2011/09/20 - 2011/09/20
421位(同エリア732件中)
まみさん
2011/09/20火 サマルカンド観光1日目
・コシュハウズ・モスク見学
・レギスタン広場(有料)約2時間
ウルグベク・メドレセ:ミナレットからの眺望&冬のモスク見学
ティラカリ・メドレセ:黄金のミフラブと昔の写真など
シェルドル・メドレセ
・チャイハナ風レストランのラビ・ゴールでランチ
・アイニー博物館(ブハラ生まれのタジク人文学者の家)見学(有料)
・アミール・ティムール廟見学(有料)
・ルハバッド廟(有料)&中庭の工房2ヶ所見学
~新市街のウニヴェルスィチェッティ大通り~ナヴォイ通り~
・郷土史博物館(有料)
~バスでレギスタン広場に戻る~
・レストラン・レギスタンで、天蓋テント風の座敷席で夕食
~レギスタン広場の夕景を長めながらホテルに戻る~
【サマルカンド泊:ホテル・アジア】
アイニーって誰か、申し訳ないですが、全然知りませんでした。
ウズベキスタンに興味を抱いてこのたび旅行をしたわけですが、中央アジアやシルクロードの国々のことを特に知っていたわけではないのです。
むしろ、ほとんど知らなかったからこそ、行ってみようという気分が高まったともいえます(これは私の最近の東欧旅行の動機と同じです)。
「アイニ博物館」と「地球の歩き方」の地図にはありましたが、説明はなかったので、興味を持ちませんでした。
入ってみようと思ったきっかけは、レギスタン広場を2時間観光しただけで、昼間っからくったくたに疲れてしまったから。
次のターゲットに到着するまで距離があり、気分が萎えていて、見たいところを歩いてつなげる体力に自信がなくなっていたところでした。
なので、途中でばったりと出会ったみどころらしきものを、全くチェックしないでスルーしてしまうなんて、逆にもったいない、と思ったのです。
高い塀に囲まれた家のゲートは半開きで、ミュージーアムと書かれた看板にそそられました。
中に入ってみたて、「ミュージーアム?」と尋ねてみて、見学する意志を示したら、めったに観光客は訪れないのか、とても歓迎されてしまいました。
アイニー研究者の方がいらしていて、熱心に説明してくれました。
といっても、私はロシア語はいくつかの単語しか知らず、彼は英語が片言だったので、私に分かる程度の片言のロシア語と英語まじりの断片的な説明しかなりませんでしたが、ゆっくりと、短い言葉を繰り返してくれたおかげで、展示の意味や、アイニーの人となりは、だいたい分かってきました。
もともと私に背景知識は全くなかったので、詳しすぎたら頭がパンクしたでしょう。少しの解説でちょうどよかったです。
アイニーの家は、19世紀末のブハラ・ハン時代からロシア革命の激動とスターリンの粛正を生き延びた人物の家で、古いタイプの内装と、近代的な内装が両方残っていて、その意味でもとても面白かったです。
資料の展示はあまり多くなく、いわばハウス・ミュージーアムだったことも幸いしました。
入場料は5,000スムと言われたとき、正直、はじめはちょっと迷いましたが(でも5,000スムの入場料はサマルカンドでは安い方だった、と後で思うことになります)、入ってみて良かったです。
思いがけず充実した見学となりました。
ひととおり周り終わった後に、チャイ(お茶)をごちそうになりました。
砂糖が入っていないのに、とても甘くて美味しかったです。
現実的な話、喉が潤せたのと、トルコ式でしたがきれいなトイレが借りられたのも、非常に助かりました。
「サドリディン・アイニー
中央アジア、タジキスタンの文学者。ブハラ近郊の農村に生まれ、ブハラのマドラサ(学院)に学んだ。ブハラ・ハーン国時代には教育改革運動に従事し、ブハラ革命(1920)にも貢献した。革命後はタジク共和国の要職を歴任。著作には同時代のブハラ社会を活写した小説《ドフンダ》(1930)、《回想録》(1949~54。ロシア語よりの邦訳《ブハラ》)、10世紀以来のタジク文学の精華を集めた《タジク文学精選》(1926)などがあり、タジク・ソビエト文学の創始者とよばれる。」
(世界大百科事典 第2版の解説より)
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%BC
<2011年秋ウズベキスタン旅行:旅程一覧>
9/16金 成田発 ウズベキスタン航空でタシケントへ&国際線の遅延で国内線に乗り遅れる
9/17土 ヒヴァの代わりのタシケント観光
9/18日 朝7時台の国内線でブハラへ&ブハラ観光1日目
9/19月 午前ブハラ観光&午後サマルカンドヘ事前手配の車で移動(途中シャフリサーブス寄り道)
9/20火 サマルカンド観光1日目
9/21水 サマルカンド観光2日目
9/22木 特急シャーク号に途中乗車してタシケントへ&タシケント出国
9/23金 朝8時台に成田着
(その後、昼に妹ら一家と上野で待ち合わせて、甥っ子姪っ子らと上野動物園で遊ぶ)
※2011年秋ウズベキスタン旅行の詳細な旅程はこちら。
「2011年秋ウズベキスタン旅行プロローグ(旅程一覧)」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10606873
あるいはもう一つのブログ「まみ’s Travel Diary」(http://mami1.cocolog-nifty.com/)の記事より
「2011年ウズベキスタン旅行の詳細旅程(写真付)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2011/09/2011-41d7.html
<立案・準備編>
