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山本八重を訪ねて会津若松市を探索「戊辰戦争」は奥が深い。「もし、会津藩主、松平容保が京都守護職を断っていたら」「もし、小千谷(おじや)談判で長岡藩の中立を岩村誠一郎が理解していたら」「もし、河井継之助が怪我をしていなかったら」「もし・・・は尽きない」最終編は「西軍墓地」、会津藩最後の武士「町野主水(まちのもんど)家墓所」、西軍が大砲を撃った「小田山」、越後長岡藩牧野家の家臣「河井継之助埋骨地碑(埋骨之遺蹟)」会津市内散策最終編。写真は「西軍墓地」入り口、各藩の紋章が付いています。最後特別に東京都千代田区の新島八重(山本八重)の夫である新島譲の生誕の地を訪問しました。2013年度(平成25年度)NHK大河ドラマは「八重の桜」が決定しました。山本八重を訪ねて、深く探りました。京都へは遠く中々行けないので、生誕の地とその歴史に関係する場所を探索したつもりです。美人すぎる「綾瀬はるか」さん主演をもっと楽しく見るために参考にして下さい。NHK,Webは「http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/」

623 八重の桜を訪ねて パート4「西軍墓地」「町野主水(まちの もんど)家墓所」「小田山」「河井継之助埋骨地碑(埋骨之遺蹟)」会津市内散策最終編

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2012/08/15 - 2012/08/17

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しんちゃん

しんちゃんさん

山本八重を訪ねて会津若松市を探索「戊辰戦争」は奥が深い。「もし、会津藩主、松平容保が京都守護職を断っていたら」「もし、小千谷(おじや)談判で長岡藩の中立を岩村誠一郎が理解していたら」「もし、河井継之助が怪我をしていなかったら」「もし・・・は尽きない」最終編は「西軍墓地」、会津藩最後の武士「町野主水(まちのもんど)家墓所」、西軍が大砲を撃った「小田山」、越後長岡藩牧野家の家臣「河井継之助埋骨地碑(埋骨之遺蹟)」会津市内散策最終編。写真は「西軍墓地」入り口、各藩の紋章が付いています。最後特別に東京都千代田区の新島八重(山本八重)の夫である新島譲の生誕の地を訪問しました。2013年度(平成25年度)NHK大河ドラマは「八重の桜」が決定しました。山本八重を訪ねて、深く探りました。京都へは遠く中々行けないので、生誕の地とその歴史に関係する場所を探索したつもりです。美人すぎる「綾瀬はるか」さん主演をもっと楽しく見るために参考にして下さい。NHK,Webは「http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/

交通手段
自家用車

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  • 会津若松駅から「大町通り」を南下して約700m「融通寺」入り口。「町野主水(まちの もんど)家墓所」の説明版が見える。

    会津若松駅から「大町通り」を南下して約700m「融通寺」入り口。「町野主水(まちの もんど)家墓所」の説明版が見える。

  • その「融通寺」本堂の南側の一角に戊辰戦争で犠牲になった西軍兵士の墓地があります。「西軍墓地」から紹介します。9月に戊辰戦争が終結しても会津軍兵士の遺体は、次の年の2月まで、埋める事も許されないまま放置されました。何故ここに西軍のお墓があるのか。「数にも入らぬ我が身ながらも」のサイトからです。【戊辰戦争の時の住職・寂禅という人は、武家の出だったらしく、国難に当たってじっとしておられず、自ら還俗して会津藩に従軍していた。従軍したまま行方不明になっていた寂禅の身を案じて、その弟子であった蒲生岳順が融通寺を訪ねた。岳順は、融通寺に屯営していた西軍に捕らえられ、西軍戦死者のための回向を命じられた。融通寺には、この頃、西軍各藩の連絡をとるための会議所が置かれていたので、西軍兵士たちの遺体の多くはここに埋葬されたのであった。】Webは「http://aiduwakamatu.bufsiz.jp/aidu-bosin/yuzuji/yuzuji.htm」

