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写真は山本八重の父、山本覚馬の父、「山本権八の墓」のある光明寺本堂内部です。山本権八は「一ノ堰の戦」で戦死、享年59歳。その6日後、9月23日に鶴ヶ城は開城となります。「山本八重(新島八重)」に関係する場所の名所旧跡を探して、会津若松市内をあっちこち、ウロウロしました。今回は他に「柳橋(涙橋)」「中野竹子奮戦の地」「キリシタン塚」「阿弥陀寺」(御三階)(斉藤一墓所)(御三階)(明治戊辰戦役殉難者墓)を紹介します。

622 八重の桜を訪ねて パート3「山本八重・山本覚馬の父、山本権八の墓」、「阿弥陀寺」その他会津市内散策

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2012/08/15 - 2012/08/17

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しんちゃん

しんちゃんさん

写真は山本八重の父、山本覚馬の父、「山本権八の墓」のある光明寺本堂内部です。山本権八は「一ノ堰の戦」で戦死、享年59歳。その6日後、9月23日に鶴ヶ城は開城となります。「山本八重(新島八重)」に関係する場所の名所旧跡を探して、会津若松市内をあっちこち、ウロウロしました。今回は他に「柳橋(涙橋)」「中野竹子奮戦の地」「キリシタン塚」「阿弥陀寺」(御三階)(斉藤一墓所)(御三階)(明治戊辰戦役殉難者墓)を紹介します。

交通手段
自家用車
  • パンフレットを貰いに会津若松駅「観光案内所」に行きました。駅前の白虎隊記念碑を記念撮影しました。

    パンフレットを貰いに会津若松駅「観光案内所」に行きました。駅前の白虎隊記念碑を記念撮影しました。

  • 会津若松駅「観光案内所」市内の名所旧跡地図をいただきました。

    会津若松駅「観光案内所」市内の名所旧跡地図をいただきました。

  • 会津若松駅から一方通行を南下途中「会津町方伝承館」ここでもパンフレット貰えたんだ!今や遅し。この建物の西側に「町野主水家墓所」と「西軍墓地」があります。

    会津若松駅から一方通行を南下途中「会津町方伝承館」ここでもパンフレット貰えたんだ!今や遅し。この建物の西側に「町野主水家墓所」と「西軍墓地」があります。

  • 「柳橋(涙橋)」説明版からです。【柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川に掛かる橋で付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称された。会津藩が上杉時代の慶長五年(西暦1600年)に上杉景勝が石田三成と計り徳川家康を牽制し十二万人を動員、西へ半里程如来堂に幻の神指城を築造する際、要所である橋を長さ十七間幅三間余の欄干のある堅牢な柳橋とした。柳橋の二百米程下流の薬師川原には藩政時代の処刑場があり特に昔キリシタン弾圧により寛永十ニ年には会津キリシタンの中心人物である横沢丹波と外人宣教師など六十余名が捕えられ一度に処刑された所でキリシタン塚がある。戊辰の役では娘子軍(女白虎隊)の隊長中野子が柳橋の激戦で敵弾に倒れ殉死し碑もある。この場所には休み小屋があって刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族等と水盃を交して別れを借んだところから通称涙橋と呼ばれ昭和***木橋には涙橋とも記されてあった。平成九年二月吉日】

    「柳橋(涙橋)」説明版からです。【柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川に掛かる橋で付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称された。会津藩が上杉時代の慶長五年(西暦1600年)に上杉景勝が石田三成と計り徳川家康を牽制し十二万人を動員、西へ半里程如来堂に幻の神指城を築造する際、要所である橋を長さ十七間幅三間余の欄干のある堅牢な柳橋とした。柳橋の二百米程下流の薬師川原には藩政時代の処刑場があり特に昔キリシタン弾圧により寛永十ニ年には会津キリシタンの中心人物である横沢丹波と外人宣教師など六十余名が捕えられ一度に処刑された所でキリシタン塚がある。戊辰の役では娘子軍(女白虎隊)の隊長中野子が柳橋の激戦で敵弾に倒れ殉死し碑もある。この場所には休み小屋があって刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族等と水盃を交して別れを借んだところから通称涙橋と呼ばれ昭和***木橋には涙橋とも記されてあった。平成九年二月吉日】

