2012/05/24 - 2012/05/24
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こまちゃんさん
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5月24日の続きです。
張庁参観を終えて出てくると、その直ぐ近くに「瀋庁」がありました。
瀋庁は、明朝に登場した周庄で有名な数奇の商人「瀋万三(スェンワンサン:Shen Wan San)」の邸宅で、元々の建物は彼の父親の代の元にまで遡ります。
瀋万三は超有名人なので、その歴史などを綴っておきますね(かなりしんどかった・・・)。
それを知らずにこのホールを見ても、何にも面白くはありませんし。
瀋万三の父親で瀋家初代の「瀋佑由」は、思う所有って元々の住まいだった浙江省の湖州を離れて周庄東までやって来た。その後、住居を「銀之浜」へと移す。
息子の瀋万三は、自分の商売で財を成し始めた事をきっかけに、蘇州を商売の重要拠点と定め一層努力して発展する。
その時瀋万三は、当時蘇州の軍師「張士誠」が執り行っていた「大周政権(元中期から明初期の都市政策で、農業推進による発展)」を強く支持し援助し、張士誠もまた瀋万三を高く評価し、その貢献振りを世間に広めた。
明末期、明朝を開国した皇帝「朱元璋」により都が南京に統治された事をきっかけに、瀋万三は資産を投じて都の建造物の1/3を建設したところ、朱元璋の計らいで、瀋万三の2人の息子は仕官に召し抱えられた。
清朝初期、南京での地位が確固たるものとなった事を実感した瀋万三が、巨額の資産を投じて手掛けた邸宅が、後の「瀋庁」の始まりとなった。
その後、少々図に乗った瀋万三は、政権などにも色々と口を挟むようになり、皇帝に代わって3つの軍隊に賞金を出すなど、一商人としての一線を越えてしまった事が原因で朱元璋の気分を害してしまい、流刑に値する雲南への兵役を命ぜられ、辺鄙な国境村で余生を過ごすこととなってしまった。
その後の子孫の境遇も大変悲惨なもので、明の洪武31年(1389年)、瀋万三の長男瀋茂、娘婿の顧学文、孫の瀋徳全は、朱元璋によって兵役を命ぜられたり、戸籍や土地を剥奪されたり、処刑(凌遅刑)されるなどして処罰されることになった。
事の発端は、洪武初期、瀋万三の娘婿「顧学文」が、凉国の妃の藍玉を奪おうとした事で皇帝の怒りを買った大変な事件「藍玉事件」を誘発させてしまった。この事件では、首謀者不明のまま調査や討伐が執り行われ続け、死者が15万人にも達したと言う。
やがて犯人が顧学文と知れると、万三の長男の瀋茂も巻き添えを受ける事になるので、慌てて遼陽から逃亡した。
「呉江県誌」と言う記録によると、洪武31年2月、顧学文は“胡藍党の災い”の罪に課され、瀋万三の子孫瀋徳全ら6人と顧家一族は、同日に凌遅刑(手足を徐々に切り刻 んで死に至らしめる刑罰)を受け、これにより瀋家一族は、80余名が処刑されるに至った。
やがて時代が移り清末期になると、瀋一族の末裔「瀋本仁」と言う人が、逃れた財産を使って豪遊していたが、やがて彼の父親が亡くなると、人々からは「3年も待たずにお家が崩壊する」と言われるようになった。そこで瀋本仁は、それでも懲りずに豪遊を続けていたかと思うと、ある日突然扉を閉ざし、「私は今から家を守るために、金輪際皆とは遊ばない!」と言い放って閉じ隠り、来客などを拒絶して農業に励み、先祖の住まいの大業堂横に敬業堂を設け、宏大な場所に百余りの木々を植え、肥沃な田畑を何万㌶も有し、大きな屋敷を得るまでに至った。
瀋本仁は、彼は祖先の遺伝子が覚醒したかの如く、浪費した金銭が尽きようとした時、父親が死んた後に孤軍奮闘した。多大な財産を得た頃、大規模な邸宅で、今の「瀋庁」を造り上げた。
改心した放蕩息子の心意気を目の当たりにした人々は、瀋万三と共に、お金に換えがたい人物として讃えるようになったそうです。
張士誠:http://baike.baidu.com/view/109922.htm
朱元璋:http://baike.baidu.com/view/1690.htm
瀋庁に関する解説資料は、どのページを見ても部分的な説明で終わっていました。
なので、あちこちから資料をかき集め、それらを翻訳して繋いで仕上げました。
数字や順番など、一部文献と違っている場合もあると思いますが、概ねの流れはこの様な感じです。
尚、建物自体の解説に関しては旅行記内で進めて行きますので、扉画像の解説では、持ち主家系が歩んだ波瀾万丈な歴史と生き方などを載せてみました。
では、復元された実際の瀋庁を訪問してみましょう♪
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瀋庁も、古鎮の長閑な通りに面したところにありました。
