2013/10/22 - 2013/10/28
1081位(同エリア1791件中)
明石DSさん
台中の朝
一泊¥5800円のビジネスホテルの朝食
無論文句はない
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6日目:10月27日(日):台中、豊原、新社:晴れ
山岡榮先生の慰霊碑と磯田技師が造った白冷圳へ行く
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2013/平成25年10月27日(日)
■台中の朝
朝目覚めても窓のない部屋なので天気は分からない。ここも朝食付きで6:30からなので、その時間に行った。宿泊費が一泊¥5800(日本円)のビジネスホテルなので、それなりの内容だが無論不満はない。
日本人らしき人は見かけなかった。朝食後、8:02(発)の莒光(きょこう:急行)に乗るために台中駅に向かう。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
粥があれば粥を食べる
それに果物は食前に -
台中福泰桔子商旅公園店(オレンジホテル)
http://hotels.his-vacation.com/jp/jp/HotelDetail/TXG00039.aspx -
台中駅前の広告ビル
「美日語」(英語日本語教室)
英語と並んで日本語教室があることを嬉しく思う -
區間車は日本の普通と何ら変わらず
この日は車内で朝食を食べる姿は記憶にない
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■豊原へ
「台湾鉄道」http://www.railway.gov.tw/tw/の「列車査詢時刻」http://twtraffic.tra.gov.tw/twrail/をクリックしたら「對號列車(対号列車:特急、急行 座席指定)」「非對號列車(區間車 各駅)」「所有車種」の三つのどれかにチェックする蘭がある。「對號列車」をチェックを入れたら、自強と莒光の時刻表しか表示されない。そして「非對號列車」蘭にチェックを入れると區間車の時刻表だけが表示される。
私が日本から持参したのは「對號列車」の時刻表だった。だから8:02分(発)に乗ろうと思って台中駅に行き自動券売機で豊原までの切符を購入した。しかし乗車したのは莒光ではなく7:51分(発)の區間車(各駅)だった。台中⇔豊原の料金は自強¥32元、莒光¥25元、區間車¥21元。自動券売機でどれでも買えるが、あの時自分は莒光を買ったのか?區間車切符を買ったのか?記憶にない。でも多分莒光を買ったと思う。
台中⇔豊原までの乗車時間は、自強で8分、莒光で15分、區間車で14~16分。???、急行と各駅と同じ?いや各駅の方が1分早い便もあるとは。この旅行記を書きながら時刻表を見て気がついた。台中⇔豊原間は急行「莒光」も各駅ということか?いやそうじゃあなかった。莒光は「台中→潭子→豊原」、區間車は「台中→太原→潭子→豊原」、莒光は太原には停車しない。ちなみに自強は台中の次は豊原で途中駅の停車はない。
區間車で台中→豊原:14分で到着便は、各駅の停車時間が1分足らず。ホンマこんなことを調べているから旅行記は遅々として進まない。1月台(1番ホーム)から7:51分區間車に乗って8:06分に豊原駅(着)。區間車はベンチシートで日本の各駅電車の風景と同じだ。日曜日だから乗客は少なく座れた。豊原駅の傍に日本時代の派出所がある。
豊原駅は台湾鉄路管理局制作のHP「豊原車站」http://service.tra.gov.tw/Fongyuan/CP.aspx?SN=11119によれば、「建於民國前7年5月15日」。日本語ウィキペディアの「豊原駅(台中)」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%8E%9F%E9%A7%85_(%E5%8F%B0%E4%B8%AD%E5%B8%82)にある1905年(明治38年 日露戦争終結)5月15日と等しい。
民國前7年という書き方は、紀元前と同じで、中華民国が成立した1912年を紀元(元年)とする紀年法で書いている。そして民國49年、すなわち1912+49=1961年(昭和36年)に駅舎は改築されたと記されている。ということは今の豊原駅、駅舎は日本時代のものではない。
豊原と言う地名は日本統治が始まって日本風に変更されたのが今もそのままの地名になっている。旧名称は「葫蘆墩 フゥルゥドゥン Húlu dūn」、日本の東北、北海道に多くあるアイヌ地名と同じように、この一帯は「平埔族」の部落があったようだ。葫蘆は“ひょうたん”『一説によると「ころとん」と呼ばれた瓢箪の形をした小高い山があったため、豊原は葫蘆と呼ばれたといふ。この地で生産された米はころとん米と称された。』・・・「ころとん」とは面白い。
http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan/e/d89e5cd41feb7b55c3487fdba0d58605
「葫蘆墩國民小學」というように旧地名も残っている。豊原駅も1905年葫蘆墩駅として開業、1920年豊原駅に改称とある。そして駅傍に旧派出所はあった。1930年(昭和5年)に建てられた。昭和5年当時の台湾の日本人警察官は、泣く子も黙る力があったのだろう。この辺りを闊歩していた制服姿が見に浮かぶ。今は「葫蘆墩旅行文化派出所」として管理されているらしい。でも今日が日曜日だからか、シャッターが降りて入ることは出来なかった。
そしてタクシーを包車しようと、駅前で並んでいる先頭車に近づいていった。一期一会の出会いであり、“運ちゃん”の人格が私の今日の旅を左右する。先頭車の“運ちゃん”は見掛け“あんちゃん風”だった。第一印象では、どっちかといえば避けたかったが最近は選ばない。第一印象での見きわめは難しいし、当てにならないことが分かったから。「良い人風」を探し回った挙句に、そうではなかったら“ガッカリ”だが、その逆は嬉しい。
開き直って「当たるも八卦、当たらぬも八卦」すべては「運命のなせるわざ」が面白い。「それも旅、それが旅」である。その“運ちゃん”の名前は“游○○さん”(仮名)50歳。父親は日本語の老師、両親すでになく、兄が一人。離婚し、一人暮らしだが彼女はいる。タクシーに近づき「この四ヶ所に行きたい。場所は分かる?」と聞いた。
その四ヶ所とは、まず①は、日本時代:豊原神社があった駅近くの南陽国小學。②は、豊原神社の灯籠と狛犬が移されたという「土地公」とう祠。③は、児童を救おうとして亡くなった山岡榮先生の慰霊碑。④は、磯田謙雄(いそだ・のりお)技師が作ったサイホン式の巨大送水管。
日本から持参した資料を見せて“游さん”に聞くと、①と④は分かるが、②③は知らないようだった。山岡先生の慰霊碑は、豊原ではなく「臺中市新社區」にある。日本で“Google マップ”やグーグルアースで確認しても分かり難そうだった。②と③は、予想通りだった。
タクシーの運転手は、まず「行けない」とか「分からない」とか言わない。そしてここからが交渉だ。「包車(貸切)料金は幾ら?」と聞いたら「1時間700元、5時間¥3500元」との返答があった。嘉義の富安宮行きの時の“運ちゃん”と同じだった。それに対しての私の返事も同じで「高過ぎる。他を探す」と即答する。
そしたら相手は、「幾らだだったら良い」と聞いてくる。富安宮へ行くより地図で見てもこっちの方が距離も遠いし、行き先も四ヶ所ある。でも富安宮の時も、3時間2000元だったが、結局2時間半も掛かっていない。そんなことを考えて「2000元ならOK」と言った。“游さん”は、ちょっと不満そうだったが、それでOKした。
いつものことだが、包車料金はネット情報を見ていてもその場での遣り取りは難しい。高いのか安いのか、これが相場なのか?いつも悩むが、“ぼったくり”に会わなければ良しとしなければ・・・。 -
1961年(昭和36年)改築:豊原駅舎
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駅を背に左側に日本時代の交番所
1930年(昭和5年)に建てられた
今は「葫蘆墩旅行文化派出所」となっている
日曜日だからか?シャッターは閉まっていた -
タクシーの運転手“游さん”と包車契約締結
四ヶ所¥2000元:よく案内してくれて感謝! -
南陽國民小學
警備員の了解を得てグランドに入る
日曜日で子供の姿は無かったが
運動場で少年がバスケットをしていた
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■豊原神社跡へ
まずすぐ近くの「南陽國民小學」へ行った。ここに豊原神社があった。
警備員に理由を説明し校内に入れてもらう。日曜日だからか?グランドでは小学生ではなく、もっと大きな少年青年がバスケットをして遊んでいた。神社跡は「学校になった神社 豊原神社」でも詳しく紹介されている。グランド北側が高くなっていて神社跡地には盆栽のように手入れされた木々が整然と植わっている。そして本殿があったであろう場所に“蒋公”(蒋介石)の像が建っていた。
http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan/e/d89e5cd41feb7b55c3487fdba0d58605
「台中豐原神社,找尋狛犬(南陽國小、大街尾)」にも豊原神社と狛犬の写真がある。写真のなかには「豐原家政女學校學生打掃神社」と書かれた写真がある。こんな時代の台湾に旅をしたらどんな感じだったのだろう。日本統治が始まった初期・中期・そして後期では驚くほどの違いがあっただろう。そして半世紀、50年統治の終戦間際、台湾の人たちや町の雰囲気はどうだったのだろうか?
