2012/03/10 - 2012/03/10
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ドクターキムルさん
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逗子市久木5にある岩殿寺は曹洞宗のお寺で海雲山護国院岩殿寺という。寺伝によれば 養老5年(721年)徳道上人が創建し、行基が十一面観音像を造立して安置したという。
鎌倉時代には源頼朝によって寺領が寄進されたとされる。『吾妻鏡』には源実朝らがしばしば当寺に参詣したことが記される。その後衰退するが、天正19年(1591年)徳川家康によって再興されたが、明治時代の廃仏毀釈で再び衰退した。本尊は十一面観音で、通称、岩殿観音と呼ばれてきた。坂東三十三箇所観音霊場第2番である。
小坪までが鎌倉中とされたが、隣接した久木あたりも小坪の扱いだったのだろうか。源頼朝や御台所(後の北条政子)、源実朝などの源氏が訪れている。
本堂屋根には唐獅子と花(牡丹?)の飾り瓦が上がっている。昭和の終わりにもなると瓦屋さんが勝手に飾り瓦を上げるようになる。岩殿寺の本堂の飾り瓦もそのようなものだ。
(表紙写真は岩殿寺庫裡)
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「岩殿寺」の看板。
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「岩殿寺入口→」の看板。
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「岩殿寺←」の看板。踏切前にある。
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参道に入ったところのお宅。
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参道に入ったところのお宅。銅屋根だ。
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参道中頃にあるお宅。丸い家だ。
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「岩殿寺入口←」の看板。
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「坂東三十三箇所 観音霊場 第二番札所 岩殿観音」の標石。
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ずらりと並ぶ札所御詠歌碑。
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「坂東三十三観音霊場 札所御詠歌碑」。
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「岩殿寺縁起
相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。
それゆえ、当山は徳上、行基両聖人の開基といわれている。また、大悲殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。
正暦元年庚寅春三月十七日六十五代花山法王が来山され、御自身導師となられて百僧法要御供養を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
又、承安四年四月十八日七十七代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ヶ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現れてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大悲の冥助を幾度も得て、立直れたというが、なかでも、石橋山敗軍のときは、観世音が船人となつて頼朝を房州洲崎に渡し、たちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年乙未の二月二十三日には頼朝公幕下参詣。建久三年巳卯の五月八日には御白河法王四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年五月五日には右大将源実朝将軍参詣。寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家並び十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に拠り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。
しかし、その後来た、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜り、その徳沢に潤い、天正九年十一月には県令長谷川七衛門長綱が荘厳なる堂宇を再建し、且つ申し請けて寺領五石の御朱印を賜ったという。
(以上「東鑑」「三浦郡誌」「相模風土記」および土地旧家覚之書による)」。
誤記が多いがそのまま写してある。そのため、理解できない箇所もある。 -
分かり易いように加筆・訂正すると、
岩殿寺縁起
相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山徳道上人が、この地に下向されて熊野権現を祀ったとされる養老五年(721年)に始まる。また、数年後には行基が十一面観音の石像を造立して安置したと云われている。
それゆえ、当山は徳道上人、行基菩薩両人の開山と云われている。また、大悲殿(観音堂)前から南海を見渡せるので、山を海前(現在は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したと云われる。
正暦元年(990年)庚寅春三月十七日六十五代花山法王が御来山され、御自身導師となられて百僧法要御供養を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
また、承安四年(1174年)四月十八日七十七代後白河法皇が御来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝公が蛭ヶ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現れてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大悲の冥助を幾度も得て、立直れたというが、なかでも、治承四年(1180年)石橋山敗軍のときは、観世音が船頭となって頼朝公を房州洲崎に渡し、たちまち十一面観世音の妙容を現わして、三浦の方に飛び去ったという。頼朝公は御報恩のため御来印を下され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治三年(1187年)正月二十三日には頼朝公の姫(大姫)が参詣。建久三年(1192年)壬子の三月には頼朝公が三浦介義澄同六兵衛義村等を従えて参詣。建久六年(1195年)乙未の二月二十三日には頼朝公幕下参詣。建‥‥年巳卯の五月八日には後白河法王四十九日の御仏事(建久三年(1192年)壬子にあたる。あるいは建久10年(1199年)己未の頼朝死去後の法事のことか?)のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年(1209年)五月五日には右大将源実朝将軍参詣。寛喜二年(1230年)十一月十一日、大破した伽藍再建のため、大僧正院家ならび十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿(4代将軍藤原頼経か)の命に拠り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日(21日)昼夜祈念した。また貞永元(1232年)年十二月十八日には観音堂の修理供養が営まれたことが「東鑑」にも記されている。
しかし、その後来た、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康公)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜り、その徳沢に潤い、天正九年(1581年)十一月には県令長谷川七衛門長綱が荘厳なる堂宇を再建し、かつ申し請けて寺領五石の御朱印を賜ったという。
(以上「東鑑」「三浦郡誌」「相模風土記」および土地旧家覚之書による)。 -
「喜つわ生乃霊場也」?
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山門(吉祥門)。
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山門には「海雲山」の扁額が掛かる。
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山門扉の彫刻。
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「合掌礼拝」。
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石碑。
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「三界萬霊供養塔」。
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門柱。右に「海雲山」、左に「岩殿寺」。
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山門。
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境内の梅。
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境内。
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御手水場。
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お地蔵さま。
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庫裡。
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慈母観音と慈父観音。
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九重石塔。
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石燈籠。
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庫裡。
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石燈籠。
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お地蔵さま。
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庫裡玄関に掛かる「岩殿寺」の扁額。
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「宝心庵」。
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庫裡横の梅。
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本堂。
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本堂。
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本堂屋根に上がる唐獅子の飾り瓦。
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鐘楼。
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本堂。屋根には唐獅子と花(牡丹か?)の飾り瓦gふぁ上がる。昭和58年(1983年)の建立。
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庫裡と鐘楼。
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庫裡横の石燈籠。
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利生堂(八角堂)。
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利生堂(八角堂)。
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三昧堂(右座禅堂)。
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堂宇の説明板。
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山門からの参道。
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鐘楼。
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鐘楼の梵鐘。
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鐘楼。
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鐘楼。
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太子堂。
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太子堂。
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奥の院下。
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