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 上野公園にある西郷隆盛の銅像は、誰もが知っているように、犬を連れた浴衣姿である。上野の西郷さんは高村光雲作であり、犬は後藤貞行作である。<br /> 西郷隆盛(文政10年12月7日(1828年1月23日)〜明治10年(1877年9月24日))は、薩摩藩の盟友・大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称されている。しかし、その肖像は不明である。<br /> 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復された。これを機に、上野公園に西郷の銅像が立てられることになり、旧庄内藩主の酒井忠篤が発起人の1人となった。また、旧庄内藩士・菅実秀(中老)は赤沢経言や三矢藤太郎に命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて「南洲翁遺訓」を発行している。<br /> 「敬天愛人」の書を幾つか残している。「敬天愛人」とは「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(南洲翁遺訓)とある。今でも庄内の地では西郷南州が慕われており、集落全戸に西郷隆盛の肖像画を飾っているくらいだ。<br /> 修学旅行で西郷隆盛の銅像型の温度計を買って帰り、大事にしていた。40年間も馴染みのある像である。角館の青木家に西郷の写真が残っているというので2度ほど見に行った。しかし、この写真はその後に西郷ではないとされている。<br /> 死後21年経って建てられた銅像の序幕式(明治31年(1898年)12月18日)では、糸子未亡人(西郷夫人)は西郷には似ていないと言ったと伝えられている。それが、鎌倉・長勝寺に立つ日蓮聖人像のお顔とどことなく似ている。高村光雲作と伝えられる洗足池の畔に立っていたものを移設したものだ。光雲は会ったこともない人の顔は似せて造ったのだろうか?<br />(表紙写真は上野の西郷さん)

上野の西郷さん

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2004/04/03 - 2004/04/03

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 上野公園にある西郷隆盛の銅像は、誰もが知っているように、犬を連れた浴衣姿である。上野の西郷さんは高村光雲作であり、犬は後藤貞行作である。
 西郷隆盛(文政10年12月7日(1828年1月23日)〜明治10年(1877年9月24日))は、薩摩藩の盟友・大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称されている。しかし、その肖像は不明である。
 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復された。これを機に、上野公園に西郷の銅像が立てられることになり、旧庄内藩主の酒井忠篤が発起人の1人となった。また、旧庄内藩士・菅実秀(中老)は赤沢経言や三矢藤太郎に命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて「南洲翁遺訓」を発行している。
 「敬天愛人」の書を幾つか残している。「敬天愛人」とは「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」(南洲翁遺訓)とある。今でも庄内の地では西郷南州が慕われており、集落全戸に西郷隆盛の肖像画を飾っているくらいだ。
 修学旅行で西郷隆盛の銅像型の温度計を買って帰り、大事にしていた。40年間も馴染みのある像である。角館の青木家に西郷の写真が残っているというので2度ほど見に行った。しかし、この写真はその後に西郷ではないとされている。
 死後21年経って建てられた銅像の序幕式(明治31年(1898年)12月18日)では、糸子未亡人(西郷夫人)は西郷には似ていないと言ったと伝えられている。それが、鎌倉・長勝寺に立つ日蓮聖人像のお顔とどことなく似ている。高村光雲作と伝えられる洗足池の畔に立っていたものを移設したものだ。光雲は会ったこともない人の顔は似せて造ったのだろうか?
(表紙写真は上野の西郷さん)

  • 上野の西郷さん。浴衣姿で犬を散歩させている。高村光雲作(犬は後藤貞行作)。

    上野の西郷さん。浴衣姿で犬を散歩させている。高村光雲作(犬は後藤貞行作)。

  • 上野の西郷さん。

    上野の西郷さん。

  • 上野の西郷さん。

    上野の西郷さん。

  • 「敬天愛人<br />西郷隆盛と銅像の由来<br /> 西郷隆盛は文政十年(一八二七年)十二月七日薩摩藩士として鹿児島鍛冶屋町に生まれた。通称吉之助。南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること二回。元治元年(一八六四年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶應三年(一八六七年)十二月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は、故郷に退隠したが、明治四年(一八七一年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果たした。然るに、明治六年六月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治十年二月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七ヶ月余、ついに敗れて城山に自刃した。九月二十四日、享年五十一歳。そのため一時逆賊とされたが、<br />明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醸金を得て、明治二十六年起工、同三十年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功績は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以はここに在るのである。」

    「敬天愛人
    西郷隆盛と銅像の由来
     西郷隆盛は文政十年(一八二七年)十二月七日薩摩藩士として鹿児島鍛冶屋町に生まれた。通称吉之助。南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること二回。元治元年(一八六四年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶應三年(一八六七年)十二月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は、故郷に退隠したが、明治四年(一八七一年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果たした。然るに、明治六年六月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治十年二月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七ヶ月余、ついに敗れて城山に自刃した。九月二十四日、享年五十一歳。そのため一時逆賊とされたが、
    明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醸金を得て、明治二十六年起工、同三十年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功績は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以はここに在るのである。」

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