http://blog.yam.com/sware1786/article/59615094
前部に灯籠二基、そしてまた一段高くなったところに二基の灯籠。この四基の灯籠と参道のような階段など、神社跡を彷彿とさせてくれる。 -
グランドに入れば神社跡がすぐに分かった
階段があり一段高い台地に神社があった
遠目で見れば手入れされた樹木が茂っていた -
豊原神社
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1936年(昭和11年)鎮座
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この階段の上に豊原神社があった
http://blog.yam.com/sware1786/article/59615094 -
綺麗な石燈籠が左右に並んでいた
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“蒋公”像があった
“蒋公”とは一体どんな人間だったのか?
悪人か善人か?はたまたどんな人間なのか?
未だまったく我が評価定まらず
以徳報怨 -
正面左右に二基の石燈籠あり
これが豊原神社の石燈籠のようだ
他にも横に同じ色でペイントされた石燈籠が置いてある
合計四基がここに移された。色は違えど使われていることに感謝
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■大街尾福?祠
次に豊原神社の灯籠と狛犬がある「土地公」へ向かった。私が地図に記しをつけた付近で“游さん”が、何人かに聞いてくれたがなかなか分からなかった。でも誰かが持参の写真を見て、それは「大街尾福?祠」(住所:台中縣豐原市中正路281巷5號)だと教えてくれた。
場所はまったく違ったがすぐに行けた。そこは豊原駅から南西に続くメーンストーリーの中正路沿いにある小さな祠だった。確かに灯籠と狛犬があって写真を写したが、この時は「これが何で豊原神社の灯籠で狛犬なんや?」と訳が分からず見ていた。帰国後に「学校になった神社 豊原神社」を見つけてやっと謎が解けた。
http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan/e/d89e5cd41feb7b55c3487fdba0d58605 -
豊原神社の狛犬
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神社と様子は違うが健気に今も勤めを果たす
今の日本人も知っている者は知っているので
これから先もこの地で日台友好のために頼む -
この祠に豊原神社の石燈籠が四基あり
大街尾福?祠は豊原駅から中正路を
西方向に歩けば1キロ弱で道沿いにある -
“游さん”は狭い道を凄まじい速度で走る
自分でも「速度は速いが安全だ」と言っているが
確かにそんなに危険は感じず、運転は上手い
でもこの速度では飛び出しに遭遇すればアウトだろう
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■殉職山岡先生之碑
二ヶ所をクリアーして、次が一番の難所だと思っていた③「殉職山岡先生之碑」に向かう。持参した数枚の地図や写真の資料を“游さん”は首をかしげながら何度も見直していた。そして車に装着している小さなカーナビに慰霊碑の住所を打ち込んでいた。住所は「臺中市新社區中和街4段240巷2號」
日台のネットでも山岡先生の紹介の頁がいくつもある。
「新社にある日本人教師の記念碑」
http://blogs.yahoo.co.jp/taichu_jp/59227059.html
「殉職山岡先生之碑 」
http://tw.myblog.yahoo.com/doublefish02/article?mid=13604" TARGET
「殉職山岡先生之碑」
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&caseId=JA09609000028&version=1&assetsClassifyId=1.2
「感念山岡先生」:「台中 新社 山岡先生の碑」
http://tw.myblog.yahoo.com/a25252700/article?mid=15405
紹介頁にも書かれているが、この碑に行き着くのはなかなか難しい。でも“游さん”と行ってみて分かったのは、「臺中市新社區中和街4段240巷2號」の住所をカーナビに入れて指示通りに行けるところまで行けば、碑の近くまで来ている。そこまでも道が細くて通れるのか?と、心配な道や周囲が畑で迷路のように感じたが、車で行けるところまで行き無理そうな場所になったらそこで車を置き、誰かにこの碑の場所を聞けば行ける。そんなところに碑があった。
8時50分くらいに豊原駅近くの「大街尾福德祠」を出発して新社に向かった。途中からカーブの多い道になり、それから狭い道へと入って行った。車ではこれ以上無理な場所まで30分ほどで着いた。そして畑仕事をしている“オバチャン”に“游さん”が聞くと、その“オバチャン”は、「私はこの土地の者ではないから分からない。今向こうから歩いて来ているあの人はここの人やから知っているはずだ」と言った。
そして一応舗装はしているが車も通れない幅の道を向こうから歩いてくる日除け編み笠を被った“オバチャン”を待った。そして近づいた“オバチャン”に碑のことを尋ねたら、今歩いて来た方向を指差して「あそこにある・・・」と教えてくれた。その返事を聞いて私はすぐに“オバチャン”が来た方向に向かって足早に歩いた。
一分も歩かないうちに真新しい木の道標が立っていた。それには「歴史建築 殉職山岡先生之碑」と茶色に塗られた道標に白のペイントで書かれていた。矢印の方向に歩くと石積みの道が続いている。この道は「山岡先生之碑」へ行くために整備された道だろう。今年の5月、1930年5月没後83周年を記念して「感念山岡先生愛在新社83週年追思紀念活動 台日交流協會等近百人參加」というイベントが行われている。それに合わせてこの道標も作られたと思う。
道標から少し石の道を下った右側に小さな広場があり、慰霊碑は川の方向に向かって立っていた。入り口の木の横に説明の石の台座がある。その台座の上に「先生の写真と経歴、殉職の顛末、今までの慰霊祭の写真、この現場の地図」がタイルに印刷され嵌め込んである。
日本で写真をみていたはずが、その場で台座に貼られた山岡先生の写真を見た瞬間に衝撃を感じた。29歳だから当然だが若くて、今時の男優以上にかっこいい青年の顔だった。「こんなハンサムだったのか・・・」と、まずそれに驚く。体育の教師で泳ぎに自信があった山岡先生。濁流をものともせずに飛び込んだのだろう。台湾赴任四ヶ月、妻を日本に残しての殉職だった。 -
