沼田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
利根川と支流の蓮根川・片品川が合流する断崖台地に築かれた上越国境の要衝の上野国沼田城(ぬまたじょう、群馬県沼田市西倉内町)を訪問しました。<br /><br />天文元年(1531)白井長尾氏の重臣、沼田顕泰(ぬまた・あきやす)が3年をかけて築城、天文21年(1552)関東管領上杉憲政が川越合戦で小田原北条氏に大打撃を受け白井城に敗走、戦力復帰不能となり越後に逃れる途中一時的にこの沼田城に身を寄せ、その後憲政は長尾影虎を頼る事となります。<br /><br />従来より当地は信濃・越後と関東を結ぶ交通の要地で武田氏、上杉氏、北条氏の勢力が覇権をめざし凌ぎを削る所となり当城を始めとする周辺城主たちは自領安泰を図るため、時の状況を見ては主家を替える事が日常でありました。<br /><br />沼田氏もこの例に漏れずその後北条氏に従いますが、関東管領職を引継いだ上杉謙信は憲政を奉じて北関東に出陣しますと直ちに謙信に降伏します。以降沼田氏家督相続を巡り家中対立、孤立した顕泰は会津芦名氏に亡命し、当城は上杉氏直接支配下に置かれます。<br /><br />ところが天正6年(1578)年御館の乱(謙信死後家督を巡る景勝と影虎の争い)により上杉氏が内紛に陥ると北条氏政は鉢形城主の北条氏邦ら3万を沼田城に派遣占領し北条氏武将を配置する事となります。これに対し武田氏も黙っていません。信玄の家督を継いだ勝頼より沼田城攻略の命を受けた真田昌幸は周辺支城主らに調略をしかけ開城させ沼田城を包囲しついに無血で入城となります。<br /><br />天正9年(1581)年会津芦名氏に走った沼田顕泰の庶子、平八郎景義が北条氏の支援を得て沼田城奪還の為挙兵しますが昌幸は城代ながら沼田氏の旧臣金子泰清(景義の叔父)に策略を授けついには景義を沼田城に招き入れ殺害に至らしめます。<br /><br />天正10年(1582)3月武田氏滅亡、同年6月織田信長が横死しますと昌幸は北条・徳川と主家を替えながら着実に独立大名を形成します。その後真田氏沼田領を巡り北条氏と対立、豊臣秀吉の裁定で沼田城を含む3分の2が北条氏、残りが真田氏の領土とされますが、沼田城代が真田領の城を占拠するに至りこれを機に秀吉は北条氏に宣戦布告、天正18年(1590)遂に小田原城包囲、北条氏の降伏開城となります。<br /><br />北条氏滅亡後は昌幸長男の信幸が沼田城に入城、直ちに城郭の大改修を手がけ、慶長年間には五層の天守閣を造営するなど規模の拡大に務めます。<br />慶長5年(1600)の関ケ原合戦では東軍についた信之(信幸から改名)は戦功をあげ沼田領の安堵に加え西軍に組した昌幸親子の上田領も引継ぐことになります。<br /><br />元和2年(1616)信之は上田城に移り沼田城を嫡男信吉に譲りますが、延宝9年(1681)、五代城主信澄時代に失政を幕府から咎められ改易、翌年幕府の命により沼田城は全て破却の憂き目にあいます。<br /><br />元禄16年(1703)本多正永が2万石で沼田に転封、城を一部再建され、その後下館から黒田氏、老中土岐頼稔が入封し版籍奉還に至ります。<br /><br /><br /><br /><br /><br />2022年4月12日 追記<br /><br /><br />城跡には下記の通り説明が記載されています。<br /><br /><br />「 沼田市指定史跡<br />       沼 田 城 跡<br /><br />          指 定 昭和51年3月30日<br />          所在地 沼田市西倉内町<br />          管理者 沼田市<br /><br />沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏12代顕泰が約3ケ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。<br /><br />築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に5層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏5代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後本多氏が旧沼田領177ケ村のうち46ケ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。<br /><br /> 平成12年3月<br />                 沼田市教育委員会 」

上野沼田 上越国境の要衝地を調略により奪取して上杉・徳川・北条といった大大名を相手にした表裏比興の小大名真田氏本拠『沼田城』訪問

11いいね!

2011/08/06 - 2011/08/06

159位(同エリア339件中)

0

22

滝山氏照

滝山氏照さん

利根川と支流の蓮根川・片品川が合流する断崖台地に築かれた上越国境の要衝の上野国沼田城(ぬまたじょう、群馬県沼田市西倉内町)を訪問しました。

天文元年(1531)白井長尾氏の重臣、沼田顕泰(ぬまた・あきやす)が3年をかけて築城、天文21年(1552)関東管領上杉憲政が川越合戦で小田原北条氏に大打撃を受け白井城に敗走、戦力復帰不能となり越後に逃れる途中一時的にこの沼田城に身を寄せ、その後憲政は長尾影虎を頼る事となります。

従来より当地は信濃・越後と関東を結ぶ交通の要地で武田氏、上杉氏、北条氏の勢力が覇権をめざし凌ぎを削る所となり当城を始めとする周辺城主たちは自領安泰を図るため、時の状況を見ては主家を替える事が日常でありました。

沼田氏もこの例に漏れずその後北条氏に従いますが、関東管領職を引継いだ上杉謙信は憲政を奉じて北関東に出陣しますと直ちに謙信に降伏します。以降沼田氏家督相続を巡り家中対立、孤立した顕泰は会津芦名氏に亡命し、当城は上杉氏直接支配下に置かれます。

