2012/10/02 - 2012/10/10
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azianokazeさん
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ツアー3日目は、西部劇などの映像で馴染み深い“アメリカ西部の原風景”「モニュメントバレー」を訪ねます。
また、このエリアは「ナバホ・ナイション」として、ナバホ・インディアンの居留地でもあります。
広大な大自然に魅せられながら、同時にナバホ族の過去と現在を垣間見る、そんな1日でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
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10月5日、ラスベガス発「アメリカ大自然グランドサークル」ツアー3日目、早朝の「デリケートアーチ」散策から戻った後、「モニュメントバレー」に向かいます。
最初に、前日時間の関係でとばした「アーチーズ」のビジターセンターに立ち寄ります。 -
お馴染みになってきた、この一帯の地層
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ビジターセンター近くの「ペンギン岩」
角度が悪くてそのように見えませんが、別角度からは3匹のペンギンが前や横、後ろを向いてたっているようにも見えます。 -
モアブの大型スーパーで昼食の買い出しを済ませ(ここの寿司は大失敗)、2時間半ほどのドライブで「モニュメントバレー」に到着します。
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映画「フォレスト・ガンプ」の有名シーンの場所ということで、ツアー一行は車を気にしながら道路中央に出て撮影
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先ず、今夜の宿「Goulding’s Lodge」にチェックインを済ませます。
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ここも長屋式ロッジです。
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公園内は砂地が多いので大型四駆で出かけます
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案内人山崎氏からの指示で、私は西部劇の銀行強盗のように砂埃よけのハンカチで口を覆いましたが、みなさんマスクを着用されていました。
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アンテロープで買ったインディアン部族図
この一帯は、先住民ナバホ族の「居留地」(リザベーション)です。
“「リザベーション」は、現在では「居留地」と表されることが多いが、本来の意味としては「保留地」、つまり「インディアンの故国として白人が保障してとっておいた(リザーブした)土地」である。これは、とりもなおさず、いずれ「保留」を解消する、という意味合いも含んでいる。”【ウィキペディア】
ナバホ族の居留地は「ナバホ・ネイション」として、一定の自治権を有していますが(ナバホ独自の大統領を持ち、独自の法律、国旗、国章、学校、大学、警察に準ずる組織 をも有しています)、居留地は「連邦政府」との条約規定によって存在しており、その土地は「州政府」の管轄内にあるということで、連邦政府・州の管理下にあるとも言えます。「ナバホ・ネイション」の人口は約25万人で、その97%がナバホ族です。
モニュメントバレーの景観の前に、ナバホ族について少し。 -
ナバホ族の伝統的住居「ホーガン」
ホーガンは東(すべての善なる神が来るとされる方向)向きに入口があり、泥で覆われた丸太小屋です。
釘などは使われていません。泥は乾燥して非常に固くなっています。
この厚い土の被覆層が熱を吸収したり放出することで、昼夜の極端な温度差が平均され、非常に住み心地がよいそうです。
現在、丸太の購入費用は高く、「ホーガン」の建設にはかなりの金額が必要になるとか。 -
「ホーガン」内部
今回旅行で案内人山崎氏に教わり初めて知りましたが、この一帯のナバホ族には、“ロングウォーク”(ナバホ族は“デッドウォーク”とも呼ぶそうです)という痛ましい、アメリカ政府にとっては歴史の汚点とも言うべき過去が存在します。
“ロングウォーク”とは、1864年、この地に住むナバホ族インディアン8500人がアメリカ政府の施策によって20日以上の徒歩の旅を強いられ、500キロほど離れたニューメキシコ州南東部へ移住させられた出来事です。
当然ナバホ族が素直に住みなれた土地を離れる訳はありませんので、その実行には“暴力”が使用され、従わない者には死は与えられました。
それでもなかなか進まないため、この地でのナバホ族の生活基盤をなくしてしまうため、生活の糧であったバッファローの殺戮、家畜の殺害、住居の放火、女性のレイプなど様々な手段が用いられたとのことです。
また、20日以上の徒歩の旅”に耐えられない老人・妊娠女性・病人などは“人道的見地”から処刑されたとか。
