2011/06/23 - 2011/06/23
1101位(同エリア1903件中)
ムッシュさん
今回は、西八王子駅前から、駒木野宿、小仏宿を経て、標高548mの小仏峠を越えて行きます。峠の西面を下れば神奈川県相模原市にある小原宿に着きます。山登りをするので結構疲れるコースとなった。
【駒木野宿】
【小仏宿】 日本橋から十三里三十五町五十八間(55.0Km)、下諏訪へ三十九里十七町十四間(155.0Km)
天保14年(1843)で人口252名、総家数58、旅籠11。
【小原宿】
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 交通手段
- 徒歩
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-
西八王子駅前
-
【道標】
八王子市千人町と並木町の境、旧道右側に石造の道標がある。
右高尾山道、左真覺寺道と刻まれている。
【真覺寺】は、
八王子市散田町にある鎌倉時代中期に創建された真言宗の古寺である。 -
長安寺】
曹洞宗祥雲山長安寺があります、屋根の大棟に葵の紋があしらわれています。 -
【多摩御陵参道道標】があります、多摩御陵は大正天皇の陵墓です。
イチョウ並木が続いていく。その数768本。
昭和2(1927)年、多摩御陵の造営の際に、植樹されたものだ。
今では、大正天皇の御陵と、昭和天皇の武蔵野御陵 -
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【熊野神社】
天正元年(1573)八王子城主北条陸奥守氏照が再建した熊野神社です。
境内に縁結びの木と呼ばれるケヤキとカシの根元が一緒になって成長した相生木があり、この木の根元に自分の名前と思いを寄せる人の名を書いた小石二つを置くという願掛けがある。 -
南浅川を【両界橋】で渡ります。橋の上より撮影。
いよいよ小仏峠に向かいます。
両界橋より南浅川上流側、古淵。
右は旧花屋旅館である。
駒木野宿入口西浅川交差点より右折し、旧甲州街道に入る。 -
【小仏関】
関所は、当初は峠に有ったが、この地に移った。
駒木野橋を渡ると小仏関跡碑がある。関所は常時4人の関番により警護された。
元来は小田原北条氏と甲斐武田氏の国境である小仏峠にあったが、元和2年、徳川幕府の五街道整備により、ここに移設された。
説明板によれば、戦国時代に小仏峠に設けられた関所が、やがて麓に移され、徳川幕府になってから、この場所で甲州街道の関所として使われたとのこと。
厳格な関所だったらしく、関所の通過は、朝の薄明が始まる「明け六つ」から夕方の薄明が終わる「暮れ六つ」まで。
通行手形を番所の前にすえられた「手形石」という石の上に並べて、その間旅人は、「手付き石」というもう一つの石に手をついて、許可が得られるのを待ったそうだ。
【小仏関跡】 国指定史跡(昭和3年1月18日指定)
小仏関所は、戦国時代には、小仏峠に設けられた富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和九年(1623)以降四人の関所番が配備された。
関所の通過は、明け六ツ(午前六時)から暮六ツ(午後六時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番所の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の罰が課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって自由な面もあったらしい。明治二年(1869)一月の大政官布告で廃止され、建物も取りこわされた。 (平成10年7月1日 八王子市教育委員会) -
【史蹟小佛関阯碑】
甲州道中の重要な関所として幕府道中奉行の支配下に置かれ、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。甲州街道は、江戸幕府の逃げ道でもあったので、幕府直轄管理でもあった。
関所の開門は明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)までとし、江戸方からの旅人は太鼓橋の旧駒木野橋を渡り、木戸から関所内に入り、手形を手形石に並べ、手付石に手を付いて待ち、許されると西の御門から関所を出ました。 -
【手形石】と【手付石】
手形を手形石に並べ、手付石に手を付いて待ち、許されると西の御門から関所を出ました。これが手付石。
甲州街道の駒木野宿の中ほどにある関所。
小仏関は甲州道中の重要な関所として整備され、東海道箱根関、中山道碓井関と共に関東三関と呼ばれていた。
幕府道中奉行の支配下におかれ、明治2年太政官布告で廃止、建物も取壊された。
なお、写真の石二つが、通行人が手形を置いた「手形石」と、吟味を待っている間に手をついた「手付石」であったと伝えられている。 -