「新社區中和街4段240巷2號」の慰霊碑の場所に近づく
とにかくカーナビの指示通りに走ってきた
ここから2分ほど走って車を停める
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新社にある日本人教師の記念碑
山岡 榮 (1905〜1930 享年29歳)
http://blogs.yahoo.co.jp/taichu_jp/59227059.html
抜粋
昭和5年(1930)に今の台中県新社郷にある東勢農林専修学校(現在の新社高校の前身)で起きたことです。同年5月9日、同校の授業中に、突然大雨が降りだし、学校側は生徒の放課後の帰宅は安否が懸念されるので、臨時処置として、早速授業を打ち切り、下校させた。
ところが、生徒が川の真ん中を渡った時に、急に水かさが増し、生徒たちは川の中州で進退きわまっていた。学校の先生は急報に接し、まっ先に現場に駆け付けた。山岡栄先生は応援の同僚も待たず、自分の身の危険を顧みず、川に飛び込み、生徒を助けようとした。あにはからんや、頭が石にぶつかり、身体はあっという間に激流に呑み込まれて濁流に消えた。
遺体は後で下流で発見された。山岡先生は愛媛県の出身で台湾に来てわずか四か月、惜しくも生徒のために殉職した。享年29歳の若さであった。地元の人たちは山岡先生を記念するために川辺に「殉職山岡先生の碑」を建て、毎年命日に追悼式を行い、そのことは教科書にも載ったという。
終戦後は国が変わり、記念儀式は排除され、教科書からもその記述が消えた。以後記念碑と山岡先生の夫人が植樹した2株のいぶきも、年月の経過とともに雑草の中に埋もれてしまった。10年前の台湾の921大震災後(この地方も地震の被害が相当酷かった)当地の白冷圳社区総体営造促進会の理事長である徐炳乾氏は「山岡先生のことは国の内外を問わず、末長く顕彰し後世に伝えていかなければならない」と語った。
2004.平成16年4月6日山岡先生の遺族は戦後初めて訪台し、甥にあたる松井一夫さんが徐炳乾理事長、陳萬通台中県議員他の地元の人たち及び当時山岡先生の教え子で現在日本在住の二人のお供で、碑前で香をたき、花を捧げ、また記念碑前に2株の桜を植えた。
松井さんは「山岡の伯父の故郷愛媛県にも記念碑が建ててあり、伯父のことは広く人々に言い伝えられて、遺族は皆光栄に思っております。また台湾の人たちが、伯父のためにこの記念碑を残してくれた事について深く感謝します。」と述べた。 -
この道の手前に車を停めて畑仕事をしていた人に聞く
その“オバチャン”は分からず
写真
「向こうから来る人に聞いて・・・」とのこと
“オバチャン”方向に向かって歩けば
慰霊碑の真新しい標示塔が立っていた
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碑の真下、階段を下りた両側に建屋があり片方は鍵も掛かっていなかった。内部は汚れて無残だが、この家屋は何のために建てられ誰が生活していたのだろう。山岡先生の碑に関わる建物だったのか?不明だが今は放置され荒れ果てている。この五月にこの場で83周年の式典があったようだが、その時はそれに備えて慰霊碑周辺も綺麗に整備されていたのだろう。
それから半年が経過すれば雑草も生い茂り風景は一変する。しかしここまで朽ち果てずに守っていてくれる台湾の人たちに感謝する。日本時代は芝山巌学堂の六士先生同様、日本人教師の英雄的行為を台湾だけでなく、日本本土を含めて国を挙げて慰霊を行っていたようだ。しかし敗戦後、日本人は台湾から去った。それでもなお今日まで慰霊碑を残し守ってくれている。私がこの碑のことを知ったのは、つい最近だ。
たった一度の敗戦で戦後日本人は、先人たちの非をあげつらうばかりで英雄的行為を知ろうともせず、個人主義に走りホンマつまらぬ人間ばかりになった。今の日本がどんな日本であれ、どんな過去でもその過去があってこその今だ。過去の歴史事実をまず知ることが感謝と慰霊の一歩だと思う。
川まで石を綺麗に並べた道が続いていた。この道を整備するだけでも大変な労力だ。途中には「2013 山岡老師追思植樹記念 植樹人 名前 5月1日」と書かれたプラスチックの表札をぶら下げた木々が間隔を空けて並んでいた。根付かず、すでに枯れかけている木のほうが多かった。このうちの一本でも良いから根付くことを祈る。今日の天気は晴れ、水量も多くなく流れは穏やかだった。
でも川には道作りで使っている石と同じような石がゴロゴロあった。こんな石が山岡先生の頭を直撃したのだろう。大雨が降って水量が増せば、一転して様相は変わり濁流渦巻く恐怖の川になるのは十分想像できる。この場に来ることが出来て良かった。今回の旅では、ここに辿り着けるか不安だったけど・・・。
確かに道は狭く、まるで迷路だが、なんとか迷うことなく来れた。これもお導きと思いたい。河川敷でしばし佇み、また川の石ころを並べた道を登る。そして再度慰霊碑の前に行き写真を撮った。碑文は拓本でも採ったのか?なにかを塗った後が残っていた。デジカメの解像度を上げて碑文を写し帰国後見てるが、私には正しい解読は難しい。
結構長い時間この場にいて“ゆっくり”していたと思っていたがデジカメ時間を見れば25分ほど。いつものことだけど。のんびり出来ない性分なので、仕方がない。それでも満足感を持って再度来ることはないであろう慰霊碑に別れを告げた。ご冥福を祈り、この地が永久に日台の絆になることを祈る。
日本の中高生がここに修学旅行で来るようになった時、日本人が戦後の自虐史観から脱却し、真に再生日本への一歩を踏み出した時だと思う。 -
この“オバチャン”は即答してくれた
「あっち」・・・と、自分が歩いてきた方向を示す
その返答を聞いて「やったァ〜」と思った -
下り坂に差し掛かったら
すぐに案内の標示塔が見えた -
歴史建築 殉職山岡先生之碑
歴史建築とは???
やったァ!辿りついた
今回の旅で一番の不安だった場所に辿り着けた -
石積みで作られた右側の道を下っていく・・・と
-
写真で見ていた山岡先生の碑があった
そうか、こんなことろにこんな風にあったのか
今は草が茂っているが今年没後83周年の慰霊があった
感念山岡先生愛在新社83週年追思紀念活動
台日交流協會等近百人參加
http://tw.myblog.yahoo.com/a25252700/article?mid=15405 -
入り口に説明の石柱が設置されている
プリント印刷したタイルが嵌め込まれている -
慰霊碑の前に廃屋状態の家屋が二軒
道を挟んで建っている。これはなに?