  • 湯川、清流のため水草一杯

    湯川、清流のため水草一杯

  • 【この橋の正式な名前は「柳橋(やなぎばし)」といいます。「涙橋(なみだばし)」は柳橋の別名です。柳橋は、会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称されました。上杉時代の慶長5年(1600年)に、上杉景勝によって神指城の築城が行われた際には、要所であるこの橋も大きく堅牢な橋に造り替えられています。藩政時代になると、柳橋の200M程の下流の薬師川原に処刑場が設けられました。処刑場に向かうこの場所には休み小屋がおかれ、刑場にひかれる罪人は、ここにあった井戸の水で家族等と水杯を交わして別れを惜しんだそうです。そのためこの橋はいつしか「涙橋(なみだばし)」と呼ばれるようになりました。現在も橋の下には、刑場跡へむかうゆるやかな川の流れがあり、静かにゆったりと時を刻んでいます。※会津戊辰戦争の際には、この橋を通って会津若松城に入城しようとした旧幕府衝鋒隊や萱野権兵衛隊とそれを阻もうとする新政府軍(西軍)との間で戦闘が行われています。橋の1?ほど北側には、この戦いで奮戦してなくなった娘子軍(後世の呼称)中野竹子の像があります。】会津若松市HPからです。「http://www10.ocn.ne.jp/~naga/aizu18.html」

    【この橋の正式な名前は「柳橋(やなぎばし)」といいます。「涙橋(なみだばし)」は柳橋の別名です。柳橋は、会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称されました。上杉時代の慶長5年(1600年)に、上杉景勝によって神指城の築城が行われた際には、要所であるこの橋も大きく堅牢な橋に造り替えられています。藩政時代になると、柳橋の200M程の下流の薬師川原に処刑場が設けられました。処刑場に向かうこの場所には休み小屋がおかれ、刑場にひかれる罪人は、ここにあった井戸の水で家族等と水杯を交わして別れを惜しんだそうです。そのためこの橋はいつしか「涙橋(なみだばし)」と呼ばれるようになりました。現在も橋の下には、刑場跡へむかうゆるやかな川の流れがあり、静かにゆったりと時を刻んでいます。※会津戊辰戦争の際には、この橋を通って会津若松城に入城しようとした旧幕府衝鋒隊や萱野権兵衛隊とそれを阻もうとする新政府軍(西軍)との間で戦闘が行われています。橋の1?ほど北側には、この戦いで奮戦してなくなった娘子軍(後世の呼称)中野竹子の像があります。】会津若松市HPからです。「http://www10.ocn.ne.jp/~naga/aizu18.html

  • 「柳橋(涙橋)」

    「柳橋(涙橋)」

  • 「中野竹子女史殉節之地記念碑」及び「中野竹子奮戦の地」説明版と銅像入り口。以下は歴史群像シリーズ39「会津戦争」学研の要約です。【白虎隊が自刃した同日、あまりにも急な敵陣来襲のため、出陣集合が遅れ、しかも入城も遅れ城門が閉じられてしまった。藩主松平容保の義姉“照姫”が北西約12km“坂下宿(ばんげじゅく)”へ避難したと聞き、守護しようと出かけるが姿は見えず。坂下宿の会津軍に従軍希望したが断られ、“衝鋒隊(しょうほうたい)が城に戻るため合流して城下に向かう。2日後この地で“長州・大垣藩兵と遭遇、銃撃戦が繰り広げられるが“薙刀”と“鉄砲”では戦いは見えたもの、特に女性2人は格好の的、竹子は銃弾に倒れた。母が介錯し首を持ち帰って“法界寺”に葬る。竹子の母と妹の優子は奇跡的に逃げ延び“坂下宿”に戻る。竹子の薙刀には「武士(もののふ)の 猛(たけ)き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」の短冊(たんざく)が結ばれていた。22歳であった。鶴ヶ城は一ヵ月後落城した。 】