    その「融通寺」本堂の南側の一角に戊辰戦争で犠牲になった西軍兵士の墓地があります。「西軍墓地」から紹介します。9月に戊辰戦争が終結しても会津軍兵士の遺体は、次の年の2月まで、埋める事も許されないまま放置されました。何故ここに西軍のお墓があるのか。「数にも入らぬ我が身ながらも」のサイトからです。【戊辰戦争の時の住職・寂禅という人は、武家の出だったらしく、国難に当たってじっとしておられず、自ら還俗して会津藩に従軍していた。従軍したまま行方不明になっていた寂禅の身を案じて、その弟子であった蒲生岳順が融通寺を訪ねた。岳順は、融通寺に屯営していた西軍に捕らえられ、西軍戦死者のための回向を命じられた。融通寺には、この頃、西軍各藩の連絡をとるための会議所が置かれていたので、西軍兵士たちの遺体の多くはここに埋葬されたのであった。】Webは「http://aiduwakamatu.bufsiz.jp/aidu-bosin/yuzuji/yuzuji.htm

  • 「西軍墓誌」説明版からです。【西軍墓誌 この西軍墓地は戊辰戦役(1868年)に従軍し此の會津の地に散華した西軍十余藩 174柱の精霊の眠る霊域である。回願(*1)すれば星霜ここに90年墓地亦著しく荒廃した、勇士の郷里各県は深くこれを憂え、相呼應して志願を結び、昭和32年9月15日慈(*2)に墓地改修の工成り永く霊地の尊厳を護持することゝなった。…(*1:回は面から一とノを除く)(*2:慈は心編を除く)<br />

    「西軍墓誌」説明版からです。【西軍墓誌 この西軍墓地は戊辰戦役(1868年)に従軍し此の會津の地に散華した西軍十余藩 174柱の精霊の眠る霊域である。回願(*1)すれば星霜ここに90年墓地亦著しく荒廃した、勇士の郷里各県は深くこれを憂え、相呼應して志願を結び、昭和32年9月15日慈(*2)に墓地改修の工成り永く霊地の尊厳を護持することゝなった。…(*1:回は面から一とノを除く)(*2:慈は心編を除く)

  • 続きです…同じく9月22日戊辰戦役90年祭執行されるや関係各県代表として山口県知事小澤太郎氏参列し、この墓前に立ち郷土勇士の遺徳を讃仰し篤く敬弔の誠を表した。昭和33年9月 戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会】<br />

    続きです…同じく9月22日戊辰戦役90年祭執行されるや関係各県代表として山口県知事小澤太郎氏参列し、この墓前に立ち郷土勇士の遺徳を讃仰し篤く敬弔の誠を表した。昭和33年9月 戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会】

  • 同じく「数にも入らぬ我が身ながらも」のwebでは【戊辰戦役 西軍戦没者墓地 明治戊辰(明治元年・1868)の戦死した西軍の人々を葬った墓地である。明治2年4月現在の墓石が建てられてからは県の招魂社で管理をし祭祀をしてきたが今次大戦後は官修墓地の制もなくなったので西軍墳墓史跡保存会が年々祭祀を行なってきている。ここに葬られている各藩戦没者は次の通りである。土佐藩 49人 薩摩藩 33人 長州藩 24人 大垣藩 20人 肥州藩 11人 備州藩  6人 岡山藩  3人 館林藩  2人  越前藩  1人 藩籍不明 1人 計150人。】です。webサイトは「http://aiduwakamatu.client.jp/」

    同じく「数にも入らぬ我が身ながらも」のwebでは【戊辰戦役 西軍戦没者墓地 明治戊辰(明治元年・1868)の戦死した西軍の人々を葬った墓地である。明治2年4月現在の墓石が建てられてからは県の招魂社で管理をし祭祀をしてきたが今次大戦後は官修墓地の制もなくなったので西軍墳墓史跡保存会が年々祭祀を行なってきている。ここに葬られている各藩戦没者は次の通りである。土佐藩 49人 薩摩藩 33人 長州藩 24人 大垣藩 20人 肥州藩 11人 備州藩  6人 岡山藩  3人 館林藩  2人  越前藩  1人 藩籍不明 1人 計150人。】です。webサイトは「http://aiduwakamatu.client.jp/