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看板が無ければ、特に目立つ様子もない佇まいです。
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しかし、一旦正面から中へ入ると、凝ったホールが現れます。
松の絵が飾られた迎賓ホール。
大抵のホールには、こうして掛け軸の両側に一対の書法軸が掛けられています(対聯)。 -
複雑な構造をした通路を経て・・・
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四合院式の建物の、次のホールへと進みます。
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そのホールの両脇通路には、銅板彫刻がありました。
瀋万三の商業業績を綴る絵巻になって居ました。
あら?
暗くてみんなとはぐれちゃいました・・・(~灬~; -
ホールとホールを繋ぐ部分には、こうした贅沢なお庭が設けてあります。
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楼門式の牌坊も豪華。
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古風な清代様式の建造。
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建物の撮影では、例のヘンテコなへっぴり腰スタイルは見かけませんね。
外灘撮影とは、撮影ポーズが違うようです。(^灬^ -
瀋庁は、建設当初「敬業堂」と呼ばれていましたが、清朝末期に「松茂堂」と改名されました。
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ホールにある多くの調度品が、実際に使えるのが意外ですね。
(柵の中以外) -
また銅版絵巻がありました。
ここのは、南京遷都時にたたみ掛けるように事業を展開する瀋万三の様子が描かれています。 -
しかし、ウチの絵描きはドコ行ったのでしょう・・・?
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このホールの両脇にも通路があります。
一般的なホールは、その中を通り抜ける以外は、外周に小径がある程度ですね。 -
一種独特な豪華版のホール。
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その正面もこんなに大きい!
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この水牛との因果関係は・・・判りません。。。
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その先のお堂には、「万世福澤」と書かれた万三の像がありました。
対聯に書かれた「三秀」の文字は、瀋万三の別名です。
通貨には、「万三通宝」の文字が入っています。 -
瀋万三は、元から明の時代に活躍した商人で、当時の官僚に取り入って財を成した、所謂御用商人のような人物です。
基本的には彼一代で巨大な富を築き、江南地区の繁栄に努めたものの、彼の行きすぎが祟り、明の初代皇帝との間に生じた矛盾から、結局は僻地に流されてしまう・・・という数奇な運命を辿った人生が、中国で人気を集め、小説を始め映画や電視連続劇(ドラマ)でも放送されている程の有名人です。
沈万三は周庄で起業し財を成して発展しましたが、先にも書きましたように、現在「瀋庁」として公開されている邸宅は、瀋万三の子孫が、万三の邸宅があった傍らに建て直して住んでいた邸宅です。
このお堂は多分、子孫で最初にこの邸宅を建てた「瀋本仁」が、自分の祖父と働く事とを敬って建てたお堂なのでしょうね(自ら敬業堂と命名したくらいですから)。
周庄の町にとっては、その発展に最も大きな影響のあった人物なので、今でも人気があります。 -
中国伝統のベッド兼椅子の調度品家具。
この様に、実際に使えてしまうのが粋というか。
当然復刻版だと思いますが。 -
大ホールは3つですが、大きい上に、その周辺の構造も複雑で沢山あるので、張庁並みの大きさに感じてしまいます。
と言う事で、またみんなと合流できました♪ -
庭にも松の木が目立ちましたので、万三さんは松が好きだったのかな?
来る途中にあった「松鶴楼」は、万三さんの良く通った餐庁だったようですね。
・・・となると、蘇州の老舗レストラン「松鶴楼」は、この政商瀋万三に肖って、彼の通ったお店の名を使っているのかも知れませんね。
(若しくは同系列店) -
これも復刻版?
