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JR上越線渋川駅下車、国道17号(鯉沢バイパス)を北上、利根川と吾妻川の合流点の吾妻新橋を渡り道路を左折、国道に並行した街道を歩きますと白井宿の看板が現れ、その先を数分歩くと白井城(群馬県渋川市白井本丸)案内板が待っています。<br /><br />歴史的には1430年頃に関東管領山内上杉氏の重臣である長尾景仲(ながお・かげなか)によって築城されたと言われています。その後歴代城主の長尾氏内部で関東管領家の家宰職の相続を巡り家督争いが勃発(長尾景春の乱)、白井城は山内上杉氏の重要拠点でありましたので当然ながら当城も戦いに巻き込まれ攻防に明け暮れ、その結果山内上杉氏の勢力が衰退してまいります。<br /><br />一方飛ぶ鳥を落とす勢いの小田原北条氏の関東進出は活発で、天文15年(1546)河越夜戦で小田原北条氏に大敗し関東での覇権を放棄せざるをえなく山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)は「最後の砦」ともいうべき平井城を経て越後に亡命、ついに長尾影虎に関東管領職を譲る事となります。<br /><br />以降は関東の覇権を勝ち取るべく、上杉氏・武田氏・北条氏の各勢力が当地で入り乱れる戦国時代に突入していきます。即ち謙信の関東出陣の基地になったり、信玄の臣下となった真田幸隆による侵攻と開城により一時的に武田氏の属城となります。続いて1573年信玄の死後は当城主の長尾氏は上杉氏、小田原北条氏、滝川一益(織田信長重臣)、小田原北条氏と次々と主家を替える事となります。<br /><br />天正12年(1590)の小田原城包囲に伴い豊臣秀吉の軍略に従った前田利家・上杉景勝を主軸とする北方軍は当城を包囲、城主長尾政景はたまらず開城します。<br /><br />そして徳川家康が関東移封後は北関東の要衝という認識に立ち幕府は白井城を譜代大名(本多・牧野・戸田・西尾)に統治させることになりますが元和9年(1623)廃城となります。<br /><br />地勢的には利根川と吾妻川が合流する河岸段丘の吾妻川沿いの断崖に本丸、二の丸、三の丸が位置し、現在では城域の大部分は既に農地化されていますが、本丸周辺は土塁、堀、虎口の石垣は完全に確認できる状態となっており、戦国時代における河川等を駆使した典型的な防御重視の城砦で自分としては格別の印象を受けます。<br /><br /><br /><br />2022年4月14日追記<br /><br />現地にて入手の「白井城・白井宿」と題したパンフレットによれば次のように記述されています。<br /><br />「 白 井 城<br /><br />この城の総曲輪は、北側の吹屋・松原と東側の白井町を包んで、東西950メートルの北遠構(きたとうがまえ)と、南北650メートルの東遠構(ひがしとうがまえ)の堀に囲まれている。東遠構中央の閻魔堂塚(えんまどうづか)に東の城戸、西は吹屋の中程を貫いて鯉沢との崖端に城戸があり、吾妻街道となる。源空寺裏の道祖神の地点に北の城戸があった。この総曲輪の河岸段丘に吹屋屋敷・松原屋敷、段丘下に白井町があり、城郭を囲んでいる。青堀から北郭・不動の砦・金比羅砦・三ノ丸・ニノ丸・本丸と続く。不動の砦近くに王手があった。<br /><br />本丸は吾妻川寄りに、北から突出した台地端に築かれ、西面は30メートル程の断崖となっている。三角形に近く、周囲は高土居で、武者走りとなっていて、南端の屋倉台は天守台ではなかったかと思われる。本丸門は出枡形で、野づら積み石垣(太田道灌の構築といわれる)が現存、近くに三日月堀がある。堀は空堀で、三ノ丸・ニノ丸・本丸と西側は吾妻川に入っている。東側は深く、帯曲輪となっていて、裾石垣のくずれがある。腰郭(現在なし)・笹郭、あとから蒸されたらしい南郭・新郭の搦手(からめて)、以上が白井城の全様である。なお、城の護りとして、玄棟院・源空寺をはじめとしての大小の寺院を段丘上に配置し、一旦緩急(いったんかんきゅう)の備えとしている。<br /><br />構築は誰か、1430年頃、城主長尾景仲といわれ、後の攻防は中世を語る北関東の歴史でもあり、唐の詩人の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」の詩は、白井城そのものを吟じてくれているようにも思える。太田道灌の入城・上杉管領家の在城・真田昌幸の攻略、奪回と目まぐるしく変転のあと、天正18年(1590)、前田利家により攻略され、近世の暁を迎えるのである。」