  • 「大町通り」側にある説明版「町野主水(まちの もんど)家墓所」の地図。説明版からです。【町野主水家墓所について 野源之助重安主水は会津戊辰戦争の際、越後境の小出島の奉行に任命されました・会津藩朱雀隊四番士中隊長佐川官兵衛や長岡藩家老河井継之助と相提携して、部下と共に転戦しました・白虎隊士であった弟の久吉は三国峠の戦いで壮烈な戦死を遂げました。主水等は衆寡敵せず若松城に帰着しましたがヽそれより以前に主水の母、姉ン妥、長女ヽ長男は南摩三右衛門の母、息子二名と共に戦火を避けて移動中、落城の噂を聞き会津坂下町の勝方寺の裏山で自刃しました。・・・

    「大町通り」側にある説明版「町野主水(まちの もんど)家墓所」の地図。説明版からです。【町野主水家墓所について 野源之助重安主水は会津戊辰戦争の際、越後境の小出島の奉行に任命されました・会津藩朱雀隊四番士中隊長佐川官兵衛や長岡藩家老河井継之助と相提携して、部下と共に転戦しました・白虎隊士であった弟の久吉は三国峠の戦いで壮烈な戦死を遂げました。主水等は衆寡敵せず若松城に帰着しましたがヽそれより以前に主水の母、姉ン妥、長女ヽ長男は南摩三右衛門の母、息子二名と共に戦火を避けて移動中、落城の噂を聞き会津坂下町の勝方寺の裏山で自刃しました。・・・

  • 「融通寺」本堂・・・続きです。・・・ 維新後、主水等は残留を命じられて斗南に行かず、戦死した藩士等の遺体処理に尽力、阿弥陀寺・長命寺に埋葬しました。末永く弔霊の祭典を執行する為に、大正二年、会津弔霊義会を設立、その初代会長に就任しました。爾後再三の申請を重ねて四年後の大正六年三月二十九日付をもって財団法人として当時の内務大臣後藤新平の名で許可されました。戊辰戦後実に五十年も経過してからでした。主水は大正十二年六月九日、永眠いたしましたが、自らは息子武馬に遺言して、他の戦死者同様に菰に包み荒縄で縛り馬に曳かせて、ここ融通寺に埋葬させました。武馬は、士官学校を経て日露戦争に従軍、後満州に渡り張作霖の軍事顧問として活躍、帰国後は近衛文麿公のブレーンとして第二次大戦に反対しました・又戦後は吉田茂首相の御意見番として活躍し、日本財団の笹川良一氏とも親交がありました。ここ融通寺境内には『町野家登城」が北側奥の一角にあります。一際高い三基五輪の塔が目標です。 この度、融通寺の書院及び庫裏の落慶を記念して本銘板を奉納しました。平成十九年五月二十七日 町野主水家顕彰会 建之】

    「融通寺」本堂・・・続きです。・・・ 維新後、主水等は残留を命じられて斗南に行かず、戦死した藩士等の遺体処理に尽力、阿弥陀寺・長命寺に埋葬しました。末永く弔霊の祭典を執行する為に、大正二年、会津弔霊義会を設立、その初代会長に就任しました。爾後再三の申請を重ねて四年後の大正六年三月二十九日付をもって財団法人として当時の内務大臣後藤新平の名で許可されました。戊辰戦後実に五十年も経過してからでした。主水は大正十二年六月九日、永眠いたしましたが、自らは息子武馬に遺言して、他の戦死者同様に菰に包み荒縄で縛り馬に曳かせて、ここ融通寺に埋葬させました。武馬は、士官学校を経て日露戦争に従軍、後満州に渡り張作霖の軍事顧問として活躍、帰国後は近衛文麿公のブレーンとして第二次大戦に反対しました・又戦後は吉田茂首相の御意見番として活躍し、日本財団の笹川良一氏とも親交がありました。ここ融通寺境内には『町野家登城」が北側奥の一角にあります。一際高い三基五輪の塔が目標です。 この度、融通寺の書院及び庫裏の落慶を記念して本銘板を奉納しました。平成十九年五月二十七日 町野主水家顕彰会 建之】

