2013/11/25 - 2013/11/25
266位(同エリア590件中)
belleduneさん
- belleduneさんTOP
- 旅行記839冊
- クチコミ134件
- Q&A回答177件
- 1,381,395アクセス
- フォロワー62人
明治時代には、富岡など金沢近辺が東京近郊の海浜別荘地として注目されていました。金沢に松方正義、井上馨らが別荘を造り、その後、大磯、葉山へ湘南地方が別荘地として栄えていきました。
伊藤博文金沢別邸は、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文が、明治31年(1898)に建てた茅葺き寄せ棟造りの田舎風海浜別荘建築です。当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構となっています。建物の老朽化が著しいため、平成19年に、解体工事、調査を行い、現存しないぶぶんを含めて、創建時のすがたに復元することになりました。平成20年6月から工事が始まり、翌年10月に庭園と併せて、竣工しました。
伊藤博文金沢別邸の切図が、当時別邸を管理していた地元の旧家・松本家に保管されていたために、柱位置、間取り、屋根形状などを確認することができて、復元をする上で貴重な資料でした。
格式の高い客間棟を眺めの良い海側の位置に張り出し、各棟を雁行形に並べて、廊下を繋いでいます。この客間には、畳の下に床暖房が入っており、ここで海を眺めながら、週末はお抹茶を頂くことが出来ます。今は、少し残念ですが、真っ正面に金沢八景の遊園地の乗り物が目に入ってきます。
- 旅行の満足度
- 4.5
PR
-
京浜急行線の金沢八景駅で降りて、シーサイドラインに乗り換え、一つ目の駅、野島駅で下車します。無人運転なので、一番前の席に座ってみましたが、写真を撮ってから、乗ってきた子供に席を譲りました。
このシーサイドラインは20年以上前から走っていたんですね。 -
金沢八景駅傍にある琵琶湖神社 祭神は市杵島姫命です。
治承4年(1180)、源頼朝が三島明神を勧請して、瀬戸神社を創建した時に、北条政子も日頃信仰していた琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して、瀬戸神社の海中に島を築居て創建したと言われています。 -
野島駅から地上へ降りて来て、2010年3月に出来た野島橋を渡って、野島公園へ向かいます。
野島は昔地続きだったのですが、海軍の航路確保のため、掘ってできた海です。 -
駅から歩いて、10分位で金沢別邸に着きました。当時の屋敷入り口は、この表門から40m程北側に構えられていました。
金沢別邸は、公益財団法人・横浜市緑の協会が管理しています。何と無料で見学出来ます。
客間には床暖房が施してあり、温かいお部屋に座って、お茶を飲みながら、目の前の海を眺めることが出来るのです。
入り口横にトイレもあり、見学者以外の方がトイレだけ使用されて、この施設の職員の方はちょっと困っていらっしゃいました。維持・補修費等を考えると、無料なのはどうなんでしょうね。横浜市は財政難ではないのでしょうか? -
「乙艫の帰帆 東京湾要塞司令部地41第十七號 横須賀鎮守第三號ノ三大正十四年二月二十五日検閲済」
当時の絵葉書、伊藤公の別邸の写真です。 -
ここは、台所棟で、八畳はある調理場です。
来客時には、地元の割烹、洲崎の東屋か野島の野島館などから仕出しを取っていたそうです。 -
置き竈が右手に見えます。
息子・文吉によると、「父は朝食には梅干しと茶漬けくらいで、晩は好んで、粥を食べていた」そうです。梅子の作る粥を特に好んでいたらしい。また豆腐料理も好物だという。 -
調理場奥の水屋です。人造石研ぎ出し仕上げの竈、立ち流しが見えます。下へは下りれないので、覗いて見ています。
-
水屋にある大正時代のポンプ式の井戸には、水道のように蛇口もちゃんと付いています。ちょっと珍しいポンプです。
ここの他に、井戸は4箇所あったそうです。 -