上野渋川 鎌倉公方を支えた関東管領山内上杉氏の重臣白井長尾氏が利根川と吾妻川合流の河岸段丘に築城の難攻不落『白井城』訪問

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2011/08/06 - 2011/08/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR上越線渋川駅下車、国道17号(鯉沢バイパス)を北上、利根川と吾妻川の合流点の吾妻新橋を渡り道路を左折、国道に並行した街道を歩きますと白井宿の看板が現れ、その先を数分歩くと白井城(群馬県渋川市白井本丸)案内板が待っています。

歴史的には1430年頃に関東管領山内上杉氏の重臣である長尾景仲(ながお・かげなか)によって築城されたと言われています。その後歴代城主の長尾氏内部で関東管領家の家宰職の相続を巡り家督争いが勃発(長尾景春の乱)、白井城は山内上杉氏の重要拠点でありましたので当然ながら当城も戦いに巻き込まれ攻防に明け暮れ、その結果山内上杉氏の勢力が衰退してまいります。

一方飛ぶ鳥を落とす勢いの小田原北条氏の関東進出は活発で、天文15年(1546)河越夜戦で小田原北条氏に大敗し関東での覇権を放棄せざるをえなく山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)は「最後の砦」ともいうべき平井城を経て越後に亡命、ついに長尾影虎に関東管領職を譲る事となります。

以降は関東の覇権を勝ち取るべく、上杉氏・武田氏・北条氏の各勢力が当地で入り乱れる戦国時代に突入していきます。即ち謙信の関東出陣の基地になったり、信玄の臣下となった真田幸隆による侵攻と開城により一時的に武田氏の属城となります。続いて1573年信玄の死後は当城主の長尾氏は上杉氏、小田原北条氏、滝川一益(織田信長重臣)、小田原北条氏と次々と主家を替える事となります。

天正12年(1590)の小田原城包囲に伴い豊臣秀吉の軍略に従った前田利家・上杉景勝を主軸とする北方軍は当城を包囲、城主長尾政景はたまらず開城します。

そして徳川家康が関東移封後は北関東の要衝という認識に立ち幕府は白井城を譜代大名(本多・牧野・戸田・西尾)に統治させることになりますが元和9年(1623)廃城となります。

地勢的には利根川と吾妻川が合流する河岸段丘の吾妻川沿いの断崖に本丸、二の丸、三の丸が位置し、現在では城域の大部分は既に農地化されていますが、本丸周辺は土塁、堀、虎口の石垣は完全に確認できる状態となっており、戦国時代における河川等を駆使した典型的な防御重視の城砦で自分としては格別の印象を受けます。



2022年4月14日追記

現地にて入手の「白井城・白井宿」と題したパンフレットによれば次のように記述されています。

「 白 井 城

この城の総曲輪は、北側の吹屋・松原と東側の白井町を包んで、東西950メートルの北遠構(きたとうがまえ)と、南北650メートルの東遠構(ひがしとうがまえ)の堀に囲まれている。東遠構中央の閻魔堂塚(えんまどうづか)に東の城戸、西は吹屋の中程を貫いて鯉沢との崖端に城戸があり、吾妻街道となる。源空寺裏の道祖神の地点に北の城戸があった。この総曲輪の河岸段丘に吹屋屋敷・松原屋敷、段丘下に白井町があり、城郭を囲んでいる。青堀から北郭・不動の砦・金比羅砦・三ノ丸・ニノ丸・本丸と続く。不動の砦近くに王手があった。

本丸は吾妻川寄りに、北から突出した台地端に築かれ、西面は30メートル程の断崖となっている。三角形に近く、周囲は高土居で、武者走りとなっていて、南端の屋倉台は天守台ではなかったかと思われる。本丸門は出枡形で、野づら積み石垣(太田道灌の構築といわれる)が現存、近くに三日月堀がある。堀は空堀で、三ノ丸・ニノ丸・本丸と西側は吾妻川に入っている。東側は深く、帯曲輪となっていて、裾石垣のくずれがある。腰郭(現在なし)・笹郭、あとから蒸されたらしい南郭・新郭の搦手(からめて)、以上が白井城の全様である。なお、城の護りとして、玄棟院・源空寺をはじめとしての大小の寺院を段丘上に配置し、一旦緩急(いったんかんきゅう)の備えとしている。

構築は誰か、1430年頃、城主長尾景仲といわれ、後の攻防は中世を語る北関東の歴史でもあり、唐の詩人の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」の詩は、白井城そのものを吟じてくれているようにも思える。太田道灌の入城・上杉管領家の在城・真田昌幸の攻略、奪回と目まぐるしく変転のあと、天正18年(1590)、前田利家により攻略され、近世の暁を迎えるのである。」