  • 以下はWikipediaの要約です。【主水(もんど)は弟の久吉(きゅうきち)と共に槍の達人で、京都守護職本陣に向かう途中、桑名藩士を斬り、到着後入牢。7月禁門の変で牢を破り一番槍を目指すが窪田伴治に続き飯河小膳とともに二番槍の功名を挙げるも越後国蒲原郡津川で謹慎。慶応4年(1868年)御蔵入奉行兼幌役を命ぜられた主水は、会津藩飛領である越後の小出島に赴任し、三国峠を守備するも4月24日の戦いで実弟久吉を戦死させたのち越後戦線へ移動した。8月11日、佐川官兵衛の後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任、北越戦線を転戦するが鶴ヶ城下に西軍が侵攻したとの報に接し、急ぎ城下に戻る。・・・

    以下はWikipediaの要約です。【主水(もんど)は弟の久吉(きゅうきち)と共に槍の達人で、京都守護職本陣に向かう途中、桑名藩士を斬り、到着後入牢。7月禁門の変で牢を破り一番槍を目指すが窪田伴治に続き飯河小膳とともに二番槍の功名を挙げるも越後国蒲原郡津川で謹慎。慶応4年(1868年)御蔵入奉行兼幌役を命ぜられた主水は、会津藩飛領である越後の小出島に赴任し、三国峠を守備するも4月24日の戦いで実弟久吉を戦死させたのち越後戦線へ移動した。8月11日、佐川官兵衛の後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任、北越戦線を転戦するが鶴ヶ城下に西軍が侵攻したとの報に接し、急ぎ城下に戻る。・・・

  • ・・・熊倉の戦いを会津軍大勝利に導いた後、一ノ堰の大激戦の最中に陣将萱野権兵衛の命により軍事奉行樋口源助とともに鶴ヶ城に入城し、藩主松平容保に米沢藩からの降伏勧告を伝える。9月7日 母きと、妻やよ、姉ふさ、長女なを(7才)、長男源太郎(3才)の5人が河沼郡坂下勝方寺の裏山で自刃、叔母南摩勝子はその二人の男子(9才、4才)を刺し自害した。家僕の誤った戦況報告により死を急ぐに至ったといわれる。七才になる長女なをは、怖がって泣くので「お城にいらっしゃるお父様のご無事をお祈りしましょう」というと手を合わせ瞑目したので、その瞬間に主水の配下の大竹豊之助が涙ながらに介錯したとのことである。開城後「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」との新政府軍軍務局からの達しを受け、「若松取締」に任ずる。この間伴百悦らと戦死者の埋葬に尽力した。・・・

    ・・・熊倉の戦いを会津軍大勝利に導いた後、一ノ堰の大激戦の最中に陣将萱野権兵衛の命により軍事奉行樋口源助とともに鶴ヶ城に入城し、藩主松平容保に米沢藩からの降伏勧告を伝える。9月7日 母きと、妻やよ、姉ふさ、長女なを(7才)、長男源太郎(3才)の5人が河沼郡坂下勝方寺の裏山で自刃、叔母南摩勝子はその二人の男子(9才、4才)を刺し自害した。家僕の誤った戦況報告により死を急ぐに至ったといわれる。七才になる長女なをは、怖がって泣くので「お城にいらっしゃるお父様のご無事をお祈りしましょう」というと手を合わせ瞑目したので、その瞬間に主水の配下の大竹豊之助が涙ながらに介錯したとのことである。開城後「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」との新政府軍軍務局からの達しを受け、「若松取締」に任ずる。この間伴百悦らと戦死者の埋葬に尽力した。・・・

  • ・・・自由民権運動の高まりの中で、主水は明治15年(1882年)6月、諏訪伊助、辰野宗治と連名で会津帝政党を設立、当時福島県令の三島通庸の三方道路建設に寄与、清水屋旅館事件に関わる。晩年は大正元年(1912年)、狼藉者を無礼討ちにするなど武弁ぶりを発揮、会津弔霊義会の発起人代表を務めたが、大正12年(1923年)齢85で没した。最後の会津武士といわれた。墓は会津若松市の融通寺。戒名は武孝院殿顕譽誠心清居士。】