「今年も2度目の海外旅行を計画中」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2011/08/post-087f.html
「もうすぐウズベキスタン旅行!」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2011/09/post-4f78.html
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
グリ・アミール廟に向かう途中で見つけた、アイニー博物館
レギスタン大通り沿いで、レギスタン広場からそう遠くないところにありました。
入ってみようという気分になれたのは、ランチにたっぷり1時間かけて、気力を取り戻していたおかげもあると思います。 -
美しいデザインの木製の扉が半開きで
-
閉まっていた方のゲートの見事なデザイン
-
サドリディン・アイニーの胸像
「サドリディン・アイニーの家博物館
この家には作家の2つの書斎が保存されています。1つめの書斎は1923年から1937年に使われました。アイニーが「Odina(オディーナ)」「The Slave-Grandfather(奴隷の祖父)」「The Old School(古い学校)」「The Pawnbroker’s Death(質屋の死)」といった短編や小説「Dokhunda(ドフンダ)」「Slaves(奴隷達)」等を執筆したのはここです。新しい方の書斎では、彼は「Yatim(ヤティム)」「The Hero of Tajik People Temurmalik(タジク人民テムルマリックの英雄)」「The Mukanna Uprising(ムカンナ蜂起)」や回想録その他の作品が執筆されました。
アイニーは質素な生活を送りました。住宅そのものは全てアイニーの一家のものであり、革命以前からあったものであり、伝統的なタジク人とウズベク人の生活様式を今に残しています。
教育者であり、ブハラにおいて最初の「新方式」教育の学校を組織し、卓越した詩人・作家であり、現代タジク文学・ウズベク文学の創始者でもあるサドリディン・アイニー(1878-1954)の家博物館は、古代サマルカンドの中心地、レギスタン広場の近くにあります。
アイニーは、ブハラのエミール(君主)の弾圧を受け、ブハラから逃れたあと、ここに定住しました。作家は18世紀後半の建物であるこの家で35年以上暮らしました。」
(ブログUzbekistan Tourist Information(管理者による2009年7月17日投稿記事)より私訳)
http://pagetour.org/wp/the-house-museum-of-sadriddin-aini/ -
ブドウ棚や緑で涼しげだった中庭
アイニー自身が植えたブドウの木が、いまでも大切に育てられていました。 -
1つめの伝統的な書斎
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伝統的な書斎の天井
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机の上の古めかしい執筆道具など
アイニー自身が使ったオリジナルです。 -
中庭を通って別棟へ
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2本絡まったブドウの木
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伝統的なリビング
奥のアーチのくぼみは、両脇はストーブとなっていました。 -
リビングの奥の3つのアーチのくぼみ
両脇はストーブ、要するに暖房設備。
真ん中はまるでモスクのようです。伝統的なコーラン書見台とコーランが置かれてありました。 -
美しくペイントされた伝統的な天井
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リビングに飾られていた、ブハラにある現存する生家の絵
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リビングの反対側にも絵が飾られ
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ブハラでアイニーが学んだ5人の教師
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鞭打たれるアイニー
ブハラ・ハンのエミールは、アイニーがタジク語で執筆したために、むち打ちの刑を与えました。
アイニーはこの後、ブハラを脱出し、ドシャンベ(現タジキスタン)に移り住みました。 -
伝統的なリビングの壁
-
中庭に面したテラスの壁には、アイニーの作品の本の表紙やイメージ画
「(中央アジアで)識字率が高まったのは、ボリシェビキ支配時代の到来以後でした。不運なことに、同時に、各地の古典遺産は、モスクワ政府が潜在する民族主義的感情を呼び覚ますものと恐れたため、出版されることはありませんでした。代わりに、作家達は、共産党の公的な主題に沿った小説や演劇を生み出すことが奨励されました。タジン人のサドリッディン・アイニー(Sadruddin Ayni(1878–1954))、ウズベク人のアスカッド・マフタ(Asqad Mukhta)やアブドゥラ・コドリ(Abdullah Kodiri)といった多くの中央アジアの詩人や小説家がソ連政府の勢力下で称えられた一方で、中央アジア出身の作家の中で国際的に認識され、その小説が英語やその他のヨーロッパ言語に翻訳されたのは、キルギス人のチンギス・アイトマトフ(Chinghiz Aitmatov(1928–2008))だけでした。彼の作品はまた、旧ソ連やその他の諸国の両方において、舞台や映画に採用されました。」
