到着は午後3時14分。隆田から台南站に戻ったのが午前11時55分頃だから、まだ3時間ちょっとか。歩いて歩いて歩き疲れてもまだその程度しか歩いていなかった。これはやはり老化のせいなのか?
この祠は鄭成功が没後、1662年に鄭成功を祀るために創建され「開台聖王廟」と呼ばれていたが、鄭政権が倒れて清朝の支配下になって聖の文字が省かれ「開山王廟」という名前になった。そして清朝支配下の1875年には、生前「抗清復明」の旗を掲げ清朝に敵対していた鄭成功の台灣への貢献を清朝皇帝も認め新に福州式祠が増築され「明延平郡王祠」と名づけられた。
それが日本の統治が始まって2年目の1896年(明治29年)、鄭成功を祭神とした開山神社となる。この開山神社は日本の統治が始まって最初の神社であり、日本史上最初の外地神社でもあり、唯一漢人(鄭成功)が祭神となった神社である。へぇ〜鄭成功が祭神の神社か、やはり母親が日本人だったことによるのだろう。
中国風祠はそのまま残され境内に拝殿が作られた。そして元の廟はそのまま残しながら1914年大正3年、今の鄭成功文物館の場所に日本式建築の開山神社が建立された。入り口正面の説明掲示板には『開山神社のあった場所には、民族文物館が建てられています』と明記されている。
終戦後国民党政府によってこの地にあった社殿は全て壊され、今の廟となった。ゆえに廟は古蹟とは認定されず、この場所は史跡となっている。それでも後殿には彼の母「翁太妃」(日本人:田川松)の位牌が安置され祀られている。
ここには日本人ツアー観光客が次々と来ていた。そのガイドの話を横でちゃっかり聞いていたが、「母親が日本人」という説明以外は記憶には残っていない。一体ガイドはどんな説明をしていたのだろう?
「開山神社」神奈川大学非文字資料研究センター
http://www.himoji.jp/himoji/database/db04/preview.php?name=%E9%96%8B%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「開山神社」
http://homepage3.nifty.com/wasi/taiwan/jinja/jinja-tainan/jinja-tainan.html
「延平郡王祠:台灣」
http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%BB%B6%E5%B9%B3%E9%83%A1%E7%8E%8B%E7%A5%A0
鄭成功文物館のスタッフである中年以上?の二人の男女が、日本語を勉強しているようで、私が日本人と分かっていろいろと話しかけてきた。女性の方が日本語が上手で、何度か日本に旅行に行っている。そして女性が「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」と三人の名前を達筆ですらすら書いて、「三人のうち誰が一番か?」と聞かれた。「う〜ん、徳川家康かな・・・」と答えた。
男性の方も臆せずカタコトで話しかけてくる。そしてこの建物横に鳥居が置いていると教えてくれた。そこには石の鳥居の「笠木・島木」の部分が置かれていた。その周囲にも神社に関係するような石の一部が置いてあった。そしてこの文物館の正面左右には「狛犬」が今も勤めを立派に果たしている。
延平郡王祠の入り口左右にも狛犬が今もあり、当時から両方共にあったのだろう。この文物館の立っている土台は、どうみても神社の基礎だと思うような土台であり、階段も周囲の石垣もそのように感じだ。二人のスタッフはこの文物館が神社跡地に建っているというのは知らなかったようだが、説明文と狛犬、そして階段等の配置を見て理解したようだった。
午後3時15分頃にここに来て、午後4時半にこの延平郡王祠を離れた。二人と話をしていたりで結局一時間以上この場所で過ごした。 -
日本時代、開山神社は廟はそのままで境内に拝殿を設けた
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今の「延平郡王祠」は1964年に建立された。古蹟ではなく史跡となっている。
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太妃祠
鄭成功廟の後ろにある「母:田川マツ」の祀
日本人の母親なのに
祠まで作って大切に祀ってくれる
鄭成功祖廟にも母親と鄭成功の像があり
鄭成功にとって母親の存在が大きかったのか?
不思議な気持ちがする -
「翁太妃 本姓 田川氏之神位」
田川マツの位牌
鄭成功七歳で母と別れて父:鄭芝龍の故郷福建に来た
そして21歳の時、福建に来ていた母は自害した
共に暮らした歳月は短くとも母との絆の強さを感じる -
この延平郡王祠には次々と日本からのツアー客が来ていた
日本語ガイドの説明は「鄭成功の母親は日本人」 -
鄭成功文物館
1914年大正3年、元の廟はそのままにして
この場所に日本式建築の開山神社が建立された -
日本式建築の開山神社を守る狛犬
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石の鳥居の「笠木・島木」が置いてある
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延平郡王祠の前にある鄭成功像
鄭成功物語
http://www.youtube.com/watch?v=u9fTwBnSF-4&feature=share&list=UUzrxbtOkfUGNWFHtM15uTew&index=1
開山神社跡
http://youtu.be/1bbGne6cxb4 -
半袖シャツを買いに中山路にある三越に入る
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■今日の予定終了
やっと今日の観光予定はこれで終了。ボチボチホテル方向に向かって歩いた。そしてこっちは思ったより暑かったので半袖シャツを買いたいと思い、新光三越に入った。
衝動買いで2000元のイタリア製半袖シャツを購入する。結局もったいないから着ることなく日本に持ち帰った。こんな貧乏性を何と言う。そして早くも台灣料理に飽きたのか?台南大飯店傍の回転寿司店に入り寿司を食う。どうも食い物には興味がない。どっちかといえば日本食が良い。
午後6時前に部屋に戻り、明日に備える。初日から足は棒になった。明日は、まず飛虎将軍廟へ行き、その後、安平古堡、そして台南から台鐵に乗って嘉義に向かう。今日は充実の一日だった。 -
この店で半袖シャツを購入:イタリア製2000元(6900日本円)
衝動買いだったが、もったいないのでそのまま持ち帰る -
台南駅前の回転寿司
美味かった
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