連れていかれたニューメキシコ州南東部の強制収容所は荒地で、インディアンが暮らすにはあまりに過酷な土地でした。
更に、アメリカ政府の無知から、インディアン内部の宿敵部族を同一地に収容するという誤りも犯しました。
当時のアメリカ政府の発想としては、農耕など白人文化を教え、英語も教えればインディアンの生活も向上するのでは・・・という発想があったように思われますが、犠牲者を出すだけで全く成果はあがらず、2年で中止されました。 -
収容されていたナバホ族は再び“ロングウォーク”で故郷に向かいますが、すでにそこは破壊されつくされ、あるいは白人や他部族の土地使用が行われていたりと、新たな問題を起こしています。
今から考えるとインディアンの人権・文化などは全く考慮されていない白人のための施策でしたが、このときのアメリカ大統領でこの施策を命じたのは、あのリンーカン大統領でした。
有名な奴隷解放宣言にリンカーン大統領が署名したが1863年1月、そして“ロングウォーク”に署名したのが翌年1864年1月だそうです。
当時は南北戦争という非常時ではありましたが、リンカーン大統領の行った政治のあまり知れていない一面です。
アメリカでもリンカーン大統領は非常に人気のある政治家ですから、この“ロングウォーク”について、彼はこれを知らなかったと弁護する向きもあるとか。
ただ、百歩譲って“めくらサイン”をして知らなかった、あるいはことの真相を報告されていなかったとしても、それは最高責任者として負うべき責任を軽くするものではないでしょう。
ウィキペディアでは“合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの指示によるインディアン民族に対する民族浄化”と記されています。 -
並べられている織物は、作るのに何カ月も要するもので、かなり高価です。
現代のアメリカ政府による先住民対策もあまりうまくいっていません。
“ほとんどすべての保留地(インディアン居留地)は産業を持てず、貧困にあえいでいる。また、保留地で暮らす限り、そのインディアンにはわずかながら条約規定に基づいた年金が入るため、これに頼って自立できない人々も多い。失業率は過半数を超え、アルコール依存症率は高い。保留地には産業や就労先がないため、年金を捨て、保留地外に出て暮らす人たち(シティー・インディアン)も多い”【ウィキペディア】 -
ナバホ族の人々の側にもいろいろ問題もあります。(文化の違いと言うべきでしょうか)
居留地外で就職しても、毎日、決まった時間働くという生活に馴染めず、1.2年で辞めて居留地に戻ってくるケースが多いようです。
また、ナバホの人々には蓄えるという発想があまりなく、居留地内で仕事を見つけても最初の給料をもらうと辞めてしまうとかいった行動パターンもあるそうです。
非常にロケーションの良いナバホ族経営のホテルがあるのですが、予約どおりに部屋数が確保されていないなどの問題が頻発して、旅行会社としては使えない・・・といった話もあるようです。 -
夏用の住居と言うか、小屋
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話を「アメリカ西部の原風景」モニュメントバレーの景観に戻しましょう
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ビジターセンターもあるビューポイントから 「Left Mitten」「Right Mitten」「Merrick Butte」が並ぶモニュメントバレーを代表する景観のひとつです。“Butte”(ビュート)とは、台地状のメサが更に浸食を受けて、孤立した岩峰になったものです。
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「Left Mitten」のアップ
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ビジターセンター
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左から、ユタ州、アメリカ、ナバホ・ネイション、アリゾナ州の旗
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モニュメントバレーは「ナバホ・ネイション」にあり、「モニュメントバレー・ナバホ・トライバル・公園」ということで、アメリカの国立公園とはなっていません。
連邦政府は何度もこの地を国立公園に指定したい意向を申し入れたのですが、ナバホ自治政府はモニュメントバレーを厳しい規制がある国立公園にしてしまうことを嫌い、応じていないそうです。
“もともとはナバホの聖地であり、彼らの生活の地であるため、公園内は一般の観光客が許可無しで入ることが出来る観光用道路と、ナバホ人が運営するツアーでのみ見学出来るエリアがはっきりと別れる”【look.tour.net】 -
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ナバホ族の「ホーガン」 右端の小さなものは、サウナみたいにして利用するものです。基本的には風呂には入らないとか。
観光客は宿泊できるホーガンもあるようです。 -
大型四駆で域内を走ります。
普通の車では砂地で立ち往生してしまいます。 -
「ジョン・フォード・ポイント」
