2011/10/09 - 2011/10/09
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ドクターキムルさん
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吾妻橋の隅田川左岸には大きなビルが建っている。陸橋を渡って人が出入りしているので入ってみた。ビルの一階の守衛さんに聞くと、トイレは地下1階のエレベータの前だという。隣には社員用トイレが並んでいた。ここはアサヒビール本社ビルのアサヒビールタワーだ。1階入口には来客団体の看板があり、○○大学様とあるから、ビールの試飲でもあるのだろうか。しかし、「浅草から見て左の「アサヒビールタワー」は琥珀(こはく)色のガラスと最頂部の白い外壁で、泡のあふれるビールジョッキをイメージした22階建ての高層ビル。アサヒビールの本部機能がこのビルに入居しています。上層階の22階と21階にはレストラン3店舗と展望喫茶があり、一般の方にも美味しいビールと壮観な眺めをお楽しみいただけます。」とある。どうやら、上層階の団体客のようだ。
隣接するのがスーパードライホールだ。屋上の金色に輝くオブジェは「炎」をイメージしているという。
アサヒビール本社ビルに隣接する銀色のビルは墨田区役所庁舎である。
浅草界隈は古くから人が集まる観光名所であるが、こうして新たに名所が創られて行くから、いつまでも観光名所であり続けることができるのだろう。
隅田川前が庁舎裏手にあたるが、ここ「うるおい広場」に江戸開府400年民間事業の一環として平成15年(2003年)7月21日に建てられた勝海舟の銅像があった。勝海舟は本所の出身だ。高輪の薩摩藩邸に乗り込み、西郷との会談で江戸城無血開場させたことで知られる。明治元年のことだ。これまで、勝海舟の銅像は見たことがなかった。昨年放送された、だらだらとつまらない龍馬伝では坂本龍馬の刺身のつまとして描かれていた。しかし、55年後に関東大震災で大火災に遇い、実際に、77年後に、かつての江戸の町が戦争で灰燼に化しても、勝海舟の江戸城無血開場の業績は評価されなかったようだ。さらに58年経って、江戸開府400年を期にようやく地元で評価されたのであろう。
海舟と龍馬は師弟であったが、官位でもその程度の開きがあろうか。海舟には銅像さえもなかったことの方が不思議な感じがする。没後100年余り経った生誕180年にようやく勝海舟の銅像が建ってほっとした感じがした。
(表紙写真は浅草から見たアサヒビール本社、墨田区役所と東京スカイツリー)
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アサヒビールタワー(アサヒビール本社ビル)。
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アサヒビールタワー(アサヒビール本社ビル)前の陸橋から。
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アサヒビールタワー(アサヒビール本社ビル)。
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スーパードライホール。
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墨田区役所庁舎。
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墨田区役所庁舎と東京スカイツリー。
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東京スカイツリー。
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墨田区役所庁舎と東京スカイツリー。
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墨田区役所庁舎と東京スカイツリー。
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墨田区役所庁舎。
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勝海舟の銅像。
勝海舟は文政6年1月30日(1823年3月12日)生まれで明治32年(1899年)1月21日 )に亡くなった。父は41石の旗本(小普請組)であった。江戸時代末期の幕臣(武士)で、明治初期の政治家とされる。位階勲等は正二位勲一等伯爵であるから、明治政府での評価も高く、活躍したのだろう。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。
幼名および通称は麟太郎であるが、明治維新後改名して勝安芳となった。幕末に「安房守」を名乗ったことから勝安房(かつあわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あんほう)の「安芳」に代えた。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。号の海舟は、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったもので、一般にはこの勝海舟で知られている。別邸千束軒があった洗足池公園に勝海舟夫妻の墓がある。 -
勝海舟の銅像。
弟子である坂本龍馬(天保6年11月15日(1836年1月3日)〜慶応3年11月15日(1867年12月10日))は江戸時代末期の人であり、薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えたとされている。墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹にあり、桂小五郎が揮毫した墓碑が建っている。
箱館戦争が終わった直後の明治2年(1869年)6月から9月に明治政府は論功行賞を行ったが、坂本龍馬には何の行賞も行われなかった。坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったが、明治16年(1883年)に高知の「土陽新聞」に坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒」が掲載され、大評判となった事により一躍その名が知られるようになった。 そのためか、暗殺から23年ほど経った、明治24年(1891年)4月8日には正四位が追贈されているから、この頃に明治政府から認められたのであろう。
次に、日露戦争(明治37年(1904年)2月8日〜明治38年(1905年)9月5日))の時に龍馬ブームが起きる。それは丁度、日露戦争前に皇后から下賜された手元金で、明治37年(1904年)、京都霊山護国神社に「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」が建立され、その直後の明治38年(1905年)5月27日・28日の日本海海戦で大勝したのであるから、龍馬と結び付けられたのであろう。横浜の神社などには、日露戦争直後に建立された狛犬などの台座には日露戦争の戦勝を記念して「日露戦役」、「凱旋紀念」などと彫られているから、龍馬の忠魂碑が日本海海戦での大勝に係わるものであれば、そうしたことが刻字されるはずである。戦艦や巡洋艦同士の砲撃戦で片方のみが一方的に撃沈されることなど、常識的には考えられないから、神懸りとされ、艦隊を率いた連合艦隊司令官の東郷平八郎が神として崇められたのであろう。
現代の竜馬ブームの基となっている竜馬像は司馬遼太郎が描いたものである。すなわち、「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、1963年から1966年にかけ文藝春秋全5巻で刊行され、1974年に文春文庫創刊に伴い全8巻で刊行された司馬遼太郎の長編時代小説「竜馬がゆく」が世間一般でイメージされる竜馬像を創りあげている。
「薩長同盟の斡旋」は鎌倉市にある史跡「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」を訪れ、薩摩藩島津家祖と長州藩毛利家祖の両墓が毛利家先代の大江広元を間にして並んだ姿を目にすれば、龍馬がいようがいまいが、薩長同盟は結ばれるべくして結ばれたことが分かる。竜馬を仲立ち役とするのは、あたかも幼馴染同士を結び付けた恋のキューピットを誰にするかのようなものであろう。幼馴染同士であればその適齢期になれば成る様になるものである。そう成らないとしたら初めから赤い糸では結ばれていないのである。周りがとやかく言ってどうなることではないだろう。 -
「建立の碑」。勝海舟生誕180年とある。
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アサヒビールタワー(アサヒビール本社ビル)。
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墨田区役所庁舎。
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浅草から見たアサヒビール本社、墨田区役所と東京スカイツリー。
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