高尾・八王子旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今回は府中をスタートし、多摩川を渡り日野宿を抜けて、八王子まで歩みます。<br /><br />日野宿<br />http://www.city.hino.tokyo.jp/shinsenr/honjin/honnjinnindex.html#1<br />日野宿本陣は、嘉永2年(1849)正月十八日の大火によって主屋は消失。現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が文久3年(1863)4月に上棟し、翌元治元年(1864)12月から住み始めたものです。<br />日野宿本陣には、佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」があり、後の新選組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだので有名。<br /><br /><br />横山宿

甲州街道徒歩旅No.3 多摩川を渡れば日野宿(現日野市)(5)→→横山宿(現八王子)(6)へ

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2011/05/27 - 2011/05/27

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ムッシュ

ムッシュさん

今回は府中をスタートし、多摩川を渡り日野宿を抜けて、八王子まで歩みます。

日野宿
http://www.city.hino.tokyo.jp/shinsenr/honjin/honnjinnindex.html#1
日野宿本陣は、嘉永2年(1849)正月十八日の大火によって主屋は消失。現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が文久3年(1863)4月に上棟し、翌元治元年(1864)12月から住み始めたものです。
日野宿本陣には、佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」があり、後の新選組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだので有名。


横山宿

交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 【高安寺仁王門】<br />藤原秀郷の館跡に足利尊氏が鎮護国家の安国寺として再建したお寺。250年後には弁慶と義経もこの寺で写経したという伝説あり。<br /><br />慶応年間(1338~42年)、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つであった。<br />多摩川を望む段丘上のあるため、境内は要害としてたびたび陣所となったため、荒廃した。<br />その後、慶長年間(1596~1615年)に青梅の海禅寺の関州徳光禅師によって再興され、曹洞宗高安寺と改められた。<br /><br />	<br />【高安寺畧縁起】<br />  當山は、正しく龍門山高安護国禅寺と称し、総門に「武野禅林」の扁額をかかげ、本堂正面「等持院」の扁額は、開基足利尊氏公の法名「等持院殿仁山鈔儀大居士」の院号である。境内は古く、田原藤太秀郷公の館跡といわれ、後に市川山見性寺が建立されたと伝えられる。建武の中興後、足利尊氏公、鎮護国家に衆生救済を祈って、諸国に安国寺、利生塔の建立を発願したという。即ち當山は、武蔵国の安国寺であり、臨済宗建長寺派として、廣大な寺領と七十有余の末寺を擁していた。<br />  然るに、長期間幾多の戦国武将の政争の渦中にもまれ、さしもの寺勢も、小田原北条氏の庇護を最後に急速に衰えていった。<br />  時に慶長年中、青梅二俣尾海禅寺七世関州徳光禅師これを憂いて、再中興開山となり、徳川家より御朱印一五石を拝領し、爾来曹土州洞の禅林として今日に至る。総門・山門・本堂の庫裏、鐘楼、観音堂等を境内に配して、禅宗七伽藍の面影を今にとどめている。<br />               昭和五十三年三月吉日 府中市観光協会<br />

    【高安寺仁王門】
    藤原秀郷の館跡に足利尊氏が鎮護国家の安国寺として再建したお寺。250年後には弁慶と義経もこの寺で写経したという伝説あり。

    慶応年間(1338~42年)、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つであった。
    多摩川を望む段丘上のあるため、境内は要害としてたびたび陣所となったため、荒廃した。
    その後、慶長年間(1596~1615年)に青梅の海禅寺の関州徳光禅師によって再興され、曹洞宗高安寺と改められた。


    【高安寺畧縁起】
      當山は、正しく龍門山高安護国禅寺と称し、総門に「武野禅林」の扁額をかかげ、本堂正面「等持院」の扁額は、開基足利尊氏公の法名「等持院殿仁山鈔儀大居士」の院号である。境内は古く、田原藤太秀郷公の館跡といわれ、後に市川山見性寺が建立されたと伝えられる。建武の中興後、足利尊氏公、鎮護国家に衆生救済を祈って、諸国に安国寺、利生塔の建立を発願したという。即ち當山は、武蔵国の安国寺であり、臨済宗建長寺派として、廣大な寺領と七十有余の末寺を擁していた。
      然るに、長期間幾多の戦国武将の政争の渦中にもまれ、さしもの寺勢も、小田原北条氏の庇護を最後に急速に衰えていった。
      時に慶長年中、青梅二俣尾海禅寺七世関州徳光禅師これを憂いて、再中興開山となり、徳川家より御朱印一五石を拝領し、爾来曹土州洞の禅林として今日に至る。総門・山門・本堂の庫裏、鐘楼、観音堂等を境内に配して、禅宗七伽藍の面影を今にとどめている。
                   昭和五十三年三月吉日 府中市観光協会

  • 説明板では、かつてここに、【藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の館】があった。<br />その館跡が、一時期、見性寺というお寺になり、やがて足利尊氏が全国に「安国寺」を建立した際に、武蔵国に作ったものが、この高安寺。<br />秀郷は、平将門を追討した功績で、下野・武蔵の二カ国の国司に任ぜられた。<br />田原藤太(たわらのとうた)というもうひとつの名前では、近江の三上山の大百足退治の伝説を持つ人物だ。境内の奥に「秀郷稲荷」がひっそりあった。<br />そして、さらに奥には、「弁慶硯の井戸」

    説明板では、かつてここに、【藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の館】があった。
    その館跡が、一時期、見性寺というお寺になり、やがて足利尊氏が全国に「安国寺」を建立した際に、武蔵国に作ったものが、この高安寺。
    秀郷は、平将門を追討した功績で、下野・武蔵の二カ国の国司に任ぜられた。
    田原藤太(たわらのとうた)というもうひとつの名前では、近江の三上山の大百足退治の伝説を持つ人物だ。境内の奥に「秀郷稲荷」がひっそりあった。
    そして、さらに奥には、「弁慶硯の井戸」