ところが天正6年(1578)年御館の乱(謙信死後家督を巡る景勝と影虎の争い)により上杉氏が内紛に陥ると北条氏政は鉢形城主の北条氏邦ら3万を沼田城に派遣占領し北条氏武将を配置する事となります。これに対し武田氏も黙っていません。信玄の家督を継いだ勝頼より沼田城攻略の命を受けた真田昌幸は周辺支城主らに調略をしかけ開城させ沼田城を包囲しついに無血で入城となります。

天正9年(1581)年会津芦名氏に走った沼田顕泰の庶子、平八郎景義が北条氏の支援を得て沼田城奪還の為挙兵しますが昌幸は城代ながら沼田氏の旧臣金子泰清(景義の叔父)に策略を授けついには景義を沼田城に招き入れ殺害に至らしめます。

天正10年(1582)3月武田氏滅亡、同年6月織田信長が横死しますと昌幸は北条・徳川と主家を替えながら着実に独立大名を形成します。その後真田氏沼田領を巡り北条氏と対立、豊臣秀吉の裁定で沼田城を含む3分の2が北条氏、残りが真田氏の領土とされますが、沼田城代が真田領の城を占拠するに至りこれを機に秀吉は北条氏に宣戦布告、天正18年(1590)遂に小田原城包囲、北条氏の降伏開城となります。

北条氏滅亡後は昌幸長男の信幸が沼田城に入城、直ちに城郭の大改修を手がけ、慶長年間には五層の天守閣を造営するなど規模の拡大に務めます。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦では東軍についた信之(信幸から改名)は戦功をあげ沼田領の安堵に加え西軍に組した昌幸親子の上田領も引継ぐことになります。

元和2年(1616)信之は上田城に移り沼田城を嫡男信吉に譲りますが、延宝9年(1681)、五代城主信澄時代に失政を幕府から咎められ改易、翌年幕府の命により沼田城は全て破却の憂き目にあいます。

元禄16年(1703)本多正永が2万石で沼田に転封、城を一部再建され、その後下館から黒田氏、老中土岐頼稔が入封し版籍奉還に至ります。





2022年4月12日 追記


城跡には下記の通り説明が記載されています。


「 沼田市指定史跡
       沼 田 城 跡

          指 定 昭和51年3月30日
          所在地 沼田市西倉内町
          管理者 沼田市

沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏12代顕泰が約3ケ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。

築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に5層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏5代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後本多氏が旧沼田領177ケ村のうち46ケ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。

 平成12年3月
                 沼田市教育委員会 」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 7:56JR沼田駅<br /><br />クラブ活動の為移動の高校生が大勢下車しました。車内放送では8月31日豪雨のによりJR線は水上駅止まりとの事です。

    7:56JR沼田駅

    クラブ活動の為移動の高校生が大勢下車しました。車内放送では8月31日豪雨のによりJR線は水上駅止まりとの事です。

  • 沼田公園<br /><br />沼田駅から約25分の高台に位置しています。周辺は市役所を中心とする官公庁があります。写真の通り既に公園化されており、テニスコートが4面作られ早朝からプレーしてました。

    沼田公園

    沼田駅から約25分の高台に位置しています。周辺は市役所を中心とする官公庁があります。写真の通り既に公園化されており、テニスコートが4面作られ早朝からプレーしてました。

  • 「沼田城の歴史」案内板

    「沼田城の歴史」案内板

  • 沼田市街周辺・案内地図<br /><br />沼田氏発祥の荘田城跡も近隣にありますね。

    沼田市街周辺・案内地図

    沼田氏発祥の荘田城跡も近隣にありますね。

  • 沼田城跡標柱

    沼田城跡標柱

  • 城跡見取図<br /><br />テニスコートの他野球場の設備も<br />広く占めています。

    城跡見取図

    テニスコートの他野球場の設備も
    広く占めています。

  • 庭園<br /><br />すっかり公園化されています。

    庭園

    すっかり公園化されています。

  • 市街地を遠望<br /><br />断崖絶壁の(公園)端から利根川がよく見えます。

    市街地を遠望

    断崖絶壁の(公園)端から利根川がよく見えます。

  • 本丸太鼓櫓<br /><br />沼田城のシンボルとなっています。

    イチオシ

    本丸太鼓櫓

    沼田城のシンボルとなっています。

  • 西櫓台の石垣・石段<br /><br />真田氏時代の遺構と思われます。破却されましたが壊されずに地中に埋もれていたとの事です。

    西櫓台の石垣・石段

    真田氏時代の遺構と思われます。破却されましたが壊されずに地中に埋もれていたとの事です。

  • 西櫓台跡

    西櫓台跡

  • 沼田城・御殿桜<br /><br />天守閣の勇姿を誇っていたころに植樹された樹齢400年余の桜だそうです

    沼田城・御殿桜

    天守閣の勇姿を誇っていたころに植樹された樹齢400年余の桜だそうです

  • 御殿桜説明文

    御殿桜説明文

  • 本丸跡<br /><br />広々としています。

    本丸跡

    広々としています。

  • 城跡からの遠望

    城跡からの遠望

  • 平八郎首を載せた石

    イチオシ

    平八郎首を載せた石

  • 石の説明

    石の説明

  • 沼田城絵図と天守説明板

    沼田城絵図と天守説明板

  • 本丸跡出土品に関する説明<br /><br />発掘調査により真田氏のものと認められる<br />瓦の出土があったそうです。

    本丸跡出土品に関する説明

    発掘調査により真田氏のものと認められる
    瓦の出土があったそうです。

  • 堀の一部<br /><br />堀はここしか残ってません。

    堀の一部

    堀はここしか残ってません。

  • 本丸御門跡

    本丸御門跡

  • 三の丸土塁と堀<br /><br />年月を経てもしっかり残っています。

    三の丸土塁と堀

    年月を経てもしっかり残っています。

この旅行記のタグ

11いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP