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京浜急行「鮫洲」駅西側に第一京浜が通り歩道橋を渡ると土佐藩屋敷が建てられたことから土佐山と呼ばれていた小高い丘があり、今では大井公園と変わりその奥に第15代土佐藩主山内豊信(やまうち・とよしげ、1827~1872)の墓所(東京都品川区東大井)があります。<br /><br />山内豊信は当時福井藩主の松平春獄(まつだいら・しゅんがく)、宇和島藩主伊達宗城(伊達・むねなり)、薩摩藩主島津斉彬(しまず・なりあきら)とも交流を持ち幕政にも積極的に口を挟む幕末の四賢侯と称されていました。<br /><br /><br />品川区教育委員会の作成の説明板によれば下記の通りです。<br /><br />『品川区指定史跡<br />      山内豊信(容堂)墓<br />             所在 東大井四丁目八番<br />             指定 昭和53年11月22日(第11号)<br /><br />山内豊信(とよしげ)は容堂と号した。<br />文政10年(1827)に分家の山内豊著(とよあきら)の長子として生まれ、嘉永元年(1848)に宗家を継いで第15代土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。<br />一方、国策についてもいろいろと論議し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。<br /><br />進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。<br /><br />明治元年(1868)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治5年に45歳の若さで亡くなった。<br /><br />遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。』  

武蔵品川 幕末の四賢侯(松平春嶽・伊達宗城・島津斉彬・山内豊信)の一人と称せられた土佐藩主『山内豊信(容堂)墓所』散歩

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2012/04/23 - 2012/04/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

京浜急行「鮫洲」駅西側に第一京浜が通り歩道橋を渡ると土佐藩屋敷が建てられたことから土佐山と呼ばれていた小高い丘があり、今では大井公園と変わりその奥に第15代土佐藩主山内豊信(やまうち・とよしげ、1827~1872)の墓所(東京都品川区東大井)があります。

山内豊信は当時福井藩主の松平春獄(まつだいら・しゅんがく)、宇和島藩主伊達宗城(伊達・むねなり)、薩摩藩主島津斉彬(しまず・なりあきら)とも交流を持ち幕政にも積極的に口を挟む幕末の四賢侯と称されていました。


品川区教育委員会の作成の説明板によれば下記の通りです。

『品川区指定史跡
      山内豊信(容堂)墓
             所在 東大井四丁目八番
             指定 昭和53年11月22日(第11号)

山内豊信(とよしげ)は容堂と号した。
文政10年(1827)に分家の山内豊著(とよあきら)の長子として生まれ、嘉永元年(1848)に宗家を継いで第15代土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。
一方、国策についてもいろいろと論議し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。

進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。

明治元年(1868)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治5年に45歳の若さで亡くなった。

遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。』  

交通手段
私鉄 徒歩
  • 山内豊信(容堂)墓所案内板<br /><br />大井公園の手前を左折し、第一京浜に沿って歩きます。

    山内豊信(容堂)墓所案内板

    大井公園の手前を左折し、第一京浜に沿って歩きます。

  • 桜並木<br /><br />清掃された路を歩きます。

    桜並木

    清掃された路を歩きます。

  • 山内豊信(容堂)墓所<br /><br />9時~17時の開放となっています。

    山内豊信(容堂)墓所

    9時~17時の開放となっています。

  • 墓所への通路<br /><br />殺風景な階段を登って行きます。ここに来ますと手入れがされず寂しい風景と変わります。

    墓所への通路

    殺風景な階段を登って行きます。ここに来ますと手入れがされず寂しい風景と変わります。

  • 山内墓所全体<br /><br />石段を登りきったところに墓所があります。

    山内墓所全体

    石段を登りきったところに墓所があります。

  • 従一位山内豊信公之墓

    従一位山内豊信公之墓

  • 嶋津常候之墓碑<br /><br />13代土佐藩主山内豊煕(やまうち・とよてる、1815~1848)の正室の墓(明治13年死亡)。<br /><br />正室は薩摩藩主島津斉興の娘で候姫という名前でした。<br /><br /><br /><br />

    嶋津常候之墓碑

    13代土佐藩主山内豊煕(やまうち・とよてる、1815~1848)の正室の墓(明治13年死亡)。

    正室は薩摩藩主島津斉興の娘で候姫という名前でした。



  • 山内家合祀之墓

    山内家合祀之墓

  • 山内豊範公之墓<br /><br />第16代目(最後の)土佐藩主で、安政6年(1859)豊信が安政の大獄で隠居処分となったため家督を継承し藩主となります。<br />しかし文久2年(1862)豊信の隠居が解かれると、実権は豊信に握られることになります。新政府での爵位は公爵で、墓石にはその爵位が刻されています。

    山内豊範公之墓

    第16代目(最後の)土佐藩主で、安政6年(1859)豊信が安政の大獄で隠居処分となったため家督を継承し藩主となります。
    しかし文久2年(1862)豊信の隠居が解かれると、実権は豊信に握られることになります。新政府での爵位は公爵で、墓石にはその爵位が刻されています。

  • 墓所全体<br />

    墓所全体

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