2012/08/18 - 2012/08/18
617位(同エリア1177件中)
滝山氏照さん
武田信虎(たけだのぶとら、1949~1574)が甲斐国地方領主との内戦を終結させ、永正16年(1519)それまでの石和(いさわ)郷から本拠を躑躅ケ崎(つつじがさき)に移転し、新たに居館を構えた後新たに臣下となった国内の領主たちの屋敷をその周辺に建設するとともに城下町を整備、併せて緊急時の拠点として要害山城を配置、以降信虎・信玄(晴信)・勝頼の三代が60年余りに亘って居住します。
地勢的には高台に位置してるとはいえ南側からなだらかな上り坂となっており、中世の城郭に見られる自然の急涯・河川・沼地等を巧みに利用している分けでもなく全くの平城であり敵陣の防御には不安が残ります。
強いて言えば大手門正面前部には稀に見る三日月形の堀を始め、館周辺部に一重ながら深く広い堀を巡らし、館内部には各城郭毎防御のため高い土塁を施しています。
細かく見ますとまず大手門(正門)は居館の東側にありこの辺りを発掘調査した広い周辺部は大手門区域となっています。
発掘調査では大手門を防御するための石塁が南北に帯状に施されていましたが、その石塁の更に下層部には武田氏時代と思われる三日月状の堀が発見されています。
天正10年(1582)織田・徳川連合軍により武田氏が滅亡、織田支配の領地となり川尻秀隆(かわじり・ひでたか、1527~1582)が甲府に入りますが、本能寺で信長が横死すると甲斐に国人一揆が起こり秀隆はあえなく殺害されます。
信長の横死で支配力を失った甲斐国は徳川氏と小田原北条氏との争奪場と変わりますが「天正壬午の乱」を経て結果徳川領となり、仮政庁として躑躅ケ崎館が充てられる一方、天正11年(1583)一条小山(現在のJR甲府駅より南の地区)に甲府城の築城が開始されます。
天正18年(1590)小田原北条氏滅亡により徳川家康の関東転封に伴い甲斐国は豊臣秀吉支配となり甲府城築城は秀吉の重臣羽柴秀勝(はしば・ひでかつ、1568~1586)に引継がれついに甲府城完成、それまでの躑躅ケ崎館は役割を終えて廃城となります。
上述の武田氏滅亡後の歴史流れを考慮すれば、現在の帯状の石塁は徳川氏あるいは豊臣秀吉氏配下大名によって新たに造られたものと判断されます。
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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躑躅ケ崎館
当時の躑躅ケ崎館の東側が大手門(正門)で大手門を防御する多数の施設がありました。 -
躑躅ケ崎旧大手門
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大手石塁(復元)と大手門
大手門を出ると目前に南北に帯状に配置された石塁があり、この石塁により敵の攻撃を防御する働きをします。 -
大手石塁(復元)
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大手石塁南石段(復元)
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大手石塁北石段(復元)
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惣堀北側虎口付近
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石塁と土塁
手前の石塁から北側土塁を一望します。 -
土塁・惣堀
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厩(うまや)跡
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大手門側
細い散歩道を北上、その西側が館の東端となり東端際には側溝となっていますが、かつては堀であったと思われます。 -
館北側周辺
幅広い土塁が帯状に残っています。画面中央部に手製の石塔が祀られています。 -
土橋
館北側には御隠居廓があり土橋で東・中廓と繋がっていました。その左右には深い空堀が延びています。
尚 この廓には駿河に追放された信虎の妻大井夫人の居住館と言われています。 -
土橋の左空堀
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土橋の右空堀
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土塁と空堀
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土塁と空堀
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躑躅ケ崎館見取図
築城当初は東・中の一郭のみでしたが、その後嫡男義信の婚姻に合わせて西側に廓を増築し、土橋で東・中廓と繋がっていました。
興味深い事は東・中廓の北西隅び石垣が積み上げられ天守台と表記されていますが、武田氏滅亡以降に築造されたものと考えられます。 -
土橋からの展望
西廓から東・中廓に渡る土橋から左堀を一望します。 -
土橋からの展望
西廓から東・中廓に渡る土橋から右堀を一望します。
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