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東武東上線霞ヶ関駅北口から徒歩約15分、河越館跡史跡公園に隣接する河越山・常楽寺(じょうらくじ、埼玉県川越市上戸)は平安時代から南北朝時代にかけて武蔵国で最大の勢力を保有していた桓武平氏の流れを汲む秩父一族の惣領家河越氏の館内に配した持仏堂(じぶつどう)が発展し、鎌倉時代に常楽寺に改称されたものです。<br /><br />そもそも秩父氏は村岡五郎(別名・平良文)(むらおか・ごろう(別名・たいらの・よしぶみ)、886?~952?)の孫の将常(まさつね、1007?~1057?)により始まります。将常は武蔵権守となり秩父郡中村郷(現秩父市)の本拠を置き秩父盆地一帯を支配し自らを秩父氏と称します。<br /><br />将常の孫武綱(たけつな、生没不詳)は秩父十郎と称し前九年・後三年の役では支配する秩父一帯の武士団を引き連れ源義家(みなもと・よしいえ)に従い武勲を立てています。<br /><br />武綱の孫には4名の息子がおり、長男重弘(しげひろ、生没不詳)からは畠山氏、長野氏、稲毛氏、榛谷氏、小山田氏に、三男重継(しげつぐ、生没不詳)からは江戸氏に、四男行重(ゆきしげ、生没不詳)からは後の秩父氏に、そして二男重隆(しげたか、生誕不詳~1155)からは後の河越氏にそれぞれ分派発展してゆきます。<br /><br />治承4年(1180)に源頼朝が平氏に反旗を翻す頃は河越氏は重頼(しげより、生誕不詳~1185)が家督を継承、畠山重忠、江戸重長らと共に平氏の立場として、三浦氏本拠衣笠城攻撃し三浦氏はこれを機に安房に逃れることになります。<br /><br />やがて安房で勢力を整えた頼朝は下総に集結、武蔵国に入る頃には数万の軍勢と増え、同年10月には長井の渡しで河越重頼は江戸重長・畠山重忠と共についに頼朝の下に参陣することになります。<br /><br />頼朝の御家人となった河越重頼の妻は頼朝の乳母であった比企尼の娘であったことから頼朝との親近関係が生まれています。<br /><br />元歴元年(1184)1月、木曽義仲討伐の戦いでは源範頼・義経に嫡子の重房と共に従軍、その後入洛後は御所の警護を勤めています。<br /><br />元歴元年8月に頼朝と義経の不和のきっかけとなる事件が起こります。即ち京都在勤の義経が頼朝の推挙なく検非違使・左衛門尉に任官されることで頼朝を激怒させます。<br /><br />一方その事件の1ケ月後にはかねてより頼朝の肝いりで約束となっていた事で、河越重頼の娘が義経の正室として生まれ育った河越郷から京都に送られることになります。<br /><br />その後の頼朝と義経の不和は収まるどころか一層激化し、翌年文治元年(1185)には義経はとうとう頼朝から追討を受けることになり、そのため義経の義父の立場となった重頼は同年11月に所領没収されやがて重頼自身も誅されます。<br /><br />没収した所領について頼朝は一部を除き本領の河越郷を始めとする所領の大部分を重頼の母親に与え、更に文治3年(1187)には河越郷を重頼の後家尼に安堵しています。<br /><br />河越氏のその後については御家人としての地位は守られ、重頼の三男重員(しげかず、生没不詳)は、嘉禄2年(1226)に先祖重綱以来代々の例であるとの理由で武蔵国留守所総検校職(国司の代理職)を与えられます。<br /><br />このように武蔵国における棟梁的な地位が復活されますが、一時的には義経の外戚という立場から秩父一族惣領家として強大な軍事力を背景に義経に与されることを未然に防ぎたいとの考えが働いたと思われます。<br /><br />(頼朝は中小の武士を統括するような棟梁的武士に対しては神経質になっており同時に強い警戒感を抱いていました。)<br /><br /><br />2022年10月6日追記<br /><br />常楽寺ホームページには下記の通り寺院に関して説明があります。<br /><br />『 河越山三芳野院常楽寺<br /><br />常楽寺は、国指定史跡「河越館跡」の中にあります。「河越氏」の持仏堂を基とする「浄興密寺」と呼ばれた密教の寺が、嘉元3年(1305)この地方を巡賜された「遊行三祖・智得上人」を開山上人とし迎えて「時宗・常楽寺」と改めたと伝えられています。河越氏7代目「宗重」の台にあたります。以来七百有余年、念仏弘通の「三芳道場」として法灯が相続されました。<br /><br />山号の「河越」は地名から、院号の「三芳野」は伊勢物語に、「むさしの国<br /> いるまのこほり みよしのの里なり」と書かれた、この辺り一帯の呼び名からつけられました。<br /><br />現在の本堂は、平成16年12月に、常楽寺開山七百年記念事業として新築されました。ご本山は藤沢市の清浄光寺(遊行寺)です。』

