2011/09/14 - 2011/09/14
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前日の午後、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォに入ったSUR SHANGAHI。
サラエヴォの宿になったホテルや、足馴らしのために歩いてみた旧市街地の様子は別編にまとめてアップすることにして、この編ではこの日最初に訪れた場所のご紹介。
ラテン橋そばのサラエヴォ博物館から始めて、サラエヴォ市街地が見渡せる≪黄色い要塞≫跡、それに偶然見つけて入ってみたボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館までを載せようと思います。
表紙の画像は、サラエヴォ市街地を見下ろせる≪黄色い要塞≫跡。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
サラエヴォは、ミリャツカ川に沿って東西に細長い街。
ミリャツカ川に架かる橋のうち有名なのは旧市街地のこのラテン橋。
1914年6月28日に、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻暗殺事件(サラエヴォ事件)がこのたもとで発生し、第一次世界大戦のきっかけとなった、というのは有名なお話。
歴史の教科書に載っていたなあ、と思い出す人も多いんじゃないでしょうか。
SUR SHANGHAIもそのお話は憶えていたので、サラエヴォではぜひ見てみたいと思っていた場所。
そんな歴史的事件があった場所ですが、行ってみると、「え? (・・? 」
川も橋も案外小さいので、「これが?」と思ってしまった罰当たりなSUR SHANGHAIでございます。<(_ _)> -
第一次世界大戦のきっかけになるほどの歴史的暗殺事件があった場所だからと言っても、そのそばにある川や橋が大きいとは限らない。
でも、ラテン橋は馬車が数台横に並んで通れる幅かな、と空想していたSUR SHANGHAIなので、ギャップの方がちょいと大きすぎました。(;^ω^)
現在のラテン橋は文物保護の観点からか車両の通行は禁止。歩行者専用になっていました。
向こう(北岸)に見えている石造りの建物のうち、緑の☆印を付けた建物そばがサラエヴォ事件の現場。
現在は、1階部分がこれから行ってみるサラエヴォ博物館になっています。 -
緩い弧を描くラテン橋からミリャツカ川を見下ろしてみる。
上段の画像は、東側の上流方向。
画像の奥に見えている丘陵地に、この旅行記の後半でご紹介する≪黄色い要塞≫があります。
下段の画像は、西側の下流方向。
ここで見えている旧市街地を流れて行った先は新市街地。
このミリャツカ川も、滔々と流れる規模の川を想像していたSUR SHANGHAI。
実際には、楽々歩いて渡れそうな深さと幅だった…。
事実は空想より奇なり。(??〆)
ここでは藻が生えている浅い川のように見えるミリャツカ川。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の時代には、この川がサラエヴォを取り巻く南側の前線でもあったのだそう。
現在のミリャツカ川はゴミ捨て場のようになっている箇所も多数あって、これもちょいと幻滅。
環境保護の観念が行き渡るのは、紛争後からもう少し立ち直ってからの事になるのかも。 -
ミリャツカ川に架かるラテン橋。
これは北岸から上流側の橋桁を見た様子。
上流から大きい物が流れて来た時のために、橋桁の基部が筏型になって尖っているのは洋の東西を問わず同じ。 -
これが、サラエヴォ博物館の入った建物。ラテン橋のすぐ北側にあります。
表の壁に大きくMUSEUMと書かれていたり、窓の中にはサラエヴォ事件以外にも1878年〜1918年までのサラエヴォを写した画像が貼られていて、すぐに分かると思います。
この画像だと左手の陰になった部分に、サラエヴォ事件の暗殺現場を示すプレートと、サラエヴォ博物館入口があります。 -
サラエヴォ博物館の窓内側に展示してあった画像の一枚。
サラエヴォ事件の暗殺現場の街角写真で、今はサラエヴォ博物館になっている部分。
上に出した現在のサラエヴォ博物館とは窓の形を除いてずいぶん外観が違いますが、これはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後に改装したからのようです。
博物館内にUSAID(アメリカ合衆国国際開発庁)のプレートがあって、2007年にファサードとこの店頭を修復したという旨が出ていました。
どうせなら、こういう資料もあるのに、なんで細部まで昔どおりに復元しなかったんだろ。(・・?
