2012/08/18 - 2012/08/18
668位(同エリア1253件中)
滝山氏照さん
JR中央本線甲府駅北口からバス5分、武田3丁目で下車し徒歩約10分の地に信玄父である武田信虎(たけだ・のぶとら、1494~1574)が大永元年(1521)に天桂禅長を開山とし、創建した大泉寺(だいせんじ、山梨県甲府市古府中)があります。
天文10年(1541)嫡子甲斐武田信玄(晴信)に駿河に追放された実父、信虎は義息今川義元(いまがわ・よしもと、1519~1560)の計らいで駿府滞在を許されますが、その後義元が桶狭間にて織田信長の急襲を受け殺害されます。
嫡男氏真(うじざね、1538~1615)が今川氏家督を引継ぎますが求心力無くその上徳川家康や南下政策に切替えた信玄の攻勢を受け、今川家の勢力は眼に見えて衰退しこれを機に信虎は駿府を出て京へと旅立ちます。
信虎の出自については、武田五郎信縄(のぶつな、1471~1507)の長男として明応3年(1494)1月6日、石和の川田居館で生まれ幼名を川田五郎と呼ばれます。
永正4年(1507)14歳の時、武田氏第18代の甲斐国主となり国内の同族を統一し、永正17年(1520)従五位下左京太夫陸奥守に任ぜられます。
信虎は生来武勇に富んでおり、その領土を拡げ、武蔵・相模・駿河・信濃と隣国に武威の高さを知らしめ、本拠を石和から甲府の躑躅ケ崎に移し城下町を整備し重臣を周辺に住まわせるなどして府中の創設に寄与しています。
信虎が追放を受けたのは上述の通りですが、その背景には諸説があります。一つには信虎が信玄(晴信)を疎んじ二男の信繁(のぶしげ、1525~1561)を偏愛しており、後には信玄(晴信)を廃嫡、信繁に家督を継がせるという親子不和説、信玄と重臣達との共謀説、更に今川義元との共謀説もあるようです。
義元死去後の信虎は上洛して甲斐国主であった時の交友関係を基にさまざまな交流をしています。例えば飛鳥井雅教や万里小路惟房ら公家との文化的交流や甲斐源氏の一族でもある南部信長ら諸大名らとの交流を行い、在京前守護として時の将軍・足利義輝にも奉公している姿があります。
信玄に甲斐を追われた信虎は信玄存命中は一度も彼の領土に足を入れた事はありませんが、信玄の死後陣代となった勝頼の時代、天正2年(1574)には六男の信兼(のぶかど、1532~1582)の居城である伊那・高遠城に身を寄せていたようですが同年3月5日に同所で享年81歳で息を引取ります。そして遺体は移送され、葬儀は信虎が創建したこの大泉寺で行われました。
2022年7月29日追記
境内の一角に建てられた当該寺の由緒について記載されています。
『 大 泉 寺
県指定史跡 武田信虎公の墓
指定年月日 昭和35年11月7日
指定地域 甲府市古府中町5015番地の内191アール
指定理由
本史跡は室町時代末戦国の世に活躍した武田信玄の父信虎の墓域である。
信虎は武田五郎信縄の長男として明応3年1月6日石和の居館に生まれ幼名を川田五郎と呼ばれた。
永正4年14才のとき武田氏18代の甲斐国主となり国内の同族を統御し、永正17年従五位下左京太夫陸奥守に任ぜられた。彼は性来豪毅武勇にして乱世にその領土を広げ武蔵、相模、駿河、信濃と隣国を征し大いに武威を発揚したが、嗣子晴信(信玄)と意合わず、天文10年48才の折、駿河の今川氏の許に隠退し僧形となり、号を我ト済と称して京都方面に流寓、後年信濃高遠城に81才の高令をもって病没するまで帰国しなかったと伝えられている。
その没年は天正2年3月5日という。
大泉寺殿泰雲存康大庵主はその法号である。
尚、当寺に彼の肖像画をその子の信廉逍遥軒が描き残しているが、重要文化財に指定されている。
昭和51年8月1日 』
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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大善寺・御霊殿
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大善寺・御霊殿内部
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イチオシ
武田信虎五輪塔
伊那で没した信虎は法名を「大泉寺殿泰雲存康庵主」と言い、大泉寺に葬られます。中央部が信虎の五輪塔です。 -
大泉寺・本堂
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大泉寺・山門
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大泉寺山門傍らの石碑と説明板
武田信玄(晴信)の父である信虎墓所であるとの説明があります。 -
金銅金具装笈・説明板
笈は本来修験者(山伏)が使用したものであるが、戦国時代には信仰心の厚い武将らがこれに日頃信仰する仏像等を入れ、出陣の際家来に背負わせ、戦場に持込んで崇拝するといわれています。
大泉寺の二つの笈は武田信虎と信玄父子が利用したと伝えられているもので、材質は檜、全面に黒漆と朱漆が塗られ鍍金された銅板の切抜き金具で装飾されています。
これらは県内最古期に属する箱笈であり、美術工芸的な価値とともに、戦国大名の信仰形態の一端を物語るしりょうであります。(説明文) -
絹本著色武田信虎像・説明板
信虎は駿河退穏後、異国にあること33年、81歳の天正2年(1574)3月、信州高遠の地で没しました。
この像は遺子信兼(逍遥軒信綱)が亡き父の冥福を祈る一念からその信容を写したもので、同年5月端午の日に妙心寺の春国光新和尚が著賛しています。
絹地の彩色画で白の小袖に墨染めの法衣を着け、掛絡をまとって団扇を手に上畳に座る法体像であるが、個性的な巨大な頭と、人を射る鋭い眼光、岩塊の如き両手、風貌などにも苦難の生涯と精悍勇武、かつ磊落な性格を描きつくして余す事がありません。
筆者は戦国武将中の異彩、多芸な人物で絵に長じ、特に人物画に優れていました。(説明文)
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