2011/10/23 - 2011/10/23
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ANZdrifterさん
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1世紀末ころに武内宿禰が「東のひなに日高見国あり。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言して、ヤマトタケルにはじまるヤマトの東国侵攻が始まった。ヤマト朝廷による近畿地方の統一国家は350年ころに完成されたが、東北地方の北半部は平泉の藤原氏が源頼朝に滅ぼされるまでは近畿王権(ヤマト)の支配のおよばない国であった。とくに、774年にはヤマト北進に抗して海道エミシが蜂起して攻勢に転じ、780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい、多賀城を焼き払った。
その後もアテルイとモレは789年の巣伏の戦いで、寡兵でもって5万人のヤマトの大軍を破っている。
これらの時代のヤマト東北侵攻の拠点、多賀城を訪ねるには東北本線の「国府多賀城駅」が出発点であるが、数十年前の下宿の近くと思い込んで仙石線の「多賀城駅」に降りて、タクシー利用の羽目に陥った。
東北本線の国府多賀城駅から歩きはじめると、駅前の館前遺跡をとおり、10数分で芭蕉も訪れた日本三古碑のひとつ「多賀城の碑」がある。ここから北を見ると表紙写真のように幅広い石段がみえ、その上に政庁跡があり、さらにその東北に接して作貫地区役所跡や、掘立柱建築の大畑地区役所跡があり、これらを囲んで方約1kmの土塁がある。東門跡近くには巾数メートルの古代の直線道路がある。
(コースを逆にとり標高の高い陸奥総社宮や荒脛巾神社から歩くと下りばかりで楽だが、道標はなく、案内所でもらったマンガ風の散策マップは不正確で迷いやすい。)
土塁の外側の東北部、鬼門には豪壮な陸奥総社宮があり、エミシが信仰していた別項旅行記の荒脛巾神社もこのちかくで、エミシの神でエミシを抑えるということらしい。
この陸奥総宮は東北地方の全ての延喜式内社を統べるそうで、式内社100社の名が入り口階段の両側に列記されていて、陸奥総宮の祭神はこれら100社の祭神全部だそうである。式内社の100社のなかで興味深いのは宮城県桃生郡桃生町大田の「日高見神社」である。日高見神社がある桃生町(現石巻市)あたりの北上川下流部の穀倉地帯が、日高見国の中心だったのかもしれない。
武内宿禰は100年ころに東北地方を偵察して「東のひなに日高見国あり、其のくにの人勇みてこわし。えみしという。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言している(書紀)。景行天皇の皇子・ヤマトタケルにはじまるヤマトの東征はこうして始まったが、平泉の藤原氏が源頼朝に滅ぼされるまでは、東北地方の北半部は日本の支配のおよばない国であった。
このヤマトの東北地方進出の歴史をみると、仁徳天皇が367年頃に田道将軍を、637年には舒明天皇が上毛野君片名軍をそれぞれ派遣したが、いずれもエミシに大敗している。その後、724年に大野東人が多賀城を築き、続いて牡鹿柵(737年)、桃生城(759年)伊治城(761年)など北進の基地が築かれたが、774年に海道エミシが蜂起(38年戦争)して以後、エミシが攻勢に転じ、780年にはエミシの伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい(宝亀の乱)、多賀城を焼き払った。というのが大雑把な歴史である。
このあと、少人数で5万の大軍を破ったアテルイの活躍がある。別項「奥州市水沢、アテルイ・・・・・・」旅行記。
なお、この多賀城の鎮守府と国府は8世紀はじめから10世紀半ばまで存続したが、その間780年にはエミシの伊治公呰麻呂に焼き亡ぼされ、869年には貞観地震で被害を受けている。
多賀城跡で話しかけてくるボランティアガイドは、このような攻防の歴史をヤマトの立場から「エミシの反乱」と説明していたのは不愉快だった。先住民のエミシが侵略者の圧制に抵抗したという栄光の歴史を、体制内の住民の“反乱”と扱っては東北人の先祖に申し訳なかろう。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
仙石線の多賀城駅
ここで降りたが 多賀城跡を訪ねるには遠い駅だった。 -
これが 10年ほど前?に新設された東北本線の国府多賀城駅で
多賀城跡を訪ねるにはここで降りるのが正解。
駅前には館前遺跡があり、ボランティアガイドがいる。 -
館前遺跡。高位の役人の住居など。
草が繁ったところに歩行者歩道という看板があったが
判りにくい。
さりとてボランティアガイドは押し付けがましいので敬遠した。 -
これが「多賀城の碑」
いちばん上に 大きく「西」と書いてある。
解釈については 古田著「真実の東北王朝」に詳しいが
国府多賀城駅前にある「東北歴史博物館」にレプリカと解説が
あるらしい。(今回は訪れなかった) -
多賀城の碑から北を見ると 政庁跡にのぼる石段が見える。
権威を威示するためか 幅広い道である。 -
政庁跡の西翼。 西に傾斜して作られている
-
政庁跡。 震災の影響がみられた。
全体に作りすぎているように感じられる。 -
後村上天皇が北畠一族をつれて この地に政府をひらいた。?
-
作貫地区役所跡には
発掘調査のあとを保存して公開してある。 -
大畑地区 役所跡
掘立式の建物で 柱の立て方の説明図もあった。 -
陸奥総社宮。
鳥居の先の階段両側には東北地方の延喜式内100社の
名前が掲示されている。 -
興味深い「日高見神社」。
この名前は、武内宿禰が「撃ちて取るべし」と天皇に奏言した日高見国を思い起こさせる。 -
陸奥総社。地元では 確か「ソーミヤ」とよんでいた。
狛犬は立派だった。
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この旅行記へのコメント (3)
-
- 義臣さん 2011/11/14 16:29:56
- 無事で
- 多賀城遺跡は無事でしたか
心配していました。
現地で一人撮影、、見学をしていたときの近ずいてきて
親切に説明をして下さったボランテイアさんの事がが改めて心配になりました。
義臣
- ANZdrifterさん からの返信 2011/11/14 23:12:17
- RE: 多賀城は無事でしたよ
- 義臣 さん こんばんは
今回は忙しく廻ってきたので 現地のかたがたと雑談する時間が
ありませんでした。 断片的な情報になりますが・・・・・・
> 多賀城遺跡は無事でしたか
津波は仙石線の多賀城駅近くまで来たそうですが
遺跡は標高が高いので水は問題なく 地震の揺れの問題だけでした。
政庁あとの ソイルコンクリート? のごく一部が陥没していましたが
柱に模したコンクリート杭の一本が 動いたくらいでまったく問題はないと
思いました。
> 親切に説明をして下さったボランテイアさんの事がが改めて心配になりました。
ボランティアの人たちの 震災被害については お話を伺うのを
忘れました。 お話ししたのは2人だけでしたが 震災被害については
話題に上りませんでしたので 多分、大丈夫だったと思います。
頼りないレポートですが・・・・ ご容赦を
ANZdrifter
- 義臣さん からの返信 2011/11/15 06:56:45
- RE: 無事で
- ご丁寧なお返事有難うございます
今日はやはり数度訪れたいわきの阿弥陀度へ行こうと思います
無事とは聞いていたのですが
義臣
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