2011/10/09 - 2011/10/09
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芝増上寺の西側にある芝東照宮の裏山は古墳である。丸山古墳と呼ばれるが円墳ではなく、前方後円墳である。築造は5世紀中頃過ぎとみられるが、4世紀後半に早める説もある。墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)、前方部前端幅約40メートル、後円部直径約64メートル。くびれ部幅約22メートルの都内最大か、最大級の前方後円墳である。自然の山を利用して築造されており、古代には浜辺に近い小高い丘であったらしく、前方部の墳丘下の平地には「丸山貝塚」の標識が立っている。後円部の墳丘は江戸時代に掘削されて平坦にされたようだ。いまでは広い円形広場となっている。
この周辺にはかっては11基の円墳もあった古墳群とされ、昭和33年(1958年)に周辺が大規模開発され、東京タワーなどが建つまでは、まだ数基が残存していたという。今はこの「芝丸山古墳」と、すぐ近くの港区三田にある「亀塚古墳」が残るのみである。
上野の山も古墳群があり、ここ芝にも古墳群があったとされ、家康が江戸に入府した頃には、まだ、古墳であることが認識されていたのだろう。江戸初期に大々的に開発され、増上寺の伽藍や寛永寺の伽藍が建てられたのだろう。
(表紙写真は芝丸子古墳後円部墳丘)
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古墳墳丘下。
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古墳墳丘下。
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「丸山貝塚
芝公園内の丸山と呼ばれる丘陵の東南斜面に貝層が残存している。まだ正式の学術調査が行われず、古くから著名なわりにその内容が明がでない。
表面的な観察によると、ハイガイ・ハマグリなどの海水産の貝殻から成るものと思われるが、従来文化遺物があまり採集されていない。わずかに安行式土器片が発見された事実から、縄文時代後期の貝塚と考えられるにとどまる。
丸山の丘上には大形の丸山古墳が造られているので、破壊されているところもあるが、斜面に残る部分は都内の貝塚研究のため重要である。
昭和48年(1973)3月 東京都港区教育委員会
文化財を大切にしましょう」。 -
古墳墳丘下からの登り口。
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前方部からの登り口。
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古墳裾にある宝塔。
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「丸山古墳」標石。古いもののようだ。円山随身稲荷大明神の狭い境内の石燈籠の横にある。
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「東京都指定史跡 芝丸山古墳」標石。
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「東京都指定史跡 芝丸山古墳」説明プレート。
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前方部の墳丘に登る階段。
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前方部の墳丘横の広場。円山随身稲荷大明神の前は広場があり、踊場のようになっている。
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前方部の墳丘横の広場に聳える木立。
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前方部の墳丘上にある虎の像。
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前方部の墳丘上にある虎の像の大野伴睦の句碑。
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大野伴睦の句碑「鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺」。昭和38年(1963年)6月、調理師会建立。
大野伴睦の句碑は鎌倉長谷寺にも「観音の慈顔尊し春の雨 万木」がある。 -
前方部の墳丘の道。
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前方部の墳丘。
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後円部への道。くびれ部には円山随身稲荷大明神が鎮座している。
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後円部。丸く広場になっている。
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後円部広場。
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後円部広場の端にある伊能忠敬測地遺功表。明治22年に伊能忠敬の功績を顕彰して東京地学協会が建てたが、戦災で失われ、昭和40年に再建された。
伊能忠敬は、寛政12年(1800)蝦夷地の測量に出発し、その後、16年間(足掛け17年)にわたって全国を測量し、日本初の本格的な実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を作成した。 -
伊能忠敬の顕彰碑。
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後円部広場。
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後円部から下りる階段。
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後円部の墳丘。
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後円部墳丘の先端。
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