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 藩とは、江戸時代の儒学者が中国の制度になぞらえて用いた漢語的呼称に由来する。江戸時代に1万石以上の領地を保有する封建領主(いわゆる大名)が支配した領分と、その支配機構を指す近代の歴史用語である。しかし、江戸時代に幕府は、大名領は領分、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中などの呼称を用いていた。おそらくは、家来の子弟に儒学を教えた家中の学校は藩校と呼ばれたのであろう。<br /> 藩が正式に採用されたのは明治になってからであり、「‥藩」が公称となって用いられるようになった。そのために、今日では、大名のことを藩主、その家臣のことを藩士という事が多い。しかし、江戸時代には、大名名は封地名に「侯」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「会津侯」、「尾張侯」、「水戸御老侯」といった具合である。また、その家来は「松平伊豆守家来」などと名乗った。<br /> 明治初年(1868年)に公称となり、廃藩置県(明治4年(1871年))までのわずかの期間だけが公式に用いられた訳であるが、その藩名には、所領名(国名)(例:加賀藩)、大名名(例:前田藩)、城下名(例:金沢藩)の三通りがあった。<br /> ややっこしいのは秋田の佐竹氏の場合である。関ヶ原の合戦での挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封減俸された。移封後は新たに久保田城を築城し居城とした。しかし、佐竹氏は常陸一国54万石の大身大名であったが、当初表高が明示されず、60年以上後に20万5800石と決った。久保田城は石垣も積まず、土塁に2層隅櫓程度で天守もなかったみすぼらしい城郭である。現在、城址は千秋公園となっており、城址を見学に行くと誰もががっかりすることであろう。<br /> この佐竹氏は城名(城下名)を採って明治2年(1869年)になって「久保田藩」と公称した。元々あった古代の「秋田城」に居を構えてはいないので、居城である「久保田城」を採用したのであろう。しかし、明治4年(1871年)になって「秋田藩」と改称した。古代の古称「飽田(あぎだ)」に復古したのであろう。「秋田」は最近まで「あぎだ」と発音していたはずだ。「あきた」と発音されるようになるのは平成になってからであろうか?TVで県外の人が「あきた」と発音するのを聞いても「あきた」とは読まずに、秋田新幹線が出来て、実際に県外の人が多くやってくるようになり、道を尋ねられるようになって、濁音(東北訛)を止め清音に変えたのであろう。<br /> 東大が編纂した歴史書や林政関係では、江戸時代のことでも「秋田藩」と用いられているという。歴史は作られるというが、歴史研究が進んで歴史上、実際に使われていた名称が現代のそれで代用される。NHK大河ドラマ「八重の桜」に「秋田藩」と出ていたが、慶應4年(1968年)当時は藩校もあり、「久保田藩」であったのではあるまいか?少なくても「秋田藩」と公称されるのは明治4年(1871年)になってからのことだ。<br />(表紙写真は千秋公園の御隅櫓)

久保田藩か秋田藩か?

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2003/04/26 - 2005/04/24

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 藩とは、江戸時代の儒学者が中国の制度になぞらえて用いた漢語的呼称に由来する。江戸時代に1万石以上の領地を保有する封建領主(いわゆる大名)が支配した領分と、その支配機構を指す近代の歴史用語である。しかし、江戸時代に幕府は、大名領は領分、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中などの呼称を用いていた。おそらくは、家来の子弟に儒学を教えた家中の学校は藩校と呼ばれたのであろう。
 藩が正式に採用されたのは明治になってからであり、「‥藩」が公称となって用いられるようになった。そのために、今日では、大名のことを藩主、その家臣のことを藩士という事が多い。しかし、江戸時代には、大名名は封地名に「侯」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「会津侯」、「尾張侯」、「水戸御老侯」といった具合である。また、その家来は「松平伊豆守家来」などと名乗った。
 明治初年(1868年)に公称となり、廃藩置県(明治4年(1871年))までのわずかの期間だけが公式に用いられた訳であるが、その藩名には、所領名(国名)(例:加賀藩)、大名名(例:前田藩)、城下名(例:金沢藩)の三通りがあった。
 ややっこしいのは秋田の佐竹氏の場合である。関ヶ原の合戦での挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封減俸された。移封後は新たに久保田城を築城し居城とした。しかし、佐竹氏は常陸一国54万石の大身大名であったが、当初表高が明示されず、60年以上後に20万5800石と決った。久保田城は石垣も積まず、土塁に2層隅櫓程度で天守もなかったみすぼらしい城郭である。現在、城址は千秋公園となっており、城址を見学に行くと誰もががっかりすることであろう。
 この佐竹氏は城名(城下名)を採って明治2年(1869年)になって「久保田藩」と公称した。元々あった古代の「秋田城」に居を構えてはいないので、居城である「久保田城」を採用したのであろう。しかし、明治4年(1871年)になって「秋田藩」と改称した。古代の古称「飽田(あぎだ)」に復古したのであろう。「秋田」は最近まで「あぎだ」と発音していたはずだ。「あきた」と発音されるようになるのは平成になってからであろうか?TVで県外の人が「あきた」と発音するのを聞いても「あきた」とは読まずに、秋田新幹線が出来て、実際に県外の人が多くやってくるようになり、道を尋ねられるようになって、濁音(東北訛)を止め清音に変えたのであろう。
 東大が編纂した歴史書や林政関係では、江戸時代のことでも「秋田藩」と用いられているという。歴史は作られるというが、歴史研究が進んで歴史上、実際に使われていた名称が現代のそれで代用される。NHK大河ドラマ「八重の桜」に「秋田藩」と出ていたが、慶應4年(1968年)当時は藩校もあり、「久保田藩」であったのではあるまいか?少なくても「秋田藩」と公称されるのは明治4年(1871年)になってからのことだ。
(表紙写真は千秋公園の御隅櫓)

