2013/08/27 - 2013/08/27
57位(同エリア280件中)
キートンさん
「青春18切符全部使いきれへんねんけど、使う?」
知人の鉄ちゃんから1本の電話。
このくそ暑いのに外出するなんて、現場仕事だけでうんざりの今日このごろ・・・
待てよ・・・暑いなら、涼しいところに行けばいいのか!
でも鈍行列車で「涼しいところ」なんて日帰りできるのか?
涼しいといえば、①標高の高いところ、②鍾乳洞、・・・
あと強いて言えば、夏は大阪より3~4℃低い潮岬くらいか?
あった!「年間を通して13℃」。まるでユートピア!!
そこに行けばどんな夏も
冷えるというよ
誰もみな知らないだけ
涼しい世界
その場所の名は「生野銀山」
但馬にあるユートピア
どうしたら行けるのだろう
播但線で行こう
In Ginzan Ginzan
They say it was in Tajima
Ginzan Ginzan
納涼は生野銀山
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ここは生野駅。
私は三蔵法師ではないので馬に乗って来たわけではない。
(適当にスルーしてください)
大阪から新快速に乗って1時間ちょいで姫路へ。
そして姫路から播但線で、寺前乗り替えを含み1時間10分ほどで生野駅に到着。
正規運賃では片道2500円を越えているので、すでに青春18きっぷの1日分のもとはとれている。
駅の西口にある観光案内所でこの街の地図を入手して、11:10頃東口から街の散策をスタートする。 -
駅から東に歩くとすぐに「市川」という川に突きあたる。
市川に沿う方に道を進み、右折して「宮町通り」を行くと、やがて右側に「郷社 姫宮神社」の大きな石碑が出現する。
そこに姫宮神社へと渡る橋があり、市川沿いに敷かれたトロッコの軌道跡が見られる。 -
こちらは市川の上流側で、トロッコの軌道は右岸側に敷かれている。
生野銀山から旧生野駅の鉱石を運ぶため、明治4年頃に建設が始まったそうだ。
ところで、天気は曇りで、思ったほど気温は上がっていない。
ひょっとして今日は大阪でもそんなに暑くなかったかも・・・ -
「宮町通り」は「銀山まち回廊」のひとつ。
「銀山まち回廊」は生野町口銀谷(くちがなや)の景観形成地区を巡る観光用道路で、鉱山町独特の近代以前の建造物を多く残している。 -
生野まちづくり工房「井筒屋」は、代官所から採掘権を与えられた吉川家が代々営んできた郷宿を平成15年に改修したもの。
母屋は天保3年(1832年)の建築。
鉱山関連施設として江戸期から現存する数少ない建物のひとつで、国の有形文化財に登録されている。 -
江戸時代、生野銀山では一般の旅人の宿泊は御法度だったそうだ。
公用で代官所を訪れた際に、宿泊が必要になったときの宿として郷宿が設けられた。
生野銀山の有力な山師であった吉川家は、「井筒屋」の屋号で郷宿を営んでいた。 -
イチオシ
土間から「店の間」と「座敷」越しに中庭を望む。
入館は無料で、座敷に上がって2階も含めて内部を見学できるが、あまり時間がなかったので上がらなかった。
パンフレットを見ると「内蔵展示室」もあり、家具や調度品も見ごたえありそうなので、惜しいことをした。 -
生野まちづくり工房「井筒屋」の向かいには、「口銀谷銀山町ミュージアムセンター」がある。
広い庭に井戸があり、敷地の横にはトロッコの軌道跡が残り市川が流れる。 -
「口銀谷銀山町ミュージアムセンター」の本館は「旧浅田邸」で、別館が「旧吉川邸」。
浅田家は江戸時代から代々続いた地役人で、明治時代には生野鉱山とともに、日本の近代化に活躍したという。
「旧浅田邸」は昭和7年(1932年)に建てられた浅田養蔵の旧邸。
「旧吉川邸」は、郷宿「井筒屋」の6代目の当主であった吉川増太郎が明治時代中期に建てた隠居部屋だと伝えられる。
これらの2棟の旧邸が改修され、平成22年9月に「口銀谷銀山町ミュージアムセンター」として再生した。 -
メインとなるのは「旧浅田邸」。
8畳の和室が2間並び、その外側2辺を廊下が囲む。
廊下の向こうに中庭がある。
入館は無料で、喫茶店並のメニューがあり、飲み物など頼んで休憩所として利用できる。 -
中庭に向いて置かれた椅子と廊下の雰囲気がレトロ。
その雰囲気に合わせてここはモノクロで。 -
「旧浅田邸」は木造2階建て。
