2012/04/20 - 2012/04/20
727位(同エリア1253件中)
ムッシュさん
笛吹川から石和温泉を通り、いよいよ甲府市の中心の柳町宿を歩きます。本日の歩程は、駅前を過ぎ、山梨県立美術館前まで。
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本日のスタートは、笛吹川沿いにある白山神社より。
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まずは、土手道を歩いてます。遠くに見える橋で、川を渡ります。
【《信玄堤と御勅使川・高岩》説明版】
甲府盆地には東から笛吹川、西から釜無川・御勅使川が流れている。両川とも暴れ川です。東の暴れ川・笛吹川を抑えるのが「万力林」、そして西の暴れ川・釜無川・御勅使川を押さえるのがこの「信玄堤」です。「信玄堤」は戦国時代に武田信玄の命によりつくられたといわれています。信玄堤はこの付近の堤防の名前ですが、この堤防だけでは釜無川や御勅使川の洪水を防ぐことはできません。右の図のようないろいろな施設によって洪水の流れを調節しています。特に御勅使川の洪水の流れをたくみにコントロールしていることが大きな特徴です。
・御勅使川の流れを上流の「石積出し」で北側へはねます
・このはねた流れを2つの「将棋頭」で受け止めます
・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で御勅使川の洪水の流れを「高岩」へ導きその勢いを弱めています
・弱まった流れをこの「信玄堤」がしっかり受け止めているのです -
【聖牛(ひじりうし)】
川の氾濫防止のために水流の勢いを、これにて弱めた。武田信玄の名で川沿いに、これを並べたらしい。現在も復元したもの。
笛吹川の氾濫に悩まされた信玄が考案した治水工法です、丸太を組み蛇籠(じゃかご)で固定させる構造で、水勢を和らげる効果。 -
橋を渡ると、川沿い土手に松並木が300m程残っています。
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松並木が終える頃、小さな公園に水天宮や道祖神が祭られてる一角がある。
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そこには、【笛吹権三郎の石碑】あり。
洪水で見失った母を探すために、得意の笛の音でよび続けたらしい。その後、笛吹き川で、権三郎の笛の音がいつもこな辺りで聞こえ、現在の地名
笛吹市と名付けられた。
【笛吹権三郎の事】
今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。
彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。
ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。
変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。
権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを「笛吹川」と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。
これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。
昭和六十年五月吉日 山梨県山梨市七日市場四九三番地 長沢房子(旧姓広瀬) -
【遠妙寺山門】
【鵜飼山遠妙寺と仁王門】 市指定文化財建造物
遠妙寺は、日蓮宗身延五ヶ寺の一つで、本尊は十界曼荼羅である。本堂、庫裏、客殿、総門、仁王門、鐘楼、七面堂、漁翁堂、願生稲荷堂などの風格のある建物を有する寺である。弘安年中、日蓮の弟子日朗が一宇を設け鵜飼堂と称し、後、慶長年間(1600年頃)日遠が鵜飼山遠妙寺と改めた。寺記に、平時忠漂白の郷が石和とされ、時忠は鵜使いを生業としたが、禁漁を犯し、簀巻きの刑に処せられて沈殺された。その怨念を持って石和川の鬼となった亡霊を、文永11年(1274)日蓮が石和川岩落にて済度し給うたと伝える。世阿弥の謡曲「鵜飼」との関わり深い寺である。
なお鵜飼漁翁は、鵜飼勘作として知られている。寺宝に日蓮直筆本尊、鵜飼の経石7個などがある。仁王門は、三間一戸側面二間楼門重層入母屋造瓦葺で江戸末期のものである。再建は、寛政元年(1789)とあり未完成の部分が多く見られたが、平成16年の解体修理で完成した。安置仏は密迹金剛神、執金剛神の2体で6尺2寸(2m余)の躯高を持っている。石和町唯一の仁王門として貴重な建造物である。 -
【日蓮宗鵜飼山遠妙寺(おんみょうじ)】
日蓮宗身延五ケ寺の一つで、本尊は十界曼荼羅。
山門は高麗門、仁王門は寛政元年(1789)の再建で市指定文化財建造物です。
境内に鵜飼勘助の墓と供養塔を納めた漁翁堂があります。
文永十一年(1274)日蓮聖人がこれを成仏させました。
【鵜飼山遠妙寺】
弘安年間(1280頃)日蓮上人の弟子日朗上人宗祖日蓮が鵜飼勘作の亡霊に法験を遺した旧地に近い所に一草庵を結び鵜飼の寺と称し、のち慶長年間(1600年頃)鵜飼山遠妙寺と改めた身延五ケ寺の一つで、同宗川施餓鬼の根本道場であり、毎年九月二十九日盛大な川施餓鬼を執行する。