階段は神社の参道を思わす立派な階段 -
階段を上って正面が慰霊碑
1930年(昭和5年)5月9日殉職、同年11月建立 -
入り口に設置されている慰霊碑の案内石柱
-
この道を川へ下る
-
今年の5月1日83周年祈念の植樹
すでに枯れかけているのもあった -
道沿いに何本も植樹されている
一本でも根付けば良いのだけど -
水泳が得意だった山岡先生だから
増水の川に迷わず入って子供を助けようとしたのだろう
子供たちが立ち往生していたのは
その目の前の中州なのかもしれない -
濁流で流されてくる石が頭を直撃し不運にも命を落とした
川の流れの速さは、水量少なくても足元をとられる
ましてや雨で増水し濁流となった川は危険だ -
慰霊碑と正対して立つ二軒の家屋
新旧あるようだ。慰霊碑と関係はあるのか? -
ハッとするほど男前の山岡先生、満29歳
妻を日本に残し単身赴任した矢先の事故だった -
下った道を登って戻る。この道を下ってきた
殉職山岡榮先生之碑に辿り着けて良かった -
黄色いの車が“游さん”のタクシー
あそこに車に停めて、あとは歩き
住所:「臺中市新社區中和街4段240巷2號」
カーナビで大体この場所付近に来れるはず
慰霊碑の位置:案内板に以下の表示あり
海抜:418m
東経:120.80292
北緯:24.24504 -
新社の街中を通り過ぎる
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■白冷圳 逆サイフォン送水管へ
午前9時50分 山岡先生の碑から白冷圳(はくれいしゅう Bái lěng zhèn バイレンジェン)へ向かう
「蓬莱米と白冷圳をめぐる」
http://homepage2.nifty.com/~hit-o/taiwan3.html
「白冷圳を知っていますか?」
http://twoffice.exblog.jp/18442993
「磯田謙雄技師の銅像建立」
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20131016/Jpcna_CNA_20131016_201310160006.html
「白冷圳 圓堀から新社内水路 」
http://ameblo.jp/taichu/theme-10034860978.html
「逆サイホンが結ぶ日台の絆」
http://blogs.yahoo.co.jp/kisousan/64012825.html
畑の中の迷路のような道を抜け、新社市内をしばらく走ったあとは連続したカーブの山道を走った。走ること30分で白冷圳に到着。そこにはサイフォン式、巨大送水管が山から谷に降りてまた山へと登っていた。日本にいる時から現地で見た人たちの驚きの感想がHPなどに書いてあり、それを読んでいたので大きさは想定の範囲でそんなに驚きはなかった。
でも山から谷、そしてまた山へと繋がる全体像を実際に目の当たりにして、やっと全体が把握できた。「そうか・・・こんな風になってたのか」と。 -
こういった山並みを縫うように走りぬけ
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白冷圳誕生80周年 新社台地に根付いた友情
磯田謙雄技師(1892年5月6日〜1974年8月16日 享年82歳)
http://twoffice.exblog.jp/18442993
抜粋
「盧千恵のフォルモサ便り」
抜粋
台中の新幹線駅から、50分ほど郊外の道を車で走ると、白冷圳のある新社台地に到着します。「圳」というのは、土辺に川をつけた珍しい字で、「田んぼのほとりの溝」と、台湾の辞書に出ていました。
この新社は高台にあり、気候が涼しく、病虫害も少ない農耕地ですが、雨水だけに頼る乾燥畑でした。砂糖の輸出が台湾の経済を潤して以来、台湾総督府は「文化の高低は砂糖消費の多寡によって知られ、糖業の消長はサトウキビ苗の優劣によってきまる」と、サトウキビ苗床に適しているところをさがし、この新社が茎の太いサトウキビの苗作に適しているとの調査報告を受けました。
嘉南大圳、烏山頭(うさんとう)ダムを設計し作り上げた八田(はった)与一技師(1886〜1942年)と同じ金沢出身、その工事にもたずさわった磯田謙雄技師が、新社の奥山、八仙山に沿って流れる水量豊富な大甲渓から取水して、814ヘクタールの土地を灌漑(かんがい)する企画設計をしました。
1927年、当時の日本帝国議会で145万円(今の55億円相当)の予算が通り、翌年工事が開始されました。22のトンネルと14の水路橋、さらに、大甲渓中流の白冷台地と新社台地の高低差(22.6メートル)を利用して、水を移動させる3つの逆サイホン装置も作りました。地形の変化を使い、電気などの動力を一切使わない送水路が出来上がったのです。
日本から船で運ばれてきた鋼鉄の送水管は、直系1.2メートル、鋼壁1.2センチの立派なもので、同行した若い教授が、当時の日本の鋼鉄技術の高さに感心していました。白冷圳の工事は1932年に完成しました。
1999年の大震災で、山に変動が起こるまで、68年間絶え間なく、新社地区に灌漑と生活用水を送りこんできたと、台中の農田水利局の幹部は誇らしげに、自分の身内のことを話すように、日本の国会議員に話していました。工事にたずさわった日本人は簡素な宿舎に住み、台湾人と一緒になって、堅固で品質の高い基礎工事を行ったと証言を残しています。
大震災で、白冷台地と新社台地が同じ標高554.99メートルにまで盛り上がり、逆サイホンが使えなくなりました。そのときになって、3万人の住民は、当たり前のように使っていた白冷圳から流れてくる水が、どれほど、自分たちの生活をうるおしていたかを再認識したのです。
若い人たちは「おいらが村」の歴史、文化を研究し始めました。夫の許世楷は、「金沢の有名な兼六園を訪れたとき、近くの川から園内の霞が池に貯められた水は、さらに逆サイホンの道理を使い、すぐそばにあるお城に用水として引きこまれていたのだと、説明を聞いたことがあるよ」と、若い人たちに話し聞かせていました。
わたしも、磯田技師が新社の台地にたたずみ、故郷の兼六園と金沢城を思い浮かべている姿を想像しました。大震災の後、毎年、通水が始まった10月14日には記念会が持たれるようになりました。朝早く村人たちは大人も子供も、夜のお誕生会の前祝いに白冷圳の清掃をしました。
特に、今年は白冷圳誕生80周年になりますので、磯田謙雄技師についての記念碑を建立したいと、新社の人々に碑文のための資料探しを頼まれました。金沢出身の岡田直樹・参議院議員にお願いしたところ、詳しい資料が金沢大学に留学中の金湘斌さんを通して送られてきました。
旭川観光大使の藤見尚子さんが、「磯田さんが新社の地に残したものと、それを大切にしてくれている台湾人の気持ちを日本の人たちに知ってもらいたい」と、話していたのが心にこだましています。 (産経新聞2011年10月21日) -
白冷圳 逆サイフォン送水管に到着
磯田謙雄技師の銅像
本日10月27日、この銅像は12日前の10月15日除幕式
帰国後知った。もっと前からここにあるのかと思っていた
山岡先生の碑から車で約30分で到着
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目の前に磯田技師の腰掛けたブロンズ像があった。この銅像の建立も帰国後知ったが、10月15日磯田氏の長女:松谷良子さんも出席して除幕式が行われたとのこと。「へぇ〜そうだったのか」その時は、そんなことも露しらず昔からあったものと思いながら磯田技師が座っている石のベンチに並んで腰を掛け記念撮影をした。
その石のベンチに取り付けられた銘板をアップで写真に撮ってるが、その時は写真を撮るだけで読んでいない。日付はなかったがちゃんと「2013」と刻まれている。作者は「謝棟梁」とある。棟梁という名前に大工の棟梁?を連想したが謝棟梁さんはれっきとした彫刻家。磯田技師の銅像は、にこやかな表情でまことにリアルで素晴らしい。
この二本の送水管を前にして、新旧どっちか分からなかった。1999年9月21日の台湾大地震(921大地震)で地形が変わって使えなくなり、四年後の2003年5月新しい送水管が完成した。でも目の前にある「水色」「緑色」の二本のどっちが新で旧なのか?現地に行けば、見てすぐに分かると思っていたが、塗装しているので見ても新旧区別がつかず。どこに表示があるのかも分からず。やっと今になって分かった。「水色が新で緑色が磯田技師の作った送水管」。塗装の色が変わらなければ・・・。
http://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E7%99%BD%E5%86%B7%E5%9C%B3
八田與一に磯田謙雄、その他にも多くの日本人技師が台湾全島でのインフラ整備に関わり一大事業を成し遂げた。どんな苦労より“やりがい”の大きさは比較にならず、みんな良き人生を真っ当した。生まれるにあたり時代も親も国も選べないが、この時代に日本人として生まれた者は幸運だった。
当時の日本は次々と領土を拡張し、彼の地の発展に寄与しようと海外に雄飛した。能力ある者は引く手あまたの時代だったろう。スケールもみんな大きい。そして後世に恥じない、そして当地の人に役立つ物を作った。インフラを整備しただけでなく、教育を含めて総合的に全ての水準を引揚げようとした。
磯田技師の故郷金沢では、江戸時代に「伏せ越しの理」(逆サイホン)を応用して低いところから高いところに水を揚げている。「兼六園と辰巳用水」この白冷圳の送水管も、江戸時代の日本人の技術を思えば当然とも言える。一体明治維新から敗戦までの日本はどんな日本だったのだろう?と、いつもそのことを想像する。
http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/meienki/rokusho/suisen/d01.html
送水管に沿って歩道橋が山の上まで付いているが入り口にそれぞれ鍵が掛かり入れなかった。この歩道橋を登って上から写している写真もあったので登れるかも?と、思っていたが登れなかった。でも閉まっててちょっとホッとした。開いていればやっぱり登る。しかし体力が半端なく必要そうな階段だから・・・。ここも、ゆっくり見たつもりだったが滞在20分程。 -
どっちが新で、どっちが旧なのか?