【甲州街道 念珠坂】の碑と地蔵さん
駒木野宿入口
西浅川交差点より右折し、
旧甲州街道に入る。
【駒木野宿】 日本橋から十三里八町五十八間(52.0Km)、下諏訪へ四十里八町十四間(158.0Km)
天保14年(1843)で人口355名、総家数73軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋12軒。
駒木野宿の本陣や脇本陣は残っていない。
如何にも旧街道らしい道となる。
この辺が駒木野宿の入口付近で、下宿と呼ばれていた。
正面は旧街道沿いにある駒木野病院で、
ここの住所は八王子市裏高尾町だ。
駒木野病院は、精神科専門で、病床は447床である。
駒木野宿、下宿
駒木野宿は、江戸側から下宿、中宿、上宿と10町にわたって続き、
本陣1、脇本陣1、旅籠12軒、問屋場3軒の宿場であった。 -
こちら、工事中の高速道路圏央道。
中央高速道と東名高速を繋ぐ道路。旧街道はその下を進みます。
旧甲州街道を跨ぐように出来た圏央道圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、
都心から40~60kmを環状に連絡する全長約300kmの高規格幹線道路となっている。 -
国際マス釣り場を横に見て進みます。
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明治時代の遺構、レンガ造りのトンネルです。上を通るはJR中央線。
ガードをくぐると【小仏宿】に入ります
天保14年(1843頃)小仏宿の宿内家数は58軒、うち本陣、脇本陣共に無く、問屋1、旅籠11軒で、宿内人口は250人でした。 -
【宝珠寺】
臨済宗南禅寺派小佛山寶珠寺があります、本尊は恵心僧都源信作と伝わる木造釈迦如来像です、小仏断食道場として知られました。 -
都天然記念物”カゴノ木”
宝珠寺参道階段脇の小仏のカゴノキは都天然記念物です。見上げると大きな木です。 -
これから赤印のジグザグ山道を峠まで登ります。という案内板。
峠道は九十九折(つづらおり)の急坂です -
小仏峠への道
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小仏峠への上り道
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小仏峠(海抜548m)から高尾市内を見下ろします。
峠には、峠の広場があり、古くは茶店も有ったとさ。 -
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小仏峠頂上
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明治天皇がこちらの広場に休憩して、野立を楽しまれた場所。
太政大臣・三条実美の歌碑があります。
明治13年(1880)の山梨巡幸の際、明治天皇の通行記念。
【歴史の散歩道(40) 甲州道中・小仏】
江戸時代の五街道の一つ「甲州道中」、現在の国道20号線の旧道である。
この街道の難所としてしられた小仏峠は、標高548m、武蔵国と相模国を結ぶ国境の峠であった。その名は、1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたことが由来ともいわれている。時代は下がり、明治21年(1888)に、輸送力を強化するため大垂水峠を通る新道が整備。それ以降は、人々や物資が行き交うことはなくなった。
現在、小仏峠の頂上には、明治天皇聖蹟碑や太政大臣・三条実美の歌碑が建っている。これらは明治13年(1880)の山梨巡幸の際、明治天皇の通行を記念して建てられたもの。歌碑の和歌は、三条実美が命を受けて高尾山薬王院に詣でて詠んだものといわれている。
『来てみればこかひはた織いとまなし甲斐のたび路の野のべやまのべ』
「こかひはた織」は「蚕飼い機織り」である。当時、生糸は高騰しており、これは多摩や甲州が養蚕や製糸、織物業でにぎわう様子を歌っている。峠を行くハイカーたちは、当時の状況を知る由もない。
(郷土資料館ガイドボランティア) -
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【太政大臣・三条実美の歌碑】
これらは明治13年(1880)の山梨巡幸の際、明治天皇の通行記念。歌碑の和歌は、三条実美が命を受けて高尾山薬王院に詣でて詠んだものといわれている。
『来てみればこかひはた織いとまなし甲斐のたび路の野のべやまのべ』
「こかひはた織」は「蚕飼い機織り」。多摩や甲州が養蚕や製糸、織物業でにぎわう様子を歌っている。 -
この小仏峠の広場から、尾根道が高尾山に、登山道として続いている。
寛政七年(1795)建立の石道標。 -
寛政7年に出来た石標識。
