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太田道灌築城とされる川越城は経済交通の重要度が高まり、家康の関東移封には江戸城侵入を阻止する戦略地に相応しく有力譜代大名を配置したことで、城郭規模の拡大と、城下町の整備、水陸交通網の開発などめまぐるしいほどの発展を遂げます、<br /><br />然しながら明治維新を迎えますと、城郭の廃棄令が示すようにかつての雄大な姿は旧勢力のシンボルと解釈され存在が否定されます。例えば堀の埋立て、城郭・城門等の取り壊し払い下げなどにより次々と消えてしまいます。<br /><br />今では本丸御殿(それでも一部ですが)と併せてかつての勇姿を漂わせているのは「富士見櫓」だけになってしまいました。<br /><br />この櫓に登りますとそれほど高くはありませんが街の周辺がよく見渡せて晴れ晴れとした気持ちになります。<br /><br /><br />また近隣には晩年の家康が深く関わったと伝えられる喜多院(川越大師)があります。とりわけ、駿府で亡くなった家康の遺骸を日光に運ぶ途中の川越の当院にて法要を実施した経緯に関連して江戸城紅葉山の別院移築された建物を見学する上で見応えのある歴史建造物となっています。<br /><br /><br />当該寺院のホームページには下記の如く紹介されています。<br /><br />「 創 建 と 歴 史<br /><br />天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまで遡るかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。<br /><br />その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられた時、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。<br /><br />正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山ー現在の山号」の勅額を下しました。さらに天分6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。<br /><br />慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8千坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏像院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公の時東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。<br /><br />寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇は全て焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別院を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の魔があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっています。<br /><br />この東照宮は、家康の遺骸を日光に運ぶ途中に喜多院で法要を行ったことから、日本三代東照宮のひとつとされる仙波東照宮も隣接する形で建てられています。<br /><br />また、「日本三大羅漢」の一つに数えられるこちらの五百羅漢は天明2年(1782)から文政8年(1825)の半世紀にわたって建立されたもので、五百三十八体の石仏が鎮座する。人間の喜怒哀楽をよくとらえた様々な表情の石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承がある。<br /><br />本堂の裏手には、越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝?から松平直侯まで5人)の廟所もあります。<br /><br />喜多院は川越大師として知られ、その広大な境内は池や堀を廻らせた景勝地となっています。正月1月3日の初大師(だるま市)、節分会、桜まつり、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。」

武蔵川越 道灌ゆかりの地を訪ねる 戦乱の匂いが微かに残る川越城富士見櫓跡と共に晩年の家康が深く関わったとされる『喜多院(川越大師)』散歩

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2012/03/11 - 2012/03/11

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滝山氏照

滝山氏照さん

太田道灌築城とされる川越城は経済交通の重要度が高まり、家康の関東移封には江戸城侵入を阻止する戦略地に相応しく有力譜代大名を配置したことで、城郭規模の拡大と、城下町の整備、水陸交通網の開発などめまぐるしいほどの発展を遂げます、

然しながら明治維新を迎えますと、城郭の廃棄令が示すようにかつての雄大な姿は旧勢力のシンボルと解釈され存在が否定されます。例えば堀の埋立て、城郭・城門等の取り壊し払い下げなどにより次々と消えてしまいます。

今では本丸御殿(それでも一部ですが)と併せてかつての勇姿を漂わせているのは「富士見櫓」だけになってしまいました。

この櫓に登りますとそれほど高くはありませんが街の周辺がよく見渡せて晴れ晴れとした気持ちになります。


また近隣には晩年の家康が深く関わったと伝えられる喜多院(川越大師)があります。とりわけ、駿府で亡くなった家康の遺骸を日光に運ぶ途中の川越の当院にて法要を実施した経緯に関連して江戸城紅葉山の別院移築された建物を見学する上で見応えのある歴史建造物となっています。


当該寺院のホームページには下記の如く紹介されています。

「 創 建 と 歴 史

天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまで遡るかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。

その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられた時、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。

正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山ー現在の山号」の勅額を下しました。さらに天分6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。

慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8千坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏像院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公の時東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。

寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇は全て焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別院を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の魔があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっています。

