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躑躅ヶ崎居館(現武田神社)より東方へ徒歩で約15分に武田信玄の墓があります。<br />        <br />戦国大名武田信玄が甲相駿同盟によって周辺の憂いを払った機会を捉え、上洛を志してか元亀3年(1572)年軍勢を従え甲府を出立、然し乍ら持病が悪化し、翌年軍を甲府に引き返す途中の信濃伊那駒場で病を得て53歳の波乱万丈の生涯を終えます。<br /><br />臨終に際し信玄は3年間の秘喪を命じ、嗣子勝頼はこれに従い信玄の遺骸を密かにして3年後、重臣24将の一人土屋右衛門昌次(つちや・うえもん・まさつぐ、1544~1575)邸内で荼毘に付し、天正4年(1576)4月16日塩山の恵林寺にて祭礼を行い埋葬しています。<br /><br />当墓所は土屋昌次の邸跡で後世ここを魔縁塚と言われ誰も寄り付かない所であったそうです。安政8年(1779)甲府代官 中井清太夫が石棺を発見、その銘には「法性院機山信玄大居士・天正元年葵四月十二日」とあり幕府に届け、信玄の墓であると定めます。 <br /><br />この時東花輪村の田中喜衛門、西花輪村の内藤正助ほか52名武田家の旧臣有志が大石碑を建て壮麗な聖域とします。<br /><br /><br />2022年7月28日追記<br /><br />墓所の傍に建てられている説明板には下記の如く爽快されています。<br /><br />『 甲斐国主 武田信玄公御墓所について<br /><br />天正元年(1573)4月12日、 信州伊那駒場で53歳を一期として、波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し3年間の秘喪を命じた。 嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、3年後、24将の1人、土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に付し、天正4年4月16日、塩山恵林寺に於いて、葬礼を行い埋葬した。岩窪の墓所は、土屋氏の邸宅で、後世これを魔縁塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったという。それから、およそ200年後の江戸時代安永8年(1779)、甲府代官中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その棺に「法性院機山信玄居士・天正元年発4月12日?」とあったので もとのように埋め幕府に届けて信玄公の墓と定めた。<br /><br />この時、東花輪村田中喜衛門、西花輪村内藤庄助外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。<br /><br />碑文は時の圓光寺住職、愚應の書である。現在地域住民は、ここを信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。また地元老人クラブの人々が、毎月一回清掃奉仕を行い自治会では、年中行事として4月12日の命日に円光院並びに近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして墓前法要を勤め、ありし日の国主を忍んでおります。<br />    昭和56年9月吉日<br />                岩窪町 自治会   建立』<br />                    老人クラブ

甲斐甲府 病身を押しての西上作戦の途上不本意ながら病没した『武田信玄墓所(火葬塚)』散歩

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2012/08/18 - 2012/08/18

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滝山氏照

滝山氏照さん

躑躅ヶ崎居館(現武田神社)より東方へ徒歩で約15分に武田信玄の墓があります。
        
戦国大名武田信玄が甲相駿同盟によって周辺の憂いを払った機会を捉え、上洛を志してか元亀3年(1572)年軍勢を従え甲府を出立、然し乍ら持病が悪化し、翌年軍を甲府に引き返す途中の信濃伊那駒場で病を得て53歳の波乱万丈の生涯を終えます。

臨終に際し信玄は3年間の秘喪を命じ、嗣子勝頼はこれに従い信玄の遺骸を密かにして3年後、重臣24将の一人土屋右衛門昌次(つちや・うえもん・まさつぐ、1544~1575)邸内で荼毘に付し、天正4年(1576)4月16日塩山の恵林寺にて祭礼を行い埋葬しています。

当墓所は土屋昌次の邸跡で後世ここを魔縁塚と言われ誰も寄り付かない所であったそうです。安政8年(1779)甲府代官 中井清太夫が石棺を発見、その銘には「法性院機山信玄大居士・天正元年葵四月十二日」とあり幕府に届け、信玄の墓であると定めます。 

この時東花輪村の田中喜衛門、西花輪村の内藤正助ほか52名武田家の旧臣有志が大石碑を建て壮麗な聖域とします。


2022年7月28日追記

墓所の傍に建てられている説明板には下記の如く爽快されています。

『 甲斐国主 武田信玄公御墓所について

天正元年(1573)4月12日、 信州伊那駒場で53歳を一期として、波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し3年間の秘喪を命じた。 嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、3年後、24将の1人、土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に付し、天正4年4月16日、塩山恵林寺に於いて、葬礼を行い埋葬した。岩窪の墓所は、土屋氏の邸宅で、後世これを魔縁塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったという。それから、およそ200年後の江戸時代安永8年(1779)、甲府代官中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その棺に「法性院機山信玄居士・天正元年発4月12日?」とあったので もとのように埋め幕府に届けて信玄公の墓と定めた。

この時、東花輪村田中喜衛門、西花輪村内藤庄助外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。

碑文は時の圓光寺住職、愚應の書である。現在地域住民は、ここを信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。また地元老人クラブの人々が、毎月一回清掃奉仕を行い自治会では、年中行事として4月12日の命日に円光院並びに近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして墓前法要を勤め、ありし日の国主を忍んでおります。
    昭和56年9月吉日
                岩窪町 自治会   建立』
                    老人クラブ

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 武田信玄(晴信)墓所

    武田信玄(晴信)墓所

  • 武田信玄(晴信)説明

    武田信玄(晴信)説明

  • 武田信玄(晴信)墓

    イチオシ

    武田信玄(晴信)墓

  • 武田信玄(晴信)碑文<br /><br />安政8年(1779)甲府代官 中井清太夫が信玄の石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年葵四月十二日」とあり信玄の墓と定めました。<br /><br />碑文は当時の円光院住職・愚應の書によります。<br /><br />

    武田信玄(晴信)碑文

    安政8年(1779)甲府代官 中井清太夫が信玄の石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年葵四月十二日」とあり信玄の墓と定めました。

    碑文は当時の円光院住職・愚應の書によります。

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