2013/11/04 - 2013/11/04
569位(同エリア2161件中)
滝山氏照さん
平安時代から南北朝時代前期にかけて武蔵七党と呼ばれる小規模武士集団の中で村山党は当時の西多摩郡東端から北多摩郡・入間郡の両郡にまたがる丘陵一帯を支配しここを本貫地としていました。
その後村山党発展分布が東北方向へ伸び入間郡中心に行われ、分派する庶流は宮寺氏(入間市宮寺)、山口氏(所沢市山口)、久米氏(所沢市久米)、荒幡氏(所沢市荒幡)、大井氏(入間郡大井町)、難波田氏(富士見市上南畑・下南畑地区)、金子氏(入間市金子)等があります。
ここで述べる仙波氏も村山氏庶流の一部として川越市仙波荘(高階地区と福岡、大井、富士見、三芳の各市町)に平安時代末期ごろに勢力を有し地域名である仙波を名乗り、鎌倉時代にはその一族が頼朝の家人となり地頭として支配していたと考えられます。
今回訪問した冷水山・長徳寺(ちょうとくじ、埼玉県川越市仙波町)は村山党が分布発展した豪族仙波氏の居館跡といわれており、居館の一隅に建てられた持仏堂が発展したものと考えられ、寺内部及びその周辺には当時を偲ばせるものは見当たらないものの、東部の低地に延びる舌状の高台先端に長徳寺が位置し中世期の居館としての条件は整っているようです。
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では文治元年(1183)10月、長勝寿院の供養会に臨席する頼朝として供奉人名簿の中に仙波次郎が、又は建久元年(1190)11月、頼朝の上洛随兵の中に仙波次郎と仙波平太の名が、更には建久6年(1196)3月の頼朝による東大寺供養の随員として仙波太郎の名が挙げられています。
また承久3年(1221)の承久の乱には宇治川合戦で仙波太郎などが負傷し、仙波弥次郎も同日負傷しやがて死亡している記録が残っており既に村山党の一派として一族郎党あげて幕府の御家人として奉公していたと思われます。
2022年10月2日追記
境内に建てらえrた説明板には次のように紹介されています。
『 市指定・史跡
仙 波 氏 館 跡
第仙波の長徳寺は天台宗の末寺で、「新編武蔵風土記稿」によると「永承甲戌(1514)天台抄門実海」の名が古い過去帳に記されていたという。境内に、もと若干の土塁と堀があったといわれ、小字に「堀の内」という地名も残っているところから、仙波氏の館跡だと推定されている。「保元物語」に仙波七郎高家、「吾妻鏡」に仙波平太・同太郎・次郎弥三郎・左衛門尉などの名がみえ、これらは在名をもって氏としたことが考えられる。ただし郷庄の唱えではこの大仙波村は山田庄に属し、仙波庄を唱うる村はこれにより南部の市内高階地区と上福岡・大井・富士見・三芳各市町に広がっているものが多く、仙波氏の支配した荘園と考えられる。
昭和56年11月
川越教育委員会 』
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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長徳寺・山門
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長徳寺・山門
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長徳寺・山門
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仙波氏居館・柱標
「仙波氏館跡」であったと示す柱標が建っています。 -
仙波氏館跡・説明板
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長徳寺・参道
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長徳寺・稚児観音像
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長徳寺・本堂
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長徳寺・本堂扁額
「長徳寺」と揮毫された扁額が見えます。 -
長徳寺・境内
本堂から山門方向を捉えます。 -
長徳寺・墓地入口
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長徳寺・北側通り
なだらかな下り坂となった道路が東方向に向かいます。 -
長徳寺・北側通り
東方向を歩きその途中を振り返るとなだらかに降りてくる道路を確認できます。 -
長徳寺・東端
当寺の東端はなだらかな下り坂が留まらず、細かな溝を越えて更に坂が下っていきます。 -
長徳寺東端風景
当寺東端から東方向を見るとて手前を南北に流れる溝が認められ、その先はマンション駐車場となっています。この溝がどのような意味を持つのか明確に言えませんが往時の堀の役割を果たしているとすれば遺構として指摘したいと思います。 -
長徳寺・隣接部
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帯状急斜面(土塁?)
長徳寺東端から更に東方向を見ると帯状急斜面が認められます。 -
長徳寺・南側道路
手前の観音堂建物は低地を意識して造られており、ここでも長徳寺南側道路が東方向に沈むように走ります。 -
川越観音堂
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川越観音堂
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