高尾・八王子旅行記(ブログ) 一覧に戻る
JR中央線高尾駅(旧浅川駅)から甲州街道(国道20号)を渡り八王子霊園方面に向かう途中に永禄12年(1569)10月1日に小田原北条氏と甲斐武田氏とが争った「廿里(とどり)」古戦場跡があります。<br /><br />小田原北条氏が天文15年(1546)武蔵・河越城を巡る攻防に於いて山内・扇谷両上杉氏及び古河公方の軍を徹底的に敗退に追い込み、これを機に小田原北条氏は武蔵国南部支配を盤石なものにします。<br /><br />一方武蔵国南部から相模国北部まで山内上杉氏の守護代を勤めていた大石氏は主家を失った立場となり、熟慮の末小田原北条氏三男氏照(うじてる、1540~1590)を養子に迎え娘婿とし事実上支配を小田原北条氏に委ねることになり自らは滝山城を出て隠居の身となります。<br /><br />永禄12年(1569)武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)は小田原北条氏の本拠である小田原城を攻めるべく碓氷峠を経て小田原北条氏邦が支配する鉢形城を主とする北関東支城を撃破しながら南下、一方武田氏と連合する小山田信茂(おやまだ・のぶしげ、1545~1582)は信玄の別部隊として自領の郡内(ぐんない・甲斐国東部)より出陣し軍勢を通すのは不可能とされた小仏峠を越えて滝山城を目指します。<br /><br />やがて信玄の本隊は滝山城を臨む多摩川北岸拝島(現昭島市)に到達、また難所である小仏峠を越えた小山田信茂率いる約1千の軍勢は浅川(現高尾)地域に現われます。<br /><br />養子として大石氏の所領を受け継いだ氏照は当初は大石源三(おおいし・げんぞう)という名前で大石氏の知名度を活用して経営、しばらく領内の態勢固めをしつつ、防御性を高めるため滝山城の改変充実に専念します。<br /><br />やがて支配に自信を深めるなか氏照は「大石源三」から本来の北条氏照を名乗り、周辺の社寺仏閣への寄進をするなどして支配地域の安堵を図って農民などの周辺安寧に勤めます。<br /><br />武田信玄が小田原城攻撃の途中に滝山城に迫る事は氏照にとっては既に織り込み済みで迎え撃つ準備はあったものの、甲斐・郡内領主の小山田信茂率いる武田信玄の別部隊の小仏峠ルートとする攻略は全くの想定外の事でありました。<br /><br />つまり往時は武蔵国と甲斐国を結ぶ主要道路は古甲州路(現在の奥多摩街道)であり、小山田軍は和田峠経由で小河内(おごうち)または檜原(ひのはら)からの侵攻を予想した防御態勢、即ち檜原城を武田氏に対する警衛の城として重視した対応を取っていただけに氏照軍の対応は後手とならざるを得ません。<br /><br />氏照は小仏峠を越えての侵入に対し驚き、重臣の横地監物(よこち・けんもつ、生誕不詳~1590)、中山勘解由(なかやま・かげゆ、1548~1590)ら約2千人を派遣して廿里にて迎え撃ちますが、既に当地に先着した小山田軍約1千人は少数ながらも氏照勢の動きをいち早く察知し逆に氏照勢を迎え撃ちます。<br /><br />兵力的には不利ながら氏照の意表を突いた小仏峠経由の侵攻に加え武田軍最強と言われている小山田軍は横地監物らの軍をこの地で撃退し250名の戦死者を出すありさまです。<br /><br />武田信玄本隊も先陣した勝頼の武功もあり滝山城三の丸落城寸前に迫まる勢いで氏照守備の二の丸も危ういところでしたが信玄はそれ以上深く戦火交えようとせず、ここで滝山城から引き揚げ本来の目的地小田原をめざすことになります。<br /><br />信玄の猛攻撃が武田側の事情で途中で止まり小田原に向かった故滝山城は落城を免れましたが、氏照は此戦いで並並ならぬショックを受けたと思われ、滝山城の防衛力に限界を考えざるを得なくなります。<br /><br />そして2年後の元亀2年(1571)頃から深沢山に新しい城が建設され、天正15年(1587)小仏峠に繋がる甲州口に面した地に防御力の高い八王子城の完成へと導かれます。<br /><br /><br />2022年10月14日追記<br /><br />合戦跡地に無造作に建てられた説明板には下記の通り記述されています。<br /><br />『 市指定旧跡<br />          廿 里 古 戦 場<br /><br />      所 在 地 八王子市廿里町<br />      指定年月日 昭和31年7月28日市指定史跡<br />            平成16年10月8日市指定旧跡に種別変更<br /><br />永禄12年(1569)、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻めるために甲州を出発し、碓氷峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々と攻撃し、滝山城攻撃のため拝島に陣した。一方、信玄の武将甲州岩殿城主小山田信茂は、甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。滝山城主北条氏照の家臣、横地監物・中山勘解由・布施出羽守らは、10月1日にこの付近で迎え撃ったが、一戦にして脆くも敗れ去った。<br /><br />この戦いの後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ、落城の危機に瀕したが、信玄は途中で小田原城に向かい、落城はまぬがれた。<br /><br />この年の戦いで、氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ、小仏峠に近い八王子城の築城を計画したと言われている。<br /><br />     平成17年3月31日<br />                    八王子市教育委員会 』<br />              <br />