この東照宮は、家康の遺骸を日光に運ぶ途中に喜多院で法要を行ったことから、日本三代東照宮のひとつとされる仙波東照宮も隣接する形で建てられています。

また、「日本三大羅漢」の一つに数えられるこちらの五百羅漢は天明2年(1782)から文政8年(1825)の半世紀にわたって建立されたもので、五百三十八体の石仏が鎮座する。人間の喜怒哀楽をよくとらえた様々な表情の石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承がある。

本堂の裏手には、越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝?から松平直侯まで5人)の廟所もあります。

喜多院は川越大師として知られ、その広大な境内は池や堀を廻らせた景勝地となっています。正月1月3日の初大師(だるま市)、節分会、桜まつり、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。」

交通手段
私鉄 徒歩
  • 川越城富士見櫓跡石標<br /><br />

    川越城富士見櫓跡石標

  • 川越城田曲輪門跡石標<br /><br />本丸絵図を見ますと南西隅に突出した場所に富士見櫓があり、櫓を取り囲むように水堀が巡らされてありますので、石碑の手前はかつては水堀であったと思われます。

    川越城田曲輪門跡石標

    本丸絵図を見ますと南西隅に突出した場所に富士見櫓があり、櫓を取り囲むように水堀が巡らされてありますので、石碑の手前はかつては水堀であったと思われます。

  • 川越城富士見櫓跡<br /><br />天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓がありまして、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりになっていたと思われます。

    イチオシ

    川越城富士見櫓跡

    天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓がありまして、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりになっていたと思われます。

  • 川越城富士見櫓跡<br /><br />櫓の頂上は櫓を建てる充分な広さが見られます。

    川越城富士見櫓跡

    櫓の頂上は櫓を建てる充分な広さが見られます。

  • 川越城富士見櫓跡<br /><br />櫓跡から遠望しますが、往時は視界に障害なく「富士見櫓」と言われるだけにはるかかなたに富士山が見えた事でしょう。

    イチオシ

    川越城富士見櫓跡

    櫓跡から遠望しますが、往時は視界に障害なく「富士見櫓」と言われるだけにはるかかなたに富士山が見えた事でしょう。

  • 成田山川越別院

    成田山川越別院

  • 成田山川越別院参道

    成田山川越別院参道

  • 成田山川越別院拝殿

    成田山川越別院拝殿

  • 成田山川越別院<br />

    成田山川越別院

  • 川越大師喜多院

    川越大師喜多院

  • 川越大師喜多院案内図<br /><br />

    川越大師喜多院案内図

  • 川越大師喜多院見取図<br /><br />

    川越大師喜多院見取図

  • 客殿・書院の入口<br /><br />慶長19年(1614)徳川家康の寄進により伽藍が整備されたものの、寛永15年(1638)の川越大火により山門を除く講堂が焼失しました。<br />当時の将軍家光の命により江戸城内の御殿(客殿・書院・庫裏)を川越に移築することとなりますが、この措置は将軍家と当時の住職である天海僧正との親密な関係を物語っています。

    客殿・書院の入口

    慶長19年(1614)徳川家康の寄進により伽藍が整備されたものの、寛永15年(1638)の川越大火により山門を除く講堂が焼失しました。
    当時の将軍家光の命により江戸城内の御殿(客殿・書院・庫裏)を川越に移築することとなりますが、この措置は将軍家と当時の住職である天海僧正との親密な関係を物語っています。

  • 客殿・書院の建物<br /><br />客殿は寛永15年(1638)の建立で「徳川家光誕生の間」が、また書院は寛永16年(1639)の建立で「春日局化粧の間」がそれぞれあります。

    客殿・書院の建物

    客殿は寛永15年(1638)の建立で「徳川家光誕生の間」が、また書院は寛永16年(1639)の建立で「春日局化粧の間」がそれぞれあります。

  • 慈恵堂拝殿

    慈恵堂拝殿

  • 松平大和守家廟所<br /><br />松平大和守家は徳川家康の二男結城秀康の五男直基(なおもと)を御家門、越前家の家柄です。当家は明和4年(1767)から慶応2年(1866)7代で約100年間に亘り川越藩主として務めました。この廟所には川越で亡くなった5人の藩主が祀られています。