帰国後分かった。こっち方向を見れば
緑(左側)が旧、水色(右側)が新 -
「左:新」「右:旧、磯田技師制作」
921大地震(1999年9月21日)で旧送水管が壊れる
四年後の2003年5月新しい送水管が完成した -
山を越え川を越え、また山を越えてゆく送水管
地形の変化を使い、電気などの動力を一切使わない送水路 -
磯田技師がベンチに座って送水管を眺めている
地震で壊れるまで68年間ずっと地域に貢献し続けた
後世に残る仕事をやり遂げた者はなんといっても幸福だ -
上から銅像を見下ろす
まるで人がこっちを見上げているようにリアルだ -
公園になっていて送水管の説明が丁寧に書かれている
白冷圳 逆サイフォン送水管
http://youtu.be/2yAAMVVaqY0 -
「台日友好の懸け橋」を渡って、その先に何かありそうだった
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安妮公主花園
ここから川向こうの高台に公園らしきものがあるので行った。「台日友好の懸け橋」を渡って近づいたら「安妮公主花園 アンニィゴンジュゥホアユエン Ānnī gōngzhǔ huāyuán」という花のテーマパークだった。入園料¥100元。車も一緒に入ったが“游さん”の分は不要だった。
http://annie.mmmtravel.com.tw/?ptype=info
今日は日曜日だから、そこそこ人が入っていたが5年後にここがまだあるとは思えない。この横が白冷圳なので安妮公主花園も同じ場所だと思って差し支えない。喫茶コーナーでジュースを頼んで小休止した。ここからも山の上まで伸びている送水管が見える。
“游さん”が持参のタブレットを開いて彼女とアチコチ旅行した写真を見せてくれた。休みの日に台湾の観光地巡りを二人でしているそうだ。素敵な彼女が写っていた。
午前11時帰路に付く。新社には軍隊の駐屯地が多いようで「ここも、あそこも 軍隊」と教えてくれた。豊原に戻って、最後は豊原神社の狛犬がある「大街尾福?祠」で降りた。この場所がどこにあるのか分からなかったし、駅から近いということで・・・。
タクシーの運転手“游さん”は、良い人だった。「速度快、可是安全」「速度は早いけど安全運転」・・・それが“游さん”の口癖だ。確かに当たっている。狭い道をぶっ飛ばすけど恐怖感はあまりなかった。最初の約束は2000元の包車だったが、時間も2時間半くらいになったし満足したので500元プラスして¥2500元渡して降りた。今日の「一期一会」も幸運だった。 -
安妮公主花園という花園があった
10年後営業が続いていると思えないが
折角作ったのだから何とか工夫して続けて欲しい -
子供連れやアベックの来るところのようだ
巨大送水管と連携しての観光地になってもらいたい -
喫茶コーナーから送水管が見れる
同じ場所 -
“游さん”がタブレットに保存してある
彼女との旅の写真を見せてくれた
今、ウキウキ状態の“游さん”
早く結婚して幸せになって下さい -
軍隊の駐屯地が多いところだと“游さん”は教えてくれた
この鉄条網のある塀のなかは駐屯地
“游さん”も徴兵で軍務経験あり -
「大街尾福?祠」
また戻って来た、福徳祠
駅から続く中正路沿いにある
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■豊原に戻る
福徳祠の裏側に綺麗に手入れされた妙な広場があり、そこにまた奇妙な亀の甲羅型?の盛土がある。周囲を石とコンクリートで固め、上にはびっしりと丈の短い木が植わっている。
その奇妙な盛土に瓢箪の絵が描いた立て札が立っていた。その時はあまり気に止めず、その札をアップで写していないので書かれた字も判読不能。ネット検索したらこの盛土は、「葫蘆墩遺址」とある。葫蘆は瓢箪(ひょうたん)で、墩は(土を盛り上げたもの)。そしてこの地に三つの盛土があり、頭・身体・そして足(脚)。
ここのは脚に相当する盛土のようだ。身体の部分もあるようだけど、頭の部分はすでにないとのこと。そして豊原の旧名「葫蘆墩」の名前の由来がこの三座のようである。
「[日治遺跡] 豐原神社的狛犬」
http://www.wretch.cc/blog/barefoot/14364801
「台中豐原神社,找尋狛犬(南陽國小、大街尾)」
http://blog.yam.com/sware1786/article/59615094
「豊原神社の燈籠と狛犬」
http://taiwanyuri.blog.fc2.com/blog-entry-367.html
その時は福徳祠の後ろの広場と盛土は確かに「何か?妙な空間で盛土やなァ〜」と感じたけど、それだけでそれ以上に興味もなかった。そして再度、豊原神社から移設されたといわれる灯籠と狛犬を眺め写真に写す。
“游さん”に「ここから駅に向かって歩いたら途中に大きな廟があるから」と教えてもらっていたので、そこを目当てに中正路を豊原駅方向に歩く。 -
この盛土が瓢箪の名前の由来
頭・身体・足の三つの盛土があり、これは足に相当する
周囲を芝生広場とし、何か不思議な空間だった -
「慈済宮」1806年(清時代 嘉慶11年)に建立
1806年、日本は徳川 家斉(とくがわ いえなり)
江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)
将軍在職期間50年は、歴代将軍の最長記録
16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人を儲けたが
成年まで生きたのは半分(28名)だった
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■豊原駅に戻る
福徳祠から歩いて七分で、その大きな廟に辿りついた。その名は「慈済宮」1806年(清時代 嘉慶11年)に建立され、200年以上の歴史あり・・・か。ということは日本統治時代もここにあり。在住日本人もたまにはお参りに来ただろう。豊原神社もあったけど。今日は日曜日、そして台湾の人は信仰心厚いのか?廟はどこでも参拝客で賑やかだ。
この廟のすぐ傍に、これぞ中華街という感じの市場がある。「廟東小吃街」「廟東夜市」朝も昼も夜も人の往来絶えずなのか、びっしりの混雑だった。人の流れに合わせてキョロキョロしながら右に左にしばし歩く。面白い。そして結局、何も食わず何も買わずに通り過ぎた。そして駅を目の前にして原付同士の事故直後に遭遇。
路上に転倒しているバイクを運転していた人が救急車で運ばれていた。若い警察官が二人対応していたが、すぐにパトカーも来て現場検証が始まった。負傷した人を見ていないので事故の程度は分からないが、台湾はバイクが凄く多い。こういった事故も日常茶飯の光景だろう。
時間もすでに昼を回って午後12時半、セブンイレブンで「手巻き寿司¥39元」と「お茶¥20元」を買って中で食べる。レシート時間12:35:11。折角の台湾旅行だがどうも食物には興味が湧かない。小休止し、駅傍の「葫蘆墩旅行文化派出所」を覗いてみたが玄関も閉じたままで入れなかった。窓から中を覗いたら真新しい木のベンチシートが並べてあり改装中なのかも・・・。いつまでもこのままの姿と留めて欲しい。 -
慈済宮の傍に廟東小吃街がある
日曜日なのか?凄い人通りだった
小吃街の名の通り、両側に食べ物屋がひしめく -
“おでん”の提灯もあり
豊原の住人一同集まったかの如くなり
愉快!愉快! -
単車が倒れ、人集まり、警官が来ていた
救急車が行ったあとに現場に来た
単車の運転手が負傷したのだろう
この後もパトカーが到着する -
せっかくの小吃街で食わずコンビニで寿司食う
これを旅と言うのだろうか?ハハハ -
葫蘆?弧旅行文化派出所の内部
中を見たらリ綺麗な椅子が並んでいた
日曜日だから鍵が掛かっていたのか?