武蔵高尾 武田信玄に滝山城を徹頭徹尾攻め込まれた北条氏照が八王子城建設の契機の一つとなった『廿里(とどり)古戦場跡』散歩

12いいね!

2013/11/09 - 2013/11/09

1043位(同エリア2032件中)

0

11

滝山氏照

滝山氏照さん

JR中央線高尾駅(旧浅川駅)から甲州街道(国道20号)を渡り八王子霊園方面に向かう途中に永禄12年(1569)10月1日に小田原北条氏と甲斐武田氏とが争った「廿里(とどり)」古戦場跡があります。

小田原北条氏が天文15年(1546)武蔵・河越城を巡る攻防に於いて山内・扇谷両上杉氏及び古河公方の軍を徹底的に敗退に追い込み、これを機に小田原北条氏は武蔵国南部支配を盤石なものにします。

一方武蔵国南部から相模国北部まで山内上杉氏の守護代を勤めていた大石氏は主家を失った立場となり、熟慮の末小田原北条氏三男氏照(うじてる、1540~1590)を養子に迎え娘婿とし事実上支配を小田原北条氏に委ねることになり自らは滝山城を出て隠居の身となります。

永禄12年(1569)武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)は小田原北条氏の本拠である小田原城を攻めるべく碓氷峠を経て小田原北条氏邦が支配する鉢形城を主とする北関東支城を撃破しながら南下、一方武田氏と連合する小山田信茂(おやまだ・のぶしげ、1545~1582)は信玄の別部隊として自領の郡内(ぐんない・甲斐国東部)より出陣し軍勢を通すのは不可能とされた小仏峠を越えて滝山城を目指します。

やがて信玄の本隊は滝山城を臨む多摩川北岸拝島(現昭島市)に到達、また難所である小仏峠を越えた小山田信茂率いる約1千の軍勢は浅川(現高尾)地域に現われます。

養子として大石氏の所領を受け継いだ氏照は当初は大石源三(おおいし・げんぞう)という名前で大石氏の知名度を活用して経営、しばらく領内の態勢固めをしつつ、防御性を高めるため滝山城の改変充実に専念します。

やがて支配に自信を深めるなか氏照は「大石源三」から本来の北条氏照を名乗り、周辺の社寺仏閣への寄進をするなどして支配地域の安堵を図って農民などの周辺安寧に勤めます。

武田信玄が小田原城攻撃の途中に滝山城に迫る事は氏照にとっては既に織り込み済みで迎え撃つ準備はあったものの、甲斐・郡内領主の小山田信茂率いる武田信玄の別部隊の小仏峠ルートとする攻略は全くの想定外の事でありました。

つまり往時は武蔵国と甲斐国を結ぶ主要道路は古甲州路(現在の奥多摩街道)であり、小山田軍は和田峠経由で小河内(おごうち)または檜原(ひのはら)からの侵攻を予想した防御態勢、即ち檜原城を武田氏に対する警衛の城として重視した対応を取っていただけに氏照軍の対応は後手とならざるを得ません。