同寺には鵜飼勘作の伝説に関するものが多く鵜飼堂(勘作の墓を納む)鵜飼天神、また以前鵜飼河畔にあった勘作の供養塔も甲府バイパス開設の敷地内になったため、現在は鵜飼堂に移してある。
寺には多くの寺宝があるが、特に、経石七個、鵜石一個、ビク石一個、大黒石一個などは、いずれもその昔鵜飼川で拾ったものと言われている。
境内に願生稲荷が祀ってある。昔古城(今の武田神社)の稲荷が当宿原山七右エ門老母の体を借りて、法華経の功徳を得んと鵜飼山遠妙寺に勧請してもらったとのいわれがある。
謡曲鵜飼は勘作の伝説を世阿弥元清が作ったもので今日に伝えられている。
石和町
謡曲「鵜飼」の舞台。鵜飼の翁の亡霊を日蓮が3日3晩の川施餓鬼(かわせがき)によって成仏させた物語。この時、日蓮が作った塚が遠妙寺の始まりといいます。境内には鵜飼翁の供養塔、仁王門には力強い仁王像が安置されています。
鵜飼山遠妙寺と謡曲 『鵜飼』
『鵜飼山遠妙寺(うかいざん おんみょうじ)縁起』 は、 笛吹市石和町市部にある遠妙寺の成り立ちを伝えています。要約すると次のようです。「文永 11年(1274年)、日蓮上人は法華経を広めるために甲斐国を巡り歩き、 その途中で石和に立ち寄りました。
ここで、鵜使い(うづかい)の亡霊に会ったため 、弟子に三日三夜にわたって法華経八巻の一字を石に書写させ川底に沈める川施餓鬼(かわせがき)供養を行ったところ、鵜使いの亡霊は安らかに成仏することができました。 その時に造った墓が遠妙寺の起源となっています。」
『鵜飼山遠妙寺縁起』に記されている「鵜飼漁翁亡霊済度(うかいりょうおうぼうれいさいど)」の話は、 すでに鎌倉時代末頃には関東一円に広まっていました。この話をもとに、世阿弥が能の台本である謡曲『鵜飼』に作り上げました。能『鵜飼』が完成したのは、今から 600 年ほど前の室町時代になります。 -
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【石和宿本陣跡】
火事で大半を焼失。この蔵のみが残った。跡地は駐車場。
幅広の道路の脇に土蔵が残されているだけで、かつての宿場を想像するのは難しい。
たび重なる水害と大火で街並みがきれいさっぱり失われた。
明治13年天皇がお越しになる直前に大火にあい焼失。 -
右て駐車場の片隅に、【史跡石和本陣跡碑】があります。
宝暦11年(1761年)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代の為、初めて石和を通行するにあたり仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じました。
明治13年(1880年)6月19日明治天皇巡幸の際、休息の予定でしたが、同月6日の大火で焼失。今は蔵だけが残る。
【石和本陣跡】
本陣は江戸時代大名公家幕府の役人高貴の人の宿泊する所である。
石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城十万石真田伊豆守及び松平甲斐守十五万石を初め全国の諸大名が宿泊し大名宿とも言われ明治維新まで続いた。
建物は書院造り、門・玄関・上段の間を備えて広大な構えであった。
明治十三年六月十九日明治天皇御巡幸のみぎり御休息の御予定のところ同月六日、大火に拠り焼失し現在土蔵一棟のみ現存している。
石和町
【石和本陣跡】
宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことがはじめといわれる。以来子孫が継承して明治に至った。明治以降も旅篭として利用したが、明治13年(1880)6月7日の石和の火災により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および古記録文書等が残っている。
国道沿いの説明板 -
さらに、歩くと【酒折宮の道標】あり。
「酒折宮」と「日本武尊」が彫られている道標が建っている。
日本武尊を祀っている「酒折宮」はここから酒折駅前を越えて640m程先に入口がある。 -
【酒折神社】
日本武尊は旅立の時、火打石を入れていた火打嚢(ひうちぶくろ)を翁に授け甲斐國を託しました。
この火打嚢は日本武尊が東夷征伐出立の際、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)と共に授かったもので、東征の途中、駿河国で火攻めに遭った折に、剣で草をなぎ払い、火打石で向え火を放ち、難を免れたことで知られています。
翁はこの火打嚢を御神体として宮を建て、日本武尊を守護神として祀ったのが、酒折宮の起源です。
境内には本居宣長酒折宮寿詞碑、山縣大貮酒折祠碑があります、これらの国学者は幕末の尊皇攘夷論に理論武装を与えました。
これがため酒折宮は多くの歌人、国学者の崇敬を集めています。
「ご由緒」
酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社です。記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が
「かかなべて夜には九夜日には十日を」
と片歌で答えたことが記載されています。この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われています。
当宮の由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに
