2013/11/04 - 2013/11/04
969位(同エリア2117件中)
滝山氏照さん
東武東上線霞ヶ関駅より徒歩約15分、桓武平氏の流れをくむ秩父氏から派生した河越館(かわごえやかた、埼玉県川越市上戸)を訪ねました。
居館跡入口に設置された説明板には下記の通り詳細にわたって記述されています。
「 国指定史跡 河 越 館 跡
河越館跡は、平安時代の終わりころから南北朝時代の中ごろまでの約二百年の間、武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主の河越氏の居館跡です。
河越氏は、桓武平氏秩父氏の流れを汲む一族で、平安時代の終わりころ、この地に館を構え、河越氏を名乗りました。
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、河越氏は初め敵対しましたが、後に御家人となって平氏討伐軍に参戦します。この頃の河越氏の勢力は、重頼(しげより)の娘が源頼朝の弟義経の妻に選ばれたことから推し量ることができます。 おそらく輿入れの日、重頼の娘は、お供の者たちと河越館から都の義経のもとへ向かったことでしょう。
ところが、後に義経と頼朝の仲違いから、義経縁者である事が禍して、重頼らは滅ぼされ、河越氏の勢力はここで一時衰えます。
しかし鎌倉時代中ごろ、高野山に町石を建てたことで知られる経重(つねしげ)のころには、かつての勢力を回復しつつありました。
鎌倉時代の後半になると、館の中に時宗常楽寺(じょうらくじ)が開山され、河越館は大きく変貌します。後に時宗15代上人尊恵が訪れ「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた念仏札を配り大勢の人々で賑わうこともあったようです。
応安元年(1368)、突然河越氏や高坂氏ら「平一揆」が河越の館にたてこもって鎌倉府に反旗しますが、あえなく敗れてしまいます。
これ以降、河越氏は政治の表舞台から姿を消し、河越氏と館の関係も
幕を閉じることになります。
戦国時代になりますと、関東管領山内上杉氏が川越城の扇谷上杉氏に対抗するために、かつての河越館を含むこの周辺に陣所(上戸陣)を構えたことが知られています。 現在指定地の西に残る土塁は、その頃の遺構と考えられます。 川越市教育委員会 」
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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東武東上線霞ヶ関駅
川越市西方に位置する入間川を渡ると「霞ヶ関」という都心地下鉄駅名と同じ名前で妙に親しみがもてる駅で下車します。 -
霞ヶ関駅周辺案内図
霞ヶ関北口を北進、途中で右折し入間川河畔方向に足を進めます。 -
霞ヶ関駅北口周辺文化財案内
今から訪れる「河越館跡」や「常楽寺」の紹介が掲載されています。 -
河越館跡史跡公園案内板
国指定遺跡に歴史の重みを感じます。 -
河越館跡説明板
入口から右に少し離れた立て看板が見つかりました。 -
河越館跡史跡公園入口標識
公園化に向けて整備途中と思われ、暫定的な入口標識となっています。 -
河越館跡未整備敷地風景
公園化に向けて未整備のエリアのようです。 -
河越館跡未整備敷地風景
とにかく館として膨大な敷地を感じます。 -
河越館跡公園開園案内
案内板によりますと4月-9月は9時から18時、10月~3月は9時から17時の開園となっています。 -
河越館跡(堀8号区画)
発掘調査の後整備されて公園となったエリアです。(説明板では堀8号区画と表記しています) -
河越館跡(堀8号区画)
河越氏の館を区画した堀が南北に約75m、東西に約100mの方形区画となっています。(この写真は西から東を捉えた堀跡) -
河越館跡(堀8号区画)
同じく南から北を捉えた堀跡となります。 -
「河越館跡屋敷地を区画した堀」説明板
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堀8号区画・井戸跡
館跡中央部に造られた約2.5m四方の井戸跡が見られます。 -
「井戸跡」説明板
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井戸跡
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山内上杉氏陣所跡
河越氏時代の後(15世紀末~16世紀初期)における遺構が記されています。即ち扇谷上杉氏との覇権争いに際して、河越城に立て籠もる同氏を攻撃するため山内上杉氏が当地を陣所として使用する際に一部変更を加えています。 -