武蔵霞ヶ関 秩父一族惣領家を代々受け継ぎ武蔵国留守所総検校職を務めるも義経義父の事情で頼朝に誅殺された河越重頼と義経夫妻を弔う『常楽寺』訪問

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2013/11/04 - 2013/11/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

東武東上線霞ヶ関駅北口から徒歩約15分、河越館跡史跡公園に隣接する河越山・常楽寺(じょうらくじ、埼玉県川越市上戸)は平安時代から南北朝時代にかけて武蔵国で最大の勢力を保有していた桓武平氏の流れを汲む秩父一族の惣領家河越氏の館内に配した持仏堂(じぶつどう)が発展し、鎌倉時代に常楽寺に改称されたものです。

そもそも秩父氏は村岡五郎(別名・平良文)(むらおか・ごろう(別名・たいらの・よしぶみ)、886?~952?)の孫の将常(まさつね、1007?~1057?)により始まります。将常は武蔵権守となり秩父郡中村郷(現秩父市)の本拠を置き秩父盆地一帯を支配し自らを秩父氏と称します。

将常の孫武綱(たけつな、生没不詳)は秩父十郎と称し前九年・後三年の役では支配する秩父一帯の武士団を引き連れ源義家(みなもと・よしいえ)に従い武勲を立てています。

武綱の孫には4名の息子がおり、長男重弘(しげひろ、生没不詳)からは畠山氏、長野氏、稲毛氏、榛谷氏、小山田氏に、三男重継(しげつぐ、生没不詳)からは江戸氏に、四男行重(ゆきしげ、生没不詳)からは後の秩父氏に、そして二男重隆(しげたか、生誕不詳~1155)からは後の河越氏にそれぞれ分派発展してゆきます。

治承4年(1180)に源頼朝が平氏に反旗を翻す頃は河越氏は重頼(しげより、生誕不詳~1185)が家督を継承、畠山重忠、江戸重長らと共に平氏の立場として、三浦氏本拠衣笠城攻撃し三浦氏はこれを機に安房に逃れることになります。

やがて安房で勢力を整えた頼朝は下総に集結、武蔵国に入る頃には数万の軍勢と増え、同年10月には長井の渡しで河越重頼は江戸重長・畠山重忠と共についに頼朝の下に参陣することになります。

頼朝の御家人となった河越重頼の妻は頼朝の乳母であった比企尼の娘であったことから頼朝との親近関係が生まれています。

元歴元年(1184)1月、木曽義仲討伐の戦いでは源範頼・義経に嫡子の重房と共に従軍、その後入洛後は御所の警護を勤めています。

元歴元年8月に頼朝と義経の不和のきっかけとなる事件が起こります。即ち京都在勤の義経が頼朝の推挙なく検非違使・左衛門尉に任官されることで頼朝を激怒させます。

一方その事件の1ケ月後にはかねてより頼朝の肝いりで約束となっていた事で、河越重頼の娘が義経の正室として生まれ育った河越郷から京都に送られることになります。

その後の頼朝と義経の不和は収まるどころか一層激化し、翌年文治元年(1185)には義経はとうとう頼朝から追討を受けることになり、そのため義経の義父の立場となった重頼は同年11月に所領没収されやがて重頼自身も誅されます。

没収した所領について頼朝は一部を除き本領の河越郷を始めとする所領の大部分を重頼の母親に与え、更に文治3年(1187)には河越郷を重頼の後家尼に安堵しています。

河越氏のその後については御家人としての地位は守られ、重頼の三男重員(しげかず、生没不詳)は、嘉禄2年(1226)に先祖重綱以来代々の例であるとの理由で武蔵国留守所総検校職(国司の代理職)を与えられます。

このように武蔵国における棟梁的な地位が復活されますが、一時的には義経の外戚という立場から秩父一族惣領家として強大な軍事力を背景に義経に与されることを未然に防ぎたいとの考えが働いたと思われます。

(頼朝は中小の武士を統括するような棟梁的武士に対しては神経質になっており同時に強い警戒感を抱いていました。)


2022年10月6日追記

常楽寺ホームページには下記の通り寺院に関して説明があります。

『 河越山三芳野院常楽寺

常楽寺は、国指定史跡「河越館跡」の中にあります。「河越氏」の持仏堂を基とする「浄興密寺」と呼ばれた密教の寺が、嘉元3年(1305)この地方を巡賜された「遊行三祖・智得上人」を開山上人とし迎えて「時宗・常楽寺」と改めたと伝えられています。河越氏7代目「宗重」の台にあたります。以来七百有余年、念仏弘通の「三芳道場」として法灯が相続されました。

