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戦国時代前期、古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ)に対抗するため太田道灌(おおた・どうかん)は父道真(どうしん)と共に築城した川越城は関東管領を務める上杉氏没落に伴い新興勢力小田原北条氏に引継がれ、武蔵国の重要拠点としての役割を果たします。<br /><br />天正18年(1590)北条氏滅亡後、徳川家康は関東に移封、川越は江戸の北方守りとしてその重要性はますます大きく、家康は三河以来の譜代最古参酒井重忠(さかい・しげただ、1549~1617)を1万石で当城藩主に指名します。<br /><br />寛永12年(1639)、松平信綱(まつだいら・のぶつな)が島原の乱鎮圧の功により、武蔵国忍藩より3万石加増され6万石で入封します。<br /><br />更に加増を受けて7万5千石となった信綱は将軍家光の小姓の身分から出世し後に老中首座となります。信綱は家光や第4代将軍家綱をよく補佐し、官職名の伊豆守から「知恵伊豆」と呼ばれていました。<br /><br />藩政では川越城の大改築し5郭、3櫓及び8門を新たに造り、城郭は2倍の規模となります。併せて城下の地割りを実施、侍屋敷、町屋敷、社寺等を行う他河川の整備にも力を注ぎ江戸と川越を結ぶ水運交通を開発し商業活動を活発にさせます。<br /><br />明治に入りますと新政府による廃城令により全国の城郭の取り壊しが行われますが、川越城も不用・破損建物などの取り壊しが行われ一部は売却されることになります。<br /><br />戦国時代から江戸時代初期を通じて約100年、川越の戦略的位置付けは一貫して不変で、時代が変わっても時の為政者は川越の重要性を充分認識していた事で最初の築城者であった道真・道灌親子の戦略的・地勢的な先見性が卓越していた証と思われます。<br /><br />具体的には道灌時代では古河公方包囲網の一環として江戸城・岩槻城と共に川越に築城し存在力を発揮しました。後継の小田原北条氏時代では西端小田原から関東一円支配は困難であり、その代替する機能を充分発揮しました。<br /><br />続く徳川家康の初期段階では、家康にとって関東は新参者であり西隣の豊臣秀吉と共に関東の勢力は大きな脅威であった中、江戸から見て西の守りとして小田原に大久保忠燐を、東の守りとして佐倉に土井利勝を、そして北の守りに川越に酒井重忠をそれぞれ配置して万全の防御態勢をしきます。<br /><br /><br /><br />2022年7月15日追記<br /><br />本丸御殿に関する説明板には下記のごとく記載されています。<br /><br />川越城の「本丸御殿」に関する記録は、国立歴史民俗博物館が所蔵している<br />「江戸図屏風」に描かれている様子が最も古いもの。その屏風には、高い城壁に囲まれた川越城にお一番奥に本丸御殿の姿が描かれています。腕に鷹をとまらせた鷹匠も描かれていることから、本丸御殿は3代将軍家光が鷹狩りの際に休憩所として利用した「御成御殿(おなりごてん)」だったのではないかと考えられています。<br /><br />家光以降の将軍は川越城を利用しなくなったため本丸御殿は取り壊され、更地のままの状態が続きました。しかし、1846年に藩主の住居だった二の丸が火災により焼失。その2年後に藩主の松平斉典(なりつね)が空き地だった本丸御殿の場所に新しく御殿を建設しました。それが今残っている本丸御殿です。当時の広さは1025坪(約3400m2)で、16棟の建物を有していました。<br /><br />明治維新以降、川越城は少しずつ縮小されましたが、現在も大広間、移築復元された家老詰所、および玄関が現存しており、埼玉県の重要文化財に指定されています。』<br /><br />

武蔵川越 道灌ゆかりの地を訪ねる・古河公方勢力に対峙するため太田道灌築城するも江戸時代では家光鷹狩り休憩所として利用の川越城『本丸御殿』散歩

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2012/03/11 - 2012/03/11

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滝山氏照

滝山氏照さん

戦国時代前期、古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ)に対抗するため太田道灌(おおた・どうかん)は父道真(どうしん)と共に築城した川越城は関東管領を務める上杉氏没落に伴い新興勢力小田原北条氏に引継がれ、武蔵国の重要拠点としての役割を果たします。

