2012/08/15 - 2012/08/17
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しんちゃんさん
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“てんこ盛り”あっちこっち会津市内の見学を実施しました。パート2は①「新島八重(山本八重)の誕生の地」、②「十八蔵橋跡」、③「会津藩校、日新館天文台跡」、④「若松城跡・甲賀町口門跡」⑤「山本家墓所 大龍寺」です。パート3は「河井継之助埋骨地碑(埋骨之遺蹟)」「町野主水家墓所」「西軍墓地」「西軍砲撃の地、小田山」「阿弥陀寺 斉藤一墓所」を予定しています。写真は新島八重(山本八重)と山本覚馬の誕生の地。現在は住宅地となっており近くに記念碑が建っています。見学用駐車場ができています。行った気になる「しんちゃんさんの旅行記」写真整理が追いつかない、秋になってしまう!!
- 交通手段
- 自家用車
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①「山本覚馬・新島八重生誕地」に到着しました。残念ながら生家はありませんでした。ご想像で戊辰戦争後の廃墟を思い起こして下さい。それでは、ご案内いたします。記念碑のある場所までは自動車は入る事が出来ません。西側に「八重の桜協議会」が駐車場を作成してくれました。会津若松市米代2-3-10または米代2-2-30の近くです。(注意!この住所は一般の方の住所ですナビの参考です)一方通行の道路です注意して下さい。歩いての場合は「バス停米代2丁目下車」です。
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お堀の南西へ直線で約200m、現在は住宅地になっています。戊辰戦争後は新政府がこの辺の武家屋敷を解体、田畑にしたそうです。第二次世界大戦後は埋め立てて住宅地になりました。江戸時代は外堀(運河)が城の南側までありました。(古地図参照)聞くところによるとお米を船で運んだ運河だそうです。昔の地図にお米蔵(十八蔵)と記入されています。現在も外堀の橋跡があります。後ほど見学します。青い部分です。
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お堀からすぐ近く、約180mの幅に6軒の武家屋敷、1軒の屋敷幅は30mです。奥行きは約60m、大きな屋敷です。
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説明版です。
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駐車場から東側を見ています。空き地を含めて30m位先までの間口がありました。新築の建物の向こう側まであったのではないでしょうか。
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自動車は入る事が出来ません!住民は特別許可証を持っているのでしょうか。どんどん歩いて行きましょう。
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空き地のとなりは最近新築した家が建っています。
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空き地と新築の家の最後の部分です。この場所と右側の家あたりに「山本八重」の誕生した武家屋敷があった模様です。
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空き地の“隣の隣りの家”「井上様」ご主人の姿が見えたので、色々質問しました。親切に教えて頂きました。「空き地には以前建物があり記念碑を建てる場所がなく、東側へ30m〜50m東側の場所(宮崎様宅前)に建立した事。初めの看板は生誕の地は50m西側と記入してあったが、現在と古地図ではぴったりとは合わないため、正確な場所は確定出来なかった事。現在は30m先と訂正されている事。空き地になる前に埋め立てられた土砂を調査したところ、武家屋敷の残骸と見られる焼け焦げた柱等が見つかった事。現在城から半径2Km以内の家屋を解体して新築する場合は「埋め立てられた土砂を調査しなければ家を建てられない」こと等次の見学地も教えていただきました。丁寧な説明ありがとうございました。この場を借りてお礼を言わさせていただきます。
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「山本八重生誕の地」より、ちょっと東側、塀と道路との間が空いていたため記念碑はこの場所に建てられました。宮崎様宅門の脇です。除幕式は地元住民の方々も招待され盛大に執り行われたそうです。
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「山本覚馬 新島八重 生誕の地 明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」という記念碑
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説明版からです。【山本覚馬・新島八重生誕の地 会津藩士・山本覚馬(1828〜1892)は、砲術師範で日新館教授。1864年、藩主の京都守護職就任に伴い、京都に転住。鳥羽・伏見の戦いで囚われるが、その識見を買われて、維新後に京都府顧問となり、京都の近代化にる。1875年、新島襄と同志社英学校(現同志社大学の前身)を創立した。覚馬の妹・八重(1845〜1932)は、砲術が得意で、白虎隊には八重が指導したという若者も入隊した。戊辰戦争では自ら鶴ケ城に籠城。城明け渡しの前夜、城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」と簪(かんざし)で刻んだ。1871年、兄を頼って京都に転じ、1876年に新島襄と結婚。同志社女学校(現同志社女子大学の前身)の舎監を務めた。兄同様に、京都でキリスト教に入信。ともに洛東・若王子(にゃくおうじ)の同志社墓地に眠る。なお、この碑は、この近辺にあった旧山本家を記念するため、宮崎家のご支援を得て建立し、1989年5月30日に除幕した。学校法人 同志社】
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記念碑から東側を望みました。
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記念碑から西側です。次の見学地は東へ歩いて数分です。
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記念碑から国道121号線へ出ます。国道の東側へ横断して、南へ50mほど進みますと橋の欄干(らんかん)があります。道の西側には欄干はありません。片側だけの欄干です。ここが②「十八蔵橋跡」です。
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バス停留所です。会津若松駅から「山本覚馬・新島八重生誕地」までは約2.7Kmありますので、歩いてではちょっと遠いです。寄り道しながら、あるいは鶴ヶ城見学後なら近くです。
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②「十八蔵橋跡」を案内します。橋らしき欄干の下は“草ぼうぼう”ですが、下記の写真の通り、戊辰戦争まではお堀がありました。このお堀は船でお米を倉庫へ運搬するためにあったそうです。国道の片方にしかない欄干。説明版があります。16枚前の古地図に赤い矢印を付けました。
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説明版の地図をコピーしました。「御米蔵」倉庫群の下側の「御門番」が現在の橋「十八蔵橋跡」山本八重が住んでいた場所に「米代四之丁」と書かれています。山本家は城側から6軒目ですが、古地図は5軒目までしか写っていません。残念!
