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 秋田県秋田市にある千秋公園は、20万石の大名・佐竹氏が居城とした久保田城の城址である。関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地にあった神明山に新たに城を築き、城下町を建設した。しかし、江戸を気にして石垣も積まず、土塁の上に建てられた櫓も2層ばかりで、20万石の大名家の居城としては破格のみすぼらしさであった。<br /> 千秋公園内(久保田城二の丸跡)には、佐竹氏関連の資料の展示と久保田藩時代の藩政を紹介する佐竹資料館があり、学芸員もいる。<br /> この久保田の地は江戸時代には久保田藩と呼ばれていたが、明治4年(1871)年)になって秋田藩と改名した。おそらく、古代の飽田(あぎだ)の名を復古したものであろう。秋田は「あきた」と清恩で発音されるが、地元では「あぎだ」と濁音で発音される。これは明治時代以前の遠く古代から変わってはいない。<br /> 公園内に建つ佐竹義堯公銅像の石碑には秋田藩12代藩主とあるが、久保田藩12代藩主の間違いであろう。<br /> 石垣もない久保田城址は全くつまらないものである。また、桜の名所としても染井吉野ばかりで、わざわざ東北くんだりに来てまで見る価値はなかろう。佐竹氏本家の居城よりも佐竹氏北家(分家)があった角館の枝垂れ桜の方が遠出してまで見たい桜の名所に違いない。さらに、二層隅しか無かった久保田城に、平成になって鉄筋コンクリート製の四層隅が建てられ、一層(増やした二層分以上に)、久保田城址(千秋公園)の景観が台無しになってしまった。<br />(表紙写真は千秋公園に建つ佐竹義堯公銅像)

千秋公園(久保田城址)-2004年

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2004/04/23 - 2004/04/25

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 秋田県秋田市にある千秋公園は、20万石の大名・佐竹氏が居城とした久保田城の城址である。関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地にあった神明山に新たに城を築き、城下町を建設した。しかし、江戸を気にして石垣も積まず、土塁の上に建てられた櫓も2層ばかりで、20万石の大名家の居城としては破格のみすぼらしさであった。
 千秋公園内(久保田城二の丸跡)には、佐竹氏関連の資料の展示と久保田藩時代の藩政を紹介する佐竹資料館があり、学芸員もいる。
 この久保田の地は江戸時代には久保田藩と呼ばれていたが、明治4年(1871)年)になって秋田藩と改名した。おそらく、古代の飽田(あぎだ)の名を復古したものであろう。秋田は「あきた」と清恩で発音されるが、地元では「あぎだ」と濁音で発音される。これは明治時代以前の遠く古代から変わってはいない。
 公園内に建つ佐竹義堯公銅像の石碑には秋田藩12代藩主とあるが、久保田藩12代藩主の間違いであろう。
 石垣もない久保田城址は全くつまらないものである。また、桜の名所としても染井吉野ばかりで、わざわざ東北くんだりに来てまで見る価値はなかろう。佐竹氏本家の居城よりも佐竹氏北家(分家)があった角館の枝垂れ桜の方が遠出してまで見たい桜の名所に違いない。さらに、二層隅しか無かった久保田城に、平成になって鉄筋コンクリート製の四層隅が建てられ、一層(増やした二層分以上に)、久保田城址(千秋公園)の景観が台無しになってしまった。
(表紙写真は千秋公園に建つ佐竹義堯公銅像)

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  • 久保田城址のお堀の鴨。

    久保田城址のお堀の鴨。

  • 久保田城址のお堀の鴨。

    久保田城址のお堀の鴨。

  • 久保田城址のお堀の鴨。

    久保田城址のお堀の鴨。

  • 久保田城址のお堀。

    久保田城址のお堀。

  • 久保田城址のお堀端の桜。

    久保田城址のお堀端の桜。

  • 千秋公園桜まつり案内所。

    千秋公園桜まつり案内所。

  • 久保田城址のお堀脇には屋台が出ている。

    久保田城址のお堀脇には屋台が出ている。

  • 千秋公園広場。

    千秋公園広場。

  • 久保田城址のお堀脇の屋台。

    久保田城址のお堀脇の屋台。

  • 千秋公園の東屋。

    千秋公園の東屋。

  • 千秋公園内の桜並木。

    千秋公園内の桜並木。

  • 久保田城址端の桜。

    久保田城址端の桜。

  • 千秋公園内の桜並木。

    千秋公園内の桜並木。

  • 千秋公園内の桜並木。

    千秋公園内の桜並木。

  • 佐竹義堯公銅像。第12代秋田藩主佐竹義堯〈文政8年(1825年)〜明治17年(1884年)〉は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では、新政府方に属して戦い、明治維新の激動期を生きた象徴的な人物である。

    佐竹義堯公銅像。第12代秋田藩主佐竹義堯〈文政8年(1825年)〜明治17年(1884年)〉は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では、新政府方に属して戦い、明治維新の激動期を生きた象徴的な人物である。

  • 佐竹義堯公銅像。<br /><br />石碑には、<br />「 近代秋田を開いた秋田藩最後の十二代藩主佐竹義堯公を敬慕する旧家臣が中心となり、戊辰の役後五十年にあたる大正四年(一九一五)公の銅像をここに建立した<br />遺憾ながらこの銅像は太平洋戦争のさなか 国の金属回収策のためその姿を消してしまった<br /> 市民有志これを惜しみ 昭和二十八年(一九五三) 旧銅像の原型として残されていた小型像を奉安してわずかに往時を偲んでいた<br /> このたび市制百周年(一九八九)を迎え その記念事業として完全なる姿で往年の義堯公銅像に復元したものである<br />  平成元年七月十七日<br />          秋田市長 高 田 景 次」<br />と刻まれている。<br />しかし、江戸時代には秋田藩とは名乗らずに久保田藩であった。佐竹義堯公は久保田藩12代藩主で後の藩主である。明治4年(1871年)になって久保田藩から秋田藩へと改名した。

    佐竹義堯公銅像。

    石碑には、
    「 近代秋田を開いた秋田藩最後の十二代藩主佐竹義堯公を敬慕する旧家臣が中心となり、戊辰の役後五十年にあたる大正四年(一九一五)公の銅像をここに建立した
    遺憾ながらこの銅像は太平洋戦争のさなか 国の金属回収策のためその姿を消してしまった
     市民有志これを惜しみ 昭和二十八年(一九五三) 旧銅像の原型として残されていた小型像を奉安してわずかに往時を偲んでいた
     このたび市制百周年(一九八九)を迎え その記念事業として完全なる姿で往年の義堯公銅像に復元したものである
      平成元年七月十七日
              秋田市長 高 田 景 次」
    と刻まれている。
    しかし、江戸時代には秋田藩とは名乗らずに久保田藩であった。佐竹義堯公は久保田藩12代藩主で後の藩主である。明治4年(1871年)になって久保田藩から秋田藩へと改名した。

  • 千秋公園内の桜。

    千秋公園内の桜。

  • 千秋公園内の桜。

    千秋公園内の桜。

  • 千秋公園内に鎮座する彌高神社。この後、放火で焼失してまう。

    千秋公園内に鎮座する彌高神社。この後、放火で焼失してまう。

  • 千秋公園から見る夕焼け。

    千秋公園から見る夕焼け。

  • 千秋公園から見る夕日。

    千秋公園から見る夕日。

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