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JR五日市線・武蔵五日市駅から徒歩約20分、阿伎留神社(あきるじんじや、東京都あきる野市五日市)を訪問しました。<br /><br />当該神社の創立時期は不明ですが平安時代初期の資料として延喜式の「神名帳」に武蔵国多摩郡八社の筆頭に記載されている古社です。<br /><br />また歴代武将の信仰も厚く、藤原秀郷は平将門征討に際し戦勝祈願し、鎌倉時代以降についても源頼朝、足利尊氏、小田原北条氏もそれぞれ社領を寄進したほどです。<br /><br />とりわけ徳川家康は江戸入府後の翌年天正19年11月武蔵国多西郡秋留郷松原の内で10石の土地を寄進し、以後歴代将軍はこの先例に従ってその朱印12通を現存しています。<br /><br />社殿は天保元年の五日市大火に類焼し、本殿拝殿付属殿舎をことごとく焼失しましたが幕府に請うて江戸府中武蔵一国の勘化許可を得て資金資材の準備を進めたが建設までには至らず、明治21年11月ようやく現本殿拝殿の再建がなされました。<br /><br />市指定文化財<br />【年中十二祭神事絵巻】<br />狩野谿運久信筆の美しい彩色された絵巻物で、江戸末期の作です。当社で古くから行われていた月毎の祭事が描かれており、当時の年中祭事がうかがえます。<br /><br />市指定文化財<br />【武州南一揆文書六通】<br />武州南一揆は南武蔵の在郷武士団で、その有力集団が秋川流域にあり、15世紀を中心に活躍しました。当社には六通の関係する文書があり、中でも応永24年(1417)関東公方足利持氏が下した恩賞状は資料としての価値があります。<br /><br /><br />2022年7月18日追記<br /><br />五日市町史によれば下記のごとく詳細に説明されています。<br /><br />『 神社の創立起源は不詳である。平安時代初期の法令である「延喜式」巻九は、通称「神名帳」とよばれ、新年の国務にあずかる諸国の神社名が列記されているが、その武蔵国多摩郡八社の筆頭に挙げられている「阿伎留神社」が当社であると伝えられている。このことは当社が古来武蔵圏内では著名な社であったことを示すものであろう・また同じく平安時代の正史である「三代実録」の光孝天皇元慶8年(884)秋7月15日の条に、「武蔵国正五位上勲六等畔切神に従四位下を授けた」旨が記細されている。神社で位のほかに勲章を授けられたものは、諸書を総合してみても全国で70数社しかなかった。そこて、江戸末期において、当社でこれを「勲社」と呼んで、境内末社小川神社にこれを合祀し、また勲社の全神社名を記した掛軸をつくり、これを氏子に頒布した。いなおこの小川神社(小川明神)と本社との関係には考証の余地ありとも言われている。(先史・古代の項参照)<br /><br />鎌倉時代以降、武将の崇敬も厚く、建久4年(1193)、源頼朝が土地を寄進したのをはじめ、足利尊氏、北条氏康もそれぞれ社領を寄進したと伝えられる。また徳川家康は、江戸入府の翌年天正19年(1591)11月に、秋留郷松原の内で10石を寄せた。<br /><br />寄進大明神<br />武蔵国多西郡秋留郷松原之内拾石之事<br />右令寄附?弥可専祭祀之状如件<br />天正十九年辛卵十一月日(福徳印)<br /><br />それ以後、代々の種軍は家康の先例に従って同じ土地を寄進してその朱印状一二通を現存している。<br /><br />明治以後、神社制度の確立にともない、本社は明治6年(1873)12月、郷社に列格され、後、明治45年5月神選幣綿供進神社に指定された。<br /><br />社殿は、文政13年(1830)12月の火災のため、末社、桜門などとともに一切烏有に帰した。そこで幕府に請うて、江戸府中および武蔵一国の勧化許可をうけ、資金資材の準備を進めたが、折から幕末多端の折で、本殿造営にまで至らず、長らく仮殿のまま過ごしたが、明治21年11月、ようやく現在の本殿・拝殿が完成した。その後、大正4年に、大正天皇御大典記念として拝殿に向拝と幣殿が増築され、昭和3年には、同じく今生天皇御大典記念として大鳥居・神楽殿が新築されて、昭和36年8月、社務所が完成した。なお現在の神輿は天保13年(1842)のもの、また流造間口三尺・奥行六尺の大鳥神社(末寺)は天保2年(1831)の造立であり、その横に旧五日市宿の「市神」として宿場にあった自然石が移しまつられてある。<br /><br />また、本社には次のような社殿もある。天慶3年(940)、鎮守将軍藤原秀郷が平将門を征伐しようとしたとき、皇城(京都)の守護、山城国乙訓郡小塩山の大原明神の神霊を、武蔵国内の有勲の大社に合殿しまつったならば、目的が達せられるであろうという神示により、本社を選んで、山城国小塩山の土を畔切宮に移し、大原明神をここに勧請し、合わせて、乙津・小倉・入野の神をまつり、松・桜も移し、神税一万束をたてまつって東国鎮護を祈願した。これ以後、本社を「小塩宮」とも称し、小塩(小庄)という地名もそれにつれて起こったものであるといわれ、大原大明神(大原野神社)は奈良の春日明神を京都に移しまっつったものであるから、本社を春日明神と称するのもここに起因するというのである。』<br /><br /><br />