  • 【古跡弁慶硯の井戸石】<br />「弁慶硯の井戸」のいわれは、鎌倉入りを許されなかった源義経が、やむなく京都に帰る途中、しばらくここにとどまり、弁慶たちとともに、赦免祈願のため大般若経を写した。その際に、この井戸の水を使ったということだ。

    【古跡弁慶硯の井戸石】
    「弁慶硯の井戸」のいわれは、鎌倉入りを許されなかった源義経が、やむなく京都に帰る途中、しばらくここにとどまり、弁慶たちとともに、赦免祈願のため大般若経を写した。その際に、この井戸の水を使ったということだ。

  • 境内の一番奥にある【古跡弁慶硯の井戸】<br />鎌倉入りを許されなかった源義経の為に、弁慶がこの井戸水で赦免祈願と大般若経をしたためたと言われる。

    境内の一番奥にある【古跡弁慶硯の井戸】
    鎌倉入りを許されなかった源義経の為に、弁慶がこの井戸水で赦免祈願と大般若経をしたためたと言われる。

  • 【古跡弁慶硯の井戸石】<br />「弁慶硯の井戸」のいわれは、鎌倉入りを許されなかった源義経が、やむなく京都に帰る途中、しばらくここにとどまり、弁慶たちとともに、赦免祈願のため大般若経を写した。その際に、この井戸の水を使ったということだ。

    【古跡弁慶硯の井戸石】
    「弁慶硯の井戸」のいわれは、鎌倉入りを許されなかった源義経が、やむなく京都に帰る途中、しばらくここにとどまり、弁慶たちとともに、赦免祈願のため大般若経を写した。その際に、この井戸の水を使ったということだ。

  • 【内藤家の冠木門】<br />府中市美好町(旧本宿村)の旧甲州街道左側にある旧家。<br />かつて、旧本宿村の名主を務めた内藤家だ。<br />それにしても、立派な冠木門風の銅葺き屋根付き門である。<br />府中の本陣であった番場宿の矢島家の門を移しものとの事だ。

    【内藤家の冠木門】
    府中市美好町(旧本宿村)の旧甲州街道左側にある旧家。
    かつて、旧本宿村の名主を務めた内藤家だ。
    それにしても、立派な冠木門風の銅葺き屋根付き門である。
    府中の本陣であった番場宿の矢島家の門を移しものとの事だ。

  • 本宿交差点にある【府中本宿跡碑】<br />本宿村は、現在の西府町2丁目、本宿町、そして美好町3丁目の一部からなる旧甲州街道沿いの集落であった。<br />幕末の地誌には、全戸数169で、街道の左右に軒を連ねていたとあるところだ。<br />本宿は甲州街道が、多摩川の河岸段丘の崖下を通っていた頃の宿場であった。<br />

    本宿交差点にある【府中本宿跡碑】
    本宿村は、現在の西府町2丁目、本宿町、そして美好町3丁目の一部からなる旧甲州街道沿いの集落であった。
    幕末の地誌には、全戸数169で、街道の左右に軒を連ねていたとあるところだ。
    本宿は甲州街道が、多摩川の河岸段丘の崖下を通っていた頃の宿場であった。

  • 寛政4年(1792年)本宿村講中が建立した【秋葉大権現常夜灯】

    寛政4年(1792年)本宿村講中が建立した【秋葉大権現常夜灯】

  • 【武蔵府中熊野神社古墳】<br />熊野神社の裏手に国史跡武蔵府中熊野神社古墳があります、国内最大最古の上円下方墳です。<br />全国で3例目にして最大の上円下方墳。<br />http://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurasu/bunka/maizo/kumanokohun/index.html<br /><br />熊野神社境内本殿北側にある古墳。<br />神社境内にある小山が古墳であるという説は以前からあったようであるが、<br />平成15年、小山の発掘が開始され、三段築成の上円方墳であることが確認された。<br /><br />写真は、古墳を復元したものだ。<br />1段目は約32mの方形で、2段目が約24mの方形、<br />3段目が直径約16mの円形で、高さは約6mとなっている。<br />被葬者は不明だが、<br />武蔵国府設置直前に、大きな力を持っていた人物の墓と考えられている。<br /><br />【墳丘】 <br /> 墳丘は、版築工法(はんちくこうほう)と呼ばれるローム土や黒土を薄く交互に突き硬め、山のようにしています。さらに、段となるところでは、石垣のように大きな河原石を積み上げ、その他の部分では小さめの河原石を葺いています。一段目の一辺は約32m、墳丘は約5mの高さを測ります。<br />東京都内で、これだけ保存状態の良い古墳は他にあまり例がありません。<br />【石室】 <br />  遺体が収められていた場所は、玄室と呼ばれる石室の一部で、本古墳では玄室の前に後室、さらに前室と全部で3室から成ります。石室は、多摩川流域に見られる“ナメ石”とか“ナメ土”と呼ばれるシルト岩を、切り出し積み上げています。また、石に切り込みを付けるなど加工していることから、切石組横穴式石室と呼ばれています。石室は現在埋め戻されているため、中を見ることはできません。<br />【上円下方墳】 国史跡(平成17年7月14日指定) <br />  四角い墳丘の上に丸い墳丘を重ねた形の古墳を上円下方墳と呼びます。日本には15万基以上の古墳があると言われていますが、発掘調査で確認されたものは、本古墳を含めて3基しかありません。また、この3基のうちで最も大きく、古いものが本古墳です。<br />【掘り込み地業】<br /> 石室の地下からは、掘り込み地業という基礎工事の跡が見つかっています。石室の真下に幅約8m、奥行き14m以上の大きな穴を掘り、そこにローム土や粘土を版築工法により埋め戻しています。このようは工事を行っている古墳は大変珍しいものです。<br />【鞘尻金具(さやじりかなぐ)】<br />  玄室からは、太刀の鞘の一端に付けられていた鞘尻金具が出土しています。鉄製の地金の表面には、銀象嵌(ぞうがん)が施されています。S字状の文様や“七曜文”と呼ばれる7つの円文から構成される文様がみられます。特に七曜文は、日本最古の貨幣といわれる“富本銭(ふほんせん)”と共通する文様です。<br />【出土品と古墳の年代】<br /> 石室からは鞘尻金具のほかにガラス玉や多数の鉄釘、刀子(とうす)と呼ばれる小刀などが出土しています。これらの出土品は、一括して市重宝として指定されました。<br /> 憤丘や石室の構造と鞘尻金具などの推定年代から、古墳が造られた時期は、7世紀の中頃以降と考えられます(今から約1350年前)。<br /><br />