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「十八蔵橋跡」南側より鶴ヶ城方向を望む
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「十八蔵橋跡」上より東側を眺める。堀跡は7、80メートルしか残っていませんでした。整備してお堀跡を再現すると良いと思います。
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「十八蔵橋跡」説明版。説明版を読んだら、次の名所旧跡へ参ります。近くです。
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③「会津藩校、日新館天文台跡」を案内します。先ほどの十八蔵橋跡から北へ約300m歩きます。国道沿いのお堀の真中当たりに西へ向かう路地があります。そこを約250m進むとこの様な場所に出て、振り返ると鶴ヶ城が見えます。南側は福島県立若松商業高等学校、右手に謹教小学校が見えてきたら、右(北側)へ約100m歩くと到着です。「山本八重誕生の地」より、北側の一体は「会津日新館」の藩校でした。鶴ヶ城の西側です。現在は住宅地となっています。その一角に「天文台跡」が残っています。わたくしは路上駐車をして歩いて探しに行きました。もっと近くに駐車できるスペースがあります。「会津若松市米代1-1-55 」をナビに入れると良いでしょう。南側の一般の家の住所ですので注意してください。
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西側には「謹教(きんきょう)小学校」という変った名前の小学校があります。【全国でただ1つの校名「謹教」。孟子の句より校名をいただく。「教えを謹む」の意味からだそうです】日本の小学校「http://www.i-learn.jp/schools/detailform.asp/a=d&m=24365」より
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説明版からです。【市指定文化財 第22号 昭和43年9月18日指定 史跡 天文台跡 会津若松市米代1丁目163・172(現在1−1−55の北側)天文台は、会津の藩校日新館天文方の天文観測の場として設けられたものである。日新館は、五代藩主松平容頌公のとき、寛政11年(1799)4月より5年を費して、享和3年(1803)に完成した。天文台は、つねに星の観測をするところであったが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つであった。観台は、当時の規模の半分となったが、藩校日新館の施設の中では、唯一の保存されているものである。 昭和57年11月 会津若松市教育委員会】
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水練場(プール)を備え、1000人からの生徒が通っていたそうです。
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階段を登ってみます。
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お堂があり、東日本大震災では倒れたそうですが、現在は修理されています。
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お堂より周りを眺めると、東側に鶴ヶ城天守閣が見えます。距離は約540mあります。
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「鶴ヶ城」拡大です。
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遠く、北東に磐梯山が見えます。距離は約18Kmです。
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④「若松城跡・甲賀町口門跡」をご紹介します。町中にあって取り壊されずに残りました。鶴ヶ城の「北出丸」という北側から約750m【若松城下で十六あった郭門中、唯一現存する郭門の名残の石垣です。】会津若松観光ナビからです。「http://www.aizukanko.com/spot/145/」
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来たつもりで説明版を読んでください。住所は変更されており、栄4-49の居酒屋「彩喰彩酒 会津っこ」北側です。北から南への一方通行ですので気を付けて下さい、「北出丸」からほとんど真っ直ぐな道路で、歩いて来るには分り易いですが、正直なナビに任せないと“御用”になったり、とんでもない所へ案内されます。
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「若松城跡・甲賀町口門跡」会津観光ナビの要約です。【城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い濠と土塁、16の郭門によって仕切られました。外濠明治4年に田畑にする条件で払い下げられ埋め立てられました。以下略】会津観光ナビより
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「若松城跡・甲賀町口門跡」
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⑤「山本家墓所 大龍寺」 山本八重の先祖が眠る 山本家の菩提寺「大龍寺」の見学です。駐車場からお寺に向かおうとしたら、この立て看板がありました。足跡見たかったです。大龍寺の住所は 会津若松市慶山2-7-23 鶴ヶ城より北北東へ約2Km、④「若松城跡・甲賀町口門跡」より、東側へ約1.6Kmです。
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「大龍寺」本堂
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庫裏入り口
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「愚痴壷」日ごろの鬱憤(うっぷん)、愚痴がありましたら、壷へ入れましょう!
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「愛のかけ橋」と書いてあります。
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本堂内部
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墓地への案内版
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山本八重の実家、山本家の墓地
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【寺に残る文化年間(1804〜1817)からの過去帳によると、山本家は八重の高祖父(曽祖父の父親)の時代から、ここを菩提寺としていました。八重は、亡くなる前年の昭和6(1931)年、それまで点在していた山本家の墓を一カ所にまとめ、墓標を建立します。墓標の表には彼女が書いたといわれる「山本家之墓」の文字が、裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれています。】福島県観光交流局観光交流課HP「八重らんしょWEB」より「http://www.yae-mottoshiritai.jp/yae/」
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裏側には「新島八重子」と“子”が付けられていました。女性らしい名前に憧れていたのでしょうか。・・・パート2終了・・・
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