簡略化して修復費用を抑えたようにしか見えない…。 -
サラエヴォ博物館の外壁。
画像奥の植木鉢が置いてある場所が入口。
そこからちょっとミリャツカ川寄りに、サラエヴォ事件の暗殺現場のプレートが埋め込んであります。
周りの壁と同じ色で目立ちません。見落としにご用心。
そのプレートを間近で見てみると…、 -
…英語でもそのサラエヴォ事件の暗殺現場だと出ていました。
この画像でも読み取れると思います。
これは、暗殺実行犯の一人ガヴリロ・プリンツィプが、車に乗ってここを通りかかったオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻に駆け寄って銃撃した場所。
事件後、使用された武器がセルビア政府の支給品だったとされ、それを非難したオーストリア=ハンガリー帝国が最終的にはセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦のきっかけになったのだそう。
詳しい経緯は、下記のウィキペディアのページで見てみるといいですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6 -
サラエヴォ博物館では、サラエヴォ事件だけではなく、1878年〜1918年までのサラエヴォの歴史が簡単に紹介されていました。
展示室は一つだけなので、ちょっと足を止めて行っては?
チケットは2KM。内部の展示の撮影OK。
月〜金曜日の10:00〜18:00開館。土曜日は15:00まで。日曜日はお休み。
サラエヴォ博物館の所在地: ZELENIH BERETLKI 1 旧市街地のホテル・ヨーロッパや時計塔からだと徒歩数分足らず。ラテン橋のすぐそばにあります。
これは、サラエヴォ博物館内に展示されていた1910年のオーストリア=ハンガリー帝国周辺の地図。
画像をクリックして元画像にすると大きく表示されます。
ほんの100年ほど前には、ヨーロッパも今とは全く違う地図を持っていた事にびっくり。
オーストリア=ハンガリー帝国についても、下記のウィキペディアで見てみるといいですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD -
サラエヴォ博物館内にいた3人連れ。
成人男性が2人の子にこの博物館の展示品の説明をしていた。
初めは、教育熱心なお父さんと双子の兄弟? と思ったけど、どうもそうではないみたい。
話しているのは英語。
話し方も親子と違う感じだし、外国からの観光客と言う雰囲気でもない…。
う〜ん、地元のいいとこの坊ちゃんと家庭教師なのかも。
一種独特の雰囲気があった。
右の画像に写っている画面では、サラエヴォ事件を再現した短い映画が見られます。 -
サラエヴォ博物館内の展示。英語でもごく短い説明が付いていました。
左の画像は、上から:
サラエヴォに到着したオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子。
(1914年6月28日のサラエヴォ事件直前)サラエヴォの市庁舎を出るフランツ・フェルディナント皇太子夫妻。
そして、サラエヴォ事件直後の街角。
右の画像は、市庁舎を出て、それとは知らずに暗殺される現場へ向かう直前のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻の蝋人形。 -
これは、サラエヴォ博物館内に展示されていたミリャツカ川沿いの地図。
サラエヴォ事件の起こった流れを地図上で表しています。
画像をクリックして元画像にすると大きく表示されます。
画像中の1〜7の数字は、サラエヴォ事件に関わった7人の暗殺グループの配置。
最後にフランツ・フェルディナント皇太子夫妻を銃撃したガヴリロ・プリンツィプは5番で、ラテン橋(L)のそば。
茶色っぽい→は、皇太子たちが最初市庁舎へ向かったルート。
この時、皇太子夫妻の乗った車に実行犯の一人ネジェルコ・チャブリノヴィッチ(2番)が爆弾を投げつけた場所は左手の赤いマークのある場所。
その爆弾は後続車に当たったのだそう。
SUR SHANGHAIが不思議だなあと思うのは、その騒ぎで怪我をした人物を皇太子がすぐに市庁舎から見舞いに行こうとした点。
自分が狙われていたのかもしれないとは思わなかったんだろうか?
警備陣も、すぐの見舞いは思いとどまるように進言しなかったんだろうか?