だとしたら、飾りの石板まで組み込んでて、良く出来ていますね。 -
爺ぃ発見!!
松茂堂にやって来たウチの絵描きを、漸く発見しました! -
松茂堂で記念撮影!
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さっきは超広角で変な顔だったので、再度普通に撮影しておきますね。
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全員が揃ったので、更に奥へと進みましょう!
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瀋万三の銅像があったお堂でも見ましたように、当時の通貨には、「万三通宝」の文字が有りましたが、これは公開に当たり作られたオブジェかと・・・(^灬^;
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一人ずつ記念撮影をば♪
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これがもし当時のままだとしたら・・・?(汗
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その奥には、茶室のような厨房がありました。
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郷土のおやつが売られていました。
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自前でこんな立派な厨房があったのに、松鶴楼にも出向いていたんですね。
今日のデザート・・・
お餅に、草団子に、かぼちゃ団子。
観光客の中には、「これって食べられるの?」と聞いてくる人も居ました。
ははは、失礼な! -
かぼちゃ団子は売り切れていました。
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その先には広い食堂がありました。
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この食卓に並んでいるものはサンプル食品です。
先にこれを見たから、「食べられるの?」と聞く人が居たのかも。 -
花瓶の形をした通路口。
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採光を考慮した開口部。
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二階への階段は封鎖されていました。
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蘇州の軍師張士誠と親しかった瀋万三は、明の統制を行う朱元璋にとって、ちょっと厄介な存在となってきたようですね。
蘇州を治めて統一をして行くために、朱は張を撃退するのですが、張を支持した金持ち達を「片板不得入海(たった一枚の鉄板でさえ、我が領土には入れない)」と称して制圧する事で報復を果たすのですが、当時の超弩級大富豪の万三だけは、不本意ながらも彼の膝元に残し、国政への投資を無理強いしたそうです。 -
ウチの絵描きも友人達も、瀋万三の経緯はしっている積もりでしたが、現地の銅板絵巻で見たその詳細で、更に開眼させられたようです。
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こでは万三栄華の最後を描いたシーン。
雲南の僻地へ飛ばされ、結果的に幽閉される時のシーンです。
投資をさせ続けても、全く衰退する気配の内瀋一族の財力に、とうとう業を煮やして幽閉してしまう朱元璋・・・。
ちょっと格好悪い皇帝さんですね。 -
その後の絵巻はありませんでしたが、この旅行記のトビラで紹介しています。
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「由此出口(出口はこちら)」
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さて、出口への通路は傭人通路からだそうです。
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いや〜、、、知ってたと思ったけど、それ以上に数奇な人生だったね・・・
彼の生涯をまざまざと見たみんなは、そういう感じに浸っていました。 -
さて、今見た歴史の現実で感慨に耽る間もなく、みんなの体は正直でお腹が空いていますので、瀋庁の直ぐ近くで食堂に入りました。
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そこは2階席が広く、ご覧のように眺望も良かったので。
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注文はみんなに任せて、こまはこの景色を10mmで収めていました。
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遊覧船があまり流行ってなかったのでしょうか?
それとも、土日になればひっきりなしに出張るのかも。 -
まだ吟味中?
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今度は入り口側から見下ろしてみました。
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大きな白いモクレン発見。
普通板はもうシーズンが過ぎていますが、このモクレンは種類が違うようですね。 -
しっとりした古鎮の風情を引き立てていますね。
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窓越しに。
古鎮はこの屋根瓦も魅力の一つ。 -
上から狙うには中々の場所でした。
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映画村ではありません♪
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漸く食事が出て来たようです。
少し景色を補充しながら、、、 -
待望の(?)食事にありつきたいと思います♪
豪華な料理や魚料理などは頼んでいませんので、江南の常家料理を戴きますが、ここで写真が60枚になったので、続きは次へと見送ります。
食事をして帰途につくまでの様子は、次の旅行記でお送りします♪
しかし、この章(周庄瀋庁)を仕上げるの、歴史嫌いなこまにとってマジしんどかったぁ〜・・・
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