2011/10/15 - 2011/10/16
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倫清堂さん
あの大震災以降、東北への思いはますます強くなり、週末を利用して秋田へと行くことにしました。
天気はあいにくの雨。
東北自動車道を盛岡に向けて北上し、盛岡から国道46号線で秋田県に入りました。
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多くの武家屋敷が残る角館は、実際は秋田県仙北市の一地方ですが、旧町名の方が今も有名で、国の重要伝統的建造物群保存地区としてもこちらの名称が用いられています。
まずは家族の要望で大村美術館を見学。
フランスの装飾芸術家、ルネ・ラリックによるガラス工芸品を観賞しました。
次に、車を大駐車場に移動し、武家屋敷を見て回ることにしました。
戦国時代、角館は戸沢氏の本拠地とされていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に与した佐竹氏と所領替えとなり、佐竹氏の親戚筋に当たる蘆名氏が治めることとなりました。
戊辰戦争では新政府軍についたため佐幕派の周辺国から攻められますが、城下は戦禍をまぬがれることができました。
昭和の大戦でも空襲されることはなく、江戸時代の多くの建造物が今も残されています。大村美術館 美術館・博物館
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最初に訪れた石黒家は、蘆名氏が断絶した後に入部した佐竹北家に仕えていた人物で、現在はその末裔がこの武家屋敷で生活しており、ふすま一枚隔てた空間を観光することができます。
石黒家 名所・史跡
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その石黒家よりも規模の大きな武家屋敷が、隣にある青柳家です。
青柳家 美術館・博物館
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石黒家のように母屋に上がることはできませんが、3000坪の敷地内では、庭園を中心として建つ蔵などで展示品を見ることができます。
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それらの展示の中で特に目を引いたのが、『解体新書』の初版でした。
なぜここに『解体新書』がと不思議に思ったところ、その挿絵を描いた小田野直武という人物が青柳家の親戚であるということが分かりました。
直武は秋田に来ていた平賀源内に師事し、江戸へ出向いた際に杉田玄白を紹介され、『解体新書』の挿絵を描くことになったのでした。
彼は、幼馴染みの青柳8代目正躬氏の縁で、絵画に造詣が深かった佐竹北家の義躬公と佐竹藩主曙山公と出会い、西洋画の手法を取り入れた秋田蘭画を大成させますが、31歳で突然の死を迎えます。
一説によると、曙山公が藩政をおろそかにするのは直武と絵画に夢中になっていることが原因であるからだという声が高まったため、抹殺されてしまったのだと言われています。 -
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イチオシ
少し離れた所にある西宮家も見学。
西宮家 名所・史跡
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高速道路を利用して秋田市内に入りました。
今回はあまり予習をしておかなかったことと、秋田市内は宿泊だけと考えていたため、少し余分に出来た時間にどこへ行くか、迷ってしまいました。
市内を走っていて目に付いたのが、太平山三吉神社の看板。
行ってみると比較的新しい社殿でしたが、一之宮と同じ規模の大きな社殿で、それだけでもこの地方の人々が篤い敬神の念を持っていることが分かります。
太平山三吉神社は天武天皇の御代、白鳳20年に征夷大将軍坂上田村麻呂によって建立されました。太平三吉神社 寺・神社・教会
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御祭神は大己貴大神・少彦名大神・三吉霊神の3神で、奥宮は太平山の山頂に鎮座しています。
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次に、これまた運転中に看板を見かけた彌高神社へ。
看板が出ていたものの、車での入り口が分かりづらく、行っては引き返しを何回か繰り返した後、ようやくたどり着くことができました。
ちょうど結婚式が終わったところらしく、新郎新婦が鳥居の下で写真撮影をしているめでたい光景を見ることができました。
彌高神社の御祭神は、平田篤胤大人命と佐藤信淵大人命。
御祭神の二方は現在の秋田県で生まれた、国学における師弟の関係です。彌高神社 寺・神社・教会
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平田篤胤大人は、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長とともに国学四大人に列せられ、国学を極めたことで徳川幕府の正統性を揺るがすこととなり、江戸を追われて秋田で亡くなります。