黒い実線の←は、皇太子夫妻が車で市庁舎から戻って来たルート。
本来病院へ向かうべき道は黒い破線の←だったのを、誤ってラテン橋の所で点線方向に曲がってしまったのが運命の分かれ道でもあったようです。
ここで、戻って来た皇太子夫妻に気づいたプリンツィプによって、暗殺が成功したのだそう。
詳しくは、次のサラエヴォ事件に関するウィキペディアのページでどうぞ。
皇太子夫妻が暗殺された時に乗っていた車の画像、銃撃したプリンツィプの画像も出ています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6 -
これは、サラエヴォ事件直後の犯人検挙の様子。
フランツ・フェルディナント皇太子夫妻を銃撃したガヴリロ・プリンツィプは服毒したものの吐き出してしまったり、ピストルも取り上げられて自決は失敗に終わったのだそう。 -
サラエヴォ事件に関わった7人の犯人像。
左手に大きく写っているのがフランツ・フェルディナント皇太子夫妻を銃撃したガヴリロ・プリンツィプ。
この後、懲役刑を課せられたプリンツィプは、獄中で結核によって死亡したそうです。 -
サラエヴォ事件で使用された武器の展示。
下の方に写っているのは、最初にフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が乗った車を狙って投げつけられた爆弾なんだそうです。
ピストルはレプリカなんでしょうが、普段目にすることもない武器には小さくてもゾッとする迫力があると思うSUR SHAGHAI。 -
サラエヴォでまず見学を予定していたサラエヴォ博物館を後にして、SUR SHANGHAIが向かっているのはオスマン帝国統治時代の城壁や要塞がある丘。
要塞からの市街地の眺めが最高なんだそうです。
旧市街地のバシチャルシァ広場あたりからだと、さらに東のコヴァチ墓地がある方角へこんな石畳の坂道を上って行きます。
出だしの坂道は緩やか。 -
オスマン帝国統治時代の城壁や要塞がある丘への道。
普通の民家や小さいお店も並んでいるんですが、中にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時に銃撃や砲撃を受けたらしい民家も廃墟になって混じっていました。
そばにある車もその当時のもの? それとも単に廃車が置いてあるだけ?
市街地の真ん中でも、弾痕が残る建物は多いですが、それが民家だと一層悲惨な光景。
翌日参加した市内ツアーのガイドさんが言うには、サラエヴォの民家は地下室が無いのが普通なので、一般の家屋は安全な隠れ場所には成り得なかったそうです。 -
丘の斜面にあるコヴァチ墓地。
そばには民家もあるし、合間にはモスクの尖塔も。
これは古い墓地で、墓石の色からして古びているのが分かります。
翌日参加した市内ツアーのガイドさんによると、こういう形の白い墓石はイスラム教徒の物だそうです。 -
コヴァチ墓地から、行く手の丘の上を見上げる。
オレンジ色の楕円形で囲んだ場所が、これから行ってみる≪黄色い要塞≫跡。要塞の建物は無くなっていましたが、石垣はこのとおり残っていました。
≪黄色い要塞≫と呼ばれたのは、石の色が黄色っぽいから?
同じコヴァチ墓地でも、これは真新しく見えるイスラム教徒の白い墓碑が密集している場所。
墓碑銘は読めない言語で書かれていても、没年の数字を見るとほとんどが紛争中にサラエヴォが包囲されていた1992年から1995年。
この墓地でなくても状況は同じで、それだけその時期の死者=犠牲者が多かったのが分かります。 -
コヴァチ墓地までは緩やかだった坂道。
それが、墓地が途切れるあたりからこんな急勾配になって、ヒーヒー。(>_<)
その行く手に見える門は、オスマン帝国統治時代に造られた城壁に取り付けられたものの一つでシロカツ・タワーという名が付いていました。
発音が間違っていたらお許しを。<(_ _)>
修復された内部は、ボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領となったアリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館展示室になっていましたが、これは後述します。 -
上の画像のシロカツ・タワーからは、これもまた復元が済んだらしい城壁がちょっと延びていて、その先には別の城門も見えていた。
あ、≪黄色い要塞≫からの帰り道ではあそこにも寄ってみようっと。(^◇^)
結論から先に言うと、あれはボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領となったアリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館入口がある城門プロチャ・タワーなんですが、この時は知らず。
何があるか分からなくても、初めての街ではこうして歩き回るのが好きなSUR SHANGHAI。 -
これは、現在のコヴァチ墓地より上の丘に張り巡らされたオスマン帝国統治時代の城壁地図。城門の一つのシロカツ・タワーの壁面に出ていました。
この丘が城壁によって円状に囲まれていた場所だと言うのがありあり。
画像をクリックして元画像にすると大きく表示されます。
この画像だと、城壁外の地図の左手がサラエヴォの旧市街地。
そこから上って来たSUR SHANGHAIが立っているのは赤い●が付けられたシロカツ・タワー。
オレンジ色の○は、これから行ってみる≪黄色い要塞≫。
