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戦国時代に文武両道に優れた太田道灌(おおたどうかん、1432~1486)が父道真(どうしん、1411~1488)と共に古河公方に対抗するために造った川越城(かわごえじょう、埼玉県川越氏郭町)とその周辺を訪ねました。<br /><br />15世紀初期は武蔵国南部は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と鎌倉から古河に拠点を移した足利氏(古河公方)との係争地でありました。<br /><br />長禄元年(1457)古河公方勢力に対抗するため、扇谷上杉家当主上杉持朝(うえすぎ・もちとも、1416~1467)は家宰の太田道真・道灌親子に川越城の築城を命じ、下総国境に江戸城を築城させ道灌を城主とし川越城とを結ぶ線を対古河公方軍の防衛戦と位置づけします。<br /><br />大永4年(1524)に江戸城を手中に収めた小田原北条氏綱(ほうじょう・うじつな、1486~1541)は天文6年(1537)川越城を攻め、扇谷上杉氏を敗走させ武蔵国を奪取し以降武蔵国支配の重要拠点として支配を固めます。<br /><br />天文10年(1541)小田原北条氏の氏綱が死に氏康が継ぐと、この機会を川越城奪回のチャンスと捉えた扇谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ)は山内上杉氏及び古河公方の支援を得て川越城を大軍で包囲しますが小田原北条氏の夜戦攻撃で致命的な大敗となり、ここで扇谷上杉朝定の討死をはじめ、山内上杉憲政の上野国への敗退並びに古河公方足利晴氏軍の古河配送と旧勢力が一掃され新興勢力の小田原北条氏の武蔵国覇権が確定します。<br /><br />この結果、氏綱は重臣の大道寺氏を責任者として川越城に送り込み武蔵国の拠点の充実とその周辺拡大に取り組み盤石なものとします。<br /><br />しかしながら天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家・上杉景勝らの北国軍の攻撃を受け耐え切れず開城します。<br /><br />徳川家康が関東に移封後は徳川譜代筆頭の酒井重忠(さかいしげただ、1549~1617)が1万石で川越に封ぜられ川越藩として立藩、以降関東重要拠点の認識の下有力譜代大名が藩主に任ぜられ明治維新を迎えるに至ります。<br /><br />道灌が生きた中世の関東は、鎌倉府足利公方(室町幕府の関東統括機関)と関東管領上杉氏の流れで始まったものの、勢力の分散化・統率の艱難さ等により公方と関東管領との争い、ついで関東管領上杉氏内部争いといった複雑な絡みの中、ひときわ清清しく自説を貫いた道灌の足跡を探す事は現在に生きる自分に励ましてくれるような気持ちにさせてくれます。<br />

武蔵川越 道灌ゆかりの地を訪ねる・対古河公方防御拠点として扇谷上杉氏が築城し江戸時代に至るまで軍事拠点として高く評価された『河越城』訪問

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2012/03/11 - 2012/03/11

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滝山氏照

滝山氏照さん

戦国時代に文武両道に優れた太田道灌(おおたどうかん、1432~1486)が父道真(どうしん、1411~1488)と共に古河公方に対抗するために造った川越城(かわごえじょう、埼玉県川越氏郭町)とその周辺を訪ねました。

15世紀初期は武蔵国南部は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と鎌倉から古河に拠点を移した足利氏(古河公方)との係争地でありました。

長禄元年(1457)古河公方勢力に対抗するため、扇谷上杉家当主上杉持朝(うえすぎ・もちとも、1416~1467)は家宰の太田道真・道灌親子に川越城の築城を命じ、下総国境に江戸城を築城させ道灌を城主とし川越城とを結ぶ線を対古河公方軍の防衛戦と位置づけします。

大永4年(1524)に江戸城を手中に収めた小田原北条氏綱(ほうじょう・うじつな、1486~1541)は天文6年(1537)川越城を攻め、扇谷上杉氏を敗走させ武蔵国を奪取し以降武蔵国支配の重要拠点として支配を固めます。