2階に上がると、古い旅館の雰囲気。
欄間の彫刻がなかなか細かい。 -
イチオシ
「旧浅田邸」には、三角屋根にタイル外壁の洋館があり、廊下でつながっている。
生野に残る当時の民家としては珍しい様式だという。 -
洋館には、「銀の馬車道」に関する解説が展示されている。
「銀の馬車道」とは、明治9年に完成した生野銀山と飾磨港を結ぶ道路で、馬車がすれ違える幅員6mとし当時の最新式の「マカダム式」で舗装された。
国営化された生野銀山から銀を飾磨港まで輸送する方法は3案あったが、市川の水運案と鉄道案は建設費が膨大となるため、既存の道を最新式に改修する案が採用された。
明治28年には同ルートに「幡但鉄道」が開通し、馬車道は廃止されたものの、今でも県道や国道として部分的に使用されている。
浅田養蔵の父、浅田貞次郎は、鉱山民営化や幡但鉄道の開設に尽力し、生野の発展に貢献した。 -
30分ほど「口銀谷銀山町ミュージアムセンター」を見学した後、「生野銀山口」を経由するバスが「庁舎前」に12:34に来るはずなので、少し前にバス停に来た。
「庁舎前」という名のバス停なのに、朝来市生野支所の隣の但馬銀行のそのまた隣の「佐藤家住宅別邸」の前がバス停だった。
「佐藤家住宅別邸」は、「井筒屋」と同じく生野にあった6つの郷宿のひとつだったようだ。 -
バスは5分もかからず「生野銀山口」に到着。
そこから市川を渡って坂道を600mくらい上って行く。
徐々に晴れてきたので、だんだん暑くなってきた。 -
「1円電車」として有名になったという「明神電車」。
大屋町の明延鉱山と朝来町神子畑間6.1kmを鉱石輸送のために開通した「明神電車」は、従業員とその家族の交通の便をはかるため、昭和20年から客車が連結されるようになった。
運賃は50銭でスタートし、昭和27年に1円に改定されたものの、昭和62年3月に廃止されるまでの長期間1円のまま据え置かれ有名になったという。
高度成長期の物価上昇率を考えると驚異的な話だが、客車はありえないほど狭い。 -
生野銀山の門柱には、政府の直轄を示す「菊の御紋」が入っている。
生野銀山は戦国時代から近代にかけての日本有数の銀山。
明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために、最初に官営(直轄)鉱山とした模範鉱山である。
写真左側には帰りに寄ることになる「生野鉱物館」がある。 -
門の横には「銀山食堂」があったので、「生野鉱山の社宅で食べた想い出の味」といわれる「ハヤシライス」を昼食にした。
といっても当然私は生野鉱山の社宅で食べたことはないので、「想い出の味」ではないのだが・・・
ちなみに生野の街中にはハヤシライスを食べれる店がいくつもあり、店によって特色があって値段も異なるもよう。
この食堂では600円で、味は普通かな? -
「代官所門」が現在の生野銀山の入口となっている。
入場料は通常900円だが、8月末まで1割引の割引券をネットから印刷してきたので810円だった。 -
鉱石を運搬したトロッコは子供たちの写真を撮るのに良い所。
-
13:15頃、気温も上がってきた時間帯にいよいよ納涼ゾーンへ突入する。
正面が観光坑道の入口、右手の朱の欄干の橋の先に出口がある。 -
坑内に入った途端に、一気に冷気に包まれる。
「坑内の温度は年間を通じて約13℃です」
あながち嘘でもなさそうだ。 -
最初のゾーンは昔の坑内作業を再現した「史跡坑道」。
最初の登場人物は、「唐箕で風を送る手子」。
通気を良くするため、人工的に風を送り込んだ。
風を送る木製機械が「唐箕(とうみ)」で、この人が「手子」ということらしい。 -
「樋引人足(ひびきにんそく)」
坑内の地下水を引き上げて排水する作業をしていた。
ここで生野銀山の歴史について学習。
室町時代の1542年、但馬国守護大名山名祐豊により石見銀山から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まった。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者は直轄地とし、佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源とした。