黒い☆印は、この旅行記最後に訪れてみるボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領となったアリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館。
ついでに言うと、画像右下に見えている青い線で囲まれた部分は≪白い要塞≫で、翌日の市内ツアーでは、そこからサラエヴォ市街地を見下ろしました。 -
シロカツ・タワーから、かつては城壁にぐるりと囲まれていた部分の町並みを通る。
今ではその城壁も途切れ途切れになっているよう。
で、≪黄色い要塞≫跡へと上って行くこの坂が、距離的には短いんですがやたらときついんですよ〜。(@□@;)
地元の人でも、中年以上の徒歩の人たちは上って行くのが大変そうでした。
ちなみにSUR SHANGHAIは普通の体力の持ち主(一応女性)ですが、旧市街地のバシチャルシァ広場から≪黄色い要塞≫までゆっくり歩いて15分ほどかかりました。
足腰に自信の無い方は、タクシーで行ってもらうのがよさそう。
そうそう、コヴァチ墓地のあたりまでは商店があるので、飲み物やスナック類はあらかじめ仕入れて行くのがいいですよ。
公衆トイレも気付いた限りでは見かけなかったので、用足しは事前にどうぞ。 -
≪黄色い要塞≫跡へ上って行く坂の途中。
息を整えるために立ち止まって、来た方向を振り返る。
サラエヴォの街の中心は、ミリャツカ川沿いは緩い谷間になっていて平坦ですが、市街地をちょっと離れると、東西南北ともすぐに結構急な丘陵地帯。
この画像でも、旧市街地辺りが盆地状に窪んで見えます。 -
イチオシ
短くてもきつい坂を上りきって、≪黄色い要塞≫にやって来たSUR SHANGHAI。
ひゃ〜、しんど。(。≧з≦) しばらく息がハアハア。
要塞と言ってもオスマン帝国統治時代に造られた≪黄色い要塞≫には建物はすでに無く、石垣だけが展望台のように張り出している場所でした。
その石垣に腰掛けて一休み。
わ〜! いい眺め! ここまで来た甲斐あり!(^◇^)
この画像に付けた青い☆印は、さっき通り抜けてきた城門のシロカツ・タワー。
そこから城壁で結ばれているもう一つの赤い☆印は、後で行ってみようと思っているもう一つの城門プロチャ・タワー。 -
≪黄色い要塞≫跡から、すぐ下のサラエヴォ市街地を見下ろす。
サラエヴォが山の合間にある街だという雰囲気がこれで分かるかも。
画像をクリックして元画像にすると大きく表示されます。
左手の川は、さっき見てきたミリャツカ川。紛争中はこの川が南側の前線になっていたんだそう。
この川沿いに広がる部分の市街地は平坦ですが、ちょっと中心を離れると結構急な丘や山に囲まれています。
画像中央付近にある黒いドームを載せた大きい建物は、旧市街地にある修復工事中の国立図書館。
この角度からだと、ラテン橋やサラエヴォ博物館は国立図書館の向こう側になっていて見えません。 -
≪黄色い要塞≫跡から、西にあるサラエヴォ市街地を見下ろす。
画像をクリックして元画像にすると大きく表示されます。
この画像だと、手前が旧市街地。
左手に見えている黒いドーム付きの大きい建物は、修復工事中の国立図書館。
画像奥に高層ビルがいくつか霞んで見えているのが新市街地方向。
画像右奥の一際高いビルは、新聞社のアヴァズ社が入っているアヴァズ・ツイスト・タワー。ここの36階には展望台あり。
画像右手に見えているのがコヴァチ墓地。SUR SHANGHAIが上って来た道もその合間に細く見えてます。
要塞のすぐ下には、SUR SHANGHAIが上って来たのとは違う新しい車道が。 -
≪黄色い要塞≫からズームで見てみたサラエヴォの旧市街地。
画像をクリックして元画像にすると大きく表示されます。
手前のモスクが集中しているあたりがバシチャルシァと呼ばれる職人街で、観光客なら必ず訪れる場所。
一般的な商店やお土産屋さん、カフェ、お食事処も集中していますよ。
旧市街地は、規模的には徒歩で楽々回れるサイズです。
出来れば半日時間を取って隅々まで歩いてみては?
画像中央に大きく見えている茶色い建物は創業1882年と言う老舗ホテルのホテル・ヨーロッパ。
その手前の大きいモスクはガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ。 -
イチオシ
≪黄色い要塞≫から見た旧市街地向こうの新市街地方向。
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サラエヴォはミリャツカ川に沿って東西に細長い街。
一国の首都としては決して大きくない街ですが、さすがに東の外れにある≪黄色い要塞≫からは西の外れにあるブトミル・サラエヴォ国際空港までは見えませんでした。
空気が澄んだ日には見えるのかも?
画像右手に見えているビルは、上でも言ったアヴァズ・ツイスト・タワー。
二本並んで立っているのはUNITIC センター。
その左横には黄色い壁のホリデイ・イン・サラエヴォがうずくまっているかのよう。
このあたりの様子が知りたい方は、下記の旅行記をご覧ください。
★アヴァズ・ツイスト・タワーからホリデイ・イン・サラエヴォ周辺へ
http://4travel.jp/traveler/casa/album/10619138/ -
イチオシ
サラエヴォ市街地北側に広がる丘陵地には、赤い屋根の民家がびっしり。
あっちの住宅地の坂道も、さっきSUR SHANGHAIが通ってきたのと同じように急なのかも。
≪黄色い要塞≫に来ていたのはSUR SHANGHAIだけではなく、他にも少人数で訪れる人たちが。
地元の学生? それとも外国からの観光客?