    【武蔵府中熊野神社古墳】
    熊野神社の裏手に国史跡武蔵府中熊野神社古墳があります、国内最大最古の上円下方墳です。
    全国で3例目にして最大の上円下方墳。
    http://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurasu/bunka/maizo/kumanokohun/index.html

    熊野神社境内本殿北側にある古墳。
    神社境内にある小山が古墳であるという説は以前からあったようであるが、
    平成15年、小山の発掘が開始され、三段築成の上円方墳であることが確認された。

    写真は、古墳を復元したものだ。
    1段目は約32mの方形で、2段目が約24mの方形、
    3段目が直径約16mの円形で、高さは約6mとなっている。
    被葬者は不明だが、
    武蔵国府設置直前に、大きな力を持っていた人物の墓と考えられている。

    【墳丘】 
     墳丘は、版築工法(はんちくこうほう)と呼ばれるローム土や黒土を薄く交互に突き硬め、山のようにしています。さらに、段となるところでは、石垣のように大きな河原石を積み上げ、その他の部分では小さめの河原石を葺いています。一段目の一辺は約32m、墳丘は約5mの高さを測ります。
    東京都内で、これだけ保存状態の良い古墳は他にあまり例がありません。
    【石室】 
      遺体が収められていた場所は、玄室と呼ばれる石室の一部で、本古墳では玄室の前に後室、さらに前室と全部で3室から成ります。石室は、多摩川流域に見られる“ナメ石”とか“ナメ土”と呼ばれるシルト岩を、切り出し積み上げています。また、石に切り込みを付けるなど加工していることから、切石組横穴式石室と呼ばれています。石室は現在埋め戻されているため、中を見ることはできません。
    【上円下方墳】 国史跡(平成17年7月14日指定) 
      四角い墳丘の上に丸い墳丘を重ねた形の古墳を上円下方墳と呼びます。日本には15万基以上の古墳があると言われていますが、発掘調査で確認されたものは、本古墳を含めて3基しかありません。また、この3基のうちで最も大きく、古いものが本古墳です。
    【掘り込み地業】
     石室の地下からは、掘り込み地業という基礎工事の跡が見つかっています。石室の真下に幅約8m、奥行き14m以上の大きな穴を掘り、そこにローム土や粘土を版築工法により埋め戻しています。このようは工事を行っている古墳は大変珍しいものです。
    【鞘尻金具(さやじりかなぐ)】
      玄室からは、太刀の鞘の一端に付けられていた鞘尻金具が出土しています。鉄製の地金の表面には、銀象嵌(ぞうがん)が施されています。S字状の文様や“七曜文”と呼ばれる7つの円文から構成される文様がみられます。特に七曜文は、日本最古の貨幣といわれる“富本銭(ふほんせん)”と共通する文様です。
    【出土品と古墳の年代】
     石室からは鞘尻金具のほかにガラス玉や多数の鉄釘、刀子(とうす)と呼ばれる小刀などが出土しています。これらの出土品は、一括して市重宝として指定されました。
     憤丘や石室の構造と鞘尻金具などの推定年代から、古墳が造られた時期は、7世紀の中頃以降と考えられます(今から約1350年前)。

  • 【関家のかなどこ跡】説明板。<br />関家は、鋳物三家(矢澤、森窪、関氏)の一家と言われ、江戸時代から明治初期まで鋳造を業としていた。<br />梵鐘、仏像等の他に鍋釜などの日用品を製造しており、鋳物三家の銘のある梵鐘には、立川普済寺、府中高安寺、日野牛頭天王(現八坂神社)等があり、谷保山南養寺のものには、安永6年(1777)関氏の銘が刻まれている。<br /><br />

    【関家のかなどこ跡】説明板。
    関家は、鋳物三家(矢澤、森窪、関氏)の一家と言われ、江戸時代から明治初期まで鋳造を業としていた。
    梵鐘、仏像等の他に鍋釜などの日用品を製造しており、鋳物三家の銘のある梵鐘には、立川普済寺、府中高安寺、日野牛頭天王(現八坂神社)等があり、谷保山南養寺のものには、安永6年(1777)関氏の銘が刻まれている。

  • 【谷保天満宮】の入口<br />参道を歩き、階段を下ると谷保天満宮が待っている。(次の写真)<br />1000年以上の歴史を持つ天神様。湯島、亀戸天神と並ぶ関東三大天神の一つ。<br />「神ならば 出雲の国に行くべきを 目白で開帳 やぼの天神」<br />「谷保の地名」は、この地は多くの谷(やつ)を保っているところからやつほと呼ばれ、後に転訛して「やぼ」となりました。

    【谷保天満宮】の入口
    参道を歩き、階段を下ると谷保天満宮が待っている。(次の写真)
    1000年以上の歴史を持つ天神様。湯島、亀戸天神と並ぶ関東三大天神の一つ。
    「神ならば 出雲の国に行くべきを 目白で開帳 やぼの天神」
    「谷保の地名」は、この地は多くの谷(やつ)を保っているところからやつほと呼ばれ、後に転訛して「やぼ」となりました。