映画監督ジョン・フォードが、西部劇の代表作「駅馬車」などを撮影した場所として知られています。 -
馬がいるのは偶然ではなく、ツアーが料金を支払って写真撮影用に立ってもらっているものです。
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ジョン・フォード監督の多くの映画の舞台となったことで、モニュメントバレーは「アメリカ西部の原風景」ともなりました。
ただ、西部劇で世界に知られ、観光客も訪れるようになったかわりに、“馬に乗って白人を襲う野蛮な先住民”といったイメージが広がった側面もあります。
ジョン・フォード監督にこの地を紹介したのが、今夜泊まるロッジ「Goulding’s Lodge」をつくったハリー・グールディングです。その話はまた後ほど。 -
駐車場には土産物屋さんも
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名前は忘れました
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トーテムポール(ロウソク岩)とイェイ・ビ・チェイ(Yei Bi Chei)
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右の1本高い岩がトーテムポール(ロウソク岩)、何本かの岩が儀式の踊りを踊っているように見えるのがイェイ・ビ・チェイ(Yei Bi Chei)
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横たわる巨人
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巨人の足元のすきまから望む「駅馬車」撮影場所(?)
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木を枠組みにして撮影した有名な写真があるとか
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逆光になってしまいましたが、「スリーシスターズ」(三人の修道女)
他にもいろんなビュートがありましたが、なにぶん飛び跳ねながら砂地を走る四駆からの撮影は難しく・・・。 -
砂塵を巻き上げてのドライブを終えてロッジに戻ります。
部屋のベランダに簡単なテーブル・椅子が置いてあり、バレーの雄大な景色が眺められます。 -
先述のように、この「Goulding’s Lodge」をつくったハリー・グールディングがジョン・フォード監督にこの地を売り込んだ訳ですが、ハリー・グールディングは1923年、妻とともにこの宿を始めました。ナバホの人々とも信頼関係を築き、日用品や家畜を取り扱う交易所を始め、また、病院も建てたそうです。
アメリカ大恐慌の頃、ナバホの経済も悪化しましたが、ジョン・フォード監督が撮影場所を探していることを知るとハリウッドに出向き、スタジオの前で何日もねばり、ようやく監督にバレーの写真を見てもらうことが出来たとか。
監督はこのバレーが非常に気に入り、1939年公開の「駅馬車」の誕生となりました。
ジョン・フォード監督は、その後も何本もこの地で映画を撮影しますが、当然ながら監督やジョン・ウェインの宿はこの「Goulding’s Lodge」でした。
そんな経緯で、敷地内にジョン・フォード監督などのゆかりの品を集めた小さなミュージアムがあります。 -
ジョン・フォード監督の使用していた椅子
西部劇の名作とされる「駅馬車」は、監督賞をはじめアカデミー賞の多くの部門にノミネートされましたが、助演男優賞と作曲・編曲賞を除いては受賞できませんでした。
この年、多くの部門でアカデミー賞を独占したのは、映画史上、最も多くの人々に愛されているとも言える「風と共に去りぬ」でした。さすがの「駅馬車」も相手が悪かったようです。 -
日本のポスターもありました
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「駅馬車」の1シーンでしょうか? 個人的にはジョン・ウェインの「男らしさ」を押し出したイメージが苦手で、「駅馬車」もまだ観ていません。
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モニュメント・バレーを見た後では話も変わってきますので、そのうちレンタルで観てみようかと思っています。
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ミュージアム2階には、かつてのアメリカの暮らしを再現した部屋があります。
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夕食はロッジ内のレストランで、案内人山崎氏お勧めの“ナバホ・タコス”
これでもミニサイズです。写真の色調がいまいちですが、味は・・・それぞれの好みでしょう。 -
部屋の内部
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翌朝、部屋のベランダから朝日を待ちましたが、あいにく雲が。
まあ、それでも雄大な夜明けです。
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