    「中野竹子女史殉節之地記念碑」及び「中野竹子奮戦の地」説明版と銅像入り口。以下は歴史群像シリーズ39「会津戦争」学研の要約です。【白虎隊が自刃した同日、あまりにも急な敵陣来襲のため、出陣集合が遅れ、しかも入城も遅れ城門が閉じられてしまった。藩主松平容保の義姉“照姫”が北西約12km“坂下宿(ばんげじゅく)”へ避難したと聞き、守護しようと出かけるが姿は見えず。坂下宿の会津軍に従軍希望したが断られ、“衝鋒隊(しょうほうたい)が城に戻るため合流して城下に向かう。2日後この地で“長州・大垣藩兵と遭遇、銃撃戦が繰り広げられるが“薙刀”と“鉄砲”では戦いは見えたもの、特に女性2人は格好の的、竹子は銃弾に倒れた。母が介錯し首を持ち帰って“法界寺”に葬る。竹子の母と妹の優子は奇跡的に逃げ延び“坂下宿”に戻る。竹子の薙刀には「武士(もののふ)の 猛(たけ)き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」の短冊(たんざく)が結ばれていた。22歳であった。鶴ヶ城は一ヵ月後落城した。 】

  • 「中野竹子女史殉節之地記念碑」及び「中野竹子奮戦の地」

    「中野竹子女史殉節之地記念碑」及び「中野竹子奮戦の地」

  • 「中野竹子奮戦の地」説明版。自分で読んで下さい。

    「中野竹子奮戦の地」説明版。自分で読んで下さい。

  • 文武両道、聡明な中野竹子、写真は無いものだろうか?

    文武両道、聡明な中野竹子、写真は無いものだろうか?

  • 「中野竹子女史殉節之地記念碑」

    「中野竹子女史殉節之地記念碑」

  • 「キリタン塚」

    「キリタン塚」

  • 「キリタン塚」説明版からです。【寛永12年(1635)幕府のキリスト教の厳禁令が強化されたが、会津では加藤明成が藩主のとき、キリスト教徒の長の横沢丹波やその一族と横沢屋敷に潜んでいたバテレン(外人教徒)たちが捕らえられ、この辺の薬師河原で処刑されたという。その言い伝えどおりこの地から犠牲者の埋骨と思われる人骨がみつかったので、昭和37年にそれらを供養するため、このキリシタン塚が建てられた。】<br />

    「キリタン塚」説明版からです。【寛永12年(1635)幕府のキリスト教の厳禁令が強化されたが、会津では加藤明成が藩主のとき、キリスト教徒の長の横沢丹波やその一族と横沢屋敷に潜んでいたバテレン(外人教徒)たちが捕らえられ、この辺の薬師河原で処刑されたという。その言い伝えどおりこの地から犠牲者の埋骨と思われる人骨がみつかったので、昭和37年にそれらを供養するため、このキリシタン塚が建てられた。】

  • 「キリタン塚」

    「キリタン塚」

  • 「キリタン塚」

    「キリタン塚」

  • 「キリタン塚」誰かが十字架を捧げていました。

    「キリタン塚」誰かが十字架を捧げていました。

  • 「キリタン塚」石碑

    「キリタン塚」石碑

  • 「阿弥陀寺」【御三階はかつては鶴ヶ城本丸内にあった建物です。外観上は三階ですが、内部が四層になっており密議の場所として使用されたといわれています。明治3年本丸にあった鶴ヶ城御三階は阿弥陀寺にうつされ、仮本堂として使用されました。】「会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会盛上げ支援隊」より。福島県会津若松市七日町4-20

    「阿弥陀寺」【御三階はかつては鶴ヶ城本丸内にあった建物です。外観上は三階ですが、内部が四層になっており密議の場所として使用されたといわれています。明治3年本丸にあった鶴ヶ城御三階は阿弥陀寺にうつされ、仮本堂として使用されました。】「会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会盛上げ支援隊」より。福島県会津若松市七日町4-20

  • 「阿弥陀寺」内の「御三階」説明版。

    「阿弥陀寺」内の「御三階」説明版。

  • 自分で読んで下さい。

    自分で読んで下さい。

  • 「御三階」

    「御三階」

  • 「御三階」

    「御三階」

  • 「御三階」からこのくらい離れると、左側に梵鐘があります。

    「御三階」からこのくらい離れると、左側に梵鐘があります。

  • そのたもとに下記「阿弥陀寺」の説明版があります。

    そのたもとに下記「阿弥陀寺」の説明版があります。

  • 「阿弥陀寺」説明版よりです。【「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」 阿弥陀寺は慶長8年(1603)蒲生秀行の時代、下野国(しもつけのくに)に生まれた良然(りょうねん)が開山しました。明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には千三百柱にものぼる遺骸が埋葬されました、春・秋の彼岸には手厚い供養会が行われています。 境内南にある「御三階」は元は鶴ケ城本丸内にあったもので、明治3年に移築され本堂として使用されました。内部は4層で、秘密の会議が行われたと言われます。阿弥陀寺の入口に写真のように大仏様がありましたが、太平洋戦争で供出され、今では台座が残るだけです。】