江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されている。
慶安年間(1648年〜1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称した。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増している。 -
手掘りの坑夫のことを「下財(げざい)」と呼んでいたそうだ。
いかにも身分の低そうな呼称。
タガネと金槌という原始的な工法。
灯りはサザエの殻に菜種油を入れて灯したそうだ。 -
一年を通じて一定の湿度・温度である坑内は酒にとって最適の環境で、日本酒、焼酎、ワインなどの熟成貯蔵にも活用されている。
これらはレストハウスにてお土産として販売されている。
10分もいれば夏服では涼しすぎるので、このへんで上着を1枚はおった。 -
坑道を進むと、やがて近代の坑内作業の再現となる。
坑道にはレールが敷かれトロッコが走り、「サンドスライム充填採掘法」という工法で採掘・運搬される。 -
上部で穿岩・採掘して下部のトロッコで搬出していたようだ。
上部に上がる人道が再現されている。
ここで生野銀山の近代化の歴史について学習。
明治元年(1868年)から日本初の政府直轄運営鉱山となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、フランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て先進技術を導入し近代化が進められた。
明治22年(1889年)から宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となった。
昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達している。 -
坑内の案内図。
入口と出口付近(黄色の部分300m)が江戸時代頃を再現した「史跡坑道」、奥の大半(青色の部分700m)が近代を再現した「現在坑道」になっている。
坑道の総延長は、この公開されている区間の350倍もあることになる。
いかに凄い規模だったのかがわかる。 -
岩盤に25〜30本の穴をあけ、ダイナマイトを詰めて発破器を押すと、中心部から1/100秒〜1/1000秒間隔で爆破して岩盤を崩したという。
タガネと金槌で採掘していた頃と比べると、飛躍的に効率化された。 -
イチオシ
奥の坑道は岩がむきだしの素掘り状態で、ワイルドな雰囲気。
左側にいろいろな穿岩機が展示されている。 -
最奥部には、「シュリンゲージ採掘法」で採掘した跡。
昭和34年頃にダイナマイトや削岩機を使用し採鉱した跡で、深さは30mあるという。
「シュリンゲージ」の説明文には、
「鉱脈というのは丁度1枚の板を立てたような状況で地下から噴出しており、その長さは1km以上にも達するものがあります。鉱脈を破砕し順次鉱石を井戸に掻き落としていくとこの様な空洞ができます。」
とある。 -
ダイナマイトで破砕された鉱石をローダーで回収し、後ろにつながれた鉱車に鉱石を積み込む作業を「ローダー作業」というらしい。
上から水を霧状に噴射して埃を押さえていた。 -
「馬蹄形綱枠二枚合掌」と呼ばれる土留め。
落盤や山跳ねを防止する。 -
「鉱員の服装」の説明と作業風景。
-
昭和4年に製造されたという巻揚機。
-
イチオシ
坑内員の入退坑に使っていた「人車」。
-
再び、江戸時代頃を再現した「史跡坑道」へ。
坑内の作業には女子供もかりだされた。
鉱石を小さく砕いて銀鉛を含んだ鉱石により分ける女性は「砕女(かなめ)」と呼ばれていた。 -
坑内の測量は長年の経験者が行い「振矩師(ふりがねし)」と呼ばれた。
この頃からアリダードらしき道具を使っていたようだ。 -
「出方相改取締」(右側の偉い人)
役人が2人ずつ昼夜詰切で日々掘り出す鉱石を下代に記帳させて厳重に監督した。
「定番下代」(左側の人)
見廻役人の手助けをした。
どうでもいいことだが、「出方相改取締」の人は「幕末太陽伝」の岡田真澄くらいの異和感あり。
わかるかな〜、わかんねえだろうなぁ〜
http://www.youtube.com/watch?v=0BF3OW32zOk
え!まだわかんねぇ?