  • 久保田城址のお堀端。<br /><br />明治13年(1880年)の大火で城下ばかりではなく、城内の建造物はほぼ焼失した。また、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられた。したがって、秋田は見るべき物がない街である。<br /><br />「千秋公園(久保田城址)−2004年」(http://4travel.jp/traveler/dr-kimur/album/10690532/)も参照願いたい。

    久保田城址のお堀端。

    明治13年(1880年)の大火で城下ばかりではなく、城内の建造物はほぼ焼失した。また、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられた。したがって、秋田は見るべき物がない街である。

    「千秋公園(久保田城址)−2004年」(http://4travel.jp/traveler/dr-kimur/album/10690532/)も参照願いたい。

  • 久保田城址のお堀端。<br /><br />教えてgoo!に「『秋田藩』と『久保田藩』どっち?」(2009/01/22)のQが寄せられ、ベストAとして、「正しくは出羽國久保田城主佐竹家です。」とある。

    久保田城址のお堀端。

    教えてgoo!に「『秋田藩』と『久保田藩』どっち?」(2009/01/22)のQが寄せられ、ベストAとして、「正しくは出羽國久保田城主佐竹家です。」とある。

  • 久保田城表門。 <br /><br />秋田高専の教授の研究ノートに「秋田藩」とあったので質問してみた。<br /><br />「○○先生<br /><br />江戸時代の秋田藩林政関連の研究ノートなどが見付かりましたが、 <br />秋田藩とは明治4年に久保田藩から改称し、その後、県名になったものと思わ <br />れます。 <br /><br />江戸時代の藩名として「秋田藩」としたのではおかしくありませんか? <br /><br />ドクターキムルの戸籍名(工学博士)」<br /><br />レスは、<br /><br />「ドクターキムルの戸籍名様 <br /><br />ご連絡ありがとうございました。 <br /><br />ご指摘のように、秋田藩はもとは久保田藩と呼ばれていましたので、 <br />江戸時代の藩名を久保田藩と称してもよいのかもしれませんが、 <br />日本史研究や日本林政史研究においては、古くから秋田藩を使用する <br />ほうが慣例になっており、また農林省が大正13年から昭和9年に <br />かけて旧藩主等の記録を調査収集・編纂した日本林制史調査資料に <br />おいても、秋田藩が使われていますので、私もそれにならい、また以下 <br />の理由からも秋田藩を用いてきました。 <br /><br />ご存じのように藩という名称は、明治4年に公称として用いられたのであり、<br />(← 明治元年か明治2年?)<br />厳密に言えば江戸時代には藩という名称はありませんでした。この点から <br />いえば、江戸時代は〇〇藩ではなく、当時の例えば〇〇領のような実際に <br />使われていた呼び方をすべきかもしれません。 <br /><br />こうしたことから、藩というのは明治になって、つまりあとから大名領を <br />藩と呼ぶことにしたのであり、そういう点では久保田藩という呼び方も、 <br />明治になってから江戸時代の佐竹氏の領分を久保田藩と称することにした <br />のであり、江戸時代に用いられていた呼び方に即すならば不正確ということ <br />になります。 <br /><br />それゆえ、久保田藩が秋田藩に改称されたことを考えますと、江戸時代の <br />佐竹氏の領分を久保田藩から秋田藩と呼ぶことにしたということであり、 <br />秋田藩を用いることは間違いではないと思います。 <br /><br />少々ややこしい説明になってしまいましたが、ご容赦ください。 <br /><br />よろしくお願いいたします。」<br />とあった。

    久保田城表門。

    秋田高専の教授の研究ノートに「秋田藩」とあったので質問してみた。

    「○○先生

    江戸時代の秋田藩林政関連の研究ノートなどが見付かりましたが、
    秋田藩とは明治4年に久保田藩から改称し、その後、県名になったものと思わ
    れます。

    江戸時代の藩名として「秋田藩」としたのではおかしくありませんか?