この建物も以後長く保存をお願いしたい
豊原 「廟東小吃街」他
http://youtu.be/HFhT2D1vT4Q -
「台中後站」の駅前を写す
表と違って台中駅の裏は、様相はまるで違う
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■台中に戻る
豊原と別れを告げ、自強13:04(発)に乗車してあっという間(13:15)に台中駅に到着。今、この路線は高架工事中で「台中⇔太原」の区間は、先行して来年(2014年)に完工となっている。ホームから見上げた高架の橋脚はすでに出来上がっている。その時、台中駅舎はどうなるのだろう。
http://service.tra.gov.tw/Taichung/CP.aspx?SN=12266
「台中車站」は、初代の駅舎が1905年5月15日(明治38年)竣工開業した。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を覆滅したのは同年5月27日。台中駅開業から12日後のことだ。必死でもあっただろうが意気盛んなりしころの日本。自信に溢れ得意満面の日本人の姿が目に浮かぶ。
二代目の台中駅舎は、台湾縦貫鉄道、基隆・打狗(高雄)間(405.9キロ)が1908(明治41)年に全線開業した時に着工し、9年後の1917年(大正6年)に竣工。駅舎の設計は、現存する最古の駅舎である新竹駅(1913年竣工)の設計者の松崎萬長(まつがさき つねなが)氏。その後、台中は駅舎を中心に碁盤目状に町が作られ「小京都」と呼ばれた。
921大地震で損壊。2005年修復が完了し現在の姿になった。台中駅の表玄関(北側)にしか降りていないので裏側はどうなっているのかと思って、裏側に行った。この時、通路に昔の貴重な写真が掲示されていたのでそれを撮りながら歩く。裏出口改札で駅員に「写真を撮ってすぐに戻るから、又通して・・」と言って出してもらう。
表と違って裏の風景に驚いた。大都会台中から一瞬に田舎の駅に降りた気分になる。この駅は台中站ではなく「台中後站」との駅名だった。『昔の台湾糖業鉄道中南線台中駅である。』・・・なるほど元々別の駅だったようだ。表と裏は通路で繋がっていはいるが、実は別の駅とは面白い。こんな駅を見たのは初めてだ。他にもあるのだろうか。たまたまおもいついて裏口に回ったけどその甲斐があった。
そしてまた表玄関に戻り、赤レンガの英国風台中駅を眺めた。建物として古くなっても良いものは良い。ヨーロッパにまだ行ったことは無いが、映像で見る中世を思わされる街並みをいつも羨望の思いで見ている。日本も江戸時代の街並みが整然と残っていれば、どれほど素晴らしい光景かと思う。京都・奈良、その一画だけでも良いから徹底して古き日本の街並みを現実の暮らしとともに残して欲しいけど、木と紙の日本家屋で快適さを望めば難しいなあ。 -
駅名も台中站ではなく「台中後站」と名前が違う
昔の台湾糖業鉄道:中南線「台中駅であり」
以前は路線の違う別の站だった -
1905年開業時の木造初代「台中駅」
1905年(明治38年)5月15日開業
5月27日日本海海戦バルチック艦隊覆滅す -
1917年(大正6年)に竣工
現在の台中駅 -
http://www.tonyhuang39.com/tony0607/tony0607.html
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■台中公園
そのまま台中公園に行った。この公園には日本時代の数々の遺跡が残されている。公園そのものが日本統治の象徴だとも感じる。このHP「[台中市].台中公園.砲台山」の地図を片手に自由路二段の公園南角の入り口から入り、まず右手方向。テニスコートの東側にある「勝利碑」に行った。
この碑は、「臺中公園」によれば、元は台湾で亡くなった将兵の慰霊のために「台中招魂社」が老松町(復興路三段舊台中酒廠付近)に立てた招魂碑。それを鉄道建設のため1905年2月にこの地に移設し名前を「昭忠碑」とした。そして日本が敗戦し台湾光復後「勝利碑」となって現在に至る。日本軍将兵の慰霊碑が台湾の勝利碑に取って代わるとは、これが歴史というものか。
昭忠碑と勝利碑、どちらも三文字。その文字部分を削って剥がし貼り付けた後が、写真で見てもあからさまに分かる。国民党のやることは大陸漢族に似たり、まあ台湾に逃げ延びても同族だから資質も同じだ。日本人戦死者の昭忠碑を、ぬけぬけとそのまま勝利碑に変える神経は理解できないが、そのまま残っているのは幸いだ。日本人の魂は石碑の奥深くにある。勝利碑の三文字はいかにも張りぼてで、そのうち剥がれ落ちるだろう。
「戦後まもなくの外省人と台湾人」「戦後まもなくの国民党支配の台湾、今の親日台湾」・・・どうも時々感覚がおかしくなる。時に腹が立ったり、時に感激したり。こんな勝利碑を見たら「ふざけたことをするな!」と、つい思ってしまう。その場では何も分からず。次に行く時は我が眼中に勝利碑はあらず。「招魂碑」「昭忠碑」を頭に浮かべ手を合わせる。
台中神社に向かう途中にあった「更樓」『外敵を見張る塔のこと。公園を作る時に土地を寄付した台中の名士「呉鸞旂」氏の住宅からの移築だそうです』。日曜日だからかキリスト教の集まりがあり青空の下、20〜30人が話を聞いていた。更樓は集会などでよく使われるのかYou−Tubeに「二二八追思?行動」など集会の様子が沢山ある。
http://youtu.be/TCh_X_iB0TU -
「昭忠碑」が戦後「勝利碑」となる
三文字を削りとり、その後に貼り付ける
日本軍将兵の慰霊碑が敵の勝利碑に変わる -
テニスコートの前に立つ「昭忠碑」
-
「更楼」
外敵を見張る塔 -
1912年(大正元年)10月竣工
旧台中神社跡
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■台中神社跡
台中神社は、『1942年(昭和17年)11月27日、同町の水源地に遷座(せんざ)し、国幣小社に昇格した(現在:台中忠烈祠)。1945年の第二次世界大戦の日本の敗戦の後、廃座された』・・・であり、ここの神社跡は昭和17年に遷座される前の神社だ。新社殿落成後、旧社殿と鳥居は取り壊されたとある。
その遷座前の旧台中神社跡には参道が残り左右に灯籠が今も並んでいる。ありがたい。その先に階段があり拝殿の姿を想像するに容易い。ここも狛犬が左右に鎮座し今も神社を守ってくれている。1912年(大正元年)10月竣工、鎮座祭が行われた。戦後、忠烈祠に改められた。1970年神社建物は全部壊され、1973年本殿部分に孔子像が出来た。
へぇ〜・・・『並んでいる灯籠も全部撤去されていたのものが、近年神社遺跡として整備され元の通りに並べ直された』・・・そうなのか。最近になり台湾全土で日本統治時代の遺跡保存に力を入れてくれるようでありがたい。「いつまでも残してくれよ」と勝手ながら願う。
石垣に囲まれ一段高くなった神社の基礎台の上が広く周囲は大きな樹木で囲まれ日陰にもなっており休憩場所になっている。更に一段高くなった本殿の石垣に年寄りたちが腰掛けていた。中央奥に孔子像が立っている。この孔子像は1972年日中国交正常化に伴い、日台国交断絶となった翌年1973年日台双方のライオンズクラブが寄贈したものらしい。そんな政治背景のもとに民間交流と言う形で孔子像がここに建った。
そして狛犬とともに銅馬が左右に残っている。(抜粋)『この神馬は昭和初期に市内の「宝田町第一住宅組合」の人々が神社に奉納したものだという。戦中の金属供出にも、戦後の混乱期にも破壊されることなくその姿をとどめてきた』
この左右一対の神馬の台座の下に「獅子會標的」「獅子會信條」がどちらも箇条書きで書かれていた。「一体なんや、これは?」と思ったら獅子會というのは、なるほど「ライオンズクラブ」のことだった。1973年、日台双方のライオンズクラブが孔子像を寄贈した時、この神馬像建立の献金者の名簿などが書かれていたものを削り取って刻みなおしたのかも。それで納得。
そして神社跡の傍の芝生に神社の石の鳥居が横たわっている。それも地面に直接倒しているのではなく、ちゃんと石製の置き台を作ってその上に置いている。その横には日台両国語で神社と鳥居の解説板があった。2000年に公園整備で石の鳥居を保存する時、一部が欠損していたのを新しい石材を使って今の形にして寝かして置いているようだ。 -
台中神社石燈籠