  • 【谷保天満宮】<br />珍しく、神社にはニワトリが沢山放し飼い。<br />天満宮は全国に数あり、亀戸、北野、防府、大宰府とみな菅原道真を祀ったもの。学問の神様として信仰を集める。<br /><br />旧谷保村である国立市谷保にある谷保(やぼ)天満宮。延喜3年(903年)、菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたのが始まり。<br />東日本最古の天満宮で、亀戸天神、湯島天神と合わせて関東三大天神と呼ばれている。<br /><br />江戸時代の著名な狂歌に、<br />「神ならば 出雲の国に 行くべきに 目白で開帳 やぼの天神」<br />とあり、ここから野暮天、野暮の語が生まれたとの事。<br />なお、谷保は今は「やほ」と呼ぶが、もとは谷保(やぽ)村であった。<br /><br />【谷保天満宮】<br />亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれていますが、特に東日本で最古の天満宮なんです。<br />約6,000坪の境内は緑ゆたかな自然林と豊富な湧き水に恵まれた鎮守の森。この社叢は東京都の天然記念物にも指定されている、素敵な空間です。<br />また明治41(1908)年には有栖川宮威仁親王のご先導により、わが国初の自動車遠乗会が谷保天満宮を目的地として催されました。この時、有栖川宮威仁親王が東京自動車製作所につくらせた日本初のガソリン自動車「タクリー号」も同道しています。谷保天満宮が交通安全発祥の地たる所以です。<br /><br />【谷保天満宮(本殿・拝殿)】  <br />谷保天満宮は「醍醐天皇延喜三年(903)二月、管公筑紫に葬去された折、道武朝臣(みちたけあそん)は思慕の情に堪えず、手づから父君の尊容を刻んで廟殿に鎮祀し、旦暮如在の礼を盡された。<br /><br /> 延喜二十一年十一月、道武朝臣が此地で逝去されるに及んで、神霊を相殿に配祀して三郎殿と称した」と伝えられている。(天満宮略縁記・谷保天満宮所蔵)<br /> 江戸時代には、朱印十三石を寄せられ、明治十八年(1885)には「府社」となった。<br /> 谷保天満宮の主な社宝には、国指定重要文化財工芸品の木造扇額、建治元(1275)年藤原経朝筆の額文「天満宮」があり、同じく国指定重要文化財彫刻、鎌倉時代後期の作と見られる木造狛犬一対がある。社叢は、都指定文化財天然記念物の指定を受けている。<br /> 主な行事としては、一月一日の元旦祭を始めとして、一月の筆供養、九月秋分の日の例大祭、十一月三日の庭燎祭(おかがら火)等がある。例大祭には、市無形(技芸)文化財指定の獅子舞が奉納される。<br /> 本殿は流造(ながれづくり)、六坪で寛永年間(1624~1643)の造営と伝えられる。<br /> この流造とは、今日の日本の神社本殿の大部分を占める形式である。桁行三間(5.4m)梁間二間(3.6m)の母屋の前に一間(1.8m)通りの庇をつけたもので、庇は角柱で、土台上に床板が張られ、そこから階段を上って母屋床に達する。屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長くゆるやかに流れるような曲線となる。流造の名は、ここから起こったのである。中世以降の流造は、たいてい三間とも扉口にしている。谷保天満宮の本殿もこの形式をもったものである。<br />  拝殿は、入母屋造り22坪(約73平方メートル)で、江戸末期の造営とみられる。<br />  谷保天満宮の境内は、梅林(香雪園)を含めて約6300坪(約二〇、七九〇平方メートル)である。<br />  甲州街道(国道20号線)から表参道を降りると本殿、拝殿等がある。普通、神社は高台に鎮座しているものであるが、下へ降りる神社は珍しい。拝殿等が街道に背を向けているのは、かつて甲州街道が境内の南側を通っていたためである。<br />     平成元年三月 国立市教育委員会<br /><br />

    【谷保天満宮】
    珍しく、神社にはニワトリが沢山放し飼い。
    天満宮は全国に数あり、亀戸、北野、防府、大宰府とみな菅原道真を祀ったもの。学問の神様として信仰を集める。

    旧谷保村である国立市谷保にある谷保(やぼ)天満宮。延喜3年(903年)、菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたのが始まり。
    東日本最古の天満宮で、亀戸天神、湯島天神と合わせて関東三大天神と呼ばれている。

    江戸時代の著名な狂歌に、
    「神ならば 出雲の国に 行くべきに 目白で開帳 やぼの天神」
    とあり、ここから野暮天、野暮の語が生まれたとの事。
    なお、谷保は今は「やほ」と呼ぶが、もとは谷保(やぽ)村であった。

    【谷保天満宮】
    亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれていますが、特に東日本で最古の天満宮なんです。
    約6,000坪の境内は緑ゆたかな自然林と豊富な湧き水に恵まれた鎮守の森。この社叢は東京都の天然記念物にも指定されている、素敵な空間です。
    また明治41(1908)年には有栖川宮威仁親王のご先導により、わが国初の自動車遠乗会が谷保天満宮を目的地として催されました。この時、有栖川宮威仁親王が東京自動車製作所につくらせた日本初のガソリン自動車「タクリー号」も同道しています。谷保天満宮が交通安全発祥の地たる所以です。

    【谷保天満宮(本殿・拝殿)】  
    谷保天満宮は「醍醐天皇延喜三年(903)二月、管公筑紫に葬去された折、道武朝臣(みちたけあそん)は思慕の情に堪えず、手づから父君の尊容を刻んで廟殿に鎮祀し、旦暮如在の礼を盡された。