    ドクターキムルの戸籍名(工学博士)」

    レスは、

    「ドクターキムルの戸籍名様

    ご連絡ありがとうございました。

    ご指摘のように、秋田藩はもとは久保田藩と呼ばれていましたので、
    江戸時代の藩名を久保田藩と称してもよいのかもしれませんが、
    日本史研究や日本林政史研究においては、古くから秋田藩を使用する
    ほうが慣例になっており、また農林省が大正13年から昭和9年に
    かけて旧藩主等の記録を調査収集・編纂した日本林制史調査資料に
    おいても、秋田藩が使われていますので、私もそれにならい、また以下
    の理由からも秋田藩を用いてきました。

    ご存じのように藩という名称は、明治4年に公称として用いられたのであり、
    (← 明治元年か明治2年?)
    厳密に言えば江戸時代には藩という名称はありませんでした。この点から
    いえば、江戸時代は〇〇藩ではなく、当時の例えば〇〇領のような実際に
    使われていた呼び方をすべきかもしれません。

    こうしたことから、藩というのは明治になって、つまりあとから大名領を
    藩と呼ぶことにしたのであり、そういう点では久保田藩という呼び方も、
    明治になってから江戸時代の佐竹氏の領分を久保田藩と称することにした
    のであり、江戸時代に用いられていた呼び方に即すならば不正確ということ
    になります。

    それゆえ、久保田藩が秋田藩に改称されたことを考えますと、江戸時代の
    佐竹氏の領分を久保田藩から秋田藩と呼ぶことにしたということであり、
    秋田藩を用いることは間違いではないと思います。

    少々ややこしい説明になってしまいましたが、ご容赦ください。

    よろしくお願いいたします。」
    とあった。

  • 千秋公園の御隅櫓。 <br /><br />NHK大河ドラマ「八重の桜」に戊辰戦争(会津戦争)時に「秋田藩」と出ていたが、慶應4年(1968年)当時は藩校もあり、「久保田藩」とすべきではなかったのでは?

    千秋公園の御隅櫓。

    NHK大河ドラマ「八重の桜」に戊辰戦争(会津戦争)時に「秋田藩」と出ていたが、慶應4年(1968年)当時は藩校もあり、「久保田藩」とすべきではなかったのでは?

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この旅行記へのコメント (1)

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  • ytさん 2025/12/19 16:37:14
    秋田藩か久保田藩か
    すみません。NHK大河ドラマ「八重の桜」に戊辰戦争(会津戦争)時に「秋田藩」と出ていたのは私も覚えておりますが、この件に関しては、戊辰戦争初期の頃はむしろ「秋田藩」の方が実情に即しています。理由は太政官日誌などの当時の記録を見ると、「秋田藩」の方が「久保田藩」よりも多く使われているからです。

    『復古記』によると慶応4年(明治元年)旧暦2月11日の段階で藩名として「秋田藩」が採用されています。また「加賀藩」「薩摩藩」「尾張藩」「紀伊藩」「肥後藩」「筑前藩」「安芸藩」「長門藩」などと記述されており、「金沢藩」「鹿児島藩」「名古屋藩」「和歌山藩」「熊本藩」「福岡藩」「広島藩」「萩/山口藩」は採用されていません。
    https://dl.ndl.go.jp/pid/1148192/1/170
    慶応4年旧暦5月15日に集められた藩印でも「秋田藩印」が提出されています。
    https://dl.ndl.go.jp/pid/1148282/1/96
    少なくとも明治2年の版籍奉還までには「藩庁」の所在地をもって藩名とするルールが決められたのですが、慶応4年の前半の段階ではその辺がまだ決まっておらず、例えば金沢藩も「加賀藩印」を提出しています。もともと佐竹家の藩主は代々「秋田侍従」などの官位を名乗っており、むしろ「秋田藩」を名乗るのが道理であったといえます。現在国立公文書館に保存されている天保国絵図でも、公的に「出羽国秋田領」と記されています。
    https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000252
    明治政府としては地域名を排除したかったのか、遅くとも明治2年の版籍奉還までには「久保田藩」「金沢藩」「鹿児島藩」などが完全に正式名称となります。そこで佐竹家臣団は明治4年に城下町「久保田」藩名「久保田藩」をわざわざ「秋田」「秋田藩」に改名します。それほど「秋田」という呼称を名乗りたかったのでしょう。

    というわけで、江戸時代に「秋田侍従」などの官位を名乗っていた佐竹家臣団の意識では地元の領分の呼称は「秋田」でした。明治新政府で「藩」が採用された戊辰戦争初期の頃には「秋田藩」と自称していましたが、途中から藩庁ルールを押し付けられて「久保田藩」が正式となったというわけです。ただ今日、府藩県三治制という短い間のみ正式呼称であった鹿児島藩や山口藩、金沢藩に対して、江戸時代の領分について薩摩藩や長州藩、加賀藩などを歴史用語として使っていることには余り異論はないようです。ところが久保田藩については、中途半端に明治4年に久保田藩を秋田藩へ改称したという事実が残ってしまった結果、なんか江戸時代の藩も久保田藩と呼ばないといけないみたいな雰囲気が生まれてしまったように思えます。結局のところ江戸時代には藩は正式名称ではないので、文脈次第でどっちを使っても構わないのですが。

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