「山内上杉氏陣所を区画した堀」説明板
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山内上杉氏陣所区画堀跡
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塚状遺構
出土遺物に臓骨器として使用されている常滑焼の壺が見られていることから、祖先を祀る霊廟や納骨堂といった宗教的な役割をもった施設と思われます。 -
「塚状遺構」説明板
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堀8号区画外の外周を巡る道路跡
確認されているだけで北側、西側そして南側に道路がありますが、未確認ながら東側にも道路があったと推測され、そうなれば四周に堀と道路が巡らしていることになります。 -
「堀8号区画外の外周を巡る道路」説明
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館跡を囲む堀と道路(堀8号区画)
北側と西側が交わる地点での堀跡と道路跡を捉えます。 -
館跡を囲む堀と道路
堀1号区画(左側敷地)に接する道路跡が認められます。 -
北側区画(堀1号区画)風景
道路を挟んで北側に大規模区画が控えています。発掘調査では13世紀の遺構が認められるところから河越氏館に関係する区画と推定されます。(発掘調査の結果北側敷地を「堀1号区画」と呼称しています) -
堀1号区画風景
道路跡の突き当りが上戸小学校体育館ですが、当然ながらかつては河越氏館の一部でありました。 -
重なり合った堀跡
16世紀に造られた深さ2.5mから3.0mの重なり合った堀跡が発掘調査で認められています。これは河越氏滅亡後の戦国時代に当地が陣所として使われた際の遺構と言われています。 -
「重なり合った堀跡」説明板
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堀1号区画風景
右手に上戸小学校体育館を見ながら北側区画の奥(東)方向を窺います。住突き当りの住宅の並びの更に東は入間川土手にあたります。 -
堀1号区画風景
奥(東)から振り返って堀1号区画の西方向を捉えます。 -
河越館跡公園に関する説明板
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「国史跡河越館跡整備について」説明板
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「河越氏について」説明板
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「河越館跡発掘調査成果」説明板
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「河越館跡をイメージする」説明板
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堀8号区画を展望
堀1号区画からあずま屋を経て堀8号区画を望みます。 -
空堀跡
堀1号区画の西側に南北に堀が認めらますが、この堀は堀8号区画の西側に南北に走る堀とほぼ同一の軸上に位置していることから河越氏館と関係する施設と思われます。 -
隣り合った堀区画(堀1号区画)説明板
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1号区画風景
1号区画北西角から東方向を望むと上戸小学校体育館が見えます。 -
8号区画風景
1号区画北西角から南方向を望むと常楽寺鎮守の森が見えます。 -
河越館跡未整備敷地風景
館跡西部敷地は未整備になっており、北側道路は自動車往来可能です。 -
河越館跡未整備敷地風景
北側道路側から河越館跡の未整備敷地を捉えます。 -
河越館跡未整備敷地風景
幹線道路側から河越館跡の未整備敷地を捉えます。 -
河越館跡土塁
道路側から館跡北辺に遺された土塁が認められます。 -
土塁
敷地内側から土塁を捉えます。 -
敷地西端部を南北に走る土塁
未整備敷地の西側には道路が走り、道路に平行して土塁がしっかりと見えます。 -
敷地西端部土塁
道路側から土塁を捉えます。 -
敷地西端部土塁
道路の反対側から土塁を捉えます。 -
敷地西端土塁
遺構らしきはこの北・西一帯の土塁しかありませんが15−16世紀の山内上杉氏の陣所設営の時代のものと思われます。 -
河越館跡石標
新しく造られたと思われる「河越館跡」石標が土塁の近くに堂々と建立されています。
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