     延喜二十一年十一月、道武朝臣が此地で逝去されるに及んで、神霊を相殿に配祀して三郎殿と称した」と伝えられている。(天満宮略縁記・谷保天満宮所蔵)
     江戸時代には、朱印十三石を寄せられ、明治十八年(1885)には「府社」となった。
     谷保天満宮の主な社宝には、国指定重要文化財工芸品の木造扇額、建治元(1275)年藤原経朝筆の額文「天満宮」があり、同じく国指定重要文化財彫刻、鎌倉時代後期の作と見られる木造狛犬一対がある。社叢は、都指定文化財天然記念物の指定を受けている。
     主な行事としては、一月一日の元旦祭を始めとして、一月の筆供養、九月秋分の日の例大祭、十一月三日の庭燎祭(おかがら火)等がある。例大祭には、市無形(技芸)文化財指定の獅子舞が奉納される。
     本殿は流造(ながれづくり)、六坪で寛永年間(1624~1643)の造営と伝えられる。
     この流造とは、今日の日本の神社本殿の大部分を占める形式である。桁行三間(5.4m)梁間二間(3.6m)の母屋の前に一間(1.8m)通りの庇をつけたもので、庇は角柱で、土台上に床板が張られ、そこから階段を上って母屋床に達する。屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長くゆるやかに流れるような曲線となる。流造の名は、ここから起こったのである。中世以降の流造は、たいてい三間とも扉口にしている。谷保天満宮の本殿もこの形式をもったものである。
      拝殿は、入母屋造り22坪(約73平方メートル)で、江戸末期の造営とみられる。
      谷保天満宮の境内は、梅林(香雪園)を含めて約6300坪(約二〇、七九〇平方メートル)である。
      甲州街道(国道20号線)から表参道を降りると本殿、拝殿等がある。普通、神社は高台に鎮座しているものであるが、下へ降りる神社は珍しい。拝殿等が街道に背を向けているのは、かつて甲州街道が境内の南側を通っていたためである。
         平成元年三月 国立市教育委員会

  • 【谷保の秋葉常夜灯】<br />南養寺の参道口に寛政6年(1794)建立の常夜燈があります。上谷保村にあったもので、竿石には秋葉大権現、天満宮、榛名大権現と刻まれています。<br /><br />【由来書】<br /> 甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並が出来たのは十七世紀中ば、慶安から寛文の頃であった。しかし大地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだと云う。<br />  ついに本宿村では「講」を作り近江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政四年(1792)この地に常夜燈を設けた。<br />  村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点じて無事を祈り隣へと引きついだ。<br />  爾来一世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。<br />  このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。<br />                           平成二年二月

    【谷保の秋葉常夜灯】
    南養寺の参道口に寛政6年(1794)建立の常夜燈があります。上谷保村にあったもので、竿石には秋葉大権現、天満宮、榛名大権現と刻まれています。

    【由来書】
     甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並が出来たのは十七世紀中ば、慶安から寛文の頃であった。しかし大地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだと云う。
      ついに本宿村では「講」を作り近江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政四年(1792)この地に常夜燈を設けた。
      村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点じて無事を祈り隣へと引きついだ。
      爾来一世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。
      このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。
                               平成二年二月

  • 【南養寺】<br />150mの参道をもつ古刹です。臨済宗建長寺派で、開山は鎌倉時代。<br />本堂は文化元年(1804)築、大悲殿は享保3年(1718)築、総門は安永9年(1780)築、鐘楼は天明8年(1788)築で、梵鐘は安永6年(1777)関家が鋳造したものです、境内の庭園は小堀遠州流の枯山水様式です。<br /><br />【総門】 <br /> 安永九(1780)年大工佐伯源太の手による。形式は、薬医門である。屋根は切妻造り、銅葺きであり。<br /> 前南禅僧録司大川崇達の書による「谷保山」の扁額を掲げている。<br /> 当門の建立は、江戸期における南洋寺伽藍整備の一環を示すものである。

    【南養寺】
    150mの参道をもつ古刹です。臨済宗建長寺派で、開山は鎌倉時代。
    本堂は文化元年(1804)築、大悲殿は享保3年(1718)築、総門は安永9年(1780)築、鐘楼は天明8年(1788)築で、梵鐘は安永6年(1777)関家が鋳造したものです、境内の庭園は小堀遠州流の枯山水様式です。

    【総門】 
     安永九(1780)年大工佐伯源太の手による。形式は、薬医門である。屋根は切妻造り、銅葺きであり。
     前南禅僧録司大川崇達の書による「谷保山」の扁額を掲げている。
     当門の建立は、江戸期における南洋寺伽藍整備の一環を示すものである。

  • 【日野の渡し跡碑】<br />ここには日野の渡し場標石、日野の渡し碑、歌碑「多摩川の 渡し跡なる わが住まひ 河童ども招ひて 酒酌まむかな」がある。<br /><br />『日野の渡し碑<br />    立川観光協会 撰<br />    関 頑亭 書<br />日野の渡しの出来たのは<br />いつの頃だか誰も知らない<br />江戸時代中期貞享年間<br />この地に渡しが移されたことは<br />確かであろう<br />かつて信濃甲斐相模への人々は<br />この渡しを過ぎると<br />遠く異境に来たと思い<br />江戸に向かう人々は<br />江戸に着いたと思ったという』<br />

    【日野の渡し跡碑】
    ここには日野の渡し場標石、日野の渡し碑、歌碑「多摩川の 渡し跡なる わが住まひ 河童ども招ひて 酒酌まむかな」がある。

    『日野の渡し碑
        立川観光協会 撰
        関 頑亭 書
    日野の渡しの出来たのは
    いつの頃だか誰も知らない
    江戸時代中期貞享年間
    この地に渡しが移されたことは
    確かであろう
    かつて信濃甲斐相模への人々は
    この渡しを過ぎると
    遠く異境に来たと思い
    江戸に向かう人々は
    江戸に着いたと思ったという』

  • こちら多摩川で、この辺りが日野の渡し場所。<br />大正15(1926)年に日野橋が架かるまで、旅人は、ここから舟を使って多摩川を渡っていった。<br />写真右には、立日橋を渡る現代のモノレールが写ってる。

    こちら多摩川で、この辺りが日野の渡し場所。
    大正15(1926)年に日野橋が架かるまで、旅人は、ここから舟を使って多摩川を渡っていった。
    写真右には、立日橋を渡る現代のモノレールが写ってる。

  • 【日野本陣宿の佐藤家本陣門】<br />川崎街道入口を過ぎると日野宿本陣の看板。<br /><br />甲州道中に現存する本陣建物は日野宿本陣を含めて、小原宿本陣(神奈川県相模湖町)と下花咲宿本陣(山梨県大月市)の三箇所です。とりわけ、日野宿には大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っており、建物の規模や内容においてはるかにそれらを凌駕する偉容を誇っていました。時代の推移を経て、今ではこの本陣建物だけが残されています。<br />  日野宿本陣には、佐藤彦五郎が佐藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。ここでは、後の新鮮組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだのです。<br />  長屋門は大正十五年の大火で類焼し、現在はありません。<br />  また明治二十六年に五十四軒を焼いた日野大火に因って有山家(佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先)が焼失したため、「上段の間」と続きの一間は有山家に移されています。(有山家は非公開です)。<br />