    ・・・自由民権運動の高まりの中で、主水は明治15年(1882年)6月、諏訪伊助、辰野宗治と連名で会津帝政党を設立、当時福島県令の三島通庸の三方道路建設に寄与、清水屋旅館事件に関わる。晩年は大正元年(1912年)、狼藉者を無礼討ちにするなど武弁ぶりを発揮、会津弔霊義会の発起人代表を務めたが、大正12年(1923年)齢85で没した。最後の会津武士といわれた。墓は会津若松市の融通寺。戒名は武孝院殿顕譽誠心清居士。】

  • 【逸話について①「久吉の槍」 明治30年(1897年)8月、山県有朋の手にあった実弟久吉の槍の件を知った品川弥二郎が主水を訪ね「山県から取り返してやろうか」と言ったが、主水は「戦場で敵に奪われた槍を畳の上で受け取れるか」と言下に断ったという。(この槍は鶴ヶ城内に展示されている)】 <br />

    【逸話について①「久吉の槍」 明治30年(1897年)8月、山県有朋の手にあった実弟久吉の槍の件を知った品川弥二郎が主水を訪ね「山県から取り返してやろうか」と言ったが、主水は「戦場で敵に奪われた槍を畳の上で受け取れるか」と言下に断ったという。(この槍は鶴ヶ城内に展示されている)】

  • 【逸話について②「武士の面目」大正6年(1917年)8月、戊辰殉難者50年祭典の際、式半ばにして降雨。気を遣った市長が天幕を指して「お下がり下さい」と言うと、主水は「武士に向かって下がれとは何だ」と大喝一声、いったん天幕に入った人々も再び外に出て雨の中で式が続行さたという。】 <br />

    【逸話について②「武士の面目」大正6年(1917年)8月、戊辰殉難者50年祭典の際、式半ばにして降雨。気を遣った市長が天幕を指して「お下がり下さい」と言うと、主水は「武士に向かって下がれとは何だ」と大喝一声、いったん天幕に入った人々も再び外に出て雨の中で式が続行さたという。】

  • 【逸話について③「大正元年狼藉者退治の真相」ある日町野家の玄関に大男の無頼漢がなにやらわめいて入ろうとしたので、主水が刀を帯びて応対に出た。殴りかかろうとしたのでとっさに刀の柄で暴漢をみね打ちにしたら そのまま死んでしまった。警察が来て大騒ぎになり、さすがに居合わせた息子の町野武馬もあわてたそうだ。暴漢は札付きの悪で、家族も持て余していたようなものだったので、また警察も町野主水といえば戊辰戦争の英雄だから、大目に見てくれて、結局もみ消してくれた。後で主水は「近頃は殺人罪などといって大ごとなのだそうだ」と言って悠然と笑っていた。主水73才のことだ。逸話について④「筵(むしろ)で葬送」 大正12年(1923年)の葬式では、子の武馬は厳父の遺言どおり、遺体を藁に筵をかぶせたのみの状態で墓所まで運ぼうとしたが、警察がうんと言わない。仕方なく、棺桶の上からこもをかぶせて運んだ。これは「自分の死後は城下に放置されていた旧藩の人々と同じように葬って欲しい。立派な埋葬では泉下の仲間に申し訳が立たない」と主水が常々言い聞かせていたのを武馬が守ったからだという。】以上はWikipediaからです。

    【逸話について③「大正元年狼藉者退治の真相」ある日町野家の玄関に大男の無頼漢がなにやらわめいて入ろうとしたので、主水が刀を帯びて応対に出た。殴りかかろうとしたのでとっさに刀の柄で暴漢をみね打ちにしたら そのまま死んでしまった。警察が来て大騒ぎになり、さすがに居合わせた息子の町野武馬もあわてたそうだ。暴漢は札付きの悪で、家族も持て余していたようなものだったので、また警察も町野主水といえば戊辰戦争の英雄だから、大目に見てくれて、結局もみ消してくれた。後で主水は「近頃は殺人罪などといって大ごとなのだそうだ」と言って悠然と笑っていた。主水73才のことだ。逸話について④「筵(むしろ)で葬送」 大正12年(1923年)の葬式では、子の武馬は厳父の遺言どおり、遺体を藁に筵をかぶせたのみの状態で墓所まで運ぼうとしたが、警察がうんと言わない。仕方なく、棺桶の上からこもをかぶせて運んだ。これは「自分の死後は城下に放置されていた旧藩の人々と同じように葬って欲しい。立派な埋葬では泉下の仲間に申し訳が立たない」と主水が常々言い聞かせていたのを武馬が守ったからだという。】以上はWikipediaからです。