調理場横の4畳半と3畳の部屋は、女中部屋でした。
-
その隣は、3畳の部屋で、畳に掘りごたつのために畳が切ってありました。小さな部屋なので、小さめの掘りごたつでしょうね。
-
客用のトイレの手洗い所から外を見たところです。
-
お客様用なので、仕上げも綺麗ですね。全て木製です。
-
-
畳廊下
左手が客用トイレで、今居るところが、1間巾の畳4畳、襖の向こうがたたみ9畳の廊下となっています。 -
9畳の廊下から中庭を見たところです。右側が湯殿になっています。
-
-
12畳の控えの間「晴嵐の間」
今は障子が閉まっていますが、開けると24畳半の大広間となります。
天皇をはじめ、皇太子、皇族の来邸もあり、この客間棟で過ごされたということです。 -
-
天井が高く、鳳凰の透かし彫りの板欄間があります。
-
赤坂仮皇居御会食所移築計画
博文は、下腸前年の明治39年に、金沢別邸内に御会食所を移築する計画を検討していたらしい。御会食所は、御車寄せ、調理所などがあり、建坪は373坪と別邸に比べ、非常に大きなものでした。何らかの事情で、移築は実現せず、近くの大井別邸内に移築されました。移築後の御会食所は、「恩賜館」と名付けられました。現在は、明治記念館本館として活用されています。 -
-
-
12,5畳の客間「帰帆の間」
外が明るいので、部屋が暗く写っていますが、実際は明るいお部屋でした。 -
座って、暫く海を眺めていました。今はもうない当時のガラスが嵌っていました。微妙な屈折が面白いガラスですね。
浦郷(横須賀市)から取り寄せた鎌倉石(粟石)灯籠は、砂岩であったため、風化して朽ちてしまったらしい。当時、ここから正面に長浜検疫所が見え、東側に東京湾が一望出来たそうです。 -
-
床の間にある金屏風は、明治34年(1901)8月に博文が書いたものです。
春畝は博文の号。
「水陸草木の花を愛するものは多くいる、善の陶淵明は菊を愛し、李や唐より来る世人は牡丹を愛するが私の蓮の花の、淤泥より出でても染まらず、真っすぐに清く弄ばれないところを愛する。私が考えるところでは、菊の花は隠逸なる者なり。牡丹は花の富貴なる者なり。蓮は花の君子たる者なり。」
宋代の宋学の始祖といわれた周惇頤の「愛蓮説」を自筆したもの。 -
ここでお抹茶と干菓子が頂けます。ネットで見た時は週末だけのサービスとあったのですが、今日も頂けます。
床の間の左手に附書院が見えます。 -
客間の内縁
-
-
-
居間が見えます。
-
廊下に開けられた穴に指を入れて、板を外します。
-
廊下の角の始末
-
居間へと続く内縁
附書院の出っ張りが良く分かりますね。 -
満州軍総司令部の前線進出
明治37年7月6日、築地の海軍水交社で撮ったもの -
-
8畳の居間「秋月の間」
客間との違いは、ガラスの吐き出し建具の付かない雨戸だけの縁になっていることです。床は目地を切った縁甲板張りで、鶴の透かし彫りの板欄間があります。 -
明治31年(1898)に大磯の蒼浪閣の庭で、左が大隈重信、右が伊藤博文です。
-
明治41年(1908)やはり大磯の庭園で、晩年の伊藤博文。
別邸建築の11年後の明治42年10月26日に、ハルピン駅で凶弾に倒れて、伊藤博文は68歳で、その生涯を閉じることとなりました。 -
明治42年11月4日、伊藤博文の葬儀の様子
日比谷公園内の斎条へ向かう様子 -
秋月の間に続く八畳の「夕照の間」
-
床の間に掛けてある軸は、北原白秋のもの。
-
一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ 不思議ナケレド。
二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ 不思議ナケレド。
照り極マレバ 木ヨリゴボルル。
光コボルル。
白秋 -
金沢小学校蔵の伊藤博文が寄贈したとされるランプですが、ガラス部分の模様が綺麗です。
灯りを点けると一段と輝きを増すんでしょうね。 -