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 白井城跡案内柱<br /><br />懐かしい街並みが印象的な白井宿に入口があります。

    白井城跡案内柱

    懐かしい街並みが印象的な白井宿に入口があります。

  • 入城通路<br /><br />特別に造られた通路は随分長いです。

    入城通路

    特別に造られた通路は随分長いです。

  • 石段<br /><br />素朴な石段です。

    石段

    素朴な石段です。

  • 城郭に至る通路<br /><br />意外と細い路です。<br /><br />

    城郭に至る通路

    意外と細い路です。

  • 「三日月堀」案内板<br /><br />一時期当該城を支配した武田氏が得意とする三日月堀と思われます。<br /><br />

    「三日月堀」案内板

    一時期当該城を支配した武田氏が得意とする三日月堀と思われます。

  • 深い堀<br /><br />これでは這い上がることできません。<br />

    深い堀

    これでは這い上がることできません。

  • 堀<br /><br />手前に見学通路が見えます。<br /><br />



    手前に見学通路が見えます。

  • 堀と通路<br /><br />周辺がよく整備されてます。

    堀と通路

    周辺がよく整備されてます。

  • 「三日月堀」石標<br /><br />思った以上に深い堀です。

    「三日月堀」石標

    思った以上に深い堀です。

  • 三日月堀<br /><br />後ろを振り返りますと三日月形状の堀であることが判ります。

    三日月堀

    後ろを振り返りますと三日月形状の堀であることが判ります。

  • 本丸方面・二の丸方面案内<br /><br />三日月堀を上がり切ると案内板の標示が見えます。

    本丸方面・二の丸方面案内

    三日月堀を上がり切ると案内板の標示が見えます。

  • 土塁<br /><br />大きな土塁が迫ってきます。<br /><br />

    土塁

    大きな土塁が迫ってきます。

  • 上部から見た「三日月堀」<br /><br />確かに三日月形状してますネ。それにしても大規模な堀です。

    上部から見た「三日月堀」

    確かに三日月形状してますネ。それにしても大規模な堀です。

  • 白井城跡標柱全景<br /><br />後ろに石垣が見えます。<br /><br />

    白井城跡標柱全景

    後ろに石垣が見えます。

  • 枡形門石柱と石垣<br /><br />野面積み石垣は頼もしい限りです。

    イチオシ

    枡形門石柱と石垣

    野面積み石垣は頼もしい限りです。

  • 野面積み石垣近景<br /><br />戦国時代の石垣でしょうか。

    野面積み石垣近景

    戦国時代の石垣でしょうか。

  • 「二の丸」石柱<br /><br />農道の左右は広々とした畑が広がっています。現在では完全に農地化されています。

    「二の丸」石柱

    農道の左右は広々とした畑が広がっています。現在では完全に農地化されています。

  • 「三の丸」石柱<br /><br />田畑が整然と広がっています。

    「三の丸」石柱

    田畑が整然と広がっています。

  • 土橋から一望<br /><br />結構広い堀が見渡せます。<br /><br />

    土橋から一望

    結構広い堀が見渡せます。

  • 白井城跡案内板<br /><br />

    白井城跡案内板

  • 白井城跡絵図<br /><br />利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城であることが良く判ります。

    白井城跡絵図

    利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城であることが良く判ります。

  • 白井城跡空中写真<br /><br />

    白井城跡空中写真

  • 本丸跡<br /><br />奥に土塁が見えます。

    本丸跡

    奥に土塁が見えます。

  • 本丸石柱

    本丸石柱

  • 本丸の土塁<br /><br />土塁は3~4mの高さで周囲を取り囲んでいます。

    本丸の土塁

    土塁は3~4mの高さで周囲を取り囲んでいます。

  • 吾妻川<br /><br />本丸西端では樹木の向こうは吾妻川がすぐ近くに見えます。

    吾妻川

    本丸西端では樹木の向こうは吾妻川がすぐ近くに見えます。

  • 吾妻川遠景<br /><br />真木島方面を見下ろします。

    吾妻川遠景

    真木島方面を見下ろします。

  • 本丸跡<br /><br />広々とした本丸跡ですネ。

    本丸跡

    広々とした本丸跡ですネ。

  • 宮本町の井戸<br /><br />江戸時代から多数の旅人が往来し街並みの<br />形態から宿と呼ぶ人が多く、「白井宿」は<br />その名残と言われています。<br />又町毎に井戸がありましたが現在は当然ながら<br />使用されていません。

    宮本町の井戸

    江戸時代から多数の旅人が往来し街並みの
    形態から宿と呼ぶ人が多く、「白井宿」は
    その名残と言われています。
    又町毎に井戸がありましたが現在は当然ながら
    使用されていません。

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