(Lonely Planet Central Asia の「Literature」の章より抜粋私訳) -
「ブハラの死刑執行人」
ロシア帝国保護下に入ったブハラ・ハンの最後のアミール(君主)であるアーリム・ハーンの支配下での生活を描いたものだそうです。 -
「オディーナOdina」
詩集だそうです。 -
旧式の教育を批判した教育論
子供に容赦なく鞭打ったり折檻するような前時代的な教育方法を批判したそうです。 -
小説「Dokhunda(ドフンダ)」
-
小説「奴隷」
アイニーは祖父達の世代がハーンの精神的な奴隷であることを非難したそうです。 -
小説
「質屋の死」かな。 -
小説「Yatin(ヤティム)」
-
小説かな
-
次に入ったのはリビング兼寝室
-
同じ部屋を違うアングルで
テーブルクロスはウズベキスタンかタジキスタン(区別は分からない私……)の伝統的な文様の織物だと思います。 -
同じ部屋のベッドサイド
こちらのシーツや壁に使われた伝統文様の布もすばらしいです。 -
同じ部屋のテーブルのリビング・スペース
奥にある銀色のストーブはだいぶ近代的でした。 -
リビング兼寝室に下がられたアイニーの肖像が織り込まれたカーペット
-
サドリディン・アイニーの息子とのことですが……
アイニー本人にそっくりですけど?? -
アイニーの肖像画
「サドリッディン・アイニー(Sadriddin Aini)(1878年4月〜1954年)はタジク人知識人で、その執筆は詩、小説、新聞記事、歴史、そして辞書編纂にわたりました。彼はタジキスタンの国民的詩人とされており、タジキスタン史上最も重要な文筆家の1人です。
<経歴>
アイニーは、当時はブハラ・ハンの領土だったサクタラ(Saktara)村の農家に生まれました。12歳のときに両親を失い、ブハラにいる兄のもとに身を寄せました。彼はそこで神学校に通い、アラビア文字で書くことを学びました。
1920年初頭、アイニーはウズベキスタンとタジキスタンにおいて革命の伝播に貢献しました。1934年、彼はタジク人代表としてソビエト作家同盟(Soviet Congress of Writers)に参加しました。彼は自らの著書において国民のアイデンティティを主張しながらも、中央アジアの多くの知識人を黙らせたソ連の検閲を免れることができました。アイニーはソ連による粛正を生き延び、スターリンよりも1年長生きしました。彼は20年間タジキスタンのソ連最高会議の議員を務め、レーニン勲章を3回授与され、タジク・ソビエト社会主義共和国科学アカデミーの初代会長となりました。1992年からは、彼の著書は、ソ連崩壊後、タジク人のナショナリズムの確立に一役買いました。
アイニーは、タジク語による最初のタジキスタン小説「ドフンダ(Dokhunda)」を執筆し、タジキスタンにおいて、タジキスタンの伝統文学の地位を高めました。彼の主著は、4巻にわたる自伝「Yoddoshtho」です。
アイニーの初期の詩は愛と自然に関するものでしたが、タジキスタンにおいて国民意識が目覚めると、彼は新時代の幕開けと労働階級をテーマとするようになりました。彼の著書ではしばしばブハラのアミール(君主)が批判されました。それが明かな著書には、「奴隷」と「ブハラの処刑人」の2冊があります。
アイニーはドシャンベ(現タジキスタン)で亡くなりました。そこには弔意を表して彼の霊廟が建てられました。」
(ウィキペディアフリー百科事典(英語版)より私訳) -
近代的な第二の書斎
アイニーはアラビア語で執筆しましたが、タイプライターはロシア語のものでした。 -
書斎机の上
手前にあるのは扇子です。 -
同じ書斎のテーブル
-
アイニーが死んだ日のままの日めくりカレンダー
日めくりカレンダーの日付は1954年5月9日の日曜日です。
でも、英語版ウィキペディアだと7月15日とありましたが?? -
書斎の机とテーブルとロシア語のタイプライター
-
アイニーの葬儀のときの写真
ほとんど読めなかったのですが、ロシア語の1954年7月15日という日付は確認できました。
葬儀の日付でしょうか。 -
オリジナルのイス
-
彼が教えた人々や友人の写真
ウズベキスタンやタジキスタンなど中央アジアの著名人がぞろぞろいるようですが、あいにく知らない人ばかりでした。
見学はここで終わり、そのあとお茶をごちそうになりました。
それはまあ、パンフレットやリーフレットを買わないか、という宣伝でもあったのですが@
せっかくなので、記念に買いました。
借りたトイレはトルコ式でしたが、十分きれいでした。
ただ、備え付けの紙はありませんでした。
男性だけならまだしも(?)、館員さんには女性もいたのに??
その写真はこちら。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/23675261/
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「2011年秋ウズベキスタン旅行ハイライトその7:ゲットしたもの───チケット半券もおみやげも」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10618177/
グリ・アミール廟編へとづつく。
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