  • 会津「鶴ヶ城」の南東に「小田山」という小高い山があります。戊辰戦争時に、ここから西軍が鶴ヶ城へ大砲を撃ちました。小田山入り口の名所旧跡案内板です。

    会津「鶴ヶ城」の南東に「小田山」という小高い山があります。戊辰戦争時に、ここから西軍が鶴ヶ城へ大砲を撃ちました。小田山入り口の名所旧跡案内板です。

  • 自動車の行けるところまで行き駐車して、山道を歩きました。

    自動車の行けるところまで行き駐車して、山道を歩きました。

  • 「葦名家寿山廟跡(下)」

    「葦名家寿山廟跡(下)」

  • 北側、飯盛山方向

    北側、飯盛山方向

  • 「幕末の射撃場跡(金峰尊公大禅尼の墓)」

    「幕末の射撃場跡(金峰尊公大禅尼の墓)」

  • 「観音堂跡」

    「観音堂跡」

  • 「西軍砲陣跡」

    「西軍砲陣跡」

  • 説明版からです。【「西軍この地より鶴ケ城を砲撃する」 慶応4年(1868年)8月23日。会津軍は城門を閉じ籠城に入りました。翌24日東部戦線にあつた今津藩兵も漸次退き、ひとまず城内に入リました。翌25日に進攻してきた西軍に、地形上すぐれてていることを内通する者がいて、西軍は小田山上に砲塁を築きました。薩摩・鍋島・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩は城を眼下に見下ろしながら一斉に砲門を開きました小田山上と城までの直線距離は約1600m。鍋島藩のアームストロング砲は2千数百mの射程距離があリ威力を発揮しました。当初本丸まで弾丸が届かぬ大砲がありましたが、砲口を上に向けで発射するようになって、本九まで無数の弾丸が届くようになりました。焼き玉も使われて、しばしば城内に火災が発生し、城中の驚きは一方ではありませんでした。会津軍も急遽砲を豊岡東照権現堂の付近及び三の九に出して応戦し、一時は小田山上の砲門を沈黙させたといいます。・・・続く

    説明版からです。【「西軍この地より鶴ケ城を砲撃する」 慶応4年(1868年)8月23日。会津軍は城門を閉じ籠城に入りました。翌24日東部戦線にあつた今津藩兵も漸次退き、ひとまず城内に入リました。翌25日に進攻してきた西軍に、地形上すぐれてていることを内通する者がいて、西軍は小田山上に砲塁を築きました。薩摩・鍋島・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩は城を眼下に見下ろしながら一斉に砲門を開きました小田山上と城までの直線距離は約1600m。鍋島藩のアームストロング砲は2千数百mの射程距離があリ威力を発揮しました。当初本丸まで弾丸が届かぬ大砲がありましたが、砲口を上に向けで発射するようになって、本九まで無数の弾丸が届くようになりました。焼き玉も使われて、しばしば城内に火災が発生し、城中の驚きは一方ではありませんでした。会津軍も急遽砲を豊岡東照権現堂の付近及び三の九に出して応戦し、一時は小田山上の砲門を沈黙させたといいます。・・・続く

  • 約1600m先に「鶴ヶ城」が見えます。・・・続きです。・・・西軍は更に館の荒神、慶山付の畑地に砲門を据え、小田山上と合わせて三方から天守閣を目標にしてさかんに砲撃を開始しました。会津軍も8月27日青木・小田の線より小田山奪還を試みましたが猛反撃を受け奪還は失敗しました。9月14日より3日間、西軍は小田山・館・慶山の砲門をひじめ、若松城下外郭16門に砲列を布き、一斉に砲撃を開始しました。この総攻撃により、城内は修羅場と化し、将軍婦女子に多数の死傷者を出しました。平成11年5月吉日 市制100周年記念鶴域地区 地域イベント事業実行委員会】