山号の「河越」は地名から、院号の「三芳野」は伊勢物語に、「むさしの国
 いるまのこほり みよしのの里なり」と書かれた、この辺り一帯の呼び名からつけられました。

現在の本堂は、平成16年12月に、常楽寺開山七百年記念事業として新築されました。ご本山は藤沢市の清浄光寺(遊行寺)です。』

交通手段
私鉄 徒歩
  • 常楽寺・全景<br /><br />常楽寺はかつては河越館の一角に持仏堂として存在していたようです。

    常楽寺・全景

    常楽寺はかつては河越館の一角に持仏堂として存在していたようです。

  • 常楽寺・総門<br /><br />通りに面した常楽寺の向こうは入間川の土手に当たります。

    常楽寺・総門

    通りに面した常楽寺の向こうは入間川の土手に当たります。

  • 常楽寺・総門<br /><br />すっきりした佇まいが印象的です。

    常楽寺・総門

    すっきりした佇まいが印象的です。

  • 河越館跡・石標<br /><br />総門の右はずれにひっそりと石標が建立されています。

    河越館跡・石標

    総門の右はずれにひっそりと石標が建立されています。

  • 川越館跡・標柱<br /><br />木製の標柱につき風雨に討たれ読み取りが判然としません。

    川越館跡・標柱

    木製の標柱につき風雨に討たれ読み取りが判然としません。

  • 常楽寺・総門

    常楽寺・総門

  • 常楽寺・参道<br /><br />参道途中の左右の石燈籠は歴史を感じます。

    常楽寺・参道

    参道途中の左右の石燈籠は歴史を感じます。

  • 河越館跡・説明文

    河越館跡・説明文

  • 常楽寺・山門(仁王門)<br /><br />二層の山門は荘厳で格式の高さを感じざるを得ません。

    イチオシ

    常楽寺・山門(仁王門)

    二層の山門は荘厳で格式の高さを感じざるを得ません。

  • 常楽寺山門・仁王像(右側)<br /><br />見事な仁王像です。

    常楽寺山門・仁王像(右側)

    見事な仁王像です。

  • 常楽寺山門・仁王像(左側)

    常楽寺山門・仁王像(左側)

  • 河越館跡説明板<br /><br />旧作成の説明板のようで手書きの為判別困難です。

    河越館跡説明板

    旧作成の説明板のようで手書きの為判別困難です。

  • 常楽寺・本堂

    常楽寺・本堂

  • 常楽寺・一遍上人像<br /><br />常楽寺は時宗につき境内には一遍上人像が建立されています。

    常楽寺・一遍上人像

    常楽寺は時宗につき境内には一遍上人像が建立されています。

  • 常楽寺・社務所<br /><br />本堂に繋がる社務所も見事な建物となっています。

    常楽寺・社務所

    本堂に繋がる社務所も見事な建物となっています。

  • 常楽寺・本堂扁額<br /><br />山号である「河越山」の扁額が掲示されています。

    常楽寺・本堂扁額

    山号である「河越山」の扁額が掲示されています。

  • 常楽寺・境内<br /><br />本堂から山門(仁王門)方向を捉えます。

    常楽寺・境内

    本堂から山門(仁王門)方向を捉えます。

  • 常楽寺・福寿殿

    常楽寺・福寿殿

  • 常楽寺・福寿殿扁額

    常楽寺・福寿殿扁額

  • 一遍上人像

    一遍上人像

  • 河越氏・墓所(全景)<br /><br />山門を越えてすぐ左に比較的新しい廟が見えます。<br />

    河越氏・墓所(全景)

    山門を越えてすぐ左に比較的新しい廟が見えます。

  • 河越重頼・墓所(近景)<br /><br />中央に河越太郎重頼、右に源義経そして左に京姫(重頼娘・義経正室)の供養塔がそれぞれ建立されています。

    イチオシ

    河越重頼・墓所(近景)

    中央に河越太郎重頼、右に源義経そして左に京姫(重頼娘・義経正室)の供養塔がそれぞれ建立されています。

  • 川越氏墓所・供養塔建立記念碑

    川越氏墓所・供養塔建立記念碑

  • 常楽寺・本堂及び境内風景<br /><br />供養塔付近から本堂を捉えます。

    常楽寺・本堂及び境内風景

    供養塔付近から本堂を捉えます。

  • 常楽寺・境内<br /><br />本堂から参道・山門を望みます。

    常楽寺・境内

    本堂から参道・山門を望みます。

  • 入間橋西詰<br /><br />川越からの車輛は橋を渡ると左折れの道路に変わり不自然な道路事情となります。

    入間橋西詰

    川越からの車輛は橋を渡ると左折れの道路に変わり不自然な道路事情となります。

  • 入間橋<br /><br />入間橋を渡った車輛は左折後は下り坂となり、坂を下った後はすぐ右折という運転となり不自然な道路状況です。

    入間橋

    入間橋を渡った車輛は左折後は下り坂となり、坂を下った後はすぐ右折という運転となり不自然な道路状況です。

  • 入間橋変則カーブ<br /><br />この変則的な道路はもしかして河越氏館敷地保存のためと思われます。

    入間橋変則カーブ

    この変則的な道路はもしかして河越氏館敷地保存のためと思われます。

  • 入間橋途中<br /><br />

    入間橋途中

  • 入間川<br /><br />河越氏が本拠を構えるに当たって、多分この入間川の水運という役割については十分考慮に入れて配置したと思われます。

    入間川

    河越氏が本拠を構えるに当たって、多分この入間川の水運という役割については十分考慮に入れて配置したと思われます。

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