武蔵五日市 平安時代初期の「神名帳」には多摩郡八社の筆頭に掲載、藤原秀郷・源頼朝・足利尊氏・北条氏康や徳川家康の寄進受けた『阿伎留神社』散歩

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2012/04/15 - 2012/04/15

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9

滝山氏照

滝山氏照さん

JR五日市線・武蔵五日市駅から徒歩約20分、阿伎留神社(あきるじんじや、東京都あきる野市五日市)を訪問しました。

当該神社の創立時期は不明ですが平安時代初期の資料として延喜式の「神名帳」に武蔵国多摩郡八社の筆頭に記載されている古社です。

また歴代武将の信仰も厚く、藤原秀郷は平将門征討に際し戦勝祈願し、鎌倉時代以降についても源頼朝、足利尊氏、小田原北条氏もそれぞれ社領を寄進したほどです。

とりわけ徳川家康は江戸入府後の翌年天正19年11月武蔵国多西郡秋留郷松原の内で10石の土地を寄進し、以後歴代将軍はこの先例に従ってその朱印12通を現存しています。

社殿は天保元年の五日市大火に類焼し、本殿拝殿付属殿舎をことごとく焼失しましたが幕府に請うて江戸府中武蔵一国の勘化許可を得て資金資材の準備を進めたが建設までには至らず、明治21年11月ようやく現本殿拝殿の再建がなされました。

市指定文化財
【年中十二祭神事絵巻】
狩野谿運久信筆の美しい彩色された絵巻物で、江戸末期の作です。当社で古くから行われていた月毎の祭事が描かれており、当時の年中祭事がうかがえます。

市指定文化財
【武州南一揆文書六通】
武州南一揆は南武蔵の在郷武士団で、その有力集団が秋川流域にあり、15世紀を中心に活躍しました。当社には六通の関係する文書があり、中でも応永24年(1417)関東公方足利持氏が下した恩賞状は資料としての価値があります。


2022年7月18日追記

五日市町史によれば下記のごとく詳細に説明されています。

『 神社の創立起源は不詳である。平安時代初期の法令である「延喜式」巻九は、通称「神名帳」とよばれ、新年の国務にあずかる諸国の神社名が列記されているが、その武蔵国多摩郡八社の筆頭に挙げられている「阿伎留神社」が当社であると伝えられている。このことは当社が古来武蔵圏内では著名な社であったことを示すものであろう・また同じく平安時代の正史である「三代実録」の光孝天皇元慶8年(884)秋7月15日の条に、「武蔵国正五位上勲六等畔切神に従四位下を授けた」旨が記細されている。神社で位のほかに勲章を授けられたものは、諸書を総合してみても全国で70数社しかなかった。そこて、江戸末期において、当社でこれを「勲社」と呼んで、境内末社小川神社にこれを合祀し、また勲社の全神社名を記した掛軸をつくり、これを氏子に頒布した。いなおこの小川神社(小川明神)と本社との関係には考証の余地ありとも言われている。(先史・古代の項参照)

