![山下清の自由気ままな放浪の旅は、鹿児島で終止符が打たれた。<br /><br />●芸術家「山下清」が昭和31年(34歳)に東京の大丸で初めて本格的な個展を開催した時、実に80万人を動員すると言う記録を残しているが、この記録は日本美術史上いまだに破られていない伝説的な数値として語られています。<br />その後の清の個展は全国で開催され彼自身も出来る限りその個展に足を運んでいたようです。<br /><br />その傍ら芸術家としてすっかり時の人となった清は貼絵以外にも陶器の絵付けに油彩、ペン画と言ったものに興味を持つようになり、こちらではその一部の作品を並べてみました。<br />](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/53/81/650x_10538130.jpg?updated_at=1295745018)
2010/09/16 - 2010/09/16
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comevaさん
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山下清の自由気ままな放浪の旅は、鹿児島で終止符が打たれた。
●芸術家「山下清」が昭和31年(34歳)に東京の大丸で初めて本格的な個展を開催した時、実に80万人を動員すると言う記録を残しているが、この記録は日本美術史上いまだに破られていない伝説的な数値として語られています。
その後の清の個展は全国で開催され彼自身も出来る限りその個展に足を運んでいたようです。
その傍ら芸術家としてすっかり時の人となった清は貼絵以外にも陶器の絵付けに油彩、ペン画と言ったものに興味を持つようになり、こちらではその一部の作品を並べてみました。
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◆日本のゴッホ・山下清◆
清は欧州旅行でルーヴル美術館へ足を運びゴッホの絵を鑑賞、そしてゴッホについて感想を聞かれ『ゴッホは生きている間はちっとも絵が売れないので 売れないのは自分の絵がヘタクソだからと思ってがっかりして死んだので 死んでから皆がゴッホは偉いと言っても 死んでいるゴッホには聞こえない』と述べたと云う。
生きている間に画家として評価を得られなかったゴッホと、生きている間に画家として認められた山下清、共に偉大であり、人々の心に感動を与えた画家であった事は間違いなさそうです。
自分の顔 貼絵 1950年 -
ぼけ 油彩 1951年
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○ゴッホと清を結ぶ、浮世絵師・歌川広重
ゴッホは生前、浮世絵の魅力に取りつかれ浮世絵の収集家としても有名で中でも浮世絵師・歌川広重の影響を受け、自身の作品にも広重晩年の名作「名所江戸百景」より、「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋敷」を模写した油彩を制作している。
そして清もまた、広重の最高傑作と言われている「東海道五十三次」と同じ広重の作品を制作、ただこの「東海道五十三次」は、遺作となっている。
白隠禅師の墓 版画 東海道五十三次より
『墓の絵はなんべんも描いたな 横浜では外人墓地を描いたし フランスでもゴッホの墓を描いたな ゴッホの墓の前にもっといい墓がたくさんあったのに 周りの人がどうしてもゴッホの墓がいいって言うから 暑いのをがまんして描いたな みんな墓におまいりにいくけど 死んだ人にわかるかな 死んだことのない人が死んだ人のことがわかるかな 僕は墓のある所がしいんとしてるとこが好きなんだ』 -
◆カンヴァスに彩られた油彩作品◆
戦後清は油彩に挑戦した。彼は誰からも油彩の技法を教わることなく、独自のスタイルで作品を仕上げていった。その技法はカンヴァスに直接チューブから出した絵の具を少量ずつ、点描画のように描く奇抜な手法であった。
清は油彩を制作する上で、一部分だけこの手法を取り入れるのではなく、画面全体を点描画で仕上げた。
したがって彼の油彩は一見貼絵と錯覚する出来映えを見せ、その繊細なタッチは印象派的な作品として完成度の高いものであった。
ただ清自身いまいち油彩に馴染めず、生涯で十数点の作品しか遺していない。
その理由の一つとして清の頭の中から溢れるイメージが、絵具の乾きを待てなかったという見方もある。
いずれにしても、色を混ぜ合わせる油彩より、単色の色紙を貼り合わせる方が、清にはあっていたのだろう。
学園付近の風景 油彩 1949年 -
群鶏 油彩 1960年
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◆皿絵に見る天才画家の片鱗◆
「皿絵」聞きなれない名前ですが、これは学園時代にパーテイなどで使う紙皿を使用した作品です。
初期に挑戦した皿絵の一部は貼絵ですが、基本的には油彩で制作されています。
栗の花 貼絵 1938年 -
つばき 油彩 1951年
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桜 油彩 1951年
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ストックと矢車草 油彩 1951年
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ラッパ水仙 油彩 1951年