氏照は小仏峠を越えての侵入に対し驚き、重臣の横地監物(よこち・けんもつ、生誕不詳~1590)、中山勘解由(なかやま・かげゆ、1548~1590)ら約2千人を派遣して廿里にて迎え撃ちますが、既に当地に先着した小山田軍約1千人は少数ながらも氏照勢の動きをいち早く察知し逆に氏照勢を迎え撃ちます。

兵力的には不利ながら氏照の意表を突いた小仏峠経由の侵攻に加え武田軍最強と言われている小山田軍は横地監物らの軍をこの地で撃退し250名の戦死者を出すありさまです。

武田信玄本隊も先陣した勝頼の武功もあり滝山城三の丸落城寸前に迫まる勢いで氏照守備の二の丸も危ういところでしたが信玄はそれ以上深く戦火交えようとせず、ここで滝山城から引き揚げ本来の目的地小田原をめざすことになります。

信玄の猛攻撃が武田側の事情で途中で止まり小田原に向かった故滝山城は落城を免れましたが、氏照は此戦いで並並ならぬショックを受けたと思われ、滝山城の防衛力に限界を考えざるを得なくなります。

そして2年後の元亀2年(1571)頃から深沢山に新しい城が建設され、天正15年(1587)小仏峠に繋がる甲州口に面した地に防御力の高い八王子城の完成へと導かれます。


2022年10月14日追記

合戦跡地に無造作に建てられた説明板には下記の通り記述されています。

『 市指定旧跡
          廿 里 古 戦 場

      所 在 地 八王子市廿里町
      指定年月日 昭和31年7月28日市指定史跡
            平成16年10月8日市指定旧跡に種別変更

永禄12年(1569)、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻めるために甲州を出発し、碓氷峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々と攻撃し、滝山城攻撃のため拝島に陣した。一方、信玄の武将甲州岩殿城主小山田信茂は、甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。滝山城主北条氏照の家臣、横地監物・中山勘解由・布施出羽守らは、10月1日にこの付近で迎え撃ったが、一戦にして脆くも敗れ去った。

この戦いの後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ、落城の危機に瀕したが、信玄は途中で小田原城に向かい、落城はまぬがれた。

この年の戦いで、氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ、小仏峠に近い八王子城の築城を計画したと言われている。

     平成17年3月31日
                    八王子市教育委員会 』
              

交通手段
JRローカル 徒歩
  • JR高尾駅北口<br /><br />国鉄開業時は「浅川」駅で所在地が南多摩郡浅川村であったことから名づけられています。北口駅舎は、大社線大社駅の設計者曽田甚蔵氏が設計したものです。

    JR高尾駅北口

    国鉄開業時は「浅川」駅で所在地が南多摩郡浅川村であったことから名づけられています。北口駅舎は、大社線大社駅の設計者曽田甚蔵氏が設計したものです。

  • JR高尾駅駅銘板<br /><br />駅銘板に「関東の駅百選認定駅」と札が掲示されています。

    JR高尾駅駅銘板

    駅銘板に「関東の駅百選認定駅」と札が掲示されています。

  • 廿里(とどり)古戦場跡<br /><br />古戦場と言っても現在は道路だけしか見えません。

    廿里(とどり)古戦場跡

    古戦場と言っても現在は道路だけしか見えません。

  • 周辺散歩マップ

    周辺散歩マップ

  • 廿里古戦場説明板<br /><br />古戦場跡に関してはバス通りに面した道路上に説明板が建てられているほか何も情報がなくいささか呆気ない雰囲気です。

    廿里古戦場説明板

    古戦場跡に関してはバス通りに面した道路上に説明板が建てられているほか何も情報がなくいささか呆気ない雰囲気です。

  • 廿里古戦場跡

    廿里古戦場跡

  • 廿里古戦場跡

    廿里古戦場跡

  • 廿里古戦場跡

    廿里古戦場跡

  • 廿里古戦場跡

    廿里古戦場跡

  • 廿里古戦場跡

    廿里古戦場跡

  • 廿里古戦場跡

    廿里古戦場跡

この旅行記のタグ

12いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP