2011/10/22 - 2011/10/23
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ANZdrifterさん
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古代から、ヤマト王権は東北地方を征服しようとした。1世紀末には武内宿禰が「東の鄙に日高見国あり土地肥えて広し撃ちて獲るべし」と景行天皇に奏上したが、367年頃仁徳帝が派遣した田道将軍はエミシの反撃をうけ東日流(ツガル)で全滅している。637年には舒明帝が派遣した上毛野君片名軍がエミシに大敗している。
774年にはヤマト北進に抗して海道エミシが蜂起し、38年戦争が始まり、以後エミシが攻勢に転じ、780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい(宝亀の乱)多賀城を焼き払った。
789年の奥州市・巣伏の戦いで、アテルイとモレは寡兵でもって5万人のヤマトの大軍を破った。この戦いで敗れた紀古佐美の報告が「続日本紀」にある。
このように、ヤマトの軍勢の東北侵攻は各所でエミシの激しい抵抗を受け、しばしば大敗を喫している。
今回は、アテルイの戦いの記念碑的な場所である水沢を訪れた。
旅の経路は北上川東岸にある新幹線の水沢江刺駅で下車、羽黒山の出羽神社に詣でてから、西岸に移りアテルイが紀古佐美軍5万を破った戦いの関係地、および坂上田村麻呂が築いた胆沢城跡。ついでに最北の前方後円墳・角塚古墳を巡り、水沢市街に泊まり、東北本線の水沢駅から帰った。
岩手県水沢地方の記念碑や説明などは、ヤマト軍の侵攻を地元軍が撃ち破ったという立場から書かれている。これは福岡県で岩井の乱を地元民の立場から再評価する運動と軌を一にしている。
しかし、宮城県多賀城では 「エミシの反乱を鎮圧」という立場でガイドが説明する。あたかも、先行してヤマト王権の配下になったことで、宮城県はエミシとは違う立場であると自慢したいかのようである。
エミシとはヤマトの支配が及ばない人々にたいする蔑称で、宮城を含む東北人とアイヌの先祖であるとされているのに、歴史を曲げてまで我々はエミシではないと主張しているようで見苦しかった。
今回の訪問先を時代順に紹介してゆくと、奥州市胆沢区の西部、南都田にある国指定史跡の角塚古墳から。
前方後円墳は3世紀から6世紀前半にかけてヤマト王権の影響で各地の豪族が造成した。大雑把にとらえると古墳時代はヤマト(倭)の時代で、以後は「日本」と称するようになっている。
つまり、水沢に5世紀末から6世紀はじめの前方後円墳があるということは、当時の水沢地方のエミシの長はヤマトと友好的な関係にあったということであろう。現物の角塚古墳は予想していたよりも小型でたしか44メートルだったが、見事できれいに保存されていた。
7世紀、8世紀はヤマトとエミシの相克の時代で、724年に多賀城をが、759年に雄勝城をヤマトが築いたが、780年には海道エミシの伊治公呰麻呂が雄勝城を奪い、多賀城を焼き滅ぼした。
内陸の北上川流域では、族長アテルイのもとに大部族連合が結成され、およそ20年の間に、5万、10万、4万と3回にわたり送り込まれた政府側の大軍に、堂々と渡り合うエミシの軍隊が組織されていた(高橋富雄:辺境)と考えられる。
水沢地区の戦争は789年で、ヤマトの紀古佐美が5万の軍勢を進めたが、水沢江刺駅東方の羽黒山に400人の兵をひそめていたアテルイは、紀古佐美軍の退路を断って攻撃した。ヤマト軍の戦死者は20数名だったが北上川におぼれる者が1000名を超えて大敗した。
現在、羽黒山には出羽神社があり、すぐ横の小高い丘にはアテルイとモレを顕彰する碑が一般からの寄付金で建てられ、また、地元民の奉仕で発掘調査もおこなわれ、当時の遺品が見つかっている。
その戦いの主戦場が「巣伏」で小さい記念公園がある。ここは「跡呂井地区」でアテルイにかかわる地名である。丘の上には「たんぼアート」見物用のやぐらが建てられている。
その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、802年には胆沢扇状地の北部に胆沢城を築いた。兵力だけでなく民力の消耗もあり、この年にアテルイとモレは講和に応じて平安京にのぼったが、危険人物として処刑された。この一連の経緯をヤマトによるだまし討ちとする説もある。二人の魂は成仏を拒み、怨霊となって悲痛な声を上げながら都の空を飛びまわったともいう。
ゆかりの枚方市の片埜神社では毎年慰霊祭が行われ、また、田村麻呂の創建の清水寺にもアテルイとモレの顕彰碑がある(別旅行記)。
アテルイにちなむ地名の跡呂井が水沢にあり、モレ(モライ)には母体(モタイ)地区が前沢にあり、アテルイの甥、人首丸にはヒトカベ地区があり、いずれも奥州市内の地名なのでアテルイ一族は奥州市を中心に統治していたエミシの豪族であろう。
胆沢川と北上川の合流点近くに田村麻呂が建てた胆沢城は、約1?四方の広大な城で、発掘作業もすすめられており、近くには埋蔵文化財調査センターがある。今回はセンターを訪れずに城の鬼門に建てられた鎮守府八幡宮に参拝した。
なお、田村麻呂は803年に盛岡に志波城を築いたが水害のため10年で南の徳丹城に移設し、9世紀中ごろには約50?南の胆沢城に後退し、機能も移管された。
ヤマト王権の強圧的な北進は、9世紀中ごろに秋田・岩手両県の中部を結ぶ線で停止されて、ツガルを除いてはゆるやかにヤマト化されたいうが、日本海側では秋田にあった出羽国府が815年に約90km南の酒田市の城輪柵に後退し、秋田城は878年に焼き滅ぼされている。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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日本最北の前方後円墳「角塚」(つのづか)。5世紀末から6世紀はじめの築造とされている。このころはヤマトとエミシの紛争の記録がない時代であった。
国指定の史跡で、道の手前に小公園がある。後円部は二段になっている。 -
暗くて判りにくいが 左が前方部。右の後円部が段になっている。
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道の反対側の小公園には説明の掲示がある。
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小公園にある説明図に古墳の測量図があった。
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新幹線、水沢江刺駅の東にある丘、羽黒山は789年にアテルイが400人の兵をひそめて5万人のヤマト軍の動きを見、時を図ってヤマト軍を攻めて北上川に追い落としたと伝えられる場所で、山頂には出羽神社が祀られている。
神社まではタクシーでも行けるが、健脚ならば駅から10数分あるいて神社下、そこから長い石段を登るのがおすすめ。 -
出羽神社。この左手を進み、田の神さまを右に見てすぎると・・・・・・・
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地元の人たちが醵金で立てた黒御影石の アテルイとモレの顕彰碑 が少し盛り上がった場所にある。アテルイとモレは郷土の守護神であろう。
碑の下にはアテルイとモレの墓所とされる大阪・枚方市牧野の式内社、片埜神社の牧野公園にある首塚の土が埋められたという。
確かアテルイは胆沢地区のエミシの長で、モレも近くの地区の長であったと言う記述があったが メモ紛失。 -
上の写真の周辺で 市民参加で発掘調査が行われ 当時の遺品が発見されている。
市民が 土地を守ってくれたアテルイやモレに尊敬、親近感を抱いていることがわかる。 -
顕彰碑のちかくには 衣川まで何キロというような標柱が立っている。
これは藤原氏の館跡への方向と距離を示している。
現在、その館跡には えさし郷土文化館や、えさし藤原の里などの施設ができている。 -
北上川を渡って西岸に入り、水沢競馬場の交差点を北に入ると数百メートルで「跡呂井」の看板がある。
いうまでもなく アテルイの土地である。 -
小さな丘に立つやぐらは たんぼアート見物用。
丘の麓に アテルイたちの軍勢が寡兵で5万のヤマト軍を破った巣伏の戦いの碑がある。 -
巣伏の戦いの碑。上半分は 戦いの絵で北上川に流されてゆくヤマトの兵士たちが描かれている。
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説明の冒頭部。
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上の碑の左に 巣伏の戦いの跡 の碑が建てられている。
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丘の上のやぐらに登ると 丈の短い暗色の古代米で田んぼに書いた前沢牛という文字が牛の形になっていた。
ほかにもあったらしいが これだけが残っていた。 -
胆沢城跡に建てられた鳥居。
この道を入ってしばらく行くと次の写真になる。 -
田んぼのなかに 胆沢城跡に標柱が立っている。
ここを右折すると鎮守府八幡がある。 -
方1kmもある胆沢城の東北部、つまり鬼門に祀られた鎮守府八幡宮。
祭神はもちろん八幡大神だが、ご神体は「最霊石」という石らしい。
江戸時代には 菅江真澄が拝観しているが、石がご神体というのは別項旅行記の荒脛巾神社を想起させる。
応神天皇や神功皇后も祀られている。 -
鎮守府八幡宮の参道を進む。
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右が拝殿。
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本殿の左側には 多くの小さい社殿や石碑があった。
おそらく 地元民が崇敬していた荒脛巾神社や地主神、祖霊などは こうして記憶から消されてゆくのであろう。 -
水沢市内の日高神社。日高通りの突き当りにある。
1632年に再建された「流れ造り」で彫刻、装飾が優れているので、国指定の重要文化財である。 -
日高神社の境内にある瑞山神社(みずやま)。
平泉滅亡後、陸奥国留守職となった留守氏の祖霊廟。
水沢は留守氏の城下町で現在も武家屋敷が多数残され
一部は公開されている。
写真右奥は殉死した家士の墓で、留守氏の善政がしのばれる。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2016/01/24 06:17:42
- 消された歴史、残った事実
- ANZdrifterさん お早うございます。
私が習った日本史では坂上田村麻呂が蛮族の乱を鎮圧したとだけ書いてあり、あたかもテロ集団の鎮圧をした英雄のような記述でした。
ヤマトを先祖に持つ私達にしてみれば、(悪いアメリカインディアンを殲滅した将軍のように・・)心痛む出来事ですが、正当化してしまうのが勝者の歴史ですね。
しかし歴史を正面から見つめ客観的な見方で事実のみを学ぶことは大切だと痛感しました。
ANZdrifterさんの東北を巡る旅は特異な旅行記です。身近な人から聞く昔話のように冒頭の文章に引きこまれてしまいました。
とっても感銘を受けています。
pedaru
- ANZdrifterさん からの返信 2016/01/25 13:00:37
- RE: 書かれた歴史の裏で
- pedaru さん 今日は
書き込み 有難うございます。
じつは、宮城県の多賀城でもガイドが「エミシの反乱を鎮圧し・・・・」などと説明しています。自分たちにエミシの血が流れていることが恥ずかしいのか、まるで自分が天孫民族であるかのようで見苦しいと感じました。
反乱とは体制内から起こるもめ事で、エミシのようにヤマトとは別の勢力であった部族との戦いは、反乱ではなくて 争乱・戦争と呼ぶべきです。
(日高見国を)「撃ちて獲るべし」と奏上した武内宿禰が、岩手県二戸市で武内神社に祀られていたり、石巻の日高見神社の御祭神が豊作願いの水神様から天照皇大神・日本武尊命・武内宿禰のヤマト系の三柱に取って替わられていたなど、縄文時代から続く東北王権の文化はヤマト王権によって塗りつぶされています。
最近では関西系のタレントが「縄文文化が青森まで伝播した」などと話していましたが、縄文文化は道南・青森・岩手・秋田で発生しこれらが中心地で、日本中にひろがった文化です。
世界文化遺産申請もこれらの地方を「一万年間続いた(自己完結性を持つ)文化」として注目しています。
ともあれ、ご訪問いただき、意図するところまで読み込んでくださったこと、まことに有難く 感謝いたします。
現役時代には理系の学会誌に論文を書いていたので、読みにくいかもしれませんが、御寛恕ください。
ANZdrifter
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