指差しているのは、旧市街地のあたりみたい。 -
イチオシ
≪黄色い要塞≫の石垣に陣取って、なにやら話し込んでいる地元の学生風青年2人。
紛争中、サラエヴォが包囲されていた時代には、2人とも小学校に入る前の年齢だったに違いない。
これからのボスニア・ヘルツェゴビナを背負っていく年代だね。
サラエヴォの市街地を見下ろしながら話しているのは、これからのサラエヴォと自分たちの未来? -
さ、≪黄色い要塞≫を後にして、SUR SHANGHAIはさっきヒイコラ言いながら上って来た坂道を引き返しています。
行く手に見えて来たのは、坂を上って来た時にもくぐったシロカツ・タワー。
下から見るとずいぶん急に見えた坂も、上から見るとそれほどでも無いように見えるのが不思議。
雪が降る季節には、徒歩での上り下りは危険そうな急斜面。
車もきっと大変だよね。 -
シロカツ・タワーとは城壁で結ばれたもう一つの城門のプロチャ・タワーへも行ってみる。
またまたこんな坂をヒイヒイ上って行くと、
「あれ? こっちは通り抜け出来ないみたい。それに中に何か出来ている。」
近寄って行って、中にいたカウンターのおねえさんに聞いてみると、ボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館でした。 -
ボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館なるものがあるとは知らなかったSUR SHANGHAI。
カウンターのおねえさんも、「何で東洋人の女がここへ?」のような不審顔。
それでも一般の見学OKということだったので、せっかくここまで来たからには見学して行こうと思います。
チケットは2KM。ずいぶん真新しい館内だと思ってチケットの通し番号を見てみたら99番でした。
最初に入った展示室にはアリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の生い立ち紹介からその生涯についての展示が焦点。
英語でも説明が付いていました。 -
プロチャ・タワーに入っているボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館内部の撮影はOKですが、スタッフがずっと一緒に付いてきました。
別にガイドさんをしてくれるわけではなくて、不審な行動が無いようにという配慮のようです。
そういえば、この博物館のある丘のコヴァチ墓地に造られたアリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の墓は、一度爆破されたんじゃなかったかな…。
最初の展示室を見終わると、お次は城壁上の通路を通ってシロカツ・タワーへ。やはりスタッフの一人が先導してくれました。
ここで、「あ、シロカツ・タワーの方にも展示室があったんだ!」と気付いたSUR SHANGHAI。 -
プロチャ・タワーとシロカツ・タワーを結ぶ城壁通路には、生前のボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏(1925年−2003年)が会見した各国の要人たちとの記念写真も飾られていました。
ちなみに、氏の大統領任期期間は1992年−1996年。 -
シロカツ・タワーの展示室には、これまでボスニア・ヘルツェゴビナがくぐり抜けて来た戦争に関する展示も。
左側の画像は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の紋章だそうです。
下記のウィキペディアのページに説明が載っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%82%B4%E3%83%93%E3%83%8A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E8%BB%8D -
思いがけなく見つけて入ってみたボスニア・ヘルツェゴビナ初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の記念館だったけど、また一つサラエヴォについて見えて来た気持ちになった。
記念館から旧市街地へと続く下りの坂道沿いに広がるコヴァチ墓地。
これはこの旅行記の初めにも言ったように、イスラム教徒の墓地。
手前の古い墓地は、墓石と墓石の間が広く取ってあるのに、紛争中の犠牲者が眠る新しい墓地の方はびっしりと隙間が無いくらい。
下段の画像では、一段高い所にさっき行った≪黄色い要塞≫の石垣が見えています。
あの石垣は、オスマン帝国統治時代からこれまでずっとサラエヴォの歴史を見て来たんだなと思う。 -
コヴァチ墓地沿いの坂をだいぶ下って来て、旧市街地ももうすぐそこ。
モスクの尖塔が見える町並みの、古い建物を修復している人たちがいた。
ヘルメットや作業着も着けていないけど、おじさんたち屋根から落ちないでね。 -
さあ、また旧市街地のバシチャルシァ広場が目の前。
セビリと呼ばれる水飲み場の茶色い塔が見えて来た。
この後は、また旧市街地をさ迷い歩いてみたSUR SHANGHAIですが、旧市街地の様子は別編にまとめようと思います。
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