    【日野本陣宿の佐藤家本陣門】
    川崎街道入口を過ぎると日野宿本陣の看板。

    甲州道中に現存する本陣建物は日野宿本陣を含めて、小原宿本陣(神奈川県相模湖町)と下花咲宿本陣(山梨県大月市)の三箇所です。とりわけ、日野宿には大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っており、建物の規模や内容においてはるかにそれらを凌駕する偉容を誇っていました。時代の推移を経て、今ではこの本陣建物だけが残されています。
      日野宿本陣には、佐藤彦五郎が佐藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。ここでは、後の新鮮組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだのです。
      長屋門は大正十五年の大火で類焼し、現在はありません。
      また明治二十六年に五十四軒を焼いた日野大火に因って有山家(佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先)が焼失したため、「上段の間」と続きの一間は有山家に移されています。(有山家は非公開です)。

  • 【文久3年(1863年)に上棟した本陣の建物】<br />日野宿には、本陣1、脇本陣2、旅籠20があった。甲州街道で現存する三つの本陣のうちの一つ。<br />本陣には当主佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた佐藤道場があり、近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが激しい稽古に励んだところ<br />この屋敷は、嘉永2年(1849年)の日野宿大火で消失し、日野本郷の名主であった佐藤家が代々務めていた。<br />なお、江戸時代に建てられた旧本陣が今も残されているのは、都内ではここだけである。<br /><br />風格のある旧家がそのまま残されていて、ここは、日野宿の名主を代々つとめる佐藤家の屋敷で、土方歳三の姉、のぶが嫁いだところだ。<br />土方にとって義兄でもあり従兄弟でもある佐藤彦五郎は、新選組の熱心な庇護者で、彼がいなければ、天然理心流は栄えず、ひいては近藤勇も新選組も生まれてはいなかっただろうと言われている。<br />佐藤家では、天然理心流の道場に経済的支援を行い、邸宅の一部を道場に仕立て、若い剣客たちを育て上げることに重要な役割を担った。<br /><br />【日野宿本陣】 日野市指定有形文化財(建造物) <br /> 日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を務めていた下佐藤家の住宅として建てられたものである。下佐藤家は政保年間(1644~48)頃に名主に取り立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に交代で名主を務めてきたといわれる。また正徳六年(1716)に上左藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永二年(1849)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久三年(1863)四月には、上棟し、元治元年(1864)末に完成したものである。<br />  日野宿本陣は瓦葺きの建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に残る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。<br />                       日野市教育委員会<br /> 完成年   : 文久三年(1863年)<br /> 敷地面積 : 約七百坪      床面積   : 約百坪(主屋のみ)<br /> 最高高さ  : 約八・五米    大黒柱   : ケヤキ一尺五寸角<br />現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が十年に及ぶ歳月を費やして準備をすすめ文久三年四月に上棟し、翌元治元年十二月から住み始めたものです。

    【文久3年(1863年)に上棟した本陣の建物】
    日野宿には、本陣1、脇本陣2、旅籠20があった。甲州街道で現存する三つの本陣のうちの一つ。
    本陣には当主佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた佐藤道場があり、近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが激しい稽古に励んだところ
    この屋敷は、嘉永2年(1849年)の日野宿大火で消失し、日野本郷の名主であった佐藤家が代々務めていた。
    なお、江戸時代に建てられた旧本陣が今も残されているのは、都内ではここだけである。

    風格のある旧家がそのまま残されていて、ここは、日野宿の名主を代々つとめる佐藤家の屋敷で、土方歳三の姉、のぶが嫁いだところだ。
    土方にとって義兄でもあり従兄弟でもある佐藤彦五郎は、新選組の熱心な庇護者で、彼がいなければ、天然理心流は栄えず、ひいては近藤勇も新選組も生まれてはいなかっただろうと言われている。
    佐藤家では、天然理心流の道場に経済的支援を行い、邸宅の一部を道場に仕立て、若い剣客たちを育て上げることに重要な役割を担った。

    【日野宿本陣】 日野市指定有形文化財(建造物) 
     日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を務めていた下佐藤家の住宅として建てられたものである。下佐藤家は政保年間(1644~48)頃に名主に取り立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に交代で名主を務めてきたといわれる。また正徳六年(1716)に上左藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永二年(1849)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久三年(1863)四月には、上棟し、元治元年(1864)末に完成したものである。
      日野宿本陣は瓦葺きの建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に残る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。
                           日野市教育委員会
     完成年   : 文久三年(1863年)
     敷地面積 : 約七百坪      床面積   : 約百坪(主屋のみ)
     最高高さ  : 約八・五米    大黒柱   : ケヤキ一尺五寸角
    現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が十年に及ぶ歳月を費やして準備をすすめ文久三年四月に上棟し、翌元治元年十二月から住み始めたものです。

  • 土間に入ると黒光りのする大黒柱。さらに部屋に上がって説明を受ける。<br /><br />【日野宿】<br />武州は、幕府の直轄支配を受けた天領で、農民に対する統制はゆるやかだった。<br />日野でも、二人の名主と配下の組頭たちによる農民自治の伝統が長く続いた。<br />日野宿には、飯盛女などの風俗営業がなく、休憩用の宿場とみなされ、殆どの旅行者は、府中宿か八王子宿で宿泊したといわれている。<br /><br />日野宿本陣があった場所。<br />風格のある旧家がそのまま残されている。日野宿の名主を代々つとめる佐藤家の屋敷で、土方歳三の姉、のぶが嫁いだところだ。<br />土方にとって義兄でもあり従兄弟でもある佐藤彦五郎は、新選組の熱心な庇護者で、佐藤がいなければ、天然理心流は栄えず、近藤勇も新選組も生まれてはいなかっただろうと言われている。佐藤家では、天然理心流道場に支援し、邸宅の一部を道場に仕立て、若い剣客たちを育て上げることに重要な役割を担った。