「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」
と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)*」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。
日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと伝えられています。 -
日本武尊(やまとたけるのみこと)は東夷征伐後、この地に立寄り宴を張り、
「新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠んだところ、
御火焚(おひたき)翁が
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と見事に返歌しました。
これが連歌の起源とされ、酒折宮は連歌発祥の地となりました。 -
【甲斐善光寺の山門】
甲斐善光寺は武田信玄が、上杉兼信との川中島の合戦を控え、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558年)本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉還したことに始まります。
その後武田氏が滅亡すると、本尊は織田、徳川、豊臣と時の権力者に翻弄されましたが、慶長三年(1598年)信濃善光寺に帰座した。甲斐善光寺は、その後前立仏を本尊と定め今日に至っています。
武田信玄建立の七堂伽藍は宝暦4年(1754年)の失火により焼失、現在の金堂、山門は寛政8年(1796年)に再建されたもので、国重要文化財です。 -
【甲斐武田家】
甲斐武田家の当主は、信光、信政、信時、時綱、信宗、信武、信成、信春、信満、信重、信守、信昌、信縄、信虎、信晴(後の信玄)と続く。 -
山門をくぐり、参道を歩くと甲斐善光寺の本堂へ
【甲斐善光寺】は、川中島の合戦によって信濃善光寺が兵火にかかり消失を恐れた信玄が、本尊の阿弥陀如来をはじめとする諸仏をこの地に移したことから始まった。
こんな大伽藍を戦国時代に建ててしまうのだから、信玄の神仏への崇敬の篤さが相当であることが伺える。
比叡山を焼き討ちした織田信長に、その信玄が激しい敵意を示したのも分かる気がした。 -
甲斐善光寺の本堂
川中島の合戦で信濃善光寺の火災を恐れた武田信玄、ご本尊をこちらへ奉還させるために建立したのだそうだ。
武田信玄公建立の七堂伽藍は、宝暦四年(1754)門前の失火により、灰燼に帰してしまいました。
現在の金堂・山門は、寛政八年(1796)に再建されたものです。
金堂は、善光寺建築に特有の撞木造(しゅもくづくり)とよばれる形式で、総高27メートル、総奥行49メートルという、日本有数の木造建築として有名で、重層建築の山門とともに重要文化財に指定されております。
金堂下には、「心」の字をかたどる、お戒壇廻りもあり、鍵を触れることによって、御本尊様と御縁を結んでいただけます。 -
おなじ善光寺
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善光寺本堂の正面の造りも立派!!
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善光寺
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善光寺境内の庭に、芭蕉翁の句碑。
”月がけや 四門四宗も ただひとつ”
と、善光寺を一句で表現。さすが! -
善光寺
[芭蕉月景塚」 -
善光寺
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【旧家、石川家】
善光寺口からの枡型道を曲がり終わると、甲府市文化財に指定されてる「石川家住宅」がある。大正時代の建築物で、塗籠土蔵造りと呼ばれる建築様式。
高倉川沿いに重厚な塗籠土蔵造りの旧商家(市文化財指定)石川家住宅があります、屋号を河内屋といい、糸繭(いとまゆ)の問屋でした。
屋敷を取り巻く塀の隅がくり貫かれ、道祖神が祀られています。 -
薬局の前に、面白いデコレーションを見つけた。
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天尊躰寺の入口
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正面に甲府駅があります。相生歩道橋。
東西に架かる陸橋より。 -
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【上石田のサイカチ】
樹齢300年で、二本で夫婦サイカチと呼ばれてる。
サイカチは川岸の湿地に生える樹であり、この辺り、貢川の川岸であったらしい。
過去にさかのぼると、この地は貢川の河川近くであったが、河川は整備され今のような市街地となった。サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは昔の自然の一部を残したものである。また、大小二本そろって生えているところから、地元の人々は夫婦サイカチと呼んで親しんでいるが両樹とも雌木である。樹齢は両樹とも約三百年と推定される。
平成十一年九月 甲府市教育委員会 -
今の時期、甲府盆地は、桃の花が満開!!