天文10年(1541)小田原北条氏の氏綱が死に氏康が継ぐと、この機会を川越城奪回のチャンスと捉えた扇谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ)は山内上杉氏及び古河公方の支援を得て川越城を大軍で包囲しますが小田原北条氏の夜戦攻撃で致命的な大敗となり、ここで扇谷上杉朝定の討死をはじめ、山内上杉憲政の上野国への敗退並びに古河公方足利晴氏軍の古河配送と旧勢力が一掃され新興勢力の小田原北条氏の武蔵国覇権が確定します。

この結果、氏綱は重臣の大道寺氏を責任者として川越城に送り込み武蔵国の拠点の充実とその周辺拡大に取り組み盤石なものとします。

しかしながら天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家・上杉景勝らの北国軍の攻撃を受け耐え切れず開城します。

徳川家康が関東に移封後は徳川譜代筆頭の酒井重忠(さかいしげただ、1549~1617)が1万石で川越に封ぜられ川越藩として立藩、以降関東重要拠点の認識の下有力譜代大名が藩主に任ぜられ明治維新を迎えるに至ります。

道灌が生きた中世の関東は、鎌倉府足利公方(室町幕府の関東統括機関)と関東管領上杉氏の流れで始まったものの、勢力の分散化・統率の艱難さ等により公方と関東管領との争い、ついで関東管領上杉氏内部争いといった複雑な絡みの中、ひときわ清清しく自説を貫いた道灌の足跡を探す事は現在に生きる自分に励ましてくれるような気持ちにさせてくれます。

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 本川越駅<br /><br />西武鉄道・新宿線終点本川越駅下車しますと観光案内地図が目に入ります。<br />まずは蔵造りの街並みを通り川越市役所に向かいます。

    本川越駅

    西武鉄道・新宿線終点本川越駅下車しますと観光案内地図が目に入ります。
    まずは蔵造りの街並みを通り川越市役所に向かいます。

  • 大田道灌像<br /><br />川越市役所前に立つ太田道灌像が待ってくれてます。このあたりは川越城の大手門跡になります。川越市市制50周年を記念して川越市開府の始祖である太田道灌の銅像を建立しました。

    大田道灌像

    川越市役所前に立つ太田道灌像が待ってくれてます。このあたりは川越城の大手門跡になります。川越市市制50周年を記念して川越市開府の始祖である太田道灌の銅像を建立しました。

  • 太田道灌像

    イチオシ

    太田道灌像

  • 江戸時代の川越城図<br /><br />慶応3年に於ける松平大和守と松平周防守の引継ぎ当時の原図をもとに作成されています。当然の事ながらながら道灌築城当時の城郭はもっと小規模でありました。

    江戸時代の川越城図

    慶応3年に於ける松平大和守と松平周防守の引継ぎ当時の原図をもとに作成されています。当然の事ながらながら道灌築城当時の城郭はもっと小規模でありました。

  • 道灌橋<br /><br />道灌の屋敷がこのあたりにあったので道灌橋と名づけられています。

    道灌橋

    道灌の屋敷がこのあたりにあったので道灌橋と名づけられています。

  • 道灌橋

    道灌橋

  • 道灌の歌<br /><br />橋の欄干には道灌が詠んだ山吹の歌が刻んでいるのが見えます。

    道灌の歌

    橋の欄干には道灌が詠んだ山吹の歌が刻んでいるのが見えます。

  • 氷川神社・大鳥居<br /><br />木製の鳥居(高さ15m)としては日本一の大きさです。<br /><br /><br />

    氷川神社・大鳥居

    木製の鳥居(高さ15m)としては日本一の大きさです。


  • 氷川神社・扁額<br /><br />社号は江戸時代末期の幕臣勝海舟の筆によるものだそうです。

    氷川神社・扁額

    社号は江戸時代末期の幕臣勝海舟の筆によるものだそうです。

  • 参道風景

    参道風景

  • 拝殿<br />

    拝殿

  • 本殿<br /><br />天保年間当時の藩主松平斎典の寄進により建立されました。<br /><br /><br />

    本殿

    天保年間当時の藩主松平斎典の寄進により建立されました。


  • 本殿に施された江戸彫紹介<br /><br />

    本殿に施された江戸彫紹介

  • 道灌手植の矢竹と献納和歌<br /><br />長禄元年(1457)川越城を築城した道真・道灌親子は城の神門方向に既に鎮座していた当寺を城の守護神として篤く尊崇しました。<br />特に道灌は当社に詣でて自らこの矢竹を植えて和歌を奉納しました。<br />「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」<br />(神社 説明)