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小仏峠の広場に立つ標識です。右方向の相模湖方面に下ります。
旧甲州街道、小仏峠。
東京都八王子市裏高尾町と神奈川県相模原市緑区の間にある峠。かつての国境で、多摩川水系と相模川水系の分水界である。
小仏峠は、かつての武蔵国と相模国の国境、そして、東京都と神奈川県の県境だ。
陣馬山と高尾山を結ぶ尾根道となっているため、いつもハイカーで賑わうところ. -
小仏峠、甲州道中歴史案内図
戦国時代、武田信玄の家臣、小山田信茂が武州滝山城を攻めたときこの山道が使われた。
江戸時代に入ってから峠道として通行が盛んになり、峠の頂上に関所が設けられたが、天正8年(1580年)に駒木野宿に移動された。
甲州道中武相国境である。 -
【照手姫と小栗判官の物語り】
話は、室町時代の中期に成立、以降、浄瑠璃や歌舞伎の格好の題材になった。
愛し合う恋人が運命のいたずらで離ればなれになり、探し求めて放浪するものの、会えそうで会えないことの連続。そして最後に二人は出会い、幸せのうちに生涯を閉じるという話。
照手姫は、この小仏峠のふもとの「美女谷」の生まれで、川の上流の七ッ淵で、美しい黒髪を洗っていたと言い伝えられている。
【小原に伝わる照手姫伝説】(小原宿「小原の郷」の展示物より)
小原の底沢の地、美女谷の七ツ淵に、照手姫が髪の毛を洗ったと言われる化粧の岩があります。
照手姫とは北面の武士夫婦が観世音に願をかけて出生した美女です。「新編相模国風土記稿」に「往昔此處より美女出たれば、遂に地名となる」と記されているのは、紛れもなく照手姫です。照手姫は両親が早くこの世を去ったので底沢の地をはなれました。
それは、常陸(茨城)の小栗城主小栗判官満重が、謀反の諌言により三河の国(愛知)へ逃れる途次相州藤沢の辺りで宿をとったときの話です。
奇しくもその家は盗賊横山太郎のものであり、小栗判官は酒に猛毒の「ムン毒」をいれられてしまいます。もてなす伎女の中に照手姫がおりました。照手姫は密かに横山太郎のたくらみを判官に告げましたが、判官は酒を唇に触れただけで絶命しました。
その夜、遊行大空上人の夢の中に閻魔王の使いの者が現れました。判官は蘇生すると言うのです。遊行大空上人はお告げの通りに小栗判官を熊野(和歌山県)の本宮湯の温泉に連れていきますと、判官は全快しました。
その後小栗判官は謀反の心が無かったことを朝廷に申し出て、許された後小栗城へ帰り、その後京都の命により横山太郎一族を討ち取りました。小栗判官は遊行大空上人の慈悲ある恩に報いるため、閻魔堂で快癒の像を刻み大法会を開き、また一方で横山太郎に追われ濃州(岐阜県)にいた照手姫を迎え共に幸せに暮らしました。
この小栗判官と照手姫の話は、東海道:藤沢宿の【遊行寺】」にも記載あり。 -
左側の鞍部が小仏峠548mです。あそこから下山して来ました。
左のデカイ構造は、中央高速道路の橋桁です。 -
小仏峠から下り切りました。ついに底沢のバス停で正面の国道20号と合流です。
-
小原の郷広場にて。上空を走るは、中央高速道路です。
【甲州道中と小原宿】
相模湖町内には甲州道中が東西に通っており、小原宿と与瀬宿の2つの宿場が置かれていました。この小原の郷のある場所は小原宿の東端の位置にあたります。(以降、下記【小原宿】の説明に続く)
【小原の地名の由来】
古書「新編相模国風土記稿」の与瀬村蔵王社の稿に「大和国吉野ヨリ遷座セムト、且コノ辺ニ吉野、与瀬、小原ナドト云フ地名モ模シタルモノナリト云フ」と記されています。
およそ1200年前、天台宗の僧隆弁僧正が諸国遍歴の途次、この付近が京都の八瀬、大原に似通うため、八瀬をとって「与瀬」、大原をとって「小原」の地名を名付けたと言われます。往時から与瀬と小原は一村を成していました。
他の一説は、「みもと」(甲州街道を記録した資料)によると「尾原(おはら)と書き、「尾原」と言うのは、この嶺(小仏峠)の尾先にて、下りはてるところにすこしひらけたれば、名に負けたりとおぼし」と記しています。この地勢に所似している「尾原」が小原と書くようになったのは何時のことか定かではありませんが、前述の大原因縁説を考えると古くから小原の文字が宛てられていたと考えられます。
【小原の地勢】
小原宿は河岸段丘下を流れる海抜124mの相模川より、宿並み200mの段差76mの急峻な河岸段丘崖上の集落です。
小原宿の南側はきり立つ化峡の河岸丘崖、北側は大きな山脈の斜面、さらに東部は大久保沢川のV字谷、西部も小手沢川の深い谷に囲まれていますが、現在は東西の深い谷は埋め立てられており、東側の埋立地には「小原の郷」が設置されています。 -
【小原宿本陣】
甲州道中の小原宿本陣は、宿場の名主・問屋を務めた清水家の屋敷に備えられたもので、東海道・甲州道中に置かれた神奈川県下26本陣中、唯一現存する建物です。平成8(1996)年2月13日には、本陣建築を今に伝える貴重な建造物として神奈川県教育委員会により県指定重要文化財に指定されました。