文久3年(1863)5月12日、横浜港から井上馨と伊藤博文がペガサス号で出航した。インド洋から喜望峰をまわり、130日余りでロンドンに到着したそうです。当時のこと、優雅どころでない、悲惨な船旅だったそうです。げっそり痩せて、骨と皮だけみたいだったらしいですよ。
-
そのペガサス号
-
湯殿は居間棟の西北に廊下を挟んで建てられました。屋根は寄せ棟で、板葺き。明治31年。土工で、洲崎の大谷栄吉、町家の澤木茂兵衛が地均しをしました。明治40年の改造では、5月に流しに地元産の土丹石という泥岩を敷き、セメントと御影粉を用いて、人造御影塗りで仕上げました。この工事中に来邸した西園寺公望は、据え風呂(鉄砲風呂)に浸かったということです。6月にはサワラの板風呂が出来上がり、7月には簀の子が出来上がり、お風呂場が完成しました。
-
湯殿 サワラ材の木製箱型風呂
-
湯殿の天井
-
湯殿の窓から向かいの畳廊下を見たところです。
-
湯殿の窓から客間の屋根を見たところ
-
憲法発布式之図
-
内閣総理大臣黒田清隆が天皇の前へ進み出て、憲法を受け取っているところです。
-
枢密院会議之図
-
2番目の妻・梅子さんはもと芸者さんだったので、人会釈が良く、気の利く人だったので、政治家の妻としては、適任だったのではないでしょうか。先妻は萩の本家にずっと住んでいて、博文の両親の世話をしていたそうですから、辛抱強い昔の女性だったのですね。
-
女好きとして知られていた伊藤博文ですから、梅子さんも苦労したんでしょうね。高熱を出して寝ているときも、芸者さんを両脇に侍らせていたということですから。
-
私以外誰も見学者がいなかったので、職員の方から色んなお話を聞くことが出来ました。有意義に別邸見学でした。
内部の見学が終わって、今度は外観を見に行きます。
管理事務所のある台所棟です。 -
客間棟
-
こうして見ると、客間棟を前にして、雁行形をしているのがよく分かります。
当時、海岸沿いに多くの灯籠が並んでいて、その奥に玉垣が設けられていました。博文がここへ来る時は、船で来ていたそうで、灯籠の灯りを目印にしていたのかと思われます。 -
建物の周りには明治期の松が植えられています。
-
こちらが居間棟です。
-
庭には、松のほか、珊瑚樹、マサキ、桃の木などが植えられていました。
-
居間棟の茅葺きの屋根
-
-
牡丹園は、曾てのじまにあった永島家の牡丹園を復元したものです。「牡丹」は金沢区の花です。
永島家は、江戸初期に儒学者・裕伯(泥亀)が父と共に江戸から金沢へ移り住み、新田開発を始めてから約二百年後、九代目忠篤(亀巣)が泥亀新田を完成させ、また製塩業で成功を収めました。永島家の牡丹は、裕伯の孫、金七郎が酒井雅楽頭忠明から神田小川町の酒井家屋敷の庭園にあった牡丹数十種を拝領したものです。牡丹園の美しさは、天保10年(1839)の「相中留恩記略」の中に「花の頃は壮観なり」と記され、徳富蘆花もその著「自然と人生」で「金沢の牡丹を見に行った」と記すなど、江戸時代から明治、大正期に多くの見物人が訪れました。
永島家と伊藤博文とは、亀巣の孫の亀代司が博文の夏島別荘の建設を請け負ったり、滞在中の世話係を務め、更には博文の推薦に寄って衆議院銀選挙に立候補して当選しているなど深い関わりのある間柄でした。
現在、永島家の屋敷跡は、住宅開発が進み、亀巣の偉業を讃える石碑が残るだけになってしまいました。伊藤博文の金沢別邸の復元に伴い、その隣接地に牡丹園を整備したという経緯がありました。 -
裏門 ここから牡丹園へ続きます。
-
「明治憲法草創記念碑」は、金沢別邸玄関前に置かれていましたが、近年東屋跡地付近へ移されました。
-
金沢別邸の職員の方が先日行なわれたスタンプラリーの地図で、別邸から金沢文庫のある称名寺までのルートを教えてくださいました。ここから称名寺へ歩いて行きます。
-
-
-
-
-
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
belleduneさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
74