    「阿弥陀寺」説明版よりです。【「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」 阿弥陀寺は慶長8年(1603)蒲生秀行の時代、下野国(しもつけのくに)に生まれた良然(りょうねん)が開山しました。明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には千三百柱にものぼる遺骸が埋葬されました、春・秋の彼岸には手厚い供養会が行われています。 境内南にある「御三階」は元は鶴ケ城本丸内にあったもので、明治3年に移築され本堂として使用されました。内部は4層で、秘密の会議が行われたと言われます。阿弥陀寺の入口に写真のように大仏様がありましたが、太平洋戦争で供出され、今では台座が残るだけです。】

  • 写真の拡大です。

    写真の拡大です。

  • 大仏様の拡大です。

    大仏様の拡大です。

  • 現在の大仏様の台座です。

    現在の大仏様の台座です。

  • 「阿弥陀寺」内部の「新撰組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓」

    「阿弥陀寺」内部の「新撰組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓」

  • 「新撰組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓」説明版。

    「新撰組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓」説明版。

  • 「新撰組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓」

    「新撰組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓」

  • 「明治戊辰戦役殉難者墓」「会津への夢街道、&quot;夢ドライブ&quot;」よりますと【開城後に占領した長州は、戦死者一切、埋葬・移動を許さず、野ざらしのまま。土地の者が見かねて埋葬しても再び掘り起こされ元の場所に戻された。】そうです。ひどい話です。「会津への夢街道、&quot;夢ドライブ&quot;」は「http://aizue.net/siryou/jyunnan-sirosyuuhen.html#tuzuki」

    「明治戊辰戦役殉難者墓」「会津への夢街道、"夢ドライブ"」よりますと【開城後に占領した長州は、戦死者一切、埋葬・移動を許さず、野ざらしのまま。土地の者が見かねて埋葬しても再び掘り起こされ元の場所に戻された。】そうです。ひどい話です。「会津への夢街道、"夢ドライブ"」は「http://aizue.net/siryou/jyunnan-sirosyuuhen.html#tuzuki

  • 「明治戊辰戦役殉難者墓」

    「明治戊辰戦役殉難者墓」

  • 「明治戊辰戦役殉難者墓」

    「明治戊辰戦役殉難者墓」

  • 「山本権八の墓」のある福島県会津若松市門田町大字一ノ堰。なぜか日の丸が道路の上に…

    「山本権八の墓」のある福島県会津若松市門田町大字一ノ堰。なぜか日の丸が道路の上に…

  • 「光明寺」

    「光明寺」

  • 「光明寺」本堂

    「光明寺」本堂

  • 「山本権八の墓」の説明版

    「山本権八の墓」の説明版

  • 「山本権八の墓」

    「山本権八の墓」

  • 「光明寺」本堂の説明版<br />

    「光明寺」本堂の説明版

  • 「光明寺」本堂の説明版「有賀九左衛門墓」

    「光明寺」本堂の説明版「有賀九左衛門墓」

  • 「光明寺」本堂の説明版「田原重義墓」

    「光明寺」本堂の説明版「田原重義墓」

  • 以上の墓々

    以上の墓々

  • 左から「山本権八の墓」「有賀九左衛門墓」不明「「田原重義墓」と続く

    左から「山本権八の墓」「有賀九左衛門墓」不明「「田原重義墓」と続く

  • 「光明寺」本堂の説明版「大坊墓(無為信墓)」

    「光明寺」本堂の説明版「大坊墓(無為信墓)」

  • 「大坊墓(無為信墓)」読めるかな?

    「大坊墓(無為信墓)」読めるかな?

  • 「大坊墓(無為信墓)」

    「大坊墓(無為信墓)」

  • 「光明寺」本堂内部

    「光明寺」本堂内部

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