『並んでいる灯籠も全部撤去されていたのものが、近年神社遺跡として整備され元の通りに並べ直された』 -
台中神社跡
樹木に囲まれ日陰となった休息所 -
本殿跡は憩いの場
日曜日の昼下がり、人も多い -
立派な神馬(銅馬)が左右に残っている
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時代変われど神馬とともに神社を守る狛犬
共に永遠なれ -
石の置き台の上に寝かされた石の鳥居
こうまでして保存してくれるありがたさ -
望月亭
清朝時代の建築物だが、修復したもの
http://www.taipeinavi.com/miru/168/
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■望月亭・砲台山・他
「望月亭」
『「望月亭」は、清朝の台湾府城北門建築物を移構したもの。唯一清朝のものという額がかけてあります。』と言っても修復したもので、その時職人が柱などに『自分の名前と電話番号まで入れちゃっていること。当時は文化財保護の観念は薄かったようで…、電話番号のケタ数に時代を感じます。』とある。残念先に知っていれば、それを探したのに・・・一応上って上から周囲を眺めたけど、柱に名前と電話番号など思いもよらず、写真を写しただけだった。行かれる方は是非職人の落書きを探して下さい。
どでかい山羊の像を見つけたが、この時は近づかず。砲台山の下で怪しげな街頭芸人が日本の歌を奏でていた。一人が三味線のような物を弾いてたが、あとは度派手な“オバチャン”が車椅子に座り、その他の男女二人が縁石に腰掛け女性はジュースを飲み男は暇そうにただ座っている計四人。スピーカーからボリュームを上げテープで日本民謡を流し続けていた。何で三味線が必要なのか?得体の知れない台中公園「提高文化」「文化向上、街頭芸人」は、きっとここでは有名かも。年の頃50〜60歳の男女二名づつ。
砲台山に「抗日忠勇将士民衆記念碑」がある。ここには第四代台湾総督:児玉源太郎陸軍大将『(嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年)7月23日)満54歳』の銅像が立っていた。児玉は1898年(明治31年)2月26日から八年二ヶ月も台湾総督だった。日露戦争時も総督を兼務するくらい台湾への思いは強く、自ら見出した後藤新平を右腕として重用した。この二人のコンビあればこそ台湾の安定とその後の発展が実現した。
どんな組織でもトップが良ければ、万事は上手くいく。家庭も国もしかり。台湾発展に多大の貢献をした児玉源太郎の銅像を撤去して抗日記念碑とはまことに皮肉なものだ。外省人に席巻された当初の台湾と、李登輝以降の台湾は似て非なるものと思いたい。外省人、馬英九とはいえ、当初の外省人とは似て非なる精神構造になっていると思いたいけど・・・。それは甘いのだろう。
ホント公園内の小高い丘だが『砲台山は台中で一番高い丘であり、台中の市街地を見下ろす場所となっていました』とは登って見るまでピンと来なかったが、上に立てば、そんな感じはちょっとした。砲台山の名前の由来は「進攻する日本軍に対抗するため砲台が設置された」とのこと。なるほど。碑の横に「台湾地籍測量三角原点中心碑」がある。台湾の測量の始まりはこの場所からだった。へぇ〜そうなのか。その時、見向きもしなかったけど、写真にちょっと写っていた。
そして児玉源太郎陸軍大将の碑の下に、児玉台湾統治の右腕:後藤新平『医師(安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4 月13日) 享年72歳』の銅像が建つ碑がある。後藤の代わりに立つのは孫文だが。「國父銅像重建落成祈念」「中華民國建国59年10月」と書かれたプレートが貼り付けれていた。 -
砲台山下で日本民謡他日本の音楽を流していた
きっと台中公園では知る人ぞ知るの楽団?だろう
聞いていた間の曲は全部日本の曲だった -
我砲台山に登る
ふ〜ん、進攻する日本軍への対抗のための砲台だったのか -
児玉源太郎の銅像が抗日忠勇将士民衆記念碑となった
歴史は勝者が作る。負ければ致し方なし
左奥に「台湾地籍測量三角原点中心碑」が写っている -
後藤新平の銅像が孫文像に置き変わった
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■後藤新平像が孫文像に変わる
後藤新平像は「台中公園.砲台山」に写真がある。
http://www.tonyhuang39.com/tony0607/tony0607.html
児玉が後藤を抜擢し、後藤も人材の適材適所を最大限重要視した。後藤が台湾に新渡戸稲造を招請した時、新渡戸が病気を理由に辞退しても執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。その後藤の有名な言葉が「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
立派なことを成すには「人こそ全て」だと思う。「悪法も法なり」ではなく、悪法もそれを用いて裁く人間が真っ当であれば、まともな法となりえる。完璧無比な法はなく、それを用いて裁く人間が悪人であれば、どんな法も悪法となる。台湾に児玉がいて、児玉が後藤に任すべきを任せ、後藤が新渡戸を招いた。結果の全ては人が成したことだ。ゆえに誰しも少しはまともな人間を目指すことだ。
「中國廣播公司 臺灣廣播電台」「中国放送協会 台湾ラジオ局」という銘板が貼り付けてあった。最初に作ったのは1935年日本時代台中放送局なので、その名前ではなかったろう。戦後、中國廣播公司が接収し、1960年まで使われていた。屋根の下にスピーカーがあり、そこから周囲にラジオ放送が流れていたようだ。私は街頭テレビは小さい時に新開地の湊川公園にあったのを見たが、街頭ラジオは実際に見たことも聞いたことも記憶にない。これがあるのは台北の「二二八和平公園」と、この台中公園の二つだけらしい。 -
中國廣播公司 臺灣廣播電台
昭和20年8月15日玉音放送はこのスピーカーから流れたのか? -
池亭→湖心亭
1908年台湾縦貫鉄道全通記念式典が台中公園で行われた
その時出席された閑院宮載仁親王の休息所として作られた
1985年に改修され1999年台中市政府によって
「市定古跡」に指定され「湖心亭」と名づけられる。
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■日月湖 湖心亭
台中公園は1903年(日露戦争開戦前年)開園された。最初の名前は「中之島公園」当初は日月湖に草棚の休憩所があっただけだが、1908年台湾縦貫鉄道全通記念式典が台中公園で行われ、その出席のために訪台された閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、慶応元年9月22日(1865年11月10日) - 1945年(昭和20年)5月20日 享年80歳)の休息所として東屋が増築され「池亭」と呼ばれていた。この時の盛大な祝賀会は、「50年の領台の歴史で最大のイベントであった。」らしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
載仁親王は陸軍大将になった。明治維新後皇族男子はみんな軍人になった。今は防衛大学に入る皇族はなく学習院に入る。戦後GHQの思惑によって11宮家が皇籍離脱を余儀なくされ、皇族は減り天皇陛下の男系継承も至難のこととなっている。一日も早く、旧皇族の11宮家の皇籍復帰を実現させ皇室の安泰を図ることこそ未来への責任だ。
そして皇族男子は全部とは言わないまでも軍人の道を選び、国民に範を示してもらいたい。戦後日本は軍隊・軍人を忌避し、まるで軍隊軍人が悪であるかのような錯覚に陥っている。武士・軍人こそが国民から一番尊敬される立場でなければ国は守れず、国民の精神性・道徳も守れない。戦後日本のように商人が天下を握れば、誇りや名誉はないがしろになり個人主義が増長し国民精神は堕落を極め国家国民は衰退する。良いことはなにもない。
中山橋を渡り、中正橋を渡り、湖心亭に入り、ブラブラと公園内を散策して出たのは15:54分。デジカメ写真時間によれば15:00から1時間弱の散歩だった。
台中公園
http://youtu.be/f78DBM3oPbc -