その墓所も秋田市内にありますが、今回は詳しい場所を調べていなかったため、墓参は次の機会に回したいと思います。
佐藤信淵大人については、自分の中での評価はまだ固まっていないため、これから勉強したいと思います。 -
秋田市内のホテルに泊まり、夕食は名物のきりたんぽを食すことができました。
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翌日は日本海に沿って山形県に入り、山形自動車道に乗って帰ることになります。
最初に目指したのは象潟。
司馬遼太郎氏の『街道をゆく』で紹介されていた蚶満寺を訪れました。
ここは松尾芭蕉『おくのほそ道』で描かれた場所としては最北端に当たります。
歴史は古く、神功皇后が三韓征伐の帰路、暴風により船がこの地に漂着し、ここで御子(後の応神天皇)をお産みになったとの伝説が残されています。
その伝承が残る地を訪れた慈覚大師円仁は、仁寿3年に皇宮山蚶満珠禅寺として寺を開いたのでした。蚶満寺 寺・神社・教会
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山門をくぐった先で拝観料を納め境内に踏み入れると、まずは巨大な芭蕉の木が目に入ります。
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『街道をゆく』によると、当時の住職が松尾芭蕉の縁を感じて植樹したものだそうです。
芭蕉の号は、当時彼が住んでいた屋敷の庭に芭蕉の木から取ったものですが、芭蕉の木を見る機会などはなかなかないので、こうして実物を見ると南国風のたたずまいをしており、わびさびの精神を極めた俳聖との落差がいかにもおもしろいと感じられるのでした。 -
本堂前で合掌し、裏に進むと、そこには北条時頼公のつつじや親鸞聖人の腰掛石など、貴重な史跡がたくさん残されています。
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今は水田が広がっている象潟は、もともと松島のように島々が点在する海でした。
松尾芭蕉はその風景をシナにおける悲劇の美女西施に見立て、
象潟や雨に西施がねぶの花
と詠んでいます。 -
そのような風光明媚な象潟の地形を一変させたのが、文化元年の大地震でした。
土地が隆起してしまい、海の底が地表に露出して干潟となってしまったのです。
為政者にとっては、石高を増やすための天の恵みでしたが、二十四世全栄覚林は九十九島の保全を主張して藩と対立し、ついに捕えられて獄死してしまったのでした。
東日本大震災では、太平洋側の土地が沈下して、住民たちは不便を強いられていますが、地球そのものが生きている以上、地形の変化に人間が逆らったところで、それはむなしいことではないでしょうか。
田園地帯となった象潟も、そんなに悪い風景ではないと思いました。
象潟を愛した覚林和尚も、被災した地元を愛する住民も、その精神が尊いものであることは間違いない事実だと思います。 -
そのまま南下し、山形県内に入りました。
前日に比べたらずっと天気はよくなっていますが、それでも雲がかかっているため、鳥海山の姿はほとんど見えません。
その鳥海山に宿るとされる大物忌神をお祀りする、鳥海山大物忌神社へと向かいました。
鳥海山大物忌神社は出羽国一之宮。
鳥海山への登山口に鎮座し、最初に訪れたのは吹浦口ノ宮。
鳥海山は活火山で、大和朝廷から使わされた蝦夷討伐の軍は、火山の噴火を蝦夷の力と結び付けて捉え、非常に恐れたと考えられます。
そこで朝廷は鳥海山に従五位の神階を叙し、噴火するたびに階位を上げ、最終的には神々の中で最も位の高い正二位勲二等にまで登りつめてしまったのでした。鳥海山大物忌神社吹浦口の宮例大祭 祭り・イベント
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『神皇正統記』を書いた北畠親房公の次男北畠顕信公が霊山落城の後に、南朝の復興と奥羽両国の静謐を祈願したという歴史もあります。
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本社は鳥海山の山頂にあり、里宮は2社あります。
吹浦口之宮はそのうちのひとつで、下拝殿から急な階段を登ると、装飾の施された本殿が見える広場へと出ることができます。
本殿は2社が並んでおり、向かって右に大物忌神、左に月山神が祀られています。
ちらほらと参拝客が訪れますが、観光地化されてはおらず、雰囲気のよい神社でした。
雨がやんだおかげで本殿の近くまで近づくことができたのも、ありがたいことでした。 -
イチオシ
下調べをした時に気になったのが、岩に掘られたという十六羅漢像のことでした。
車のナビゲーションで示される場所は、道路のすぐ下の、崖のような所です。
入り江を隔てた反対側からなら見えると思って行ってみましたが、距離もあるし他の岬の陰になって、どうにも見ることができません。
どうしようか迷いながら車でさまよっていると、少し高い所に駐車場を発見。