    土間に入ると黒光りのする大黒柱。さらに部屋に上がって説明を受ける。

    【日野宿】
    武州は、幕府の直轄支配を受けた天領で、農民に対する統制はゆるやかだった。
    日野でも、二人の名主と配下の組頭たちによる農民自治の伝統が長く続いた。
    日野宿には、飯盛女などの風俗営業がなく、休憩用の宿場とみなされ、殆どの旅行者は、府中宿か八王子宿で宿泊したといわれている。

    日野宿本陣があった場所。
    風格のある旧家がそのまま残されている。日野宿の名主を代々つとめる佐藤家の屋敷で、土方歳三の姉、のぶが嫁いだところだ。
    土方にとって義兄でもあり従兄弟でもある佐藤彦五郎は、新選組の熱心な庇護者で、佐藤がいなければ、天然理心流は栄えず、近藤勇も新選組も生まれてはいなかっただろうと言われている。佐藤家では、天然理心流道場に支援し、邸宅の一部を道場に仕立て、若い剣客たちを育て上げることに重要な役割を担った。

  • 八坂神社の次の信号を左折すると、【宝泉寺】がある。<br />境内、本堂の左に新撰組六番隊隊長「井上源三郎の碑」が建つ。日野は彼の古里。<br />墓地には新選組副長助勤六番隊組長井上源三郎の墓と顕彰碑があります。<br /><br />源三郎は日野宿の八王子千人同心世話役の三男として生まれ、近藤勇の兄弟子でした、文武両道に秀で、人物温厚であったとか。<br />慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いが勃発すると、源三郎は淀千両松の戦いで官軍の銃弾を腹部に受け戦死、享年四十歳。

    八坂神社の次の信号を左折すると、【宝泉寺】がある。
    境内、本堂の左に新撰組六番隊隊長「井上源三郎の碑」が建つ。日野は彼の古里。
    墓地には新選組副長助勤六番隊組長井上源三郎の墓と顕彰碑があります。

    源三郎は日野宿の八王子千人同心世話役の三男として生まれ、近藤勇の兄弟子でした、文武両道に秀で、人物温厚であったとか。
    慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いが勃発すると、源三郎は淀千両松の戦いで官軍の銃弾を腹部に受け戦死、享年四十歳。

  • 【宝泉寺】の入口<br />臨済宗建長寺派如意山宝泉禅寺。本尊は釈迦如来、脇侍に文殊菩薩普、賢菩薩があります、六脚ヒノキ造りの山門は嘉永6年(1853年)の建立。<br />

    【宝泉寺】の入口
    臨済宗建長寺派如意山宝泉禅寺。本尊は釈迦如来、脇侍に文殊菩薩普、賢菩薩があります、六脚ヒノキ造りの山門は嘉永6年(1853年)の建立。

  • JR日野駅のガードと上部はホーム

    JR日野駅のガードと上部はホーム

  • 【浅川に架かる大和田橋の袂。この橋を渡るといよいよ横山宿<br /><br />【焼夷弾・弾痕の保存について】<br />  八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。<br /><br /> 大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。<br /><br /> 車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の数から推定すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相模国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。<br /><br /> 弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、他15箇所は色タイルで、その位置を示してあります。<br /><br />     平成9年10月 建設省関東地方建設局 相武国道工事事務所

    【浅川に架かる大和田橋の袂。この橋を渡るといよいよ横山宿

    【焼夷弾・弾痕の保存について】
      八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。

     大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。

     車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の数から推定すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相模国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の弾痕を保存し太平洋戦争の痕跡を永く後世に伝えるものです。

     弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、他15箇所は色タイルで、その位置を示してあります。

         平成9年10月 建設省関東地方建設局 相武国道工事事務所

  • 竹の花公園に建つ【竹の鼻一里塚跡碑】<br />塚木の大榎は明治30年(1897)の八王子大火で焼失した。江戸日本橋より数えて11里目です。<br />八王子宿の入口にあり、日本橋より12番目の一里塚だ。<br />新町は八王子15宿の一つのあったところだ。<br />八王子宿は、この新町と横山宿、本宿、八日市宿、寺町、八幡宿、八木宿、横町、本郷宿、久保宿、島之坊宿、小門宿、上野原宿、馬乗宿、子安宿の15宿。<br />これらの宿が延々と続き、この中の中心地が横山宿であった。<br /><br />*八王子は幕府の天領で、江戸初期に、武田家の旧臣、大久保長安によって開発された町。江戸期後半には、周辺で養蚕が盛んになり、幕末に横浜が開港され、絹が主要輸出品になると、八王子は生糸・絹の生産地として、また、関東各地から横浜への輸送中継地として栄えた。<br /><br />*【新町竹の鼻の一里塚跡】 八王子市指定史跡(昭和38年4月1日指定)<br /> この地は、現在では竹の花公園となって竹の花と表記されているが、江戸時代の地誌『武蔵名称図会』などには竹之鼻と書かれている。<br />  一里塚は、徳川家康が秀忠に命じて、慶長九年(1604)に日本橋を基点に東海道・東山道・北陸道などに榎を植えた塚を築かせたもので、市内には四か所あった。<br />  新町のこの辺りは、江戸方面から八王子宿への入口に位置し、甲州街道は鍵の手(直角)になっている。<br /> 隣の永福稲荷神社の境内には、芭蕉句碑、江戸時代の手水鉢や庚申塔、道路沿いの石垣には「八王子米屋中」の名盤がはめ込まれ、往時の歴史を偲ぶことができる。なお、当神社の九月はじめの生姜まつりは、この地域では名高いまつりである。<br />                       八王子市教育委員会