道中、果汁店があり入る
総合果汁¥40元、氷不要を頼み飲む
“オバチャン”“おっちゃん”としばし世間話
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■台中州庁
まだ今日の台中散策は続く。次の目的地は森山松之助設計の「台中州庁 1912着工 1913竣工」現在も「台中市政府台中州庁」(住所: 臺中市西區民權路99號)として使われている。台中公園南から出て、自由路二段を南西に向かうとすぐに果汁店があったので入って休憩。ここでも総合果汁¥40元、氷不要を頼んで飲んだ。そしてしばし“オバチャン”と歓談。途中ご主人らしき“おっさん”も加わって三人で話す。といっても互いにカタコトの日本語と中国語。
“オバチャン”は日本に三度ほど来て今は日本語勉強中とのことだった。でも口から出てくる日本語はほとんどなかった。私の好物はこの果汁ジュース。これからも台湾に行き、この店を見つけたら一日二回くらいは飲むだろう。10分ほど休憩して又歩く。
自由路二段と南北に交差する民権路を北に向かえばすぐに台中州庁に到着。昨日の夜もここを歩いて夜店に行った。その時はライトアップされてその存在感を示していた。今時の日本の役所で、こんな歴史ある建築物をそのまま使い続けているところは少ない思う。古い物はそれだけで意味があり、何かを感じさせる。自分の老いゆえなのか、古い物が良い。
正面玄関前に行ったら右に「臺中市政府環境保護局」左に「臺中市政府發展局」の看板が掲げてあった。そして正面玄関が開いていたので恐る恐る入ったら「参観ですか?」と警備室の人に問われた。「ハイそうです」「日本人?」「ハイ日本から来ました」と返事すると、「そのまま入ってください」とOKが出た。ラッキーだった。台湾人なら名前を書く必要があったみたいだけど・・・。
大陸満洲を含めて海外に残る日本時代の建物に幾度となく入っているが、今も現役で使われていること自体、その堅固さや時代を経ても機能的に使用に適う建物であることの証明だろう。とにかくいつも感じるのは「立派」ということにつきる。
専門的にはなんら分からないが、贔屓目もあると思うけど重厚であり、品格があり、こんな建物で仕事をしていれば、姿勢もしゃきっとするだろう。言語も人間の資質を決める重要な要素だろうが、建物もそうだ。いや建物だけではなく、やはり全てが関係する。総合的なものだ。これは当時の日本人に相応しい建築物であったはずだ。
統治する側の威厳を示すために、威圧の目的もあって分相応の建物を建てたという意見もあるようだが、そうは思わない。当時の日本人の意識が高かったから、各所にこんな建物が出来た。日本人としての誇りであり、国家の誇りであり、堂々と胸を張って国も日本人も邁進する時だったからの作品だ。「良くぞ作った」と階段を上りながら思った。
やっぱり国会議事堂もそうだが、役所はかくあるべきだ。高邁な理想や国民への奉仕の気持ち、国民への義務と言った精神性が要求される職場は、薄っぺらで機能と経済性だけを追求した建物ではダメだ。まず公人たる者、国民の見本になり給与よりも名誉を重んじ、そこに働く喜びを感じ、国民はその仕事ぶりに感謝する。今の日本には手本となる人がいない。見本となり手本となる人間が一人でもいないとつまらぬ人間ばかり増える。
階段を上れるところまで上り建物全体を一周した。内部のエレベーターに「4」という数字があったので四階部分もあるようだが、二階までが主要な建物部分だと思う。休日だったのでガラス越しに見えた部屋の中も人はいなく、事務所机とその上にコンピューターが各自備えられていた。今も十分現役役所としてこの建物は活躍している。
中庭も広く芝生も手入れされて美しい。ここで働く人の気持ちをきっと和ませくれるだろう。1913年竣工から今年2013年、ちょうど百周年だ。まだまだこのまま使われることを祈っている。中に入れてホント良かった。若い台湾人男女が何人か参観していた。警備の人に「謝謝!」と礼を言って外にでた。デジカメ時間24分入場37分退場、「えっ?たった13分・・・もっと長い時間いたと思ったけど」 -
森山松之助設計の「台中州庁」(1912着工 1913竣工)
威風堂々なり。建物は人を作る
建物貧弱であれば人も貧弱になり
建物立派であれば、人も立派に成る
台湾の日本統治時代の建築を見れば、そう思う
つまらぬ人間はつまらぬ物しか作れない
つまらぬ国はつまらぬ物しか作れない -
日曜日だから参観が可能だった。ラッキー
この階段を前にすれば、思わず背筋が伸びる
気合が入り仕事もちゃんとするだろう
間抜けな奴も見た目だけは賢くなるハハハ -
素晴らしきかな廊下
敗戦までの日本人は今と比較すれば千倍素晴らしかった
そりゃあ人間だから負の面もあっただろうが
今の日本人より遥かにまともだ
何と言っても自分の足で立っていた
今は軍隊を誤魔化して自衛隊とする卑屈な従属国だ
そりゃあまともな人間になれる道理はない -
英国風だが素晴らしい
大東亜戦争でまともな日本人は皆死んだ
戦後生き残った日本人はみんなダメだ
特に戦後利得者として政財官司法教育メディア界を牛耳っている奴らは
カスか○○ばかりだ。一人として私が尊敬する立派な日本人はいない
みんな戦争で死んだか、戦後追放されて隠棲した。無念なり
台中州庁
http://youtu.be/sLMXoqncsT0 -
朽ち果てた宮原眼科
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■足が棒になる
足もすっかり棒になったが、今日も満足感に浸りながらボチボチホテル方向に戻る。帰路に緑川東街を通って宮原眼科に立ち寄る。日曜日だから当然なのかも、人が溢れていた。内部は何を販売しているのか良く分からなかったけど、二階へ上がろうとすると入場料が必要のようだった。入場せず店を出る。横のアイスクーリム売り場は長蛇の列。若い人が多いけど、年配者も混じって並んでいた。
でかい円形の紙コップの中にウェハースで包んだいろんな種類のアイスクーリムが詰め込まれている。それを一人で、二人で、三人で、四人で、一個のカップに入ったアイスクリーム食べていた。一体この光景は五年後にもあるのだろうか?流行と言うのは恐ろしい。流行り続けるのは難しい。永遠なる物は何もないし・・・。
そんな台中の風物詩を見て、またホテルへと向かう。その途中、グーグルアースの“ストリートビュー”ではセブンイレブンだが、今は肉饅や餃子、豆漿(豆乳)の小吃店になっている。その角の店で焼き餃子五個¥20元と豆漿¥15元の夕食とした。美味しかった。いつも豆漿を探しているけどやっとありつけた。私の前に座っていた爺さんの皿には焼き餃子10個入っていた -
今の宮原眼科
-
宮原眼科のデカイアイスクリーム
並んでまで買う気なし -
この角の店で夕食とする
最近旅先で食い物に興味をなくし
ひたすら無難を選択するのみ -
焼き餃子五個¥20元と豆漿¥15元の夕食
前の爺さんの方が私の倍食っていた
でもここは客も多く美味しかった
豆漿(豆乳 ソップ)は美味い -
河川敷の美しさ、川の水の濁り具合
台湾の発展と文化水準を感じる
もっともっと綺麗になれ、なってくれと願う
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■散歩しながらホテルへ戻る
餃子を食って緑川に沿ってブラブラと散歩した。1912年児玉の次の五代、佐久間総督が柳が茂った緑の風景を目にして名づけたそうだ。その名前が今も残っている。川沿いの一部区間は綺麗に整備され散策や休憩場所になっている。往時のこの川沿いの写真が展示されていた。
そしてやっと今日の一日の予定を終了し、ホテルの部屋に戻った。17時38分。いよいよ明日は帰国の日、清水區に行く。それから高鐵:台中から桃園に行き、関空へ戻る。明日は飛行機の便が夕方 MM 28 台北(タイペイ)/桃園国際空港/18:50発 大阪(関西/関空)/22:10着なので目一杯の旅行日だ。
明日に備え身体を休める。最後の一日は特に要注意、油断大敵だ!帰国が嬉しい。ハハハ。 -
その川沿いに不気味なビル発見
何時このビルが解体されここに新ビルが建つのだろう -
台湾の歩道を車椅子で自力で通るのは無理
罰ゲームもここまではないだろう
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