    約1600m先に「鶴ヶ城」が見えます。・・・続きです。・・・西軍は更に館の荒神、慶山付の畑地に砲門を据え、小田山上と合わせて三方から天守閣を目標にしてさかんに砲撃を開始しました。会津軍も8月27日青木・小田の線より小田山奪還を試みましたが猛反撃を受け奪還は失敗しました。9月14日より3日間、西軍は小田山・館・慶山の砲門をひじめ、若松城下外郭16門に砲列を布き、一斉に砲撃を開始しました。この総攻撃により、城内は修羅場と化し、将軍婦女子に多数の死傷者を出しました。平成11年5月吉日 市制100周年記念鶴域地区 地域イベント事業実行委員会】

  • 拡大です。

    拡大です。

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    拡大です。

  • 「西軍砲陣跡」<br />

    「西軍砲陣跡」

  • 「小田山」の西側、山の麓に「建福寺」があります。お寺の「河井継之助埋骨地碑」の紹介です。河井継之助(かわい つぎのすけ)は数冊の本になるほどの人物です。

    「小田山」の西側、山の麓に「建福寺」があります。お寺の「河井継之助埋骨地碑」の紹介です。河井継之助(かわい つぎのすけ)は数冊の本になるほどの人物です。

  • ちょっとやそっとでは分かりずらい場所にあります。なぜなら西軍に見つからないようにしたためです。こんな急な坂道を登り訪問します。

    ちょっとやそっとでは分かりずらい場所にあります。なぜなら西軍に見つからないようにしたためです。こんな急な坂道を登り訪問します。

  • 西軍が会津へ攻め入る2ヶ月前、新潟県長岡藩家老“河井継之助”の“小千谷談判の決裂”事件、Wikipediaからです。【「小千谷談判の決裂」河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談した。岩村精一郎によると、河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する】<br /><br />

    西軍が会津へ攻め入る2ヶ月前、新潟県長岡藩家老“河井継之助”の“小千谷談判の決裂”事件、Wikipediaからです。【「小千谷談判の決裂」河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談した。岩村精一郎によると、河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する】

  • 河井継之助の最後【長岡の戦いで、奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。あるいは、新町口では無いところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、援軍の米沢藩も西軍に阻まれた。徐々に西軍に押され長岡は西軍に奪われた。怪我をしたまま会津へ行く途中に傷が悪化し死を悟り荼毘の用意を部下にさせて永眠する】

    河井継之助の最後【長岡の戦いで、奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。あるいは、新町口では無いところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、援軍の米沢藩も西軍に阻まれた。徐々に西軍に押され長岡は西軍に奪われた。怪我をしたまま会津へ行く途中に傷が悪化し死を悟り荼毘の用意を部下にさせて永眠する】

  • 【継之助の葬式は会津城下にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。現在は臨済宗 妙心寺派 大寶山 建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑が残されている。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。】

    【継之助の葬式は会津城下にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。現在は臨済宗 妙心寺派 大寶山 建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑が残されている。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。】

  • お墓参りの帰途「コトコト・カサカサ」キツツキが木をついばんでいるような、おかしな音が聞こえました。と思いましたら、「メリメリ・バッサッ!」「ズドーン」腐った枝が落ちてきました。危うく頭に落ちるところでした。「河井継之助がお墓参りのお礼?」奇遇、偶然、確率はどのくらいであろうか。

    お墓参りの帰途「コトコト・カサカサ」キツツキが木をついばんでいるような、おかしな音が聞こえました。と思いましたら、「メリメリ・バッサッ!」「ズドーン」腐った枝が落ちてきました。危うく頭に落ちるところでした。「河井継之助がお墓参りのお礼?」奇遇、偶然、確率はどのくらいであろうか。

  • 「建福寺」今回の見学地の他に以前見学した旅行記も参考にして下さい。「旧滝沢本陣跡」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10063498/」 「下野街道・二十四人戦士の墓」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10363710/」 「長岡藩士殉節の碑」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10391332/」 「興徳寺 蒲生氏郷のお墓」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10419782/」  <br />