そこから歩道橋を渡り、海岸に降りて行くと、お目当ての十六羅漢像は岸壁で待っていました。
羅漢とは、釈迦が仏法を説いた時に集まった仏弟子のことで、国内には様々な羅漢像が収められていますが、岩に掘った羅漢が一堂に会するのは、ここ遊佐の十六羅漢岩しかないと思います。
多くの漁師が海難事故で命を失うことに胸を痛めた海禅寺21世住職寛海和尚が、海で命を落とした漁師たちの供養と海上の安全を祈願して元治元年から托鉢を始め、石工たちの手によって明治元年にようやく22体の磨崖仏を完工したのでした。十六羅漢岩 寺・神社・教会
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鳥海山大物忌神社の里宮としてはもう一社、蕨岡口ノ宮があります。
先ほどの吹浦口ノ宮は海岸沿いと言ってもよい場所でしたが、蕨岡口ノ宮はかなり内陸に入った場所に鎮座しています。
それぞれ鳥海山への登山道の入り口に位置しており、かつてどちらが一之宮であるかで争った経緯もあります。
蕨岡口ノ宮の参道には、立派な随身門がありました。
しかし、吹浦口ノ宮には神主さんがいましたが、こちらには常駐していないようです。鳥海山大物忌神社蕨岡口之宮例大祭 祭り・イベント
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鳥居と随身門をくぐって境内に進むと、相当な高さのある社殿が見えて来ました。
古びた様子も決してみじめな感じではなく、きっと神職の方は人手不足の悪条件の中で地域の人たちとの結びつきを大事にしながら、神社を守っているのではないかと思いました。
なお最長の本社は、伊勢神宮と同じように20年ごとに建て替えを行っているそうです。
自分にとって鳥海山は秋田の山というイメージが強いですが、ここはもう山形県内です。
こうして、最後の目的地である酒田へと向かったのでした。 -
酒田はかなり昔、両親に連れられて来たことがありますが、ほとんど記憶に残っていません。
ちょうど昼食時なので、駅に寄って情報収集し、よさそうな寿司屋に入って日本海の海の幸を楽しみました。
寿司屋の近くにあった鳥居が気になったので、食後に境内へと進みます。
山王鳥居の独特な姿から察したとおり、日枝神社でした。日枝神社 寺・神社・教会
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瓦葺きの立派な屋根で、社殿の大きさもかなりのものです。
そして、かつてここへ来た記憶が、うっすらと甦って来ました。 -
記憶がはっきりとした姿を取り戻したのは、神社と同じ高台にある光丘文庫の建物を見た時でした。
シナ風の異国情緒あふれる古びた建物に、石原莞爾に関連する資料が展示されていたことを思い出しました。
まだ小学生だったかも知れませんが、なぜか石原莞爾という名前が強く印象に残っていたのです。
中に入ってみると、石原莞爾の資料は保管庫へ入れられてしまっているらしく、酒田市の歴史に関する資料が展示されていました。
ただ、石原莞爾の生前の蔵書が一部寄贈されているとのことで、彼がどのような本を読んでいたのか、書棚を見ながら彼の思考を想像してみました。
また、大川周明の蔵書はそれ以上に多く収められていました。
大川周明は酒田出身の学者で、敗戦時にはA級戦犯として起訴されますが、精神生涯の診断を受けて不起訴となりました。
北一輝などと交流のあった社会主義者で、よい評価などできるはずもありませんが、コーランの研究をしていたことなど興味深い人物でもあります。
光丘文庫の見学を終え、江戸時代から続く料亭・相馬樓を見学しました。
実物の舞妓さんを間近に見て、挨拶を交わすこともできました。光丘文庫 名所・史跡
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そろそろ帰る時刻が近づいて来ました。
最後に酒田で最も知られている名所、山居倉庫と欅並木を見ることにしました。
明治に入ってから米蔵として建てられた土蔵で、現在は12棟が残っています。
ここは先の光丘文庫よりも記憶がはっきり残っていました。
欅並木は、日本海からの強風と夏の日差しをさえぎるために植えられた実用的なものですが、太い幹を持つ欅が並んでいる景色はかなり印象的です。庄内米歴史資料館 美術館・博物館
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しかしそれでも、最も目立つ場所に鎮座している三居稲荷神社や小鵜飼船などは記憶に残っていませんでした。
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今の感覚だと、陸路こそが物流を担っていると思われがちですが、かつては海路の方がより効率よく物を運ぶことができたと考えられます。
大規模な米蔵がはるか向こう側まで続いているばかりでなく、その屋根は断熱を目的とする二重構造となっており、よく考えられて建てられたものだと感心しました。
震災の年の夏の旅は、これでひとまず区切りとなるのでした。
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