天正18年(1590)北条氏滅亡後、徳川家康は関東に移封、川越は江戸の北方守りとしてその重要性はますます大きく、家康は三河以来の譜代最古参酒井重忠(さかい・しげただ、1549~1617)を1万石で当城藩主に指名します。

寛永12年(1639)、松平信綱(まつだいら・のぶつな)が島原の乱鎮圧の功により、武蔵国忍藩より3万石加増され6万石で入封します。

更に加増を受けて7万5千石となった信綱は将軍家光の小姓の身分から出世し後に老中首座となります。信綱は家光や第4代将軍家綱をよく補佐し、官職名の伊豆守から「知恵伊豆」と呼ばれていました。

藩政では川越城の大改築し5郭、3櫓及び8門を新たに造り、城郭は2倍の規模となります。併せて城下の地割りを実施、侍屋敷、町屋敷、社寺等を行う他河川の整備にも力を注ぎ江戸と川越を結ぶ水運交通を開発し商業活動を活発にさせます。

明治に入りますと新政府による廃城令により全国の城郭の取り壊しが行われますが、川越城も不用・破損建物などの取り壊しが行われ一部は売却されることになります。

戦国時代から江戸時代初期を通じて約100年、川越の戦略的位置付けは一貫して不変で、時代が変わっても時の為政者は川越の重要性を充分認識していた事で最初の築城者であった道真・道灌親子の戦略的・地勢的な先見性が卓越していた証と思われます。

具体的には道灌時代では古河公方包囲網の一環として江戸城・岩槻城と共に川越に築城し存在力を発揮しました。後継の小田原北条氏時代では西端小田原から関東一円支配は困難であり、その代替する機能を充分発揮しました。

続く徳川家康の初期段階では、家康にとって関東は新参者であり西隣の豊臣秀吉と共に関東の勢力は大きな脅威であった中、江戸から見て西の守りとして小田原に大久保忠燐を、東の守りとして佐倉に土井利勝を、そして北の守りに川越に酒井重忠をそれぞれ配置して万全の防御態勢をしきます。



2022年7月15日追記

本丸御殿に関する説明板には下記のごとく記載されています。

川越城の「本丸御殿」に関する記録は、国立歴史民俗博物館が所蔵している
「江戸図屏風」に描かれている様子が最も古いもの。その屏風には、高い城壁に囲まれた川越城にお一番奥に本丸御殿の姿が描かれています。腕に鷹をとまらせた鷹匠も描かれていることから、本丸御殿は3代将軍家光が鷹狩りの際に休憩所として利用した「御成御殿(おなりごてん)」だったのではないかと考えられています。

家光以降の将軍は川越城を利用しなくなったため本丸御殿は取り壊され、更地のままの状態が続きました。しかし、1846年に藩主の住居だった二の丸が火災により焼失。その2年後に藩主の松平斉典(なりつね)が空き地だった本丸御殿の場所に新しく御殿を建設しました。それが今残っている本丸御殿です。当時の広さは1025坪(約3400m2)で、16棟の建物を有していました。

明治維新以降、川越城は少しずつ縮小されましたが、現在も大広間、移築復元された家老詰所、および玄関が現存しており、埼玉県の重要文化財に指定されています。』

交通手段
私鉄 徒歩
  • 郭町<br /><br />城跡に関係用語が町名となっています。

    郭町

    城跡に関係用語が町名となっています。

  • 中ノ門<br /><br />

    中ノ門

  • 中ノ門堀跡<br /><br />寛永16年(1639)に川越城主となった松平信綱が大規模な改修を行いますが、その時期に造られた堀です。深さ7m、幅18m、大手門側の勾配30度、本丸側勾配60度で外部から城の内側へ簡単に入り込めない仕組みとなっています。

    中ノ門堀跡

    寛永16年(1639)に川越城主となった松平信綱が大規模な改修を行いますが、その時期に造られた堀です。深さ7m、幅18m、大手門側の勾配30度、本丸側勾配60度で外部から城の内側へ簡単に入り込めない仕組みとなっています。