    「建福寺」今回の見学地の他に以前見学した旅行記も参考にして下さい。「旧滝沢本陣跡」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10063498/」 「下野街道・二十四人戦士の墓」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10363710/」 「長岡藩士殉節の碑」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10391332/」 「興徳寺 蒲生氏郷のお墓」「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10419782/」  

  • 「建福寺」本堂内部。本年の夏は山本八重を追い、歴史を遡り「河井継之助(かわい つぎのすけ)」を訪ねました。長岡の「河井継之助記念館」と只見の「河井継之助記念館」「河井継之助墓」も訪問しました。のみならず、「山本五十六」「米百俵の碑」等々見学しました。歴史は大嫌いであったが“百聞は一見にしかず”実際にその場所を見学すると考えが変ります。これらは夏休み最終編で紹介します。

    「建福寺」本堂内部。本年の夏は山本八重を追い、歴史を遡り「河井継之助(かわい つぎのすけ)」を訪ねました。長岡の「河井継之助記念館」と只見の「河井継之助記念館」「河井継之助墓」も訪問しました。のみならず、「山本五十六」「米百俵の碑」等々見学しました。歴史は大嫌いであったが“百聞は一見にしかず”実際にその場所を見学すると考えが変ります。これらは夏休み最終編で紹介します。

  • 後日談:「八重の桜を訪ねて」をネットサーフィンをしていたら、意外にも「新島襄」なる旦那さんは京都の出身ではなく、関東の出身であった。「株式会社 学士会館精養軒」(東京都千代田区神田錦町3-28)の南側に新島八重(旧姓山本八重)の夫の“生誕の地”に記念碑がありました。日を改めて8月31日この界隈を探索しました。平将門の首塚も見学しましたが、その日以来、首(肩)が痛くて困っています。今まで肩が凝った事はありませんでした。平将門怨霊説、偶然説、はて…

    後日談:「八重の桜を訪ねて」をネットサーフィンをしていたら、意外にも「新島襄」なる旦那さんは京都の出身ではなく、関東の出身であった。「株式会社 学士会館精養軒」(東京都千代田区神田錦町3-28)の南側に新島八重(旧姓山本八重)の夫の“生誕の地”に記念碑がありました。日を改めて8月31日この界隈を探索しました。平将門の首塚も見学しましたが、その日以来、首(肩)が痛くて困っています。今まで肩が凝った事はありませんでした。平将門怨霊説、偶然説、はて…

  • 説明版からです。【「新島襄先生 生誕地記念の碑」京都同志社の創立者新島襄先生は1843年(天保14)上州安中藩主いたくら伊豫守の江戸藩邸に誕生せられた。先生は幕末における国家多難の際、わが国の前途をうれいキリスト教の信仰と海外事情研究を志して21才(1864年)函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本を体得さられた。・・・

    説明版からです。【「新島襄先生 生誕地記念の碑」京都同志社の創立者新島襄先生は1843年(天保14)上州安中藩主いたくら伊豫守の江戸藩邸に誕生せられた。先生は幕末における国家多難の際、わが国の前途をうれいキリスト教の信仰と海外事情研究を志して21才(1864年)函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本を体得さられた。・・・

  • ・・・母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が「知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め」うるものであり「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)」となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた。・・・

    ・・・母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が「知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め」うるものであり「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)」となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた。・・・

  • 留学10年、1874年(明治7年)帰朝、翌75年11月29日、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。この碑は新島襄先生生誕百年を記念して建てられたが、神田錦町出身の偉大な先覚者をしのび、この解説を掲示するものである。昭和40年11月 同志社創立90周年を記念して 錦町三丁目町会 錦華小学校 小川小学校】山本八重(新島八重)関係の会津探索記はこれにて一旦終了です。

    留学10年、1874年(明治7年)帰朝、翌75年11月29日、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。この碑は新島襄先生生誕百年を記念して建てられたが、神田錦町出身の偉大な先覚者をしのび、この解説を掲示するものである。昭和40年11月 同志社創立90周年を記念して 錦町三丁目町会 錦華小学校 小川小学校】山本八重(新島八重)関係の会津探索記はこれにて一旦終了です。

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