    松平大和守家廟所

    松平大和守家は徳川家康の二男結城秀康の五男直基(なおもと)を御家門、越前家の家柄です。当家は明和4年(1767)から慶応2年(1866)7代で約100年間に亘り川越藩主として務めました。この廟所には川越で亡くなった5人の藩主が祀られています。

  • 廟所内部<br /><br />立入禁止となって入場できません。

    廟所内部

    立入禁止となって入場できません。

  • 慈眼堂<br /><br />天海僧正は寛永20年(1643)寛永寺にて入寂し、慈願大師の称号がおくられ、正保2年(1645)将軍家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが慈眼堂です。

    慈眼堂

    天海僧正は寛永20年(1643)寛永寺にて入寂し、慈願大師の称号がおくられ、正保2年(1645)将軍家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが慈眼堂です。

  • 慈願堂内部

    慈願堂内部

  • 喜多院周辺<br /><br />慈眼堂から仙波東照宮に移動する途中には土塁・空堀と思われる遺構らしきものが散見されます。かつての川越城の城郭の一部だったのかも知れません。

    喜多院周辺

    慈眼堂から仙波東照宮に移動する途中には土塁・空堀と思われる遺構らしきものが散見されます。かつての川越城の城郭の一部だったのかも知れません。

  • 喜多院周辺<br />

    喜多院周辺

  • 仙波東照宮絵図<br /><br />元和2年(1616)家康が駿府で死亡後遺骨を久能山に葬られましたが、家康の遺言により、遺骸は日光に移葬されます。<br />久能山から日光に至る道中に仙波喜多院の大堂に到着、天海僧正は導師となり4日間、丁重な法要を行いこの地に社殿を造ります。

    仙波東照宮絵図

    元和2年(1616)家康が駿府で死亡後遺骨を久能山に葬られましたが、家康の遺言により、遺骸は日光に移葬されます。
    久能山から日光に至る道中に仙波喜多院の大堂に到着、天海僧正は導師となり4日間、丁重な法要を行いこの地に社殿を造ります。

  • 随身門(表門)<br /><br />寛永15年の川越大火で延焼、堀田正盛を造営奉行とし再建しましたが、以降川越城主による修復が幾度か行われています。

    随身門(表門)

    寛永15年の川越大火で延焼、堀田正盛を造営奉行とし再建しましたが、以降川越城主による修復が幾度か行われています。

  • 石鳥居<br /><br />寛永15年(1638)造営奉行の任にあった堀田正盛が奉納したものです。

    石鳥居

    寛永15年(1638)造営奉行の任にあった堀田正盛が奉納したものです。

  • 参道<br /><br />参道の途中は土橋から右手を見ますと城郭の一部とも思われる空堀らしきものが見られます。

    参道

    参道の途中は土橋から右手を見ますと城郭の一部とも思われる空堀らしきものが見られます。

  • 参道と石段<br /><br />急峻な石段を登ります。石段の向こうには石鳥居が確認できます。

    参道と石段

    急峻な石段を登ります。石段の向こうには石鳥居が確認できます。

  • 拝殿<br /><br />参道から石段を登りますと拝殿が待ち受けます。

    拝殿

    参道から石段を登りますと拝殿が待ち受けます。

  • 葵の紋<br /><br />門扉には大きく葵の紋が取り付けられています。

    葵の紋

    門扉には大きく葵の紋が取り付けられています。

  • 本殿

    本殿

  • 石燈籠<br /><br />歴代川越城主が1対2基の石燈籠全26基を献備しています。

    石燈籠

    歴代川越城主が1対2基の石燈籠全26基を献備しています。

  • 石燈籠と狛犬<br /><br />石灯籠の配置を見ますと初期では本殿に向かって左右1基ずつ配置していましたが、本殿スペース確保できず拝殿に向かって左右1基ずつに、更にスペースの確保できず10基以降は拝殿左側スペースに2期ずつ配置されています。

    石燈籠と狛犬

    石灯籠の配置を見ますと初期では本殿に向かって左右1基ずつ配置していましたが、本殿スペース確保できず拝殿に向かって左右1基ずつに、更にスペースの確保できず10基以降は拝殿左側スペースに2期ずつ配置されています。

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