    道灌手植の矢竹と献納和歌

    長禄元年(1457)川越城を築城した道真・道灌親子は城の神門方向に既に鎮座していた当寺を城の守護神として篤く尊崇しました。
    特に道灌は当社に詣でて自らこの矢竹を植えて和歌を奉納しました。
    「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」
    (神社 説明)

  • 道灌手植の矢竹全景

    道灌手植の矢竹全景

  • 東明寺参道<br /><br />東明寺(とうみょうじ)は稲荷山(いなりさん)称名院(しょうみょういん)と号し、一遍上人の開祖による時宗の寺です。かつては周囲に広い寺領を有していました。

    東明寺参道

    東明寺(とうみょうじ)は稲荷山(いなりさん)称名院(しょうみょういん)と号し、一遍上人の開祖による時宗の寺です。かつては周囲に広い寺領を有していました。

  • 東明寺山門

    東明寺山門

  • 東明寺本堂

    東明寺本堂

  • 東明寺扁額<br /><br />

    東明寺扁額

  • 川越夜戦跡石碑<br /><br />文明18年(1486)道灌が主君扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(うえすぎさだまさ、1446〜1494)に謀殺された後の川越城は、扇谷上杉家5代に亘って居城となりますが、天文6年(1537)新進気鋭の小田原北条氏綱・氏康軍により攻め落とされ松山城に敗走します。勢力回復を志す扇谷上杉朝定(うえすぎともさだ、1525〜1546)は山内上杉憲正(うえすぎちのりまさ、1523〜1579)並びに足利晴氏(あしかがはるうじ、?〜1560)の支援を受けて、北条綱成(ほうじょうつなしげ、1515〜1587)が守る3千の川越城を8万の大軍で包囲します。天文15年(1546)、北条氏康が8千を率い援軍に駆けつけ、夜陰に乗じて襲撃し、多勢を頼りに油断していた両上杉・足利軍連合軍は大敗、朝定は戦死し扇谷上杉氏はここに滅亡を迎えます。<br />この戦いで山内上杉氏及び足利公方は完全に勢力が衰退、小田原北条氏は武蔵国覇権に勝利します。<br />当時の東明寺は広く寺領を有していまして小田原北条軍と上杉連合軍との戦いはこの寺領と境内で行われました。

    川越夜戦跡石碑

    文明18年(1486)道灌が主君扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(うえすぎさだまさ、1446〜1494)に謀殺された後の川越城は、扇谷上杉家5代に亘って居城となりますが、天文6年(1537)新進気鋭の小田原北条氏綱・氏康軍により攻め落とされ松山城に敗走します。勢力回復を志す扇谷上杉朝定(うえすぎともさだ、1525〜1546)は山内上杉憲正(うえすぎちのりまさ、1523〜1579)並びに足利晴氏(あしかがはるうじ、?〜1560)の支援を受けて、北条綱成(ほうじょうつなしげ、1515〜1587)が守る3千の川越城を8万の大軍で包囲します。天文15年(1546)、北条氏康が8千を率い援軍に駆けつけ、夜陰に乗じて襲撃し、多勢を頼りに油断していた両上杉・足利軍連合軍は大敗、朝定は戦死し扇谷上杉氏はここに滅亡を迎えます。
    この戦いで山内上杉氏及び足利公方は完全に勢力が衰退、小田原北条氏は武蔵国覇権に勝利します。
    当時の東明寺は広く寺領を有していまして小田原北条軍と上杉連合軍との戦いはこの寺領と境内で行われました。

  • 東明寺境内

    東明寺境内

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