  • 中ノ門堀説明

    中ノ門堀説明

  • 川越城本丸御殿<br /><br />川越城には鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」がありましたが、本丸御殿は将軍のためのいわゆる「御成り御殿」(将軍宿舎)であったと考えられてます。<br />二の丸にあった御殿が弘化3年(1846)焼失し、嘉永元年(1848)に御殿が再建されますがこれが現存する御殿であります。<br />

    川越城本丸御殿

    川越城には鷹狩などでたびたび将軍の「御成り」がありましたが、本丸御殿は将軍のためのいわゆる「御成り御殿」(将軍宿舎)であったと考えられてます。
    二の丸にあった御殿が弘化3年(1846)焼失し、嘉永元年(1848)に御殿が再建されますがこれが現存する御殿であります。

  • 川越本丸御殿石柱

    川越本丸御殿石柱

  • 川越城本丸御殿全景

    川越城本丸御殿全景

  • 本丸御殿玄関

    本丸御殿玄関

  • 庭園

    庭園

  • 本丸御殿案内図<br /><br />当時の本丸御殿は建物の数16棟、1025坪に及ぶ広大な建物で城主の住まいだけではなく、城主が政務を行う棟や家臣たちの常駐する棟なども設けられていたそうで、現存の建物はそれのごく一部となります。

    本丸御殿案内図

    当時の本丸御殿は建物の数16棟、1025坪に及ぶ広大な建物で城主の住まいだけではなく、城主が政務を行う棟や家臣たちの常駐する棟なども設けられていたそうで、現存の建物はそれのごく一部となります。

  • 使番詰所<br /><br />

    使番詰所

  • 廊下

    廊下

  • 庭園

    庭園

  • 家老詰所<br /><br />当時の家老詰所は本丸の御殿の西側にやや離れて配置されていました。

    家老詰所

    当時の家老詰所は本丸の御殿の西側にやや離れて配置されていました。

  • 家老詰所案内図

    家老詰所案内図

  • 家老詰所<br /><br />藩を取り仕切る家老たちが常駐する部屋で、この部屋の他には年寄方や記録方などの幹部級の部屋もあります。

    家老詰所

    藩を取り仕切る家老たちが常駐する部屋で、この部屋の他には年寄方や記録方などの幹部級の部屋もあります。

  • 庭園

    庭園

  • 三芳野(みよしの)神社看板<br /><br />「とうりゃんせの唄発祥の地」と掲載されています。<br />この神社は川越城築城により天神曲輪に位置し「お城の天神さま」と呼ばれていました。一般の参詣者に紛れて密偵などが城内に入り込むことを避けるため、帰りの参詣客は門番によって厳しく調べられる事情があったためです。<br /><br />

    三芳野(みよしの)神社看板

    「とうりゃんせの唄発祥の地」と掲載されています。
    この神社は川越城築城により天神曲輪に位置し「お城の天神さま」と呼ばれていました。一般の参詣者に紛れて密偵などが城内に入り込むことを避けるため、帰りの参詣客は門番によって厳しく調べられる事情があったためです。

  • わらべ唄発祥の地の碑並びに川越城七不思議の碑

    わらべ唄発祥の地の碑並びに川越城七不思議の碑

  • 川越七不思議説明番

    川越七不思議説明番

  • 三芳野神社参道

    三芳野神社参道

  • 三芳野神社拝殿<br /><br />平安時代の始め大同年間(806~810)の創建と伝え、三芳野18郷の惣社として崇敬を集めました。<br />大田道灌が川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。<br />寛永元年(1624)幕府の命を受けて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。<br />さらに明暦2年(1656)城主松平伊豆守信綱が奉行となり幕府棟梁木原義久が改修を加えています。<br />尚社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化4年(1848)幕府棟梁甲良若狭により瓦葺に改められ、更に大正11年銅板葺となっています。

    三芳野神社拝殿

    平安時代の始め大同年間(806~810)の創建と伝え、三芳野18郷の惣社として崇敬を集めました。
    大田道灌が川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
    寛永元年(1624)幕府の命を受けて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。
    さらに明暦2年(1656)城主松平伊豆守信綱が奉行となり幕府棟梁木原義久が改修を加えています。
    尚社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化4年(1848)幕府棟梁甲良若狭により瓦葺に改められ、更に大正11年銅板葺となっています。

  • 三芳野神社境内

    三芳野神社境内

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