鎌倉時代以降、武将の崇敬も厚く、建久4年(1193)、源頼朝が土地を寄進したのをはじめ、足利尊氏、北条氏康もそれぞれ社領を寄進したと伝えられる。また徳川家康は、江戸入府の翌年天正19年(1591)11月に、秋留郷松原の内で10石を寄せた。

寄進大明神
武蔵国多西郡秋留郷松原之内拾石之事
右令寄附?弥可専祭祀之状如件
天正十九年辛卵十一月日(福徳印)

それ以後、代々の種軍は家康の先例に従って同じ土地を寄進してその朱印状一二通を現存している。

明治以後、神社制度の確立にともない、本社は明治6年(1873)12月、郷社に列格され、後、明治45年5月神選幣綿供進神社に指定された。

社殿は、文政13年(1830)12月の火災のため、末社、桜門などとともに一切烏有に帰した。そこで幕府に請うて、江戸府中および武蔵一国の勧化許可をうけ、資金資材の準備を進めたが、折から幕末多端の折で、本殿造営にまで至らず、長らく仮殿のまま過ごしたが、明治21年11月、ようやく現在の本殿・拝殿が完成した。その後、大正4年に、大正天皇御大典記念として拝殿に向拝と幣殿が増築され、昭和3年には、同じく今生天皇御大典記念として大鳥居・神楽殿が新築されて、昭和36年8月、社務所が完成した。なお現在の神輿は天保13年(1842)のもの、また流造間口三尺・奥行六尺の大鳥神社(末寺)は天保2年(1831)の造立であり、その横に旧五日市宿の「市神」として宿場にあった自然石が移しまつられてある。

また、本社には次のような社殿もある。天慶3年(940)、鎮守将軍藤原秀郷が平将門を征伐しようとしたとき、皇城(京都)の守護、山城国乙訓郡小塩山の大原明神の神霊を、武蔵国内の有勲の大社に合殿しまつったならば、目的が達せられるであろうという神示により、本社を選んで、山城国小塩山の土を畔切宮に移し、大原明神をここに勧請し、合わせて、乙津・小倉・入野の神をまつり、松・桜も移し、神税一万束をたてまつって東国鎮護を祈願した。これ以後、本社を「小塩宮」とも称し、小塩(小庄)という地名もそれにつれて起こったものであるといわれ、大原大明神(大原野神社)は奈良の春日明神を京都に移しまっつったものであるから、本社を春日明神と称するのもここに起因するというのである。』


交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 鳥居

    鳥居

  • 阿伎留神社石標

    阿伎留神社石標

  • 阿伎留神社拝殿全景<br /><br />

    イチオシ

    阿伎留神社拝殿全景

  • 阿伎留神社拝殿<br /><br /><br /><br />

    阿伎留神社拝殿



  • 阿伎留神社境内<br /><br />境内には桜が葉桜となっていますが清清しい雰囲気を出しています。

    阿伎留神社境内

    境内には桜が葉桜となっていますが清清しい雰囲気を出しています。

  • 阿伎留神社境内

    阿伎留神社境内

  • 秋川と桜<br /><br />境内を出るとすぐ近くから秋川と山々が見渡せます。秋川河岸に並ぶ桜並木は葉桜ですがここでは華やかな彩を出しています。

    秋川と桜

    境内を出るとすぐ近くから秋川と山々が見渡せます。秋川河岸に並ぶ桜並木は葉桜ですがここでは華やかな彩を出しています。

  • 小和田橋と秋川<br /><br />春は岸辺のけやきの新緑、秋は水面に映える紅葉など四季の風景を楽しめます。

    小和田橋と秋川

    春は岸辺のけやきの新緑、秋は水面に映える紅葉など四季の風景を楽しめます。

  • 小和田橋<br /><br />陽光を浴びながら小和田橋を渡ります。

    小和田橋

    陽光を浴びながら小和田橋を渡ります。

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この旅行記へのコメント (1)

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  • chikuouさん 2012/09/18 09:39:46
    阿伎留の意味
     素晴らしい神社ですね。阿伎留の意味は何ですか。アイヌ語に似ているようにも思いますが。ご存知でしたら、教えてください。東北には先住民の「アテルイ」という人物もいたそうですが。

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