この人ですよ。
http://blog-imgs-46.fc2.com/r/u/n/run2run3/2012053100245008e.jpg -
約1時間の坑内見学を終えて出口へ。
坑道出口上部では露天掘りの様子を再現。
ちょっと小枝探偵の「パラダイス」っぽい雰囲気もあるが、決してびみょ〜な施設ではない。
間違いなく「パラダイス」よりはハイグレードの「ユートピア」なのである。
(関西ネタです、あしからず) -
「働く人々」は坑内だけではない。
「吹屋資料館」では、徳川時代の精錬所「吹屋」で幕府に献上する上納銀を作るために精錬を繰り返す吹大工たちの作業が再現されている。
精錬は素吹→真吹→南蛮紋→荒灰吹→上銀吹という工程で行われる。 -
最後の「上銀吹」に至っては、もう多国籍入り混じっての作業風景になっている。
-
「鉱山資料館」にも様々な展示物がある。
生野銀山は、明治29年(1896年)宮内省御料局より三菱合資会社に払下げられ、三菱は明治34年(1901年)長谷水力発電所を建設し電化に踏み出した。
電力需要の増大に伴い、大正8年(1919年)には生野水力発電所を新設した。
この電力設備は平成11年(1999年)まで運転されていたが、設備を更新された際、産業遺産として保存されたもの。 -
この資料館で最も目を惹くのが、「江戸時代の鉱山模型」
現存する資料から忠実に復元された1/15の縮尺の模型に、働く人々は210人いるという。
サザエの殻に油を入れて灯火とし、探鉱、測量、採鉱、運搬、労務管理、排水、換気、支柱造りなど多岐の作業を分業で担当していた。 -
良く見ると、さぼってる・・・いや休憩してる人も多々あり。
-
レストハウス・お土産屋を通って退出した駐車場横には「生野鉱物館」がある。
「生野鉱物館」の2階は、生野銀山の歴史と文化、鉱山の科学などをテーマとした「生野銀山文化ミュージアム」がある。
入館料は100円なので、ついでにここも見学。 -
①生野鉱山の歴史、②鉱山の科学、③生野鉱山と地域文化、などの写真付き解説のほか鉱物標本(800点以上)が展示されている。
時間がなければパスしてもOKって感じ。 -
生野銀山での納涼タイムを終了して14:45頃に出発したものの、「生野銀山口」のバスは15:25発で30分近く早く着いたので、2〜3区間くらい生野の街に向かって歩いてみようと思った。
しばらく行くとやがて市川の川沿いになって、なかなか趣のある川辺の風景を見ながら歩いた。
この市川の左岸側には、銀山から生野の街までトロッコが走っていたようだ。 -
イチオシ
途中「市川新町河川公園」を経由したりするうちに、すでにかなり街に近い所まで歩いてきていることに気付いた。
あまり短い区間バスに乗るのも気が引けるので、このまま歩いて街まで戻ることにした。
幸い今日はそれほど暑くないし、この川の風景を見ながら歩くのも悪くはない。 -
結局、生野銀山からバスで降りようとしていた「山神橋前」のバス停までは3kmほどだったようで、バスが到着する直後の15:30頃には歩きで到着してしまった。
「山神橋前」のバス停近くには、「朝来市旧生野鉱山職員宿舎」があり、その社宅のひとつが「志村喬記念館」になっている。 -
生野は明治時代の近代化で、鉱山、工場、鉱石輸送路、水路、職員住宅などが一体的に開発された全国でも珍しい鉱山町だという。
「旧生野鉱山職員宿舎」には4棟の建屋、甲7、8、9、19号棟がある。
甲7号、8号、9号の3棟は官営鉱山であった頃の明治9年に官舎として、19号棟は明治29年に三菱の社宅として建てられた、生野に現存する職員住宅のなかでも最も古く日本近代の生活様式を残す貴重な遺構だという。
敷地入口を入って左手に受付・休憩所となっている甲20号、右側に手前から甲7、8、9、19号棟が並んで建っている。
入場料無料なのがありがたい。 -
4棟のうち、甲7号棟が「志村喬記念館」になっている。
ところで、志村喬って誰やねん?
という人には、とりあえずこれを見てください。
http://www.youtube.com/watch?v=HMtrxqxf3KA
日本映画史上最高傑作の呼び声が高い同作をはじめ、「生きる」、「酔いどれ天使」、「野良犬」などモノクロの黒澤作品に欠かせなかった名優だった。
といえば思い出す人が多いかも・・・ -
左の棟が「志村喬記念館」になっている甲7号棟。
家屋は明治9年に建てられたもので、大正期の状態に復原されている。
(「復原」とは、改修などで変わってしまったところを当時の姿に戻すという意味で、失われた建物を当時のように再現する「復元」と言葉を使い分けているようだ)
志村喬の生家はこの棟ではないが、この棟のすぐ北側の「朝来市旧生野鉱山職員宿舎」敷地内にあったようだ。 -
甲7号棟はレンガ積みによる大正期の台所の増築の保存状態が良く、座敷や縁など内部の状態が相対的に良く残っている。
座敷は志村喬に関する資料、写真、解説が多く展示されているが、肖像権の関係で写真撮影禁止となっているのが残念。
志村喬の代表作のポスターなど黒澤映画ファン垂涎の展示品も多々あり。 -
風呂は長州風呂(五右衛門風呂)に復原されている。
志村喬は明治38年に生野町生野鉱山社宅で生まれた。
父は三菱生野鉱業所の冶金技師で、志村は幼少期を生野鉱山社宅で過ごした。
大学生の頃に役者を志し、舞台演劇などを経て、昭和9年に映画デビュー。
おっとびっくり、その大学って私の先輩やん!