    竹の花公園に建つ【竹の鼻一里塚跡碑】
    塚木の大榎は明治30年(1897)の八王子大火で焼失した。江戸日本橋より数えて11里目です。
    八王子宿の入口にあり、日本橋より12番目の一里塚だ。
    新町は八王子15宿の一つのあったところだ。
    八王子宿は、この新町と横山宿、本宿、八日市宿、寺町、八幡宿、八木宿、横町、本郷宿、久保宿、島之坊宿、小門宿、上野原宿、馬乗宿、子安宿の15宿。
    これらの宿が延々と続き、この中の中心地が横山宿であった。

    *八王子は幕府の天領で、江戸初期に、武田家の旧臣、大久保長安によって開発された町。江戸期後半には、周辺で養蚕が盛んになり、幕末に横浜が開港され、絹が主要輸出品になると、八王子は生糸・絹の生産地として、また、関東各地から横浜への輸送中継地として栄えた。

    *【新町竹の鼻の一里塚跡】 八王子市指定史跡(昭和38年4月1日指定)
     この地は、現在では竹の花公園となって竹の花と表記されているが、江戸時代の地誌『武蔵名称図会』などには竹之鼻と書かれている。
      一里塚は、徳川家康が秀忠に命じて、慶長九年(1604)に日本橋を基点に東海道・東山道・北陸道などに榎を植えた塚を築かせたもので、市内には四か所あった。
      新町のこの辺りは、江戸方面から八王子宿への入口に位置し、甲州街道は鍵の手(直角)になっている。
     隣の永福稲荷神社の境内には、芭蕉句碑、江戸時代の手水鉢や庚申塔、道路沿いの石垣には「八王子米屋中」の名盤がはめ込まれ、往時の歴史を偲ぶことができる。なお、当神社の九月はじめの生姜まつりは、この地域では名高いまつりである。
                           八王子市教育委員会

  • 【永福稲荷神社はこの地の鎮守です】<br />境内には八光山権五郎像(力士)がある。ご当地出身の力士で宝暦6年(1756)永福稲荷神社を再建し、落慶の日に相撲を奉納しま。<br />社殿の右手には芭蕉句碑<br />「蝶の飛ぶばかりの 野中の 日陰哉」

    【永福稲荷神社はこの地の鎮守です】
    境内には八光山権五郎像(力士)がある。ご当地出身の力士で宝暦6年(1756)永福稲荷神社を再建し、落慶の日に相撲を奉納しま。
    社殿の右手には芭蕉句碑
    「蝶の飛ぶばかりの 野中の 日陰哉」

  • 社殿の裏手には享保8年(1723)建立の【青面金剛像庚申塔】等です。<br />

    社殿の裏手には享保8年(1723)建立の【青面金剛像庚申塔】等です。

  • 【八日市宿跡碑】<br />場所は八王子夢美術館の入口先。<br />宿並は東から横山宿、八日市宿、八幡宿で構成され、総称して八王子宿と呼ばれた。<br />天保14年(1843)頃、八王子宿の宿内家数は約1500軒、うち本陣2、脇本陣3、問屋2、旅籠34軒で、宿内人口は約6000人。

    【八日市宿跡碑】
    場所は八王子夢美術館の入口先。
    宿並は東から横山宿、八日市宿、八幡宿で構成され、総称して八王子宿と呼ばれた。
    天保14年(1843)頃、八王子宿の宿内家数は約1500軒、うち本陣2、脇本陣3、問屋2、旅籠34軒で、宿内人口は約6000人。

  • 【追分碑】<br />追分交差点の追分交番の所に文化8年(1811)建立の<br />追分道標「左甲州道中高尾小道」「右あんげ道」があります。 <br />甲州街道と陣馬街道の分かれ。<br /><br />【追分の道標について】<br />  この道標は文化八年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。<br /><br /> その後、昭和二十年(1945)八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。<br />  このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。<br />               昭和十五年五月 八王子市教育委員会

    【追分碑】
    追分交差点の追分交番の所に文化8年(1811)建立の
    追分道標「左甲州道中高尾小道」「右あんげ道」があります。 
    甲州街道と陣馬街道の分かれ。

    【追分の道標について】
      この道標は文化八年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。

     その後、昭和二十年(1945)八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。
      このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。
                   昭和十五年五月 八王子市教育委員会

  • この追分には、【八王子千人同心の屋敷跡】があった。<br />八王子千人同心は、武田家滅亡後の天正10年に、浜松で徳川家康に謁見した武田家旗本出身者と、その配下の同心(下級役人)が中心となって結成され、その後増員された。<br />八王子に移転してから、関ヶ原の戦の前に、1000人へと倍増し、「八王子千人同心」と呼ばれた。以後、関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣と参戦し、戦国時代が終わった後は、家康を祀る日光東照宮の警備が主な仕事。<br />家康は、こうしてかつての敵を忠実な家来に仕立て上げた。<br />この八王子千人隊(幕末に改名)も、戊辰戦争中は戦うこともなく解散した。<br />なんと、官軍の指揮官、土佐藩士の乾退助は、武田信玄麾下の名将、板垣信形の子孫だったのだ。そこで、彼は、進軍中に名前を「板垣」と改め、間諜を放って「官軍の大将は甲州の血を引く人物である」と広めまくる。<br /><br />

    この追分には、【八王子千人同心の屋敷跡】があった。
    八王子千人同心は、武田家滅亡後の天正10年に、浜松で徳川家康に謁見した武田家旗本出身者と、その配下の同心(下級役人)が中心となって結成され、その後増員された。
    八王子に移転してから、関ヶ原の戦の前に、1000人へと倍増し、「八王子千人同心」と呼ばれた。以後、関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣と参戦し、戦国時代が終わった後は、家康を祀る日光東照宮の警備が主な仕事。
    家康は、こうしてかつての敵を忠実な家来に仕立て上げた。
    この八王子千人隊(幕末に改名)も、戊辰戦争中は戦うこともなく解散した。
    なんと、官軍の指揮官、土佐藩士の乾退助は、武田信玄麾下の名将、板垣信形の子孫だったのだ。そこで、彼は、進軍中に名前を「板垣」と改め、間諜を放って「官軍の大将は甲州の血を引く人物である」と広めまくる。

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