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珍しくもあり、この地域に多い、【球形道祖神】
文政7年(1824年)建立の丸石道祖神、丸石神体径45cm。 -
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【称念寺本堂】
慶長11年(1606年)創建の浄土宗必得山称念寺があります。
境内にはくり抜き石枠井戸があります、一枚岩をくり抜いた石枠の井戸で、甲州道中を往来する旅人が休憩したところからお休み井戸とも呼ばれた(甲斐市指定有形民俗文化財)。
本堂脇に石造六地蔵尊(甲斐市指定有形文化財石造物)があります、江戸時代初期の造立で、寛永年間(1624~44)に赤坂諏訪神社辺りに創建された地蔵院の本尊でした。 -
【お休み井戸】
正式名称は、「くり抜き石枠井戸」という。江戸時代には甲州街道を旅する人々が赤坂の急なの登りを控え、、また下ってきてのどを潤したことから名前がついた。
一枚岩をくり抜いた石枠の井戸、お休み井戸とも呼ばれた(甲斐市指定有形民俗文化財)。
【くり抜き石枠井戸】 甲斐市指定有形民俗文化財(平成8年9月指定)
くり抜き石枠井戸は市内で数例しかなく、井戸とともに現存しているのはわずかである。
この井戸の石枠の規模は高さ61cm、幅92cm、内径65cmの正四角形であるが、四隅は角を削ってある。また、井戸の深さは現在8m余を測り、自然石で積み上げを行っている。
この井戸は上水道ができるまでは付近の生活用水として利用していた。また、江戸時代には称念寺が甲州街道に面していたため、ここを往来する人々が赤坂台を通過する際に休憩したところから「お休み井戸」とも呼ばれていた。
この井戸がいつの時代のものかは定かではないが、称念寺が慶長十一年(1606)に創立しているのでその頃につくられたと考えられる。 -
この辺り、赤坂との呼称で、見ての通りの長ーい上り坂が続いてます。
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【竜王の諏訪神社】
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【竜王の諏訪神社】
竜王新町の産土神です。 -
諏訪大社の御柱の一部。平成16年の秋季御柱祭の時に建てられた御柱。村々の小さな神社でも小さな御柱を曳いて、同じ祭りを行う。
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【竜王の諏訪神社】
諏訪大社から勧請を受けた諏訪神社は、全国に約2500社あるが、ここ竜王の諏訪神社もその一つ。
正面には秋季御柱大祭に建てられた御柱がある。 -
道標は下部が埋設してる。
駿河道と甲府江戸道を示してる。 -
旧家門。なまこ壁もある立派な門。
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【寺町の自性院と石畳】
元亀元年(1570年)開山の曹洞宗天真山自性院
この石畳は明和2年(1765年)からのもので240年経ている。
自性院は、南に世界遺産の霊峰富士山、西に白根山をはじめとする美しい南アルプスの山並、北に八ヶ岳、東に金峰山の秩父連山が一望できる。 -
寺町の自性院
この石畳を歩くと本院に到着。 -
なまこ壁の蔵を持つ旧家
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レンガ造りのトンネル。JR中央線のガード。
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【泣石】
天正10年(1582年)高遠城が落城すると武田勝頼は完成した新府韮崎城に火を放ち岩殿城に向った。その際、勝頼夫人がここで振り返り、燃える韮崎城を見て涙したと言われてる。これ以降、勝頼一行は死の彷徨となります。 -
寛政五年(1793年)建立の「三界萬霊塔」があります、南無観世音菩薩と刻まれています。
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豪壮な建物群があり、旧庄屋宅です
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なまこ壁の蔵を有する家並み
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【船形神社の背丈の低い石鳥居】山梨県指定有形文化財です。
【明神鳥居】
総高八尺柱真々巾二尺八寸柱に「応永四丁丑四月日立」と造立銘がある。柱は太く笠木島木なども真反りを見せ全体の形も幅が広くて丈が低いので、安定感に富んでいる。室町期在銘の遺構として第一に推すべき逸作である。
平成元年 山梨県教育委員会・甲斐市教育委員会・船形神社
手前には、丸道祖神
応永四年(1397)建立の明神鳥居です、柱は太く笠木島木なども真反りを見せ、全体の形も幅が広くて丈が低いので、安定感に富んでいます。 -
【明神鳥居】
総高八尺柱真々巾二尺八寸柱に「応永四丁丑四月日立」と造立銘がある。柱は太く笠木島木なども真反りを見せ全体の形も幅が広くて丈が低いので、安定感に富んでいる。室町期在銘の遺構として第一に推すべき逸作である。
平成元年 山梨県教育委員会・甲斐市教育委員会・船形神社 -
【芭蕉句碑】
六反川の手前左手に芭蕉句碑「昼見れば 首すじ赤き 蛍哉 」があります。
六反川はホタルの名所でした。
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