昭和18年の黒澤明監督第1作「姿三四郎」から第23作「赤ひげ」までのうち20作に出演したほか、昭和29年「ゴジラ」から始まる本多猪四郎監督+円谷英二コンビの特撮映画にも多く出演した。
さまざまな役柄を器用にこなし、その演技は「いぶし銀」といわれた。 -
次の甲8号棟は最初に建てられた明治9年の状態に復原されている。
旧生野鉱山職員宿舎は木造平屋建、桟瓦葺寄棟屋根。
近年では特殊に見えないが、明治初期は藁葺屋根、切妻屋根、入母屋屋根が並ぶ街並みに、築地塀を巡らせた官舎のたたずまいはとても斬新なものだった。 -
明治時代の和室には、当時の家具や火鉢や掘りごたつが見られる。
-
イチオシ
台所はかまどと板製置き流し台が復元されている。
水道はなく、井戸から飲料水などをくんできていたようだ。 -
明治9年当時、風呂があったかどうかは不明であるが、使途がわからなかった部屋に木製風呂桶(焚口なし)を置き、身体を洗う場所として推定復元している。
-
次の甲9号棟はそのまま使えるほど残存状態が良かったので、あまり手を加えずに昭和初期に戻してある。
-
台所はかなり進化して板張りの床、流し、冷蔵庫、炊飯器、ガスコンロが登場する。
宿泊体験することができるように、実際に使用可能な状態になっているようだ。 -
茶の間には、戦後から高度成長期の頃をしのばせるシロモノが並んでいる。
-
風呂は長州風呂(五右衛門風呂)に復原されているが、宿泊体験ができるようにということでシャワーまで付いている。
-
和室にも昭和をしのばせる品々がたくさん。
-
最後の甲19号棟は残存状態が悪かったので、現況を留めつつも、この家屋が最初に建てられた明治後期を目処として復している。
-
地区住民の利用が可能なように、台所、風呂、便所は現代仕様になっている。
和室には当時の品々が置かれ、掘りごたつがあるが、他の棟に比べると、展示よりも地区住民の利用の雰囲気が強い。 -
「朝来市旧生野鉱山職員宿舎」ではあっという間に30〜40分経ってしまい、16:25発の列車に乗ろうと急いで駅へと向かう。
今日は生野銀山がメインで生野の街はついでのつもりだったが、生野の街にも見どころが多く、「寺町界隈」、「生野書院」、「銀山まち口番所」、「旧生野警察署」など見れなかった所が多々あった。
最後に市川の風景を少し眺めて、今日の観光を終了した。 -
生野町はここ数年で古くから残る建造物や街並みの整備に力を入れてきたようで、貴重な建築物の多くが基本的に無料で見学できる。
募金箱のような箱があり入場者にゆだねている感じだが、いくらか払っても十分納得のいく内容だった。
生野の観光のメインは生野銀山であるものの、鉱山で栄えた街をしのばせる古い建物や街並みも非常に魅力的だった。
播但線で行く、「納涼の生野銀山と生野の街」。
なかなか充実の日帰り旅行でした。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- 天星さん 2013/09/06 22:33:48
- 銀山
- こんばんわ〜
生野銀山の周囲には
いろいろとあるものですね〜
テーマパークになってますね
大分にも鯛生金山っていう観光地が
あるのですが坑道の中は似たような
感じです。
江戸時代〜現代のイメージが再現されてますが
中にいるマネキンの目が緑だったり、青かったり
日本人じゃあない国籍不明のマネキンもいます(笑)
なんとなく、そんな事思い出しました〜
アメリカの絶景につぐ、絶景で
きれいな風景、たくさん見させて
いただきました!
旅は見るより、するものですね〜
と改めて思いました!
天
- キートンさん からの返信 2013/09/07 00:23:39
- RE: 銀山
- こんばんは、天さん。
いつもひいきにしていただき、ありがとうございます。
鯛生金山・・・見つけましたよ!
って以前に間違いなく旅行記拝見してました。
すっかり忘れてましたけどね。
カメルーンの村ですね。
こちらも面白そうですね。
疑う余地もなく白人がいてますよね。
アメリカの旅行記も見ていただきありがとうございました。
天候に恵まれて、実際にも素晴らしい風景の連続でした。
同じ所を天さんが歩いていたら、どんなふうにこの風景を写真で切り取っていたのだろうと思います。
また、天さんの絶景写真を見れるのを楽しみにしてます。
では、また。
キートン
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
キートンさんの関連旅行記
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
70