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チューリップ 油彩 1951年
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◆豊かな色彩感覚が生かされた陶器◆
昭和31年頃より、清は陶器の絵付を創作活動として始めた。当時、個展で地方を訪れた時、窯元があると聞くとそこへ行き、絵付を行ったのである。清は同じ構図でも素材の違いで、まったくイメージの違った作品に仕上がる陶器の絵付作業を楽しく感じたのか、積極的に取り組んだ。その数は数百とも云われている。
絵付のモチーフは、大半が過去に描いた貼絵作品をアレンジしたもので、昆虫や花火、植物、時に風景を描くこともあった。 清は、陶器の絵付においてもその才能をいかんなく発揮し、繊細な線と大胆な構図、そして豊かな色彩で表現した。
清は当時、ほとんど曲面だけの素地に絵付を行うと言う難度の高い作業を、数カ月という短期間で習得してしまい、専門家を大いに驚かせた。こうしてまた一つ、清の芸術家としての才能が開花し、後世に作品として遺すことになった。
花もも(九谷焼) 藍物 1956年 -
かたつむり 大皿
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ほおずき 大皿
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カーネーション 大皿
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とんぼ 壺 1960年
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大文字焼(牛ノ戸焼) 壺 1956年
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富士山 タイル画
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◆点と線の芸術・ペン画◆
清は貼絵と並び、ペン画にも精力的に取り組んだ。清はペン画を描く時、フェルトペンを使ったが、普通の画家でフェルトペンを使うことはまずないと云えるだろう。なぜならば、フェルトペンは失敗が許されず、一度描いたら描きなおす事が出来ないと云うリスクがあるからでこの他にも、フェルトペンは濃淡がつけにくく、線の太さも一定であり、鉛筆のように力の強弱で線の太さや、色の濃さをひっ筆感で調整できないからである。
清はこの扱いにくいフェルトペンを使い、下書きもせず、色の濃淡や影といった細かい表現も点と線で自由に描いてました。清のペン画には、得意の貼絵が大きく影響している。元々貼絵で点描画としての創作活動をしていた清にとって、点と線だけで絵を描くことなど難しいことではなかったのだろう。
奈良二月堂 ペン画 1957年 -
関門海峡1 ペン画 1956年
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平和観音 ペン画 1958年
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小石川の後楽園 ペン画 1960年
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お蝶夫人屋敷 ペン画 1956年
『「長崎のお蝶さん」という文句は聞いた事があるが そんな面倒な女とは知らなかった その墓はどこにありますかと聞いたら 作った歌劇だから本当にはないと言われた 作り話でもうまいと こんなに有名になって大勢見にくるものだろうか』 -
横浜埠頭にて ペン画 1956年
『僕が波止場で船の絵を描いていると 東宝の小林桂樹と言う役者が来た この人は僕の「裸の大将」の映画になるときに僕の役をする人だと聞かされたので 似ているのですかと聞いたら 今まで似ていなくてもこれから似るようにするのだと言った 小林さんもこれから僕の真似を上手にするように勉強するといって聞かされた 吃りまでまねをするのですかと聞いたら あまり吃りのまねをすると本物の吃りになってしまうから ちょっとしかまねをしないと言った』 -
東京オリンピック ペン画 1964年
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岐阜の大仏 ペン画 1957年
『どうしてこんな紙の大仏が破けないで今でもあるのですかと聞いたら お参りに来ていた女の人が それはお経をはった仏様で有難いからだ 有難いものは拝みなさいと言った 僕はお宮やお寺を拝んでもどうなるのかよくわからんので 拝まないことにしている』 -
別府のワニ ペン画 1956年
『別府の地獄めぐりの中で ワニのいるところがあった 鬼山地獄というので アメリカとスマトラのワニが沢山飼ってあった その中で一番大きいのは 三十四才と言うから僕と同じ年だ ワニは一日中温泉へ入っていて冬はいいだろうが 夏は困らないかと聞いてみたら ワニは熱帯の動物で暑いほど喜ぶと教えてくれた』 -
富士山 ペン画 1957年
『僕は珍しいものを見るのが大好きです その中でも日本一と言うのが一番珍しくて 好きです 何でも日本一と言えば とにかく日本一おもしろいに違いないので せっかく見せてもらうなら日本一が見たい』
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