建物の現況は、西列に奥座敷3室を配置するなど要人の休泊に適した格式の高さを留めています。また、屋根全体はトタンに葺き替えられているもののカブト造りが東側に残り、津久井地域の養蚕業を伝える民家建築の特徴も知ることができます。その建築年代は定かになりませんが、およそ200年は経過しているものと考えられています。
建物構造 4層のカブト造りの入母屋風の建物
建築年代 19世紀初期(江戸時代後期)
規模 間口13間、奥行7間、91坪
部屋数 15畳が2間、12.5畳が1間、8畳が3間、6畳が3間、4畳が3間、2畳が1間
(相模原市資料より)
【小原宿本陣】 県指定重要文化財(平成3年4月1日指定)
この小原宿本陣は、江戸時代に信州の高島・高遠・飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、江戸との往復の時宿泊するために利用したという古い歴史をもった建物です。
この建物の当主清水家の先祖は、後北条の家臣清水隼人介で、後に甲州街道小原宿が設けられてからは、代々問屋と庄屋を兼ねていました。
この建物の年代に関する資料は不明ですが「甲州道中宿村大概帳」(天保十四年・1843)によると、「本陣凡建坪八十四坪門構二而玄関之無宿入口壱軒」とあり、現在の建物の建築様式から推定しても江戸時代後期の十八世紀末期か十九世紀初頭の頃の建物と思われます。
規模は、間口十二間、奥行七間で土間妻側の裾を兜とした入母屋造りです。東側住居部分は天井が低く中二階があり、二階三階共に養蚕室として使われました。西側奥座敷は、三部屋に区切られその外側を入側縁で囲み、築山のある庭に面しています。奥座敷の北側の部屋が「上段の間」で大名の泊まった部屋です。
このように、旧清水家住宅は、本陣特有の座敷構えを示すと共に、津久井郡の典型的な大型養蚕民家の構造をしており、県下に二十六軒あった本陣のなかで唯一現存する貴重な建物です。 (相模原市教育委員会)
【小原宿本陣の役割】(「小原の郷」の展示より)
小原宿本陣は、参勤交代の大名や甲府勤番の役人、公家などの上級武士が止宿した宿泊所でした。その本陣の役割を担っていたのが清水家で、往時の清水家は、本陣の役割と共に名主と問屋を兼ねていました。現在は相模湖町が管理しています。
名主は村方三役と言われる税の取り立て、官営で敷設した樋谷路沢から導水していた水道の管理、村内の訴訟に関わる事も治める役割を担っていました。
問屋とは、問屋役とも言われ、宿内を通行する者の人馬の指図、宿泊の手配など宿場事務のすべてを統括していました。
甲州道中を利用して参勤交代をしていた大名は、信州(長野県)一万五千石の飯田藩、三万五千石の高遠藩、三万石の諏訪高島藩の三大名でした。その他、甲府勤番の役人とお茶壷道中が甲州街道を通っています。 -
【小原宿本陣】
甲州古道でこのような本陣が残ってるのは、日野、小原、花咲の三か所のみです。貴重な存在!!
小原宿本陣は神奈川県内の東海道、甲州道中にあった26軒の本陣の内唯一現存する本陣遺構です。
瓦屋根の豪壮な門構え、入母屋造りの本陣建物、十三室の部屋などが往時のまま残され、県の重要文化財に指定され、無料で一般公開されています。
本陣を営んだ清水家の祖先は後北条氏の家臣清水隼人介で、北条氏減亡後、当地に土着し、その子孫が代々本陣を勤め、問屋、庄屋を兼ねました。 -
小原宿本陣の上段の間
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小原宿本陣
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小原宿本陣の2階は養蚕工場です
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小原本陣の玄関
神奈川県にには東海道、甲州街道合わせて26軒の本陣があったが、現在も残されているのはここ小原宿本陣だけである。 -
ニ階の出桁構造が江戸時代の建築様式です。元旅籠の小原宿永楽屋だ。
小原宿は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠7軒で総戸数は61軒であった。 -
ニ階の出桁構造が江戸時代の建築様式です。
重厚な小松屋、機屋、伊勢屋、中宿、永楽屋等は、かつての旅籠であった建物。 -
国道20号線から離れ、右の坂道(旅館ひらのの右)を行けば、次の宿、与瀬宿に向かいます。甲州道中平野標柱があります。
この辺り河岸段丘の地形につき上り下りの繰り返しです。
旧甲州街道分岐、
ここから、国道20号線(現甲州街道)と別れ、右の細い道となります。
分岐にあるひら乃旅館は、今も営業しております。
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