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 徳川家康が関東に入部後、井伊直政が高崎と命名し、今の地に高崎城を築城し、12万石の城下町の整備が始まった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となり、高崎城は総社領主諏訪頼水の預かりとなった。慶長9年(1604年)に家次が5万石で入城し、以降は、戸田康長(2万石)、藤井信吉(5万石)、安藤家(5万6千石)、松平輝貞(大河内長沢松平家)(5万2千石→6万2千石→7万2千石)、間部詮房(5万石)、松平輝貞(7万2千石)と5家7人8藩主とめまぐるしく替わっている。享保2年(1717年)に輝貞が再入封してからは大河内長沢松平家(7万2千石→8万2千石)が明治維新まで藩主を勤めた。高崎藩主は歴代幕府要職に就くものが多かった。そのためか、江戸時代を通じて高崎藩は2万石から8万2千石の石高であり、10万石を越えたのはそれ以前の井伊直政の時代だけである。<br /> 今は高崎城址公園になっている。昭和49年(1974年)乾櫓が、昭和55年(1980年)に東門がそれぞれ移築復元されている。城の周りは土塁で囲まれ、石塁はほとんどなかった。他には三の丸外堀が残っているだけである。<br />(表紙写真は高崎城乾櫓)

高崎城址

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2006/08/05 - 2006/08/05

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 徳川家康が関東に入部後、井伊直政が高崎と命名し、今の地に高崎城を築城し、12万石の城下町の整備が始まった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となり、高崎城は総社領主諏訪頼水の預かりとなった。慶長9年(1604年)に家次が5万石で入城し、以降は、戸田康長(2万石)、藤井信吉(5万石)、安藤家(5万6千石)、松平輝貞(大河内長沢松平家)(5万2千石→6万2千石→7万2千石)、間部詮房(5万石)、松平輝貞(7万2千石)と5家7人8藩主とめまぐるしく替わっている。享保2年(1717年)に輝貞が再入封してからは大河内長沢松平家(7万2千石→8万2千石)が明治維新まで藩主を勤めた。高崎藩主は歴代幕府要職に就くものが多かった。そのためか、江戸時代を通じて高崎藩は2万石から8万2千石の石高であり、10万石を越えたのはそれ以前の井伊直政の時代だけである。
 今は高崎城址公園になっている。昭和49年(1974年)乾櫓が、昭和55年(1980年)に東門がそれぞれ移築復元されている。城の周りは土塁で囲まれ、石塁はほとんどなかった。他には三の丸外堀が残っているだけである。
(表紙写真は高崎城乾櫓)

  • 高崎城乾櫓。昭和49年(1974年)に移築復元。

    高崎城乾櫓。昭和49年(1974年)に移築復元。

  • 高崎城乾櫓と東門。東門は昭和55年(1980年)に移築復元。

    高崎城乾櫓と東門。東門は昭和55年(1980年)に移築復元。

  • 高崎城乾櫓。

    高崎城乾櫓。

  • 